岡崎京子『pink』を読む ~愛と資本主義の物語。この消費社会で、愛は勝つのか
今回は、岡崎京子『pink』を紹介したい。
89年というバブル景気の絶頂期に描かれた作品である。
岡崎京子は、『pink』あとがきにこう書いている。
これは東京という退屈な街で生まれ育ち「普通に」壊れてしまった女のこの”愛”と”資本主義”をめぐる冒険と日常のお話です。
「すべての仕事は売春である」とJ・L・G(ジャン=リュック・ゴダール)も言ってますが、私もそう思います。(略)
そしてすべての仕事は愛でもあります。愛、愛ね。
”愛”と”資本主義”をめぐる冒険と日常のお話とはどういうことだろうか。
あらすじを紹介したい。
~~~~あらすじ~~
主人公のユミは昼間はOL、夜はホテトル嬢の仕事をしている。ピンク色のバラが好きな女の子だが、実は部屋で大好きなワニを飼っており、ワニのえさ代を稼ぐために彼女はホテトル嬢の仕事をしているのだ。
ユミの実の母親はすでに亡くなっており、代わりに、父親の金を目当てに結婚した継母がいる。ユミは、継母のことは嫌っているが、継母と父親の間に生まれた義理の妹のケイコとは相性が良く、ケイコはたびたびユミの部屋へ遊びにやってくる。
ある日、ユミは継母が若い男を愛人として買っていることを知る。そのことに興味を抱いたユミは、その若い男のもとを訪ねた。そのハルヲという大学生とユミは仲良くなり、それからユミの世界のなかにハルヲが存在するようになる。
ユミはマンションの管理人にワニを飼っていることがばれ、最終的にユミは部屋を出ていかされる。そして、行くところのなくなったユミとワニはハルヲの下宿先で暮らすようになった。ユミはハルヲの部屋で寝食を共にし、二人は恋人関係のようになる。
しかし、結局その関係は継母にばれてしまう。
継母は、ユミを懲らしめるために、ユミがずっと大切にしてきたワニを殺すことにした。ハルヲの小説の完成を祝って(ハルヲは小説家志望である)ユミとハルヲが食事に出かけている間に、継母の差し向けた遣いによってワニは連れ去られた。
ワニがいなくなってからのユミは元気がなくなり、昼間の仕事にも集中できず、ハルヲといてもため息ばかりつくようになった。ある日、ユミは人ごみのなかである発作を起こし、しゃがみこんでしまう。「どうしてあたしはここにいるの?」、「どうしてここに立っているの?」など、頭の中はクエスチョンマークだらけになってユミはパニックになる(ユミがこれを「あの発作」と呼んでいることから、この状況はユミの身にたびたび起きているのだということがわかる)。
この状況になったあと、ユミはハルヲに南の島に行きたいと言い出す。幸いにも、ハルヲが書いた小説が大きな賞をとり賞金が入ることがわかったので、二人は本当に南の島に行くことになった。
ユミが南の島に行くための準備をしているときに、ある荷物が届く。開けてみると、そこにはワニ革でできたトランクが入っていた。同封されていた手紙を読んで、このトランクは自分が飼っていたワニでつくられたものであり、それは継母の仕業によるものだとユミは気付く。
ワニを殺した継母に復讐するために、ユミは継母のもとへと向かう。ユミはバットで継母を殴るのだが、最終的にはケイコに止められ、継母を殺すことはなく部屋を荒らしてユミはその場を立ち去る。帰ってからもしばらく怒りはおさまらないのだが、ユミはあっけらかんと立ち直る。
そして南の島に向かう出発日当日、ハルヲは取材を受けてから空港に行くということで、ユミは先に空港に着いてハルヲを待っていた。しかし、ハルヲは仕事を終えて空港に向かう途中に、スクープを狙う週刊誌のカメラマン達に追われ、彼らから逃げようと走っている際に交通事故に遭い、死んでしまう。
ハルヲがそんな事態になっているとも知らないユミは、幸せな気持ちに浸りながら「最上の幸福がやってくるのを待つきもちってこんなもんかな」と、ワニのバッグを持ってケイコと二人でハルヲを待っているのだった。
~~~~~
主人公のユミは、実にあっけらかんとした女性として描かれている。ユミはこの消費社会に生きる女の象徴である。「仕事つまんねーな」と思いつつ、「買いたいモノは何でも買う」ために売春の仕事までしている。
ここで大事なポイントが、ユミは消費社会に極限まで適合しているが、それによって必ずしも幸福にはみえないーーかといって不幸ではないーーという点であろう。
せいぜい「なんとなく愉快に過ごせる」程度のものだろう。いや、ユミからは消費の快楽へ対する倦怠感が伺えるといってもいい。
彼女の真の安らぎはペットのワニにあり、これが彼女にとっての幸福の象徴である。
ただし、この幸福の象徴であるワニは、ベラボウに飼育費がかかる(売春する必要すらあるほど)という点で、この消費社会がなければなりたたないということに留意する必要がある。
資本主義社会は、消費において幸福になるわけではない。しかし、幸福の為には消費(カネ)が必要である、ということだ。
清貧などクソ喰らえ、さすがバブル期のマンガであり、しかし消費社会万歳ではなく消費社会の実態がマンガの中に落とし込めていると思う。
次に、愛。
ユミにとっての愛の象徴として出てくるのが、ワニである。「幸福と愛の象徴」として登場するのがワニだ。
物語後半では、ユミはハルヲとたびたびセックスし、恋人関係になる。ワニの他に新たな愛の象徴として、ハルヲができた、といってもいい。
ただし、この作品に描かれるーーというよりも、ほとんどの岡崎作品で描かれるーー「愛」は、強い絆をもってなされる愛や、ドロドロと粘っこい愛とは違う。サバサバした関係の愛、とも違う。
「なんとなく楽しいセックスをしたら好きになっちゃった」みたいな感じの、どことなく小ざっぱりした、<浮遊した感覚のある関係性>である。
ただし、これは「安っぽい」とか「軽薄な」愛、という意味ではない。<浮遊した関係性>だからこそクールな「愛」なのである。
クールでありながら、(「深い」ではないかもしれないが)濃い愛(関係性)ということだ。これが岡崎京子の描く愛である。
(ちなみに岡崎京子が時代の寵児になったのは、ひとえにこの「クールな感じ」をひっさげてデビューし、この「クールさ」と作品における「陰鬱さ」が時代の最先端とマッチしたからだと私は思っている。)
そして物語は終盤に入り、ワニはカバンにされる。
幸福の象徴であるワニを喪失し、「私をカタチ作っていた<消費>行動」への倦怠感が剥き出しになりパニックになる。
最終盤にハルヲが死んでしまうが、ユミはこれを知ることがなく終わり、物語に余韻をもたらす。
さて、冗長であると思うが、この作品がもし、もう少し続くとするなら、どういう展開になるだろうか。ユミがハルヲの死を知ったらどうなるだろうか。ワニを皮鞄にされたときのように立ち直ることができるだろうか…。
私が思うに、ユミはひとしきり泣き悲しんだ後、またあっけらかんと立ち直ることができるのではないかと思う。
これは彼女が「立ち直りの早い」女だという以上に理由がある。
それはこの物語における愛の形が、<消費によっての代替性をもつもの>として描かれているような気がするからだ。
ユミにとってハルヲとの関係性(愛)は代替のきかないものであるはずである。しかしでも実は、この消費社会では、愛すら代替できるのではないだろうか。
なぜならユミにとって、「ハルヲがハルヲである必然性」が薄いからである。ハルヲとの関係が<浮遊した関係性>であるが故に、その関係が代替不可能であるという前提が薄いのだ。そしてそれはもしかしたら、この消費社会では愛は、別の消費によって代替できるのではないだろうか、と、これがこのマンガが描く余韻から伺える「”愛”と”資本主義”」なのではないかと私は感じる。
ただしそこには、「代替できるということは、ただの軽薄な愛だった」という諦観はない。愛は愛であり美しく、ただ、資本主義における愛の一つの形が示されただけにとどまる。
だから私は、この作品を「資本主義の中の愛の一つの限界ーー消費社会における愛の代替性」を描いた物語だと読む。
そしてこの諦観めいたテーマは、89年当時の感覚からしたら「非常にクールだった」のだと思う。
この物語が描かれた89年は、そしてこの作品から続く90年代前半は、こうした諦観を描く作品がひとつの最先端だった。
しかし90年代はオウム、阪神大震災、酒鬼薔薇事件やエヴァブームを経験し、「諦観を描くだけ」の作品はありふれたものになった。
本作『pink』は、今現代に読んでも色あせることはない。しかし現代を生きるための「新しい知恵」が描かれているわけでもない(30年前の作品なのだからそれが普通なのだけど)。
資本主義社会はいまだ克服されてなく、その意味においても「消費社会における愛の代替性」はいまだ変わらない。代替的な愛も代替不可能な愛もありえるだろう。
その中で、あえて「代替できない愛」を目指すかどうかは、我々の意志ひとつである。<了>
本日のマンガ名言:
「お母さんが良く言ってたわ シアワセじゃなきゃ死んだ方がましだって」
「お母さんは?」
「…そのとおりに死んだわ」