文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 ~地方で窒息するサブカル人と俺の上京

先月の読書会の交換本でもらって読んだ。「地方郊外のダルさ」を描いたファスト風土小説としてはてなでもかなり話題になったので、これは読みたいと思っていたのでうれしかった。

小説短編集・山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』

ここは退屈迎えに来て

ここは退屈迎えに来て

 

 いつもは、本の短い感想は読書メーターで書いているのだが、ながくなりそうなのでブログに書く。(読書メーターやっている方は、私をフォローしていただけるとうれしいです)

elk.bookmeter.com

結論から言うと、私にとって面白い短編は、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』だけであり、他の話は「まぁまぁ、こんなもんかな」という感想だった。小説全体としての得点は70点(個人的良作レベル)に届かない65点くらい…といったところか。

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この小説は、「地方都市郊外に住む女性が、何にもないーーいや、正確に言えば、何でもあるが、『私にアイデンティティを与えてくれるようなサブカルチャー』は絶望的にない<こんなところ>に退屈、鬱屈した女性たち」が主人公で、東京に憧れを募らせたまま窒息しそうな毎日を過ごしていたり、東京に「脱出」することで生き生きとした人生を歩むことができたり、あるいは逆に「地方郊外のサブカルチャーのない生活」に適応してのびのびと生きる様が書かれている。

そしてどの短編にも、主人公女性の知り合い、あるいはかつての同級生という形で、椎名一樹という男が出てくる。この椎名は中高時代はサッカーのエースで同級生のカリスマでリア充で、高卒後そのまま地元でサッカー選手になるけれど、クラブが不況で解散したことで、地元で自動車教習所の教官として働き出してそのまま結婚して、つまり「地元でそのまま<普通の>大人になった」人間である。

そしてこの椎名は、各短編の主人公女子がこの地方郊外に退屈、ないし鬱屈しているのに対し、椎名は「地方郊外に全く退屈していない人間」として書かれている。

何故椎名は退屈しないのか。それは、彼がサブカルチャーを必要としないタイプの、リア充だからである。彼の生活は平日は仕事をし、休日はテレビだかスタジアムだかでサッカーを見る。彼の人間性は、人間関係は誰とでも仲良くでき、自ら場を盛り上げることができるリア充だ。それで何の不満もないし充足している。そんなタイプの人間だ。

一方、各短編の主人公女子たちは、ここにはない、東京には「あるはずの」、自らの退屈を埋めてくれる何か、自らにアイデンティティを与えてくれる何らかーーそれは大体の場合、この地方都市では聴く人がいないであろう音楽であり、マイナーな映画であり、東京にしかないファッションブランドであり、要は「ここにはない」サブカルチャーだーーと、それを「私に接続させてくれる」他者(友人や男)を心底から希求している。

彼女たちは「サブカルチャーを必要とする、リア充ではない」人間だ。あるいはリア充気質であっても、「サブカルチャーをコミュニケーション媒介とするためにサブカルチャーを必要とする」人間である。だからサブカルチャーのない地方都市では退屈し、窒息するしかない。

話は少しとぶが、面白いことに、そんな主人公女子のひとりが、椎名と結婚したことで、椎名に感化されて「地方都市で退屈しない地方都市に適応したリア充」になってしまう話がある(短編『やがて哀しき女の子』)。椎名スゴイ奴だな(笑)

さて、この小説の概要を述べたので、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』のあらすじと感想(考察ではない)を。

~~~あらすじ~~

主人公女子は、上京→地元にUターンしたライター。須田という同じく地元にUターン経験者の、サブカル好きなカメラマン須田と仕事をしている。「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」と言う須田に、「いい歳こいて」と呆れているが、一方で「須田は自分と同類の人間だ」とも思っている。

かつて同級生だった椎名と再会し、「自分の青春は、椎名とゲーセンで遊んだあの瞬間だけだった」ことを思い出すが、今や地方になじみ普通のおっさんになってしまった椎名に軽く失望している。

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私は非常に共感してしまった。何せ私自身が高校時代に、地元には「特別なカルチャー」がないことに窒息し、とにかく上京するためだけに東京の大学に行き、大卒後はUターンして地元に帰ってきた人間だからだ。地元といっても埼玉だから東京都心には2時間あれば通えるのだが、今は埼玉の「16号化した風景」ファスト風土の中で暮らしている。

須田の「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」という言葉は私も同じで、私は「俺の魂は下北沢に置いてきた」と思っているくらいだ(笑)

須田の「こっち戻ってから、カラオケで何回EXILE聴かされたと思ってるんだよ」という台詞にも「地方あるある」な感じがして笑ってしまった。私はカラオケ行かないし、そもそもEXILE聴く人間とは絶対に友達にならないけど(笑

私は埼玉の郊外育ちなので、地方都市のどんよりした窒息感というのを知らない。いや、正確に言うと少しだけ体験したことがある。

大学のサークルで、茨城の水戸市に合宿に行ったことがある。水戸から近くの海に行って、その帰りに水戸市の中心街に寄った。そこは16号的な風景で、つまり没個性的な街だった。中心街にどんと構えるイオンなんかはどこでも行けるから、と、中心街から少し歩いて、なにか面白そうな店を探したが、サブカルチャー的な店は、潰れかけたオシャレ服屋と、ちょっと気の利いたマンガの置いてあるマンガ喫茶兼レストランだけしかなかった。そのレストランで鯨カツを食べ、手塚治虫どろろ』を読んだ。「たぶんここが、水戸で一番最先端で面白い場所なんだね」と友達と話しながら。そして「もしこの町で一生を過ごすことになったら、俺は窒息死するだろうなぁ」と思った。

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(検索してみたら、たしかにこの場所に見覚えがある風景を発見。懐かしい)

 ……さて、この短編からは少し脱線するが、サブカル好きは上京すればこの窒息から逃れられるのか? ということを私の少ない体験から少し述べてみたい。

その答えは「上京したからと言って、必ずしもやりたいことができるわけではない」という身も蓋もない答えだ。

サブカルチャーのある街なんて、都心(新宿)から電車15分圏くらいにしかないし、人によっては、今や(九十年代中ごろ以降)渋谷ですら「特別な街」ではなく、16号化した地元の街と同じような(人がやけに多いだけの)個性のない郊外的な街でしかない。

(渋谷の郊外化は宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』に詳しく載っている)

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

 地方から上京するということはほとんどの場合一人暮らしするということで、つまりある程度、家事労働に時間をとられる。自由な時間は期待していたほどない。

東京でやりたいことができないと、東京は人が多い分日々に疲れるし、「東京ですらできないのか」という絶望は地方にいるときよりもずっと辛い。これは私が上京直後に感じた挫折でもあった。ーー上京したからってサブカルチャー漬けの毎日を送れるわけじゃないのか、と。

しかし、「東京(都心)でしかできないこと」というのは間違いなく存在する。

消費活動ーーモノの購入は地方にいてもネットがあればできる。しかし「対面のリアルな」体験やイベントは都心にしかない。作家やクリエイターのトークショー、ワークショップ、そしてそれを通しての、自分と趣味趣向の合う人との出会いは、都心部にいなければコミットできないのだ。

そこにコミットできないのが、地方住みのサブカル人間が窒息する原因だと私は思っている。

さて、話を短編の方に戻す。

ラーメン屋に入った二人は、店にラーメン店主が綴った「地元サイコー!」「東京なんかクソくらえ!」「愛する地元のお前らにラーメン食わせてやるぜ!」とラップ調のポエムが貼られていることに気付く。(相田みつおの「人間だもの」カレンダーがトイレに貼ってある、というのは地方居酒屋あるあるなのだが、こんなヤンキーセンスに溢れた、センスのないラーメン屋というのは、本当に地方に実在するのだろうか(苦笑)。あったとして、客来なくなって潰れたりしないのだろうか?)

しかもあろうことか、二人は店主にポエムのアンサーポエムを求められてしまう。

須田さんは即興でこんなアンサーポエムを書く。

Yo! Yo! 楽しそうでなによりだNa!

俺は東京行ったさ文句あっか!?

ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ

あらかじめ失われた居場所探して、十年さすらった東京砂漠

そうさ俺は腹を空かせた名もなきカメラマン

いまだ彷徨う魂、高円寺の路地裏に残し

のこのこ帰ってきたぜ! ラーメン食いに帰ってきたぜ!

だからラーメン食わせろ!! 今すぐ俺にラーメン食わせろ!!

ここで 物語は終わる。

ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ」 これに似た気持ちは、私の中に常にある。私も地元に帰って「しまった」人間だからだ。たぶんUターン経験者は多かれ少なかれ持っている気持ちなのではないかと思う。

だから私はこの物語が胸に刺さり、同時に主人公たちを愛おしく思うのである。<了>

 

追記)『ここは退屈迎えに来て』 文庫版の解説

p-shirokuma.hatenadiary.com

地方に鬱屈している少年たちを描いたマンガ、押見修造惡の華』論

akihiko810.hatenablog.com