ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに
今回は、ほったゆみ(原作)・小畑健(漫画)の『ヒカルの碁』。
唐突だが、私が道徳的観点、というより「人生の指標になる」という観点から「小学生が絶対に読むべき少年漫画」をいくつかあげるとしたら、「他者と内発的につながることーーそれが結果につながるのだということ」という、いわば「人生を生きる上で最も必要な心構え」を見事に描ききった、藤田和日郎『うしおととら』(96-99 週刊少年サンデー)と、荒川弘『鋼の錬金術師』(2001-10 月刊少年ガンガン)を真っ先にあげる。この2作を読めば、「マンガに人生を教わる」経験ができると、私は断言する。
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他にこれを、(次点として)ジャンプ漫画からあげるとすると、少し考えてしまう。
ジャンプの掲げる「努力・友情・勝利」は、「努力友情」は道徳的にいいとしても、「勝利」の部分がエンタメに寄りすぎていると感じる(「勝利」というのは過程ではなく結果であり、マンガの面白さを成す部分だ)。
勝利は人生の必須条件ではない。だからジャンプ漫画から「部分的に」人生を学ぶことはあるが、「作品丸ごとが人生の役に立つ!」と断言できるようなジャンプ漫画は、私にはぱっと思い浮かばないーーと書いてて思い出した。井上雄彦『スラムダンク』があった。忘れるなよ俺。
人生の勝敗について私は思う。人生は勝てば当然うれしいが、ーーこれを理解してない大人も多いだろうがーー実は、人生は負けても構わない。 いや、というより、人生である以上そこには勝つことも負けることもあり、その上でなお続くのが人生なのだ。たとえどんな人生であっても、そこにはただ、「人生という味わい」があるだけだ。巷にある「人生は勝ち負けではない」という言葉は、たぶんそういう意味だろう。
先にあげたスラダンだって、最後山王戦に勝った後に、次の試合で「嘘のようにボロ負けした」からこそ深い味わいが残り、今なお名作として漫画史に君臨しているのだ。
ーー話が少しずれた。
今回紹介する『ヒカルの碁』、そんな「小学生が絶対に読むべき少年漫画」にあげても謙遜のない、優れたジャンプ漫画である。(と、この一文を書きたいがために前置きが長くなった!)
佐為(さい)編の終盤(コミックス14巻~17巻あたり)は、この漫画を傑作たらしめている。
主人公ヒカルは、平安時代の天才囲碁棋士・佐為(さい)という霊に取り憑かれる。佐為はかつて、江戸時代最強といわれた棋聖・本因坊秀策に取り憑いていた幽霊だ(つまり、秀策の囲碁は佐為によるものである)。ヒカルはそれを境に囲碁にのめり込み、その才能と努力によって、中学生という若さながらプロ棋士になる。と、ここまでが物語の序盤。
そして佐為編・終盤のあらすじ ~~~~~
日本囲碁界のトップ・塔矢名人がネット碁を覚えたことをヒカルは知り、佐為はかねてから対局したいと願っていた塔矢名人と対局するチャンスを得た。幽霊であり自らの正体を明かせない佐為は、匿名のネット碁でしか対局できないからである。塔矢名人も、ネット上でsaiと名乗るただならぬ強さの何者か(正体は佐為)に強い興味を示していたので、ついに二人の対局が実現した。
この頂上決戦は一進一退の熱戦となり、佐為の妙手によって、佐為が辛くも勝利を収めた。強敵に打ち勝った佐為は深く満足し、これほどの名局を戦うことが出来た塔矢名人に深く感謝する。そのときヒカルは、盤面を見て言う。「この手だったら佐為の負けだ」局後の検討で、ヒカルは佐為も塔矢名人をも上回る手を発見し指摘したのだ。この瞬間、佐為は悟ったーー「私が亡霊として千年存在してきたのは、『この一局をヒカルに見せるため』だったのだ」と。そして役目を終えた自分が成仏するときが、まもなく来るということを…。
…時が過ぎ5月5日。いつものようにヒカルが佐為と碁を打とうと、ヒカルが碁盤を用意しているときにーーヒカルが気づかぬうちにーー佐為は陽光の中に消えていったのだった。ヒカルに声をかけることも叶わず…。
佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。佐為を探しに、本因坊秀策所縁の地を巡る。そしてヒカルは、初めて秀策の棋譜を見直し、今になって初めて佐為という棋士の天才さを実感するのだった。
佐為がいなくなったショックで、ヒカルはプロ棋士の活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続いていた。ーー自分が碁を打たなければ、打ちたいと思わなければ、いつか佐為が帰ってくるのではないかーーと願うように思って。
そんな中、院生時代の同窓生でライバルだった伊角がヒカルの家に来た。伊角は、前回のプロ試験でのヒカルとの対局で反則負けを犯しプロになり損ねたという苦い記憶を、今回のプロ試験に臨むにあたって振り払うために、ヒカルとの対局を申し込む。当初は気の進まないヒカルであったが、「これは自分のためでなく伊角さんのためだから」と対局を受ける。
その対局にヒカルは次第に没頭しーー自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手と重なることにヒカルは気が付く。今まで探していた佐為がーー自分が佐為から受け継いだ囲碁の中に佐為が存在することを、ヒカルは悟ったのであった。
ヒカルは涙を流し、これから終生、何百何千という碁を打ち佐為の面影を追うという決意をする。
~~~~~~
ここは『ヒカルの碁』という物語全体を通して、盛り上がりが頂点となるところだ。
以降『ヒカ碁』は、佐為という一番の(あるいは唯一の)「マンガ的なキャラ(囲碁最強の幽霊)」を消したことによって、より現実な話づくりにならざるをえず、「マンガ的な表現」の幅を狭くしてしまう。佐為編のあとに続く「北斗杯編」を読むと、いかに佐為というキャラクターがヒカルという主人公と絡み、ヒカルと佐為が「二人で一人」なキャラクターとしてこの漫画を引っ張っていたかというのがわかる。
「マンガはキャラクターが命」という漫画原作者・小池一夫の名言(というか信念)が思い出されるが、本稿は「漫画文学論」なのでキャラの話はこれ以上しない。
あと念のため述べておくが、北斗杯編はそれはそれでまた盛り上がるし面白いので、ぜひ読んでもらいたい。佐為がいないというだけで(だけなのに)、まるで(微妙ながら)別漫画のような読み応えとなっているのも、ぜひ確認してもらいたい。
さて、漫画文学論。『ヒカ碁』の文学的なポイントをあげたい。
それは「死者は現在する」という事を、感動的に描いたところだと思う。今現在のゲンザイ(ゲンにアクセント)ではなく、「現に存在する」という意味のゲンザイ(ザイにアクセント)である。もちろんそれは、死者は幽霊になるとかいう話ではない(佐為は幽霊だけど)。
ここに描かれているのは、死者は死んだことで存在を失うのではない。むしろその存在感が増すのだ、という「死別することで人(生者)が直面する気づき」である。
佐為という幽霊は、成仏することで、語りかけることも語りかけられることもできない「完全な死者」となった。完全な死者となったことで、ヒカルにとってその存在が消えたのではなく、逆にヒカルにはーーまるで自身の内面にべったりと張り付いたようにーーその存在が増したのである。
話は少し変わるが、佐為のその成仏の仕方ーーつまりヒカルとの別れーーは、そこには悲劇さのかけらも感傷的に泣かせるような演出もなく、静かにすっと消滅するというものであり、非常に儚いものであった。毎週のアンケートで人気を判断される少年誌連載でありながら、別れの場面にわかりやすく派手で感動的なシーンにせずに、作者があえて、この静かな別れとして描いたことを賞賛したい。
そしてこの「唐突で、静かな別れ」こそが、ヒカルが、佐為との別れを受け入れることのできない要因となった。もし別れの場面で、佐為とヒカルが何らかの別れの言葉を交わすことができたなら、ヒカルは佐為の消失を受け入れる、とはいわないまでも多少なりとも消化することができただろう。
しかし唐突な別れ(現実世界でいえば突然の事故で死別する、などに相当するだろう)は、それを心の底から受け入れることをさせない。ただ喪失感ーーというより、それを伴った困惑が襲ってくるだけだ。
このような「死別と、死者の重さ」を記した本に 『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)というのがある。
著者は恐山にある寺の住職である。言うまでもないが恐山は霊場であり、またイタコで有名であり、そこには死別した者となんとか話したい、思いを届けたいという人々がたくさん来る場所である。
恐山には、死者の供養に来た者によって、大量の供物が持ち込まれる。故人の衣服だけでなく、故人が「生きていたら」その年齢で着ていただろう新品の服(つまり定期的に買い換えてお供えしている)もある。また結婚前の子を亡くした親は、せめてあの世で結婚させてあげたいと、花嫁人形や花婿人形、ウェディングドレスのお供えもあるという。
また恐山の岩場の草葉の陰には、参拝者が勝手に作った簡単なお墓(20cmほどの石板に戒名や名前が書いてある)が並び、お供えしてある石には、「もう一度会いたい 声をききたい」「○○くん、また会いに来るからね」などと書かれているという。
そこには、死への、いや「死者」への、圧倒的なリアリティがある。
著者は考える。なぜ恐山に、こんなに多くの人が死者の供養をしに来るのだろうか。いや、人はそもそもなぜ「死者の供養」なんてことを考えるのだろうか。
恐山に来て2年ほどたったとき、著者は気づく。「ここには死者がいるのだ」と。死者は実在するのだとーー。
そして続ける
一見、死というものは、死者の側に張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山で掴んだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。
と。 そしてその根拠も著者は述べる。
死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)
生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。
つまり、死者は生者がいるかぎり、生者のなかに現在するのだ。(南老師は「実在する」と書いているが、死者はもはや存在をもたないので、私は「現在する(現にある)」といいたい。)
話を『ヒカ碁』に戻そう。
ヒカルにとって佐為は掛けがえのない存在だった。それは同じく、佐為にとってもヒカルが掛けがえのない存在だったからである。片一方方向における関係ではなく、相互方向における結びつきだったからこそ、そこには(ヒカルにとって佐為は)強固な絆があったのだ。
そして、佐為は消えた。ヒカルは佐為の不在に戸惑い、苦しむ。
しかし、囲碁を通して、佐為と自分をつないでいた囲碁を通して、自分が打つ一手の中に、つまり己の中に、佐為が現在することに気付いた。
ヒカルは、自分と佐為が、<関係性の履歴>を育み、そこに強い絆があったことを始めて認識したのだ。
(<関係性の履歴>については、拙ブログ記事 業田良家『自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味 を参照してほしい)
そしてヒカルは「北斗杯編」の最後、「お前はなぜ碁を打つのか」という問いに、「遠い過去と、遠い未来をつなげるために俺はいるんだ」と答える。
それは、碁の歴史に名前を刻むとか、佐為の碁を後世に残すとかいう話ではない。今回の記事のキーワード「死者」という言葉を使っていえば、「生きることとは、他者、そして死者から渡されたものを、他者に連綿と渡していくことだ」という決意である。
ヒカルと佐為が育んできた<関係性の履歴>は、二人の間で閉じているのではない。他者に連綿と受け継流れていくものなのだと『ヒカ碁』は提示するのだ。
ラストのヒカルの言葉は私たち読者に問いかける。
私たちが他者の死に対面したとき、いったい誰の死がそして想いが、己の中に現在するのだろうか。そして私自身が死んだとき、いったい誰の中に己の想いを現在させることができるのだろうか、と。
それこそが意味のある人生を、生きて死ぬということなのではないだろうか。 <了>
本日のマンガ名言:「 遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ 」
映画の興行収入と利益についての忘備録 吉田正樹「メディアのリアル」
吉田正樹「メディアのリアル」という対談本に、映画プロデューサ-の小滝祥平(映画『ホワイトアウト』のプロデューサー)との対談で、
映画の興行収入の話があったのでメモ。
だいたいの計算方法が以下だという。
興行収入(劇場にきた客数×チケット枚数の代金)が10億円とする。
このうち半分の5億円が劇場の取り分 (残り5億)
宣伝費などがざっくり2億円
配給会社に手数料で20~30%払う (ここで手元に残るのが2億円)
DVDやTVの放映権の収益が(仮に)5千万あるとすると、
手元に残るのが2億5千万円で「製作費回収+純利益」。
つまり2億5千万円の予算の映画は興行収入10億円でやっと回収できる
製作費のだいたい4倍の興行収入でトントン、というのが目安か。なかなかに厳しい数字だろう。
また、同本の対談の本広克行(『踊る大捜査線』の監督)によると、
通常の監督料(シナリオ、演出含む)が「三谷幸喜レベルで」500万円 とのこと。
ただし、本広は映画「踊る~」のときは、「固定ギャラの代わりに純利益の何%かをくれ」という特殊な形にして儲けたとのこと。当時は日本映画が冷え込んでいて、映画もそれほど当たるとは予測されなかったのでこれが通ったそうな。
一流監督(さすがに三谷レベルのヒットメーカーは日本にそういないだろう)のギャラが500万じゃ安いな。しかも振込は一年後だという。監督業だけじゃ食えないから、講演やワークショップで食いつなぐしかない。
是枝裕和のインタビューでも同じことが書いてあった。
「映画を撮りながら考えたこと」より
実際のところ、劇場だけで回収できている映画は1割くらいか、それより少ないはず。テレビ局資本のものを除けば、劇場だけで回収できているのは3%くらいではないかと思います。
ビジネスとしては博奕だよなぁ…と思った次第。だからといって「手堅い」どこかで観たことあるような作品ばかりなのは嫌なので、いい作品を作るためにがんばってもらいたい。(と無難にまとめる)
プロレス雑誌「KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 /ブル中野座談会が面白い
先日書店で、プロレス雑誌「KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 を立ち読みしたのだが、滅茶苦茶面白かった。思わず一時間以上立ち読みしてしまった(だったら買えよなのだが、そこまで金ないのだ…)。
あまりにも面白かったので、忘備録もかねて、覚えている範囲で少し紹介。プロレスにあまり詳しくない人向け。そもそも私はプロレス雑誌読むだけ(試合は特に見ない)のニワカオタクなのでご了承を。
まずは、前田日明とスーパー・ササダンゴ・マシンの対談。(表紙のふたり)
ササダンゴ・マシンといえば、DDTプロレスの煽りパワポ、プレゼンレスラーとして有名。最近テレビにもちょくちょく出てる。
ササの中身は「お前平田だろ!」の平田ではなく(これは本家、スーパー・
テレビ番組「水曜日のダウンタウン」でササが「私のプレゼンはこちら!プロレス界で一番滑舌が悪いのは、実は前田日明」と、「滑舌悪いレスラー」の代表格である長州や天龍を押しのけて推薦したところ、ドッキリで前田本人が降臨し、ササダンゴを頭突きで制裁したらしい。その縁で二人の対談になったという。
前田がササに「(お前の煽りパワポの)DVDみたけどオチないじゃん」などと先制攻撃を仕掛け、ササはたじたじ。前田はササにくらわせた頭突きのことも「あれは音だけの奴だからそんなでもないよ。俺、たぶん頭突きはレスラーの中で一番うまい。痛いやつは額(ひたい)の正中線にやるんだよ。昔サイン求めてきたファンに頭突きしたら、膝から崩れ落ちたからね」とかます(笑)
前田はササを気に入ったようで「お前はもっとシモネタ磨けよ。俺は海外遠征したときに、向こうの人気レスラーが人気と下ネタ駆使して女抱きまくってたのから学んだもん。リングス時代(前田はリングスという総合格闘技団体を創設し、レスラー兼最高責任者をし、興行のプロモートも自身で行っていた)は、まず外人レスラーに下ネタで心つかんでから『日本で試合やればオンナとできるぜ!』と口説いて、団体に引き抜いてたんだから」と豪快なアドバイス。
ササが実家の会社の金型の話をすると(ササは実家の医療系金型会社の専務であり、兼業レスラー)、「今は金型も金属だけじゃなくて色々素材かえてるじゃん、セラミックスとか」と、ササが関心するほどなぜか金型に詳しい前田もみれる。「人件費安いからアジアに進出しなよ。ベトナムとか。日本人はモテるから」と会社経営にまでアドバイスするのは、さすが経営者。
そしてもうひとつ個人的に面白かったのが、全女(全日本女子プロレス)の女帝・ブル中野の座談会。ブルが経営するバー「中野のぶるちゃん」で、浅草キッドの玉袋ともうひとりプロレスライターで飲みながら、ブルの全女時代の昔話。
極悪同盟初期のブル
全女はやはり厳しい所で、よくも悪くもの「悪くも」の体育会系だったらしく、かなり苦労したようだ。
デビュー前の身分でありながら会長から直接指導をうけてたので、技はかなり上のレベルだった。前座試合なのに先輩たちが使う技を使ってたので(それがご法度だとは知らなかった)、先輩方からいじめやリンチされた。
新人時代は食べて体を大きくしなければいけないが、先輩の世話や興行の準備に追われて食べる時間が全くなく、移動バスのなかで隠れてゴミ箱から漁った先輩たちの残飯食ってた。
などの苦労話も相当に面白かったのだが、
やっとレスラーとして独り立ちできると思ったら、会社からヒール転向を告げられ、泣くほどショックだった。当時のヒールは日本社会の全員に嫌われることと同じで、シャバを捨てるのといっしょだったから。(これは本当にそうで、女子プロの「ヒールで人気」というのが確立したのは、もう少しのちの極悪同盟がプロレス以外でテレビに出だした頃、と私は認識してる。まぁ、「ヒール人気」は普通の人気とは意味合いが違うのだが…)
当時ファンの男とつきあってたが、ヒール転向したらその彼氏が別の女子レスラーにのりかえてしまった。
全女はタイトル戦でもピストル(シュートのこと。結果の決まったアングルではなくガチの試合)だった。さすがにアイドル人気が凄いクラッシュギャルズは負けさせるわけにはいかないのでプロレスだった。
全女の社長が、選手をひとりひとり部屋に呼び出して「あいつ(対戦相手やライバル)はお前の事嫌ってるぞ。お前を潰そうとしてる」と嘘を言って煽ってた。みんな十代でプロレス業界に入った世間知らずの女子なので、本気でそれを信じてた。だから相手の事が本気で憎くてそれが試合に出てた。
30歳前になると、どんなトリを張ってたトップスターでも露骨に第2試合に組まれて2軍扱いされる。後輩からも冷ややかな視線で見られ、否応なく引退のレール(空気)がひかれる。だからダンプなどのトップレスラーはその前に全女を離脱した。私が初めて、全女でその「定年」にひっかかることなく全女でトップを走った。
など、全女裏話が滅茶苦茶に面白かった。
そしてこの座談会読んで何より驚いたのが、ブル中野が今現在、現役の時からは信じられない美熟女だということ。これは知らんかった。
お店のブログより
とそういうわけで、プロレス好きはもとより、「プロレス知らないけど何か面白いもの読みたい」という人にも、この「KAMINOGE」はぜひ買って読んでもらいたい。もちろんまずはお前が買えよ、という話なのだけど(苦笑)
あと機会があったら「中野のぶるちゃん」行ってみたいと思った。酒飲めないけど… <了>
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました(友人が)。 その2
前記事の続き。
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が - 文芸的な、あまりに文芸的な
さて、私が見せてもらって特に好きだな、うまいなと思った歌は、
作業着に集まる無数の小豆たち どんなに美しかろうと死は死
まるで毒でも入っているかのようにコロネのチョコを除いて食べる
「10年後、私なにしてるんでしょう」桜餅の葉は水気を無くし
3Dプリンターから出た風が桶屋を儲けさせていた過去
だろうか。
1と3は、死をみつめながら、餡子を味わっているような感じ、「餡と死」という対比がいい。
2と4のコロネと3Dプリンターの歌は、雑誌に掲載された15首に入る。仕事中に動いている3Dプリンターを見て、「この風が桶屋を儲けさせていたのか」とふと思ったような「ふとした瞬間にする飛躍した発想」を歌っているように感じて面白い。
2のコロネの歌は穂村が「作者は、餡子がよきもので、対比としてチョコを毒としてとらえているのかな」と。
一方、選考委員から評価の高かった歌は
飛び降りるのかと思って見ていたがそれは飛び立ったような気がして
(遺影用トレースをする残業をする人が食べる)どら焼きふたつ
世界は終わるものではなく要らなくなるものだ そこらじゅうみんな餡精製所
だった。
餡というノスタルジーの中に死の匂いのする歌だ。
特に3の「そこらじゅうみんな餡精製所」は、「世界が<みんな餡精製所>になれば、世界からは差異がなくなり、そこに意味はなくなるのだ」というような選者の評があって、作者本人が「そこまで深く考えて作ったのではないというか、よくそこまで深読みして言葉にして批評してくれて驚いた」と舌を巻いていた。
選者の方々はさすがプロの歌人なだけあって、作者の手から離れた短歌を作品として「深読み」し、素人ではわからない(なんとなく感じるが言葉にならない)指摘をくれるものだと思った。
あと、今回の新人賞受賞を最終選考通過作以上をみてみると、たぶん6、7割くらいは30代以下の若い応募者だったと思う。あとは40代。新人賞を受賞したのも大学生(女子)と若かった。
現代短歌は本当に若い人の市場なんだなぁと思った次第。ツイッターとか投稿サイトとかあるから、入口は入りやすいのだな、と。
今回の友人の受賞に触発されて、私も短歌はじめてみるかなぁ…と半分以上本気で思ったりもした。
でもマンガ読んだり将棋指したり、やりたいことがたくさんあって決められないわ…と一人ごちる私だった。
あと最後に告知。次回の文学フリマ東京(11月の祝日)、前回5月と同じくサークル参加するかも。
ただ、文フリの学祭的なお祭り雰囲気は凄く楽しかったのだけど、また新しくいろいろ記事書いてミニコミ作るのははっきり言ってめんどい。忙しいし。
まぁ仮申し込みはしてあるので、お金振り込むかどうかはまた決めなければ。
鋭意的に同人誌作ってるひとのタフネスがうらやましい。同人制作が趣味な人は、他にマンガや本読んだりすることにどれだけ時間とエネルギー使ってるのだろうか?やはり一番、同人誌作りにエネルギー割いているのだろうか?
我々は本読む方が一番の趣味だから、記事書いたりいろいろとめんどいことは後回しになる…
趣味の場を広げるために、月1の読書倶楽部にも入会したし
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が
私の友人が短歌雑誌「短歌研究」の新人賞で候補作を受賞した。新人賞(1名)、次作に次ぐ銅メダルで、応募500人のうちの8人くらいに残り、雑誌で選考歌人に1P半の選評が載せられた。これは快挙だ。
短歌研究新人賞候補作。ありがたいことです。
— 和田浩史 (@hirofumi) August 21, 2016
誰一人作れないのさ完璧な白餡なんて黒餡だって/和田浩史『an』 pic.twitter.com/a7VK1Dx6Yu
応募した友人は、私と前回文学フリマに参加して短歌パートを担当した。
「短歌研究」の方には応募した30首(連作)のうち15首掲載されたのだが(新人賞受賞者1名だけが30首掲載された)、その応募した30首を本人の了承を得てここに公開する。
タイトルは『an』。 あんこに関連した連作だ。
選考では、加藤治郎という歌人(歌誌「未来」の選者らしい)が推してくださったようだ。
『an』というタイトルからは容易に連想できない、製餡所という「現代」とは逆行しているが、しかし確実に町のどこかに存在している「甘くて懐かしい」存在をテーマにしたことがうけたらしい。
私の(作者である友人も)好きな歌人の穂村弘も選考者だったが、「僕は特に好きじゃないな」とか書いていたので、少し残念だった(苦笑)
…と、この項まだ書きたいがブログ文字数がいっぱいになってしまった。次回は、連作の中からいくつかとりあげて私の評価、そして選評委員からどう評価されたかの解説をしたい。次回に続く
夏目三久アナと有吉熱愛、そして私の大学時代
「怒り新党」で共演していた夏目三久アナと有吉の熱愛報道が出た。
夏目三久アナと有吉熱愛!すでに妊娠 番組きっかけ - 結婚・熱愛 : 日刊スポーツ
私がそのとき思ったのは「結局有吉かよ」であり、「あれから何年たったのか」であり、「でも大江アナがどっかの会社社長のおっさんと結婚発表したときよりはダメージがない」であった。
「あれから何年たったのか」のアレとは夏目オリジナル事件の事である。私はこの時感じたことをブログにしたためていたので覚えていたのだ。
記事を書いたのは2009年の7月20日。8年も前か。
当時私が書いた記事を全文引用してみる。
日テレ清純派…夏目アナ、男と「コンドーム写真流出」 写真誌報道で局内外に波紋 芸能:ZAKZAK
私は女子アナが好きだ。というのは女子アナというのはテレビに映る存在でありながらテレビタレントとはどこか違う、どこが違うのと言われてもそれは分からんけど、常に緊張をしいられる立場ではないところの無邪気さ?なのかは知らんけど、彼女たちがふと瞬間的に無防備・無邪気な姿をさらす、仕事場ではないところの素顔を見せる、たとえば原稿を読んでない、番組の中の隙間みたいな時間にふと見せるデレっとした笑顔やなんかえろい話題に対して反応しちゃうところ、みたいな天然さがキュートだからだ。
女子アナ(=知性のある)彼女たちがときおり見せる「でもわたし、ホントはちょっとおバカなの、てへっ。」という笑顔から覗く人間的な擦れてなさ(つまり「てへっ。」の部分)に萌えるのだ。
その代表的な存在をあげると、TBSの青木裕子(通称セックスちゃん)、テレ朝の大木ちゃん(大木優希)、テレ東の大江ちゃん(大江麻理子)じゃないだろうか。天然でエロの話題にうまく反応してくれて、深夜バラエティで活躍できる面々だ。
ちなみに世間的人気女子アナといわれるアヤパン・なかみー両名が見せる「てへっ。」は人工的模造「てへっ。」なので、微塵も萌えない。
で、話を戻して日テレの夏目三久アナ。彼女は清純派といわれるが、実はかなりの「てへっ。」なアナではなかろうか。
周知のとおり、彼女は昼の情報番組「おもいッきりDON!」で中山秀ちゃんと共に、「マグロ」という一言コーナーをもっていて、タイトルコールでヒデちゃんやゲストが似てもいない(そして面白くもない)渡哲也のものまねをする。もちろんそこで言うマグロは、「マグロ女と桃尻男」のように夜の営みを連想させるわけで、秀ちゃんは当然のごとく夏目アナに対して「きみはマグロなんだよね?」といじる。秀ちゃんのくせに。
きみはまぐろなんだよね?
違う。夏目アナはまぐろはない。断じて。
~~~~~~~
「これ」 夏目はベッドの上で、スキンを片手に微笑む。「つけて」 つけて、の「て」にアクセントを置いた笑顔が、どこか物憂げで可愛い。僕はそれを受け入れる。
僕のペニスにスキンをかぶせながら、夏目はささやく。「こういうことは大事にしたいから」 僕は答える。そうだね。避妊はきちんとしないと。
僕は何の気なしに答えたのだが、夏目は違った。 夏目は寂しげに、そっと目を閉じて言った。「いいえちがうわ。そうじゃないの。…距離。ふたりの距離のこと」 僕のペニスをしごきながら、夏目が続ける。「どんなに愛し合っても、人はひとつにはなれないでしょう。私はあなたにはなれないし、あなたは私にもなれない。恋人同士がひとつになれるなんて勘違いだわ、ふたりの他人がふたりのままいるだけ。あなたはあなた。私は私。決して完全につながり合うことはないわ。だからあなたとの距離は忘れたくないの」 夏目はつぶやく。あなたはあなた。私は私。私はまぐろ――
「このスキンの0.02mm、それが私とあなたの距離。越えることのできない膜の壁よ」
夏目は僕のペニスを秘所へと導く。気持ちいい。 恍惚として薄れ行く意識の中で僕は思う。 それは違うよ、そんなのは関係ない。本当のひとつになんかならなくてもいいし、壁を越える必要もない。僕たちが愛し合うことは間違っていないし、この愛は本物だ。僕は秀ちゃんじゃないし、君はマグロでもない。そして僕たちはオカモトではない。二人の距離は、限りなくゼロなんだ。僕たち二人の間には、極うすしか存在しない。
そんな妄想、そして夜のおかず。 <了>
ちょっと、というかかなりポエムってる。当時は(というか今でもそうだが)、どことなく文学的情緒のあるエッセイを書きたくてこんな文体でいくつか文章を書いていた。
こんな夏目アナの文を書いた動機は、スキャンダルに巻き込まれた夏目アナを不憫に思ったからであり、またコンドーム流出というこの事象を面白がったからであり、夏目アナに自分なりのエールを送りたかったからであり、そんなこんなの湧き上がった感情というか妄想を書き留めておきたかったからだろう。
もしかしたら当時私は、夏目アナの事をそんなに知らなかったかもしれない。私が夏目アナに好感を持ち始めたのはーー時は流れ夏目アナはフリーになり、「怒り新党」でその黒髪ショートカットの清楚さで視聴者を(というか私を)虜にしたからだった。
そういえば。今、一つ思い出した。
私は大学生の時分、大学に通うのが心底嫌で、大学のカウンセリング室に通っていた。大学で行われる授業には何の興味もなかった。将来の見通しもなかった。私の周りにいる凡庸な生徒たちも、そして凡庸な私自身も、私は大嫌いだった。ただ大学に通うのがーーいや、生きていることそのものがーー憂鬱で仕方なかった。
私を担当してくれたカウンセラーの先生は美人な女性だった。私は週に一回、その先生と会話することだけが唯一の楽しみで、そのためだけに大学に通い続けた。
その先生が、夏目アナに似た顔だちをしていたのだ。
普通、カウンセリングを受療する生徒は、相談する悩みが解決したらカウンセリングをやめるものだが、私はその先生に会いに行くこと自体が目的だったので、カウンセリングを卒業することなく、大学在籍中はずっとカウンセリングに、というか先生の元に通った。先生とは人生相談のような(表面上は)深刻そうな話から、たわいのない会話までしたと思う。先生の方からしたら私は「これまで何年も付き合ってるけど、何の進歩もない奴だな」と思われていたかもしれない。
それでも、美人な先生と会話する時間が存在したことで、私はなんとか「自殺することなく」大学を卒業することができた。
一体、あの先生は今何をなさっているのだろうか。まだ大学でカウンセリングの仕事をしているのだろうか。また当時の私みたいなーー生きる気力のない奴ーー生徒を相手に仕事しているのだろうか。もう先生の名前は忘れてしまった。
ーー思わず自分語りをしてしまった。昔書いた記事に言及することは、過去の自分と対峙することだから、それも仕方あるまい。
あと、そう、夏目アナには幸せになってもらいたい。ーーと書いて〆ようと思ったら、熱愛報道は誤報らしい。
有吉弘行との交際報道を夏目三久アナの事務所が否定 法的措置も検討
だったら夏目アナ、お願いだからおいらと結婚してくれ! <了>
追記 ざっくり箱 [マツコ&有吉の怒り新党] 夏目ちゃんと有吉編 の夏目アナかわいすぎる
「(夢で)有吉さんとごはん食べてたり」
「有吉さんと家庭もちたいってこと!?」
浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱
友人から借りて読んだ浅野いにお『おやすみプンプン』。浅野いにおといえば「オサレサブカル漫画」の第一人者として若者に人気、一方で「サブカル臭いだけの薄っぺらい雰囲気漫画」として、いにお読者も「サブカル気取りのダサイ奴」扱いされてやり玉にあげられ、評価が真っ二つに二分する漫画家である。
私としては、いにお漫画は、まぁそれなりに読むけど、かといって大好きでもないレベルか。
今回は『プンプン』後半部(7~13巻)のあらすじ。
前半部(小学生、中学生編)のあらすじは他ブログのこちらで。
【ネタバレあり】おやすみプンプン~絶望に引き込まれる~【中学生編の感想・考察】 - 社会のルールを知ったトキ
あらすじの主軸はこう(『プンプン』は主軸となる話のシークエンスの他に、主軸とはかかわりのない話が挿入されて、ある種の群像劇のように物語が構成されている)~~~~~~
高校を卒業したプンプンは、一人暮らしすることを決意する。「一年後…今の状況と何も変わらなかったら、自殺する」と決めて。
そんな無目的で輝きのない毎日を送っていたプンプンは、小中学生時代の想い人・田中愛子がこの町にいることを知る。プンプンは愛子ちゃんと再会することを願うようになった。その一方、南条幸という漫画家志望の女性と出会い、漫画の原作を依頼される。そして幸とはお互い好意を寄せあう中になるが、プンプンの心には愛子ちゃんの影があるため、恋人同士として付き合うまでには至らない。
<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサス(星川としき)は、来る七月七日に世界が滅亡すると予知し、それを予言する>>>
そんな中、プンプンは愛子ちゃんと、自動車の教習所で運命の再開を果たす。
幸との関係はーー彼女は、元旦那(実はバツイチだった)との子供を身籠っていた。しかし彼女は、プンプンのいない日々は考えられないから堕胎するという。堕ろす日には病院に一緒についてきてほしいと言うが、当日になって「やっぱり君には甘えたくないから」、来なくてもいい。時間までは待っているから、君の判断に任せると。
プンプンは、幸の元には行かなかった。ーーその日、愛子ちゃんが家に来たから。彼女は何か事情を抱えてるらしい。プンプンは愛子ちゃんとセックスする。
愛子ちゃんは「家を出たい」と言う。一人親の母親から監視の名の元に虐待されていたのだ。二人は愛子ちゃんの母親の元にそのことを告げに行く。プンプンは思う。やっぱり愛子ちゃんは運命の人だったのだ、と。
しかしーーそこにあったのは破滅の幕開けだったーー愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。
死体を埋め、途方に暮れる二人。プンプンは「小学生の頃、一緒に鹿児島に行く約束をした」ことを思い出す。二人の逃避行劇が始まる。
幸はあの日、結局病院に行かなかった。あれ以来連絡が取れなくなったプンプンを探し始める。
プンプンたち二人は鹿児島の種子島に着いた。二人の逃避行劇は、目的があるわけではなく、まるで破滅に向かったものだった。プンプンはこの場所で二人心中しようとする。愛子ちゃんの首を絞めようとしたとき、愛子ちゃんは「あのとき母親にとどめを刺して殺したのは私」と告白する。そして「この島で暮らしたい」と。
生きる希望がかすかに沸いた二人であったが、遅かった。愛子ちゃんの母親が殺されたこと、その娘が行方不明であり事件に関係しているとみて捜査している、とテレビで報道されてしまったからだ。
二人は町を出てまた逃げることに。二人は民家を見つける。愛子ちゃんは交番に出頭すると言う。プンプンは「愛子ちゃんの罪を僕が被る」というが、それは拒否される。愛子ちゃんは言う。「小学生の時、流れ星にプンプンと両想いになれるように願ったんだ。それが叶ったなんて幸せ」「もしお互い離れ離れになっても、七夕の日はお互いを思い出そうね」
二人は眠りーープンプンが目を覚ますと、愛子ちゃんは首を吊って自殺していた。
<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサスは、来る七月七日に世界が滅亡することを回避するため、同志達(ラヴァーズ)と共に焼身自殺する>>>
ーーー七月七日。プンプンは東京に戻る。小学生時代の思い出の場所で、自殺しようと首を突いた。流れ星が流れる星空を見ながら思う。ああやって燃えるように一瞬で消えることが出来たらどんなに楽だろうとーー。
そこに現れたのは幸だった。「つかまえた」ーープンプンは図らずも助かったのだった。
ーー何年後かの七月七日、プンプンは愛子ちゃんの事を想いだしていた。そして彼女に言う。自分は今、月並みに働いていて、幸の漫画は順調だ。幸の子供は僕になついてくる、と。さらに続ける。「この先ずっと七夕の空は永遠に曇り空で、それでも世界は終わらないから、僕は先に進まなきゃならないんだ」
プンプンの日常はーーいや、すべての人の日常は今日も続き、新しい物語が始まろうとしている。 完
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『プンプン』はいわゆる日常憂鬱漫画(終わりなき日常が永遠に続く辛さを描く)である。このタイプの漫画では、このブログでは古谷実『シガテラ』をとりあげた。
古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?
「日常憂鬱」路線に、村上春樹『ノルウェイの森』のような「片一人の女性が破滅(自殺)する、三角関係」を加えた物語、といったところか。
いにお漫画の批判としてよくあがるのは「雰囲気だけで薄っぺらい」、もっと極端にいえば「で、結局何が言いたいの?」という身も蓋もない感想である。
これは批判意見としては、決して的外れとはいえないと思っている。
なぜなら、いにお漫画(といっても私は、完結作は他にはまだ『ソラニン』しか読んだことないのだが 苦笑)は、「何もない日常を生きる<カラッポ>な主人公が、物語において非日常的な『通過儀礼』を経験する。そしてまた日常に回帰するが、主人公は通過儀礼を迎える前と同じく、<カラッポなまま>の自分を抱えながら生きる」というモチーフだからである。つまり、「物語という<通過儀礼>を経ながら、何も成長してない(ようにみえる)」のだ。
「通過儀礼(試練)を経ても成長しない(というより、成長できない)」というのは、「成長という物語」という近代的価値観が効力を失った、「ポストモダンである現代社会」の空気感と非常にマッチしている。
『プンプン』に面白い場面がある。第9巻で、漫画家を目指す幸が描いたマンガを、編集者が駄目出しするシーンだ。いわく「雰囲気でゴリ押ししてるだけで中身薄っぺら」「主人公が勝手に自己完結してて、こんなんじゃただの絶望ごっこにしかみえない」。これは典型的な、いにお批判の常套句である!(笑)
当然ながら、いにおは確信犯的に描いてるだろう。
こんな場面もある。同じく第9巻では、東日本大震災によって、原発が爆発したとテレビから流れてくる。友人は幸に「平凡な日常で退屈を嘆くような漫画、もう意味ない」と助言する。それに対して幸は「この程度じゃ変わんねーよ!仮に世の中がどうなったとしてもお前こそ変わんない!」と答える。
しかも当の漫画『プンプン』も「平凡な日常で退屈を嘆くような」漫画として続いていくのだ。(11巻から、物語は「殺人」という事件を伴って、大きく動き出す)
社会学者宮台真司が、著書『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の項 ■〈終わりなき日常〉の三つのレイヤー で
3・11後、「終わりなき日常は終わった」と発言する輩がいたが、〈終わりなき日常〉は終わっていない。概念的に言って、終わるはずがない。(全てはシステムの産出物に過ぎないという意味でのポストモダンが、定義的に終わらないのと同じ意味)
と述べているのとダブる。
私は『おやすみプンプン』を(批判的にではなく肯定的に)評価するとするなら、「現代という終わりなきポストモダンがもたらす憂鬱を、主人公の半生に重ねて描くことで浮き彫りにした」という点であり、さらにいうなら、「ポストモダン的社会では、物語の主人公(あるいは現代の若者)には典型的な<通過儀礼における成長>は機能しない……たとえそれ(通過儀礼)が<死>ですらも!」という一種の絶望的な物語を提示したことだと思う。
プンプンは、「殺人と逃避行、さらに彼女の自殺」という非日常的な通過儀礼(殺人や愛子ちゃんの死、だ)を経た結果、彼が選ぶのは自殺であった。いや、それすらも幸というもう一人のヒロインの助力によって助かって(つまり妨げられて)しまい、彼はついぞ自力で何かを成就することは叶わなかった。
ここにはつまり、この「ポストモダン的現代を生きる」ことは、何かしらを得ること(つまり成長すること)から見放されてしまっている、という絶望が描かれている。
この絶望こそが、幸のマンガに対する感想「まるで絶望ごっこ」の正体であり、そして『おやすみプンプン』を終始覆う、なんとも憂鬱になる読み応えの正体なのだ。
そしてその上で、生き延びてしまったプンプンは、物語の後もポストモダン的現代をーーつまり「何かしら得る」ことから見放された世界をーー生きていくことになるだろう。
プンプンはこの物語の先に、何かを(たとえば幸との家庭や、あるいはささやかな幸せを)得ることは出来るのだろうか?
作者インタビューによると、プンプンが事故死するエンド、も作者は考えていたという。
一番みじめでイヤな終わり方を、トゥルーエンドにしたかった。|【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー|浅野いにお|cakes(ケイクス)
仮にこのエンドだったならば話は簡単で、『おやすみプンプン』はプンプンの死をもって、「ポストモダン的現代では、生きても何も得るものがない。以上」という解釈の物語で終わっただろう。
しかし、この物語は最後に、プンプンはこれからも生きていくーー彼だけでなく、人々が今日も生きて新しい物語を紡ぎだそうとしていることが描かれている。
『おやすみプンプン』は、「成長という物語」が失効したポストモダン的現代ーーたとえ何か得ることが困難な世界にあったとしてもーーをプンプンの半生を通して描きながらも、ラストに人々が生きる様、「生きるということは、事実としてそういう姿勢でいることなのだ」という「絶望のその上でも<生を肯定>する」ことをも描いたことによって、名作たりうるのではないかと思う。
あと最後に話を変えて、『プンプン』の物語の構造をみてみると、プンプンパートの合間に挿入される、一見物語の主軸とは関係なさそうな奇行を繰り返す謎の男・ペガサスが、実は本当に(プンプン達のあずかり知らぬところで)神の啓示を受けていて、世界を破滅から救うーー従ってプンプン達はこの世界の日常を生きていられるのだーーという、『プンプン』のストーリーとしては<物語の裏>の立場にありながら、『プンプン』の世界では<実は世界の中心にいた>ということが読み進めていくと解き明かされていくところが面白い。
もしかしたら、所詮は我々が生きている人生も、神だか誰かの手の平の上で踊っているようなものなのかもしれないのだから。 <了>
本日のマンガ名言:グッドバイブレーション(謎の男・ペガサス)
追記:他に『プンプン』論では、この記事が一番良記事だと思います。ぜひお読みに
過去の呪縛から逃れられない男 『おやすみプンプン』感想文 - (チェコ好き)の日記