文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

ガリレオ・ガリレイと天文学、そしてガリレオ裁判について

「科学」がテーマの読書会。

『チ。-地球の運動について-』という地動説を巡る漫画(完全なフィクション)を読んで、史実の地動説と宗教の対立がどうだったのか興味を持ったので、ガリレオ裁判について調べてみた。

レジュメを作ったので、ここに載せる。

 

参考著書

ガリレオ―星空を「宇宙」に変えた科学者』(フィリップ・スティール)

『科学と宗教』(トマス・ディクソン)

ガリレオ裁判 400年後の真実』(田中一郎)

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)

イタリアの物理学者。天文学者

1592年、パドヴァ大学ヴェネチア共和国)の数学教授となる。この頃、落体の研究をする(ピサの斜塔で実際に実験を行ったかは不明)

1595年ごろ(31歳)、地球や天体の動きに興味を持ち始める。

 

 

地動説とは何か

1543年、ポーランド天文学者ニコラウス・コペルニクス『天体の運動について』によってまとめられ提唱された説。惑星はみずから回転しつつ、太陽の周りを円形の軌道に沿って動いていると主張した。

実際には、軌道は円でなく楕円だが、コペルニクスの考えはおしなべて正しい。

しかし当時は、プトレマイオス(紀元前2世紀)の天文学及びアリストテレス(紀元前4世紀)の自然学と結びついた天動説が主流であり、それと真っ向から対立するものであった。

なお、コペルニクスよりはるか以前に、地球は太陽の周りを回っていると唱えた天文学者はいた。紀元前270年ごろのギリシア人、アリスタルコス(サモスのアリスタルコス)である。しかし当時、彼の学説を支持するものはいなかった。

 

 

ガリレオの天文観測

ガリレオコペルニクスの地動説を支持していた。それは彼が天体観測をする以前からである。

1597年、ドイツの天文学者コペルニクス説を支持する本を書いたヨハネス・ケプラーに「私も同じ考えである」という手紙を宛てた。

ガリレオは、潮の満ち引きを、地球が自転と公転をしていれば説明できると考えていた。地球は公転方向と自転方向が同じなら早く動き、逆でなら遅く動く、その速度の違いによって干潮が生まれると考えた。しかし、これより数十年後、海の干潮はアイザック・ニュートンの発見した万有引力の法則で説明できることがわかり、ガリレオの説は否定された。

 

天文学の研究をガリレオが始めたのは、1609年末、45歳のときである。

1608年オランダのハンス・リッペルスハイが望遠鏡を作ると、たちまちヨーロッパ中で話題になった。その噂を聞いたガリレオは、すぐに自分で試作を作り、その望遠鏡は倍率が3倍から20倍にも改良された(最終的には30倍)。

1609年11月、ガリレオは初めて望遠鏡で月を見る。月には山々やくぼ地(クレーター)があることを発見した。アリストテレス以来、神聖な天体である月の表面はなめらかであると信じられていた。

1610年、木星に4つの月(衛星)があることを発見。ガリレオが個人教授をしたメディチ家の王子コジモ2世にちなんで「メディチ星」と名付ける。

また、金星に、月が三日月になるのと同じように金星にも満ち欠けがあることを発見。金星が太陽の周りを回っていることの証左であった。

これによって、ガリレオは地動説をますます確信するようになる。

ガリレオは望遠鏡で天体を観察したことを「星界の報告」という本にまとめて出版。

1612年、太陽に黒点があることを発見した。完璧な天体であるはずの太陽も、完全なものではないという発見であった。

 

 

ガリレオの発表による反響

教会内外で、さまざまな反響と論争を巻き起こした。当初「発見」そのものはおおむね好意的に

捉えられた。しかし、大きな問題があった。

聖書には、地球が宇宙の中心にあって、その周りを太陽が回っていると解釈できるくだりがあるからだ(旧約聖書ヨシュア記第10章」)。教会内外にいた、ガリレオを疎ましく思っている派閥の人たちはこのことを根拠にガリレオを攻撃した。

1600年には、コペルニクスの地動説を支持していたイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノが異端審問所の判決により教会に背いた罪で有罪になり、火あぶりで処刑されたこともあり、ガリレオも慎重にならざるを得なかった。

そんな中1616年、異端審問が開かれ、教皇の命令でコペルニクスの説を吟味した結果、その理論は間違っており、教会の教えに背いていると断定された。コペルニクスの「天体の運動について」は閲覧禁止となり、ガリレオにはコペルニクスの説が事実であるかのように流布してはいけない、と判決が出た。この異端審問で幸運だったのは、ガリレオ自身は被告にならずに済んだこと、また、ガリレオに味方する聖職者が多かったことだった。この判決は、当時プロテスタントが台頭してきたため、カトリック教会は保守的により強固に出なければいけなかった、という政治的な理由があった。

 

 

「天文対話」

1623年、ガリレオの賛美者であり支援者であるマッフェオ・バルベリーニがローマ教皇ウルバヌス8世となる。ガリレオはウルバヌス8世と何度か会合を持ち、ただ他と並ぶ仮説として扱うとすれば、コペルニクス説を著作の中で扱えると確信を得る。

1632年「天文対話」を出版。その内容は、アリストテレス主義者、コペルニクス主義者、一般的な常識人3人の討論なのだが、コペルニクス主義者がはるかに説得的に書かれた内容であった。

ウルバヌス8世は、反ガリレオ派の告げ口もあり、これに激怒した。タイミングも悪かった。このときローマは三十年戦争に際し、フランスからスペインに忠誠を切り替えようとしているところで、新たな保守同盟国に、自ら断固とした権威主義的な信仰の守護者であることを示す必要があった。

 

 

異端審問

1633年、ガリレオが被告となり、異端審問が始まる。

そもそも宗教裁判とは、現代の裁判とは異なり、有罪か無罪かを争う場ではない。被告に異端思想を抱いていることを自覚させるとともに、贖罪のための機会と手段を与える(量刑を確定する)ためのものである。

ガリレオは、1616年の禁令に背き、コペルニクスの説を流布した罪で有罪となった。罪刑は終身刑であったが、嘆願により軟禁に減刑された。

 

 

幽閉と晩年

アルチェトリの自宅別荘で自宅監禁されることになったガリレオ。若い頃からの太陽の見過ぎがたたって失明。

1638年、「新科学対話」を、出版禁止の身であったため、プロテスタント国のオランダで出版。

1642年、生涯フィレンツェに戻ることなく亡くなる。享年77歳。

筒井康隆『パプリカ』 読書会発表レジュメ

「夢(眠るときにみる夢)」がテーマの読書をするのだが、そこで発表する

筒井康隆『パプリカ』のレジュメ(要約と感想)を作ったので、ここに載せる。

 

筒井康隆『パプリカ』 紹介レジュメ

 

小説『パプリカ』

1993年に刊行された筒井康隆による長編SF小説作品。女性誌マリ・クレール」に連載された。本作の発表後、筒井は断筆宣言をして、3年3か月の休筆期間に入った。筒井の断筆前の最後の小説作品。

2006年に今敏(こん さとし)監督の手によってアニメ映画化。

キャッチコピーは「私の夢が、犯されている」。

2008年の米国ニューズウィーク誌日本版が選んだ歴代映画ベスト100に『パプリカ』が、日本アニメから唯一選ばれるなど、評価の高い作品となった。

 

「パプリカ」あらすじ

夢に機器を通じて介入できる技術が発達した近未来の世界で、夢探偵を行う女性・パプリカの活躍を描く。

精神医学研究所に勤めるノーベル賞候補の研究者・千葉敦子は、夢探偵「パプリカ」として分裂症患者の夢に介入して、治療するセラピストでもあった。しかしある時、治療に必要なDCミニが何者かによって奪われる。事態は研究所内の権力闘争に紐づき、次第に現実は夢との境界を薄めてゆく。

 

登場人物

千葉敦子(ちば あつこ) / パプリカ

本作の主人公。研究所でも一目置かれているサイコセラピスト。美人。

他人の夢に侵入できる機械・PT(サイコセラピー)機器開発者のひとりで、ノーベル賞候補と言われる。

PT機器の小型版である「DCミニ」を使用し、別人格「パプリカ」の姿で患者の夢に潜り込み、悪夢の原因を探るなどの治療を行っている。

時田浩作に好意を抱いている。

時田浩作(ときた こうさく)

精神医学研究所の天才研究者であり、PT機器開発はほとんど時田によって担われた。ノーベル賞候補と言われる。

100キロを超える巨漢。精神的に幼いところがあり、オタクであるという自認がある。

物語ラストに、敦子と結婚した。

島寅太郎(しま とらたろう)

研究所の所長ならびにDCミニの開発担当責任者を務める、明朗快活な白髪の男性。人柄の良さから人望を集めているが、所内政治は苦手としている。

粉川利美(こながわ としみ)

パプリカによる治療を受けている刑事。悪夢に悩まされており、旧知の仲の島からDCミニによる治療を紹介された。

山内守雄(おさない もりお)

研究所の職員。敦子に好意を抱いているが相手にされておらず歯がゆい思いをしている。また、優秀な時田に対して嫉妬心を抱いている。敦子らの開発したPT機器を忌まわしく思っており、何かにつけて妨害してくる。「ギリシャ彫刻のような」美貌の持ち主。

乾精次郎のことを崇拝しており、肉体関係にある。暴力で捕まえた敦子をレイプしようとするが、勃起せずに未遂に終わる。

乾精次郎(いぬい せいじろう)

研究所の理事長を務める老人(原作では副理事長)。アニメ映画版では下半身不随のため車椅子で移動している(原作は不明)。DCミニをあまり快く思っておらず、危険性を重視し開発中止も検討している。

島と社内政治的に対立している。子飼いの小山内とは肉体関係にある。本作のラスボス

 

原作と映画版との違い

原作では、敦子と時田浩作は相思相愛の関係にある。映画版では、あまり恋愛関係をにおわす描写はなく、物語のラストに明かされるのみとなっている。

原作では、敦子(パプリカ)の性的な描写がままある。小山内にレイプ未遂される場面など。映画版でも敦子が小山内に捕えられる、官能的なシーンがあるがマイルド。

 

映画版では、分裂症の悪夢のシーンとして、魑魅魍魎たちのパレードのような行進シーンが度々出てくるが、これは映画オリジナル。

ラストの展開は、原作とアニメでは違うが、原作の方がよりカオスに夢と現実がまじりあっている感じがあり、映画の方はよりカタルシスがある終わり方になっていた。

 

作品を通しての感想

エンタメ小説としてかなりスリリングで面白い出来の作品だと思った。パプリカというキャラもキュートでよい。さすがの筒井康隆の本領発揮という感じ。

そしてアニメ映画版はこれに輪をかけて傑作だと思った。アニメならではの場面の転換と、悪夢の視覚的再現がうまくいっている。今敏作品の最高傑作。

 

「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉)読書会発表レジュメ

今度、宗教について読書会をするのだが、そこで発表する本

「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉)のレジュメ(要約)を作ったので、ここに載せる。

忘れもしない、大宮高島屋の書店でなにか仏教の本でも読んでみようと思い(仏教に詳しい宮崎哲也の動画を見たからだ)、偶然手に取って、立ち読みしてみたら衝撃を受けた本。

「人はなぜ生きなければならないのだろう」とぼんやりと考え続けていた自分にとって、本書のタイトルにもなっている、

「私は生きる方に賭けた」と言う南の言葉は衝撃的であった。

「あ、私と同じ問題を心に抱えていた人がここにいるんだ!」と思った。

南老師が、仏陀の、道元の本を初めて読んだときに「自分と同じ問題を持った人がいる!」と感じたと語っているのを読んだが、私がこの本を読んだときは、まさしくこれと同じ体験であった。

そして、私と同じ問題意識を持った人がここにいるなら、他にも同じ問題意識を持った人がいるんじゃないか、私一人が抱えている問題ではないんだ。とほっとすると同時に、「この人についていけばなにかしらあるんじゃないだろうか?」とも思えた。

私にとってこの本が、仏教は私が一生をもって学ぶに値することになるという契機の一冊だったし、仏教へのいざないの入り口となる本だった。

そんな思い入れのある本を、せっかくなので読書会で紹介してみたい。

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「賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話」(南直哉) 読解レジュメ

・著者・南直哉(みなみ じきさい)経歴

58年生まれ。早稲田大学卒業後、大手百貨店に勤務。84年に曹洞宗で出家得度。同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年間の修行生活を送る。03年に下山。現在、青森県恐山菩提寺院代(住職代理)。著書に『老師と少年』、『恐山 死者のいる場所』、『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 など。

 

「賭ける仏教」 とはどんな本か?

評論家・宮崎哲也との対話本(ただし、本文中では対話相手が宮崎だとは述べられていない。あとがきで、宮崎だと示唆されている。宮崎が多忙のため、本書の原稿チェックができなかったので、名前を出さなかった)。

本書では、南の出家のいきさつ、仏教は何を問題にしているのか、現代伝統仏教への批判、提言などが述べられている。

 

出家のいきさつ

 

南は幼少時、小児喘息で、絶息する経験が度々あり、「死」とは何なのか並々ならぬ興味、執着を抱いていた。(別の本によると、「死とは何なのか」知りたくて、蛙や猫を殺したらしい。祖父の死を目の当たりにして、「他人の死は死ではない」ことを理解したという)

中学3年の国語の授業で、教科書に平家物語の冒頭「諸行無常の響きあり」の「諸行無常」という一言に、これだ!と感銘を受ける。今まで「自己の内面を突き詰めて言えば、野球の硬球の核に当たるように、自己の内面の核に当たるかも」と考えていたが、実際は「自意識」は玉葱の皮を剥いても何も残らないようなものなのではないかと思った。

諸行無常」の言葉が仏教の言葉だと知り、仏教書を手当たり次第に読んでみるも、お坊さんの本は「この世は大変結構なものだ」という類の話しかなく失望、むしろハイデガー「存在と実存」などの哲学書などがフィット。そんな中たまたま手に取った道元正法眼蔵」の「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」に衝撃を受ける。それまでの南は、自己を知ろうと思ってあちこちを探していた(探せばどこかでぶつかるはずと思っていた)が、道元はそんなこと忘れろ、というのにショックを受けた。

大学を卒業して就職するも、やはり「世界は無意味であるのに、なぜ生きるのか」という問いはなくならない。そして哲学書は、世界が無意味であることを明らかにするのは鋭いが、世界が無意味であることを受け入れて「なお生きること」を決断するとき、その「生きる決断の根拠」までは与えてくれないと思った。仏教にはそういう「実践」があると思い、出家に踏み切った。

そのときの気持ちは、「生きるほうに賭ける」という感じだった。自己の由来も、生の意味も分からない、しかも人間は自殺できる。しかし、受戒したら自殺することはできない。一発必殺のカードを捨てることになる。だから、「生きる方に賭ける」感じだった。仏教という馬券が一番当たりそうだ、という感覚。

 

自殺について

 

自殺志願者の話を何人もきいてきた。言いたいことはわかる。南自身も「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」考えてきた。なぜ苦しいのに「死ぬ」という選択をしてはいけないのか。仏陀その人も「苦」と私と同じことを感じていたに違いない、でも仏陀は80年も生きた。この人が何を考えて生きたのかを知りたいが、そこを明瞭に言う仏教書がない。だから私自身が生きて確かめる必要があると思った。

仏教に不殺生戒はあるが、原始仏典には、自殺した人が来世でいい世界に生まれ変わる話(ゴーディカ)がそこそこある。そうなると理屈ではなく、自分の生きる意味は、自ら「生きる」と決めた時にしか現れないと思った。我々も仏陀のように、「苦」の正体を見定めたうえで、なおも最後まで生きるというあたりに、倫理の根拠を問わざるを得ない。

南曰く、「私には信仰はない。道元のいう「正信」しかない。」「「理由はわからないが、生きる方に賭ける」ということ。だから「仏教を信じている」とは言わない。「頼りにしている」と言う。」

 

現代仏教界について

 

日本の僧侶は独身修行僧ではいられない。南も20年永平寺にいたが、一生修行するつもりでいたが、やはり無理(制度上無理なわけではないが、事実上無理。貫首より長く永平寺にいると、貫首より修行が長く「偉く」なってしまうのでやりにくいため。なので「善意で」住職の口をあっせんされる)。

「独身修行僧」の制度を今とは別に作るべき。他、運転免許更新制のように、一般の住職も何年かに一度修行に戻って脱俗的な生活、感性を取り戻すような制度を作ったほうがいい。

ただし、日本仏教を東南アジアのテーラワーダ仏教式に変革するのはなじまないだろう。そもそも、テーラワーダの人の話はつまらない。最初から言うことと行うことが決まっている。

テーラワーダの俗世を経験せずに小さい頃から出家というのは、日本の世襲と変わらない。悩む余地がなく実存の危機にさらされたものじゃないから。(他の本で、スマナサーラ長老を「結局、要は就職で僧侶になった人。「苦しい」という感覚がないから私には響かない」とばっさり)

 

 

 

「どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント」(宮台 真司,二村 ヒトシ著)読書会発表レジュメ

今度、性愛について読書会をするのだが、そこで発表する本

「どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント」(宮台 真司,二村 ヒトシ著)のレジュメ(要約)を作ったので、ここに載せる。

どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント宮台真司二村ヒトシ著 読解レジュメ

 

二村「すべての親は子供の心に穴を開ける」

 恋愛やセックスに対する価値観、言動や立ち振る舞いは、その人の精神の根幹をなしていて、それには本人の幼少期の体験や家族との関係が深くかかわっている。人は子供の頃の愛情の受け方を、大人になってからの恋愛とセックスを使って、同じことを自動機械的に繰り返すか、あるいは逆に得たかったけど得られなかったものを得ようとして懸命に「生きなおして」いる。

今の社会において、生きていきやすい形の心の穴と、生きにくい形の心の穴がある。

 

今の社会においては、女性の方が不利な立場にある。現代日本社会は男性が「自己肯定できているような気分」(インチキ自己肯定)の方法が、男には用意されている。

 

宮台「インチキ自己肯定の典型が今のナンパクラスタ

ナンパ講座は、「自分は駄目」という不全感を、元の原因とは別の「代わりの承認」によって埋め合わせたがる男ばかり。他者を思いやる気持ちもないくせに他者から褒めてもらいたがる、自己中心的存在。「あさましく、さもしい存在」

 

 

<社会の劣化>への鈍感さをもたらす<感情の劣化>

社会がスーパーフラット化する中で、性愛に過剰な人々はコミュニティから「イタイ奴」と思われるようになっていった。(表層的コミュニケーションの上達が、性的退却につながった)

その一方で、インチキ自己肯定する男、こじらせ女子やメンヘラちゃんが増えていき、本来なら「社会の外側」に存在すべき性愛を内側にとどめることで、性愛が単なる自己承認ツールに成り下がった。

「心の穴を埋める」というのは、自分が自分の受容してないのをごまかして、他人のせいにすることなので、しっぺがえしをくらう。

 

宮台 これは目に見える<感情の劣化>。相手の感情を自分の心に映して同じ感情に感染する能力が落ちた。これが劣化すると「仲間」や「絆」の感覚が薄くなる。すると、仲間のため、絆のために戦うといった「正しさ」や「情熱」も冷め、利害損得が肥大してしまう。

その結果、性愛や政治や教育の営みを評価するときに、したり顔でビジネスマインド(笑)を持ち出すクズが増える(コストが~、リスクが~とか言い出す)。

性愛や政治や教育はそもそも、コストやリスクをいつの間にか乗り越えるような情熱や正しさに関わる。

 

<家族の劣化>に関わる<感情の劣化>

お金のために結婚しがちな日本の両親のもとに生まれた子は、親から「正しさ」よりも「損得勘定」のメッセージを受け取り、それゆえ親を尊敬できず、損得で結びついた家族ゆえに幸せに乏しい。そういう子は、「損得勘定に」敏感でも、「正しさ」には鈍感で、規範的な生き方をしてないので自尊感情が著しく乏しい。

「美しくない家族」は「美しくない子供」を量産する。そしてその子は「美しくない家族」を再生産するか、そもそももてないので家族形勢から見放される。


まともな男」を見分ける条件を一つだけ挙げると。

「女が過去の恋愛体験や性体験を話したときに耳をふさいだり、怒り出す男を排除せよ」

女の過去の喜怒哀楽を男が自分の喜怒哀楽として共体験する力の欠如だから。

 

脱線:なぜヒトラーはモテたのか。

ヒトラーが政権を取った1933年の、CIAの前身OSSのレポート。

ヒトラーは今風に言えば「キモい」奴だが、彼が「キモい」からこそモテた。

「自分はキモい」と思う人は、「ヒトラーはキモい」と誹謗されればされるほど、ヒトラーは自分の味方だ、と思うようになる。

ブッシュJr、安倍晋三の時も同じ。

 

 

社会の幸いと、性愛の幸いの逆立

<社会の営み>における幸いと、<性愛の営み>における幸いは同期しない。

社会がよくなっても、性愛で幸せになれないのはなぜか。

社会は<交換>のバランスを基軸とした合理の領域。

性愛は<贈与>の過剰を基軸とした非合理の領域。だから社会は性愛を覆えない。

「社会に適応するのをやめ、適応する振りでとどめろ」 要は、なりすませ。

損得原理、つまり<交換>が貫徹する「社会の営み」に適応すれば、

内発性、つまり<贈与>が貫徹する「性愛の営み」が不可能になる。

 

 

「性愛不全」から脱却する方法  倒錯者になろう

二村 ジャック・ラカンの著作を自分流に読むと、ラカンは「神経症者・精神病者・倒錯者」にわけた。

神経症者=我慢しなきゃいけないと思って社会を生きている人。多くの一般人。

また「仕方なく存在する社会」を「法外を許さぬ社会」と勘違いするような、ウヨ豚、クソリベ的な反復強迫者も出てくる。

精神病者神経症者とは違った物語を生きている人。一般人からしたらやばいので社会から隔離されてしまう。

倒錯者=社会に適応「するふり」をしている人。自分が変態だと自覚している「よい変態」(他人に危害を加えない)

=過剰存在=<贈与>存在=トランス存在

だから、なりすませ=倒錯者として生きよ。

 

社会から見えないように、よい変態たちのコミュニティを形成し、社会生活においては一般人と同化して生きる。

社会の規範の外に出る倒錯者は、毎日社会の仕事をこなしているけど、同じ性質を持つ相手にはバンパイア性を包み隠さず、めちゃくちゃ淫乱になる。そういう相手を探せ。

普段ナンパ師だとか自慢してる奴らは、自らの承認欲求を満たしたい神経症者で、実は社会の規範の中に生きているだけ。全然エロくない。

皆さんに伝えたいのは、こっそり、ひっそりと変態になってみてください。勇気を出して社会の外に飛び出してみて、現実を忘れさせてくれるようなセックスを体験し、私たちが社会を営む中で忘れてしまった感覚を取り戻し、またしれっと戻ってくればいい

 

以上、レジュメ終わり

 

この本の元となった

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ

もあるので、併せて読んでほしい

鎌谷悠希『しまなみ誰そ彼』を読む ~LGBTというマイノリティの生き方と、コミュニティーの可能性を探った大傑作

鎌谷悠希『しまなみ誰そ彼』全4巻。

広島県尾道(おのみち)を舞台に、性と生の在り方を描いた作品だ。

本作は「生き方とコミュニティの可能性」を探った大傑作漫画だと思うので紹介したい。

あらすじ~~~

クラスメイトに、ホモ動画を観ていることを知られた、高校生のたすく。たすくは幼い頃から男性を好きになっていた。周囲から“ホモ”とからかわれるようになったたすくは、自分の性的指向がばれてしまうのではないかと怯え、自殺を考える。そのたすくの前に、「誰かさん」と名乗る不思議な女性が現れた。

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「誰かさん」に言われるまま導かれて辿り着いたのは、「談話室」という集会所だった。「談話室」に集う、空き家再生事業に携わるNPO「猫集会」のメンバー --同性愛カップルや、性転換者、性自認が揺らぐ男の子ーーとの交流を通して、たすくの心に変化が訪れる…。

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田亀源五郎『弟の夫』と同じく、LGBTをテーマにした作品。作者の鎌谷はXジェンダーであることを公言しているらしく、田亀のようにゲイで自身の体験を含めてLGBT問題を描いた作品であることも共通している。

本作では、談話室に集う人々は皆なんらかの性的マイノリティーであり、アウティング問題や、世間の「善意で無自覚の偏見」との軋轢などの問題に直面し、これが『しまなみ~』の物語となっている。

登場人物の背景などはこのブログ記事に詳しい。

『しまなみ~』の面白さは、まず、登場人物たちがそれぞれの悩みと向き合い立ち向かっていく様子にあると思う。

登場人物も自身がゲイであることに悩むたすくを初め、皆が皆、性的マイノリティーであるという悩みを持っている。その悩み、つまり「弱さ」を抱えていることで、非常に人間味がある人物描写になっている。

その人物描写が面白いのはもちろんなのだが、私が面白いなと思ったのは、「談話室」というコミュニティーが、<やさしく>て、そして<ゆるい>つながりでありながら、「結びつきは強い」共同体として描かれていることだ。

どういうことか。まずは<ゆるい>の意味からみてみたい。

<ゆるい>の意味の一つは、「所属するのに資格はいらない」ということだ。

「談話室」にはLGBTの人々が集っているが、そこには誰でも所属することができる。作中でもLGBT以外の人が、空き家再生事業NPO「猫集会」に携わる描写がある(しかしその人は、LGBTへの「善意の偏見」があり、トラブルを起こしてしまうのだが)。

そして<ゆるい>の意味の2つ目は、相手への過度な干渉や期待はしないということだ。誰が入ってきても自由だし、誰が来なくなってもそれもまた自由なのだ。

そしてそんな<ゆるい>コミュニティーでありながら、共同体としての「結びつきは強い」。

「強い結びつき」の例として、作中にはこんなエピソードが登場する。

「談話室」メンバーの同性愛カップルが、同性婚で結婚式をあげることになった。たすくたちも楽しみに行くのだが、式の当日、会場となる「自分たちで再生させた空き家」には、「ホモレズきえろ」と落書きがしてあった。

これを見たたすくは一瞬絶望するが、いっしょに来た友人の椿ーーかつて、自身の同性愛嗜好に気づきながらも目を背け否定していたから、同族嫌悪で性的マイノリティのたすくたちに心無い言葉を投げかけていた同級生だーーが、新婦たちが来る前に率先して落書きを消そうとする場面がある。

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私はこのエピソードを読んだとき、「なんて強い結びつきのある共同体なのだろう」と思った。

「強い結びつき」の共同体となる秘訣は何なのだろうか。

作中にこんな台詞がある。たすくが結婚式に出席することを、親に説明するときに言う台詞だ。結婚する人はたすくにとってどんな人か聞かれて、たすくは答える。

お世話になった人なんだ。 僕に座る椅子を勧めてくれた。

だから、お礼をしたいんだ。

 座る椅子を勧めてくれた、とはもちろん、「自分が自分である場所、居場所をくれた」ということだ。

たすくは同性婚する彼女たち(とそして仲間たち)に恩と感謝があった。だから、お礼をしたいと。

しかし、「恩」と「感謝」だけでは、まだこの「強い結びつき」の理由の半分だけのような気がしてならない。

その根底には、相手への「理解と共感」があったのではないだろうか。そしてこの「理解と共感ーーつまりは相手への想像力だーー」こそが、「<やさしく>て、そして<ゆるい>つながり」でいう<やさしさ>なのではないだろうか。

だからこの作品は、相手への想像力こそがコミュニティーの強度を担保する、ということを示しているのではないかと、私は読んだのだ。

そういえば、社会学者の宮台真司は、「幸せには絆のある人間関係が必要。しかし人間、絆にはタダ乗りができない。社会はいいとこどりができない。絆には、絆コストを払うことが必要」というようなことを、色んなところで言っていた。「参加コストを支払わずに、包摂に預かることはできません。」と。

それならば、想像力を伴った<やさしさ>こそが「絆」といえよう。

『しまなみ~』は、性的マイノリティの人たちが、共同体のもたらす絆によって、自己を肯定していく話なのだ。

<ゆるい>つながりーー誰でも自身の意思で所属出来て、退会できるーーの共同体だからこそできること、というのも示唆的だ。たまたま生まれた地元で強制的に参加させられる共同体(たとえばイスラム共同体)とは違い、自由意志で所属するかしないかを決められる「選択的共同体」の魅力だ。

『しまなみ~』は、私たちがこれからの社会で幸福に生き抜いていくための、コミュニティーの可能性を示した作品なのだと私は思う。

皆さんにも是非とも手に取ってほしい作品だ。これを傑作と言わずして、なんといえばいいのだろうか。  <了>

 

本日のマンガ名言:

お世話になった人なんだ。 僕に座る椅子を勧めてくれた。

だから、お礼をしたいんだ。

 

ぼくの精神病院入院日記 その4

精神病院入院日記、続きの更新に1年ほどかかってしまいましたが、それは飽きたのと、もうほぼ自分のことが出てこないからです。(これ以降意識は元気になったので、自分のことは書くことがない)

とはいえまぁ、人様のことだけど仮名だし載せてもよかろうか、ということで更新します。

去年の4月の終わりごろから2か月半ほど、精神病院に入院してました。 入院理由は、ストレスによる心因性の過剰水分摂取による水中毒でした。 入院中に暇つぶしに書いた日記を、忘備録として載せます。  ※以下出てくる人名は、当然ながらすべて仮名です。

 

5月12日

・一睡もできなかった。「今日は眠れない」というのがもう感覚的にわかってきた。そういうときは絶対に当たる。そしてそういう日は身体が重い。

・朝食に「白つくね」なる練り物が出てきたがクソまずい。ここ2週間以上毎日魚が出てくるし(私は魚が得意ではない)。4日連続酢の物が出てきたのにはブチ切れそうになった。 親にのりたまふりかけを持ってきてもらって、やっと「まとも」な飯になった。今日は昼飯がカレーなので、それを生き甲斐に生きる。

・午前中は病棟停電のためテレビも映らず、食堂の人はまばら。まぁ、テレビがあっても土曜はクソつまんないけど。

・昼飯はカレー。みんな楽しみにしていたようだ。(会話でカレーの話題をしてる人が多かった。)しかし食べてみると、冷めていて決してそこまでうまくなかった。これでもここではトップに旨い飯なのだが

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・よく「倒れる」おじさんがいる。以下、倒れるおじさんとよぶ。1度目はトイレで倒れていたのを私が発見して看護師さんに呼びに行き、2度目は部屋の前で倒れて眼鏡を割ったらしい。 食堂でよく眠ってて、「ここで寝ちゃだめ、部屋戻り」とナースさんに言われてるのをみたので、薬の副作用か何かで眠くなって倒れていたのだろうか。

・この前オセロやった女の子が「いらねーーんだよぉぉ!」と怒鳴ってた。よく(夜ほぼ毎日)泣く女性と言い争いか何かしてたっぽい(私はトイレ行ってて、そこで大声がきこえたので何もわからず)

・同室のA木さんと将棋やった。そこそこ強かったが私勝ち。「薬で頭あんま働かない」と私に負けた人は皆言うが、半分は悔し紛れで半分は本当なんだと思う。(みんな薬のんでるし)。これで、将棋ができる人とはみんな指したかな。一応ここでは私が一番将棋強いようだ。

・同室のN田さんと、夕方テレビをみた。「危険地帯に行く」という番組。麒麟・田村がタイの中華マフィアのボスに会いに行こうとしたところ、警備の警察官が逃げてしまって、結局会いに行かずに逃げ帰ったのはみてて怖かった。土曜の夕方に面白い番組やってるな。

・N田さんが「やることなくて寝るしかない」というので、私のマンガを貸した。

・N田さんも将棋できるとのことだったのでやった。初心者レベルだったので、矢倉を教えた。

将棋おばさんとも将棋やりたかったが、おばさんは外泊中なのでできないのが残念だった。

・夜8時からのドラマが面白かった。面白い番組を発見できるのが(入院中はTVみるくらいしかすることがないから)入院中のいいところと言えるのかな。

 

5月13日

・昨晩はさんざんだった。同室のじじいが消灯の9時半から、11時過ぎまで「あーう~あーう~」「助けてくださいー鈴木さん」(鈴木さんって誰だよ)を絶え間なく連呼し、眠れなかった。10時ごろナースセンターに行ってなんとかしてくれと頼んでも、「ごめんね。口かせ付けるわけにいかないから、何もすることができない」とのこと。それはわかるが、あまりのストレスでもう部屋で寝ることはできなかった。じじいの声をもうききたくないので、暗い食堂(ナースセンターだけは灯りがついている)で本を読んで、じじいが寝るまで(声をあげるのをやめるまで)待つことにした。眠剤が出る時間が10:30なので、せめてそこまでは部屋に入るのはもういやだ、と思った。

ナースは「部屋で寝る努力はしてくれないかな」と私に言ったが、私は「今の間はうるさいのでストレスで戻りたくない」と拒否した。しかし10:20くらいに眠くなったので部屋に戻った。「じじいはもう静かになったのかな」とベッドに戻ったら、じじいはまた「あーう~あーう~」が始まった。

10:40にナースセンターに行って眠剤をもらう。結局11時すぎくらいまでうるさくて眠れなかった。12時前くらいにはじじいも寝たのか静かになった。

じじいはつらいのも(なんかよくわからんがよく痰がからんでる。一人で身体も動かせない)、昼間から寝てるので夜眠れないのもわかる。しかし少しは静かにしてくれんとこっちが眠れない。

結局私が寝たのは12時過ぎくらいだろうが、起きたら3時だった。7時間のうち3時間眠れれば、悪いほうではないか。

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・夜食堂で本読んでたら、別室のじいさんがきて、「寝れるか?俺もう3日寝てない」と言ってきた。「うまくいかないもんだねー」とも言ってた。翌朝じいさんに「眠れましたか?」と聞いたら「半分眠れた」そう。入院患者に不眠の人は結構多そう。とはいえ、薬の副作用で寝てばかりの人も多いけど。同室の2人はそう。

・今日は日曜でシーツ換え。女性看護師さんが、シーツを換えながら「このまま何もなく30才になるとかありえない(彼氏ができない、とかそういう話だろう)。28才以降の誕生日はお葬式と同じ」と愚痴ってた。不規則な仕事だからね。

・イスに座るのから離れると(離席すると)ブザーが鳴る「逆ブーブークッション」があって(離席すると危ないひと用)、さすが病院の設備はすごい。ナースセンターに近い部屋の入り口には、老人、車いす、重病人が配置されている。私も重病のときには部屋入り口の病床だった。

・N田さんと、将棋おばさんとオセロをやった。ともに1勝1敗。オセロやると頭のスイッチが入って読書欲が高まる。というか、オセロでも負けると悔しい。

・昼、「お宝鑑定団」がやってた。タイガーマスク全盛期(二冠のころ)のマスクが出て5、600万かと思ったら1000万円だった。すごい。

・夜、眠剤もらいに来る人(=不眠の人)は私含めて固定してるなぁ

 

5月14日

・昨夜はじじいも静かでよかった。ろくでもない夢を見たと思うが、3,4時間眠れた。

・今日の映画は「武士の一分」だった。

・オセロの女の子がナースセンターで大声出してた。やっぱ精神が不安定なのか?

・食堂の本棚に村上春樹の「多崎つくる」が。誰が買ったのかしらんが読みたかったので、やった。

・風呂入って、看護師さんと実習生が、どの科に入るか話していたので、「看護師はどの科が人気ですか?」ときいたら、「看護師は女子が多いから小児科が人気」とのこと。

・両親がお見舞いに来てくれた。いろいろ持ってきてくれて、ラジオまでそろう。久々にラジオをきく。しかし病室でカーテンを閉めると、電波が入らない?

・母とグラウンドの散歩をした。鬱なのかいつも廊下でぼーっと立ってるおじさんが妻子(可愛い女の子2人)とともに歩いてた。あんた妻子もちなのかい!ご家族もご本人も大変だ。

・将棋おばさんと、平手(後手)で将棋やって負けた。特別な指導(手のゆるめ)はしてなかったのだが。難しい将棋だった。しかし格下に平手で負けると悔しい…。

・将棋おばさんと寝る前に将棋指した。「夜ねれるか」という話になった。「鬱で副自律神経が出ずに、ずっと眠れない」らしい。たまに眠剤もらって1時間くらい眠れるらしい。おばさんは「眠れないから入院してるの」と言い、「眠れないだけで入院ならラクでいいな」ともひそかに思ったが、これは入院して治ってきたからであって、入院する前の鬱はつらかったろうな、と思った。

・将棋おばさんもラジオ好きなようで、文化放送が好きらしい。朝5時~7時の「おはよう寺ちゃん」が毒のあるキャスターのニュースで面白いから聞いてみて、と言われた。 朝起きれなかったのと、イヤホンが壊れていて聞けなかった。

 

ぼくの精神病院入院日記 続きます

第二十八回文学フリマ 編集後記&レポ

 

文学系同人誌即売会 第二十八回文学フリマ東京(5/6)に、 サークル文化系女子になりたい」で出展参加しました。

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ミニコミ文化系女子になりたい 駄目人間について考える号」を300円で、30部頒布できました。初の完売でした。買っていただけた皆さん、ブースに来て下さった皆さん、ありがとうございます!

「駄目人間割引」(駄目人間エピソードを披露してくれたら百円引き)というのをやったのだけど、なかなか好評でした。遅刻がすごい、月に何度かうんこもらす、小学生の時ランドセル忘れて登校したことがある、など微笑ましい(?)駄目エピソードの他、びっくりするようなエピソードを話してくれた方もいました(プライベートなことなのでここには書きませんが)。

文学フリマには、サークル参加して2年くらいなのですが、若干ながら固定ファンもついてくれたようでうれしいです。

それにしても サークル数700、来場者4000人いるだけあって、熱気のあるイベントですね。文学的な「同志」と出会える場で、色んな方の作品に出会えてお話しできるのは楽しいです。思った以上に皆、文学的感度が高い作品書いててすごいと思います。

ただし、金も時間も足りなくて全部回れないことは無念(でも5~6千円くらい買った)!もっと色んな方とお話したかったです。

ツイッターで事前にチェックしていたサークルさんの本はほとんど買えました。ただ、ツイッターで #文フリ東京 のハッシュタグをつけてなかったサークルさんは事前チェック漏れしてて、AV批評の面白そうな本出してるところがあったとか、帰ってから知ることもありました。

『夫のちんぽが入らない』のこだまさんサークルにも、限定300部頒布ということで絶対行こうと画策してたのですが、開始時にはすでに100人並んでたので、自信の出店でやるべきことも沢山あって買うことができませんでした。残念。

それから、できるだけ多くのサークルを回りたいので、同人誌も1500円くらいすると、「絶対に何が何でもほしい」作品でないと買うのを躊躇してしまいます。もちろん私も同人誌制作者なので、この値段である必然性があるのは(原価がそれだけかかっている)わかっているつもりなのですが。

同人誌は一期一会なので、そこらへんが悩ましいです。

それから、読んだ同人誌の感想はツイッターで読者さん当てにつぶやいています。

 

私が載せたエッセイは、カクヨムで読めますのでどうぞ。

両津勘吉になれなかった僕たちと、愛人が12人いるらしい2丁拳銃の小堀

平成で亡くなった遠藤ミチロウに捧ぐ

あと、無料配布用に文芸マンガを10P書いたのですが、これは後日載せます。

 

次回秋の文フリ東京(11/24)も参加予定ですので、ぜひお越しください。よろしくおねがいします。