文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

ガリレオ・ガリレイと天文学、そしてガリレオ裁判について

「科学」がテーマの読書会。

『チ。-地球の運動について-』という地動説を巡る漫画(完全なフィクション)を読んで、史実の地動説と宗教の対立がどうだったのか興味を持ったので、ガリレオ裁判について調べてみた。

レジュメを作ったので、ここに載せる。

 

参考著書

ガリレオ―星空を「宇宙」に変えた科学者』(フィリップ・スティール)

『科学と宗教』(トマス・ディクソン)

ガリレオ裁判 400年後の真実』(田中一郎)

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)

イタリアの物理学者。天文学者

1592年、パドヴァ大学ヴェネチア共和国)の数学教授となる。この頃、落体の研究をする(ピサの斜塔で実際に実験を行ったかは不明)

1595年ごろ(31歳)、地球や天体の動きに興味を持ち始める。

 

 

地動説とは何か

1543年、ポーランド天文学者ニコラウス・コペルニクス『天体の運動について』によってまとめられ提唱された説。惑星はみずから回転しつつ、太陽の周りを円形の軌道に沿って動いていると主張した。

実際には、軌道は円でなく楕円だが、コペルニクスの考えはおしなべて正しい。

しかし当時は、プトレマイオス(紀元前2世紀)の天文学及びアリストテレス(紀元前4世紀)の自然学と結びついた天動説が主流であり、それと真っ向から対立するものであった。

なお、コペルニクスよりはるか以前に、地球は太陽の周りを回っていると唱えた天文学者はいた。紀元前270年ごろのギリシア人、アリスタルコス(サモスのアリスタルコス)である。しかし当時、彼の学説を支持するものはいなかった。

 

 

ガリレオの天文観測

ガリレオコペルニクスの地動説を支持していた。それは彼が天体観測をする以前からである。

1597年、ドイツの天文学者コペルニクス説を支持する本を書いたヨハネス・ケプラーに「私も同じ考えである」という手紙を宛てた。

ガリレオは、潮の満ち引きを、地球が自転と公転をしていれば説明できると考えていた。地球は公転方向と自転方向が同じなら早く動き、逆でなら遅く動く、その速度の違いによって干潮が生まれると考えた。しかし、これより数十年後、海の干潮はアイザック・ニュートンの発見した万有引力の法則で説明できることがわかり、ガリレオの説は否定された。

 

天文学の研究をガリレオが始めたのは、1609年末、45歳のときである。

1608年オランダのハンス・リッペルスハイが望遠鏡を作ると、たちまちヨーロッパ中で話題になった。その噂を聞いたガリレオは、すぐに自分で試作を作り、その望遠鏡は倍率が3倍から20倍にも改良された(最終的には30倍)。

1609年11月、ガリレオは初めて望遠鏡で月を見る。月には山々やくぼ地(クレーター)があることを発見した。アリストテレス以来、神聖な天体である月の表面はなめらかであると信じられていた。

1610年、木星に4つの月(衛星)があることを発見。ガリレオが個人教授をしたメディチ家の王子コジモ2世にちなんで「メディチ星」と名付ける。

また、金星に、月が三日月になるのと同じように金星にも満ち欠けがあることを発見。金星が太陽の周りを回っていることの証左であった。

これによって、ガリレオは地動説をますます確信するようになる。

ガリレオは望遠鏡で天体を観察したことを「星界の報告」という本にまとめて出版。

1612年、太陽に黒点があることを発見した。完璧な天体であるはずの太陽も、完全なものではないという発見であった。

 

 

ガリレオの発表による反響

教会内外で、さまざまな反響と論争を巻き起こした。当初「発見」そのものはおおむね好意的に

捉えられた。しかし、大きな問題があった。

聖書には、地球が宇宙の中心にあって、その周りを太陽が回っていると解釈できるくだりがあるからだ(旧約聖書ヨシュア記第10章」)。教会内外にいた、ガリレオを疎ましく思っている派閥の人たちはこのことを根拠にガリレオを攻撃した。

1600年には、コペルニクスの地動説を支持していたイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノが異端審問所の判決により教会に背いた罪で有罪になり、火あぶりで処刑されたこともあり、ガリレオも慎重にならざるを得なかった。

そんな中1616年、異端審問が開かれ、教皇の命令でコペルニクスの説を吟味した結果、その理論は間違っており、教会の教えに背いていると断定された。コペルニクスの「天体の運動について」は閲覧禁止となり、ガリレオにはコペルニクスの説が事実であるかのように流布してはいけない、と判決が出た。この異端審問で幸運だったのは、ガリレオ自身は被告にならずに済んだこと、また、ガリレオに味方する聖職者が多かったことだった。この判決は、当時プロテスタントが台頭してきたため、カトリック教会は保守的により強固に出なければいけなかった、という政治的な理由があった。

 

 

「天文対話」

1623年、ガリレオの賛美者であり支援者であるマッフェオ・バルベリーニがローマ教皇ウルバヌス8世となる。ガリレオはウルバヌス8世と何度か会合を持ち、ただ他と並ぶ仮説として扱うとすれば、コペルニクス説を著作の中で扱えると確信を得る。

1632年「天文対話」を出版。その内容は、アリストテレス主義者、コペルニクス主義者、一般的な常識人3人の討論なのだが、コペルニクス主義者がはるかに説得的に書かれた内容であった。

ウルバヌス8世は、反ガリレオ派の告げ口もあり、これに激怒した。タイミングも悪かった。このときローマは三十年戦争に際し、フランスからスペインに忠誠を切り替えようとしているところで、新たな保守同盟国に、自ら断固とした権威主義的な信仰の守護者であることを示す必要があった。

 

 

異端審問

1633年、ガリレオが被告となり、異端審問が始まる。

そもそも宗教裁判とは、現代の裁判とは異なり、有罪か無罪かを争う場ではない。被告に異端思想を抱いていることを自覚させるとともに、贖罪のための機会と手段を与える(量刑を確定する)ためのものである。

ガリレオは、1616年の禁令に背き、コペルニクスの説を流布した罪で有罪となった。罪刑は終身刑であったが、嘆願により軟禁に減刑された。

 

 

幽閉と晩年

アルチェトリの自宅別荘で自宅監禁されることになったガリレオ。若い頃からの太陽の見過ぎがたたって失明。

1638年、「新科学対話」を、出版禁止の身であったため、プロテスタント国のオランダで出版。

1642年、生涯フィレンツェに戻ることなく亡くなる。享年77歳。