文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉)読書会発表レジュメ

今度、宗教について読書会をするのだが、そこで発表する本

「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉)のレジュメ(要約)を作ったので、ここに載せる。

忘れもしない、大宮高島屋の書店でなにか仏教の本でも読んでみようと思い(仏教に詳しい宮崎哲也の動画を見たからだ)、偶然手に取って、立ち読みしてみたら衝撃を受けた本。

「人はなぜ生きなければならないのだろう」とぼんやりと考え続けていた自分にとって、本書のタイトルにもなっている、

「私は生きる方に賭けた」と言う南の言葉は衝撃的であった。

「あ、私と同じ問題を心に抱えていた人がここにいるんだ!」と思った。

南老師が、仏陀の、道元の本を初めて読んだときに「自分と同じ問題を持った人がいる!」と感じたと語っているのを読んだが、私がこの本を読んだときは、まさしくこれと同じ体験であった。

そして、私と同じ問題意識を持った人がここにいるなら、他にも同じ問題意識を持った人がいるんじゃないか、私一人が抱えている問題ではないんだ。とほっとすると同時に、「この人についていけばなにかしらあるんじゃないだろうか?」とも思えた。

私にとってこの本が、仏教は私が一生をもって学ぶに値することになるという契機の一冊だったし、仏教へのいざないの入り口となる本だった。

そんな思い入れのある本を、せっかくなので読書会で紹介してみたい。

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「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉) 読解レジュメ

・著者・南直哉(みなみ じきさい)経歴

58年生まれ。早稲田大学卒業後、大手百貨店に勤務。84年に曹洞宗で出家得度。同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年間の修行生活を送る。03年に下山。現在、青森県恐山菩提寺院代(住職代理)。著書に『老師と少年』、『恐山 死者のいる場所』、『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 など。

 

「賭ける仏教」 とはどんな本か?

評論家・宮崎哲也との対話本(ただし、本文中では対話相手が宮崎だとは述べられていない。あとがきで、宮崎だと示唆されている。宮崎が多忙のため、本書の原稿チェックができなかったので、名前を出さなかった)。

本書では、南の出家のいきさつ、仏教は何を問題にしているのか、現代伝統仏教への批判、提言などが述べられている。

 

出家のいきさつ

 

南は幼少時、小児喘息で、絶息する経験が度々あり、「死」とは何なのか並々ならぬ興味、執着を抱いていた。(別の本によると、「死とは何なのか」知りたくて、蛙や猫を殺したらしい。祖父の死を目の当たりにして、「他人の死は死ではない」ことを理解したという)

中学3年の国語の授業で、教科書に平家物語の冒頭「諸行無常の響きあり」の「諸行無常」という一言に、これだ!と感銘を受ける。今まで「自己の内面を突き詰めて言えば、野球の硬球の核に当たるように、自己の内面の核に当たるかも」と考えていたが、実際は「自意識」は玉葱の皮を剥いても何も残らないようなものなのではないかと思った。

諸行無常」の言葉が仏教の言葉だと知り、仏教書を手当たり次第に読んでみるも、お坊さんの本は「この世は大変結構なものだ」という類の話しかなく失望、むしろハイデガー「存在と実存」などの哲学書などがフィット。そんな中たまたま手に取った道元正法眼蔵」の「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」に衝撃を受ける。それまでの南は、自己を知ろうと思ってあちこちを探していた(探せばどこかでぶつかるはずと思っていた)が、道元はそんなこと忘れろ、というのにショックを受けた。

大学を卒業して就職するも、やはり「世界は無意味であるのに、なぜ生きるのか」という問いはなくならない。そして哲学書は、世界が無意味であることを明らかにするのは鋭いが、世界が無意味であることを受け入れて「なお生きること」を決断するとき、その「生きる決断の根拠」までは与えてくれないと思った。仏教にはそういう「実践」があると思い、出家に踏み切った。

そのときの気持ちは、「生きるほうに賭ける」という感じだった。自己の由来も、生の意味も分からない、しかも人間は自殺できる。しかし、受戒したら自殺することはできない。一発必殺のカードを捨てることになる。だから、「生きる方に賭ける」感じだった。仏教という馬券が一番当たりそうだ、という感覚。

 

自殺について

 

自殺志願者の話を何人もきいてきた。言いたいことはわかる。南自身も「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」考えてきた。なぜ苦しいのに「死ぬ」という選択をしてはいけないのか。仏陀その人も「苦」と私と同じことを感じていたに違いない、でも仏陀は80年も生きた。この人が何を考えて生きたのかを知りたいが、そこを明瞭に言う仏教書がない。だから私自身が生きて確かめる必要があると思った。

仏教に不殺生戒はあるが、原始仏典には、自殺した人が来世でいい世界に生まれ変わる話(ゴーディカ)がそこそこある。そうなると理屈ではなく、自分の生きる意味は、自ら「生きる」と決めた時にしか現れないと思った。我々も仏陀のように、「苦」の正体を見定めたうえで、なおも最後まで生きるというあたりに、倫理の根拠を問わざるを得ない。

南曰く、「私には信仰はない。道元のいう「正信」しかない。」「「理由はわからないが、生きる方に賭ける」ということ。だから「仏教を信じている」とは言わない。「頼りにしている」と言う。」

 

現代仏教界について

 

日本の僧侶は独身修行僧ではいられない。南も20年永平寺にいたが、一生修行するつもりでいたが、やはり無理(制度上無理なわけではないが、事実上無理。貫首より長く永平寺にいると、貫首より修行が長く「偉く」なってしまうのでやりにくいため。なので「善意で」住職の口をあっせんされる)。

「独身修行僧」の制度を今とは別に作るべき。他、運転免許更新制のように、一般の住職も何年かに一度修行に戻って脱俗的な生活、感性を取り戻すような制度を作ったほうがいい。

ただし、日本仏教を東南アジアのテーラワーダ仏教式に変革するのはなじまないだろう。そもそも、テーラワーダの人の話はつまらない。最初から言うことと行うことが決まっている。

テーラワーダの俗世を経験せずに小さい頃から出家というのは、日本の世襲と変わらない。悩む余地がなく実存の危機にさらされたものじゃないから。(他の本で、スマナサーラ長老を「結局、要は就職で僧侶になった人。「苦しい」という感覚がないから私には響かない」とばっさり)