文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

シガテラ コミック 全6巻 完結セット (ヤンマガKC (1361))
 

今回紹介するのは、古谷実シガテラ』。古谷実の商業誌連載第5作目であり、

「笑いの時代は終わりました…。これより、不道徳の時間を始めます」のキャッチコピーと共に、これまでのギャグ路線からサスペンスホラー日常ものへと大きく作風を転換させた傑作ヒミズの次に描かれた作品。

新装版 ヒミズ 上 (KCデラックス ヤングマガジン)

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シガテラとは、毒素に汚染された魚を摂取することで発生する食中毒のこと。 『シガテラ』のキャッチコピー「青春17遁走曲(フーガ)」、遁走曲(主旋律を後続の旋律が追いかけていく)のごとく、主人公の日常に、毒に汚染されたかのような非日常の影が、次々と追いかけてきて絡み合っていく。

 『シガテラ』を一読しての感想は「『ヒミズ』よりはわかりやすい」だった(だって『ヒミズ』ってわかりにくいんだもん 苦笑)

この漫画今友人に貸していて手元にないので、記憶をもとに書く。細部は間違っているかもしれないが(おい)、『シガテラ』の主軸となるあらすじはこう

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 平凡な高校生荻野の日常は、学校で同学年の谷脇にいじめられている。そんな現実から逃れるように、同じくいじめられている友人高井とバイクの免許を取ろうとする。教習所で知り合った一つ年上の女子高校生南雲さんと知り合い、付き合うことになる。しかし、とても可愛く頭がいい南雲さんと自分が不釣合いでは無いかと不安を抱く。

そんな中、高井は学校を辞めてしまう。親の事業が失敗したらしい。高井は荻野との別れ際「俺がいじめられてたのは、そもそもお前が谷脇に俺を紹介したからじゃないのか?」という。

 荻野はなぜかあっさりといじめから解放される。プライベートでは南雲さんと初セックスする。

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 高井は「森の狼」と名乗る頭のイカレた男とつきあっていた。谷脇に復讐したいと依頼したのだ。森の狼は谷脇を拉致、両耳を削ぐなどの拷問を行う。高井は良心の呵責から恐ろしくなって、森の狼に内緒で谷脇を解放した。

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 谷脇は学校を辞める。荻野に平穏な日常が訪れた。荻野はクラスの斉藤と仲良くなる。斉藤は萩野がなくした携帯を拾い、そこに保存されていた南雲さんのアソコの画像を見てしまう。南雲さんが頭から離れない斉藤、なりゆきで友人と南雲さんを強姦しようとするが未遂に終わる。酔って眠っていた南雲さんはそれに気づかなかったが…。

 南雲さんは一流の大学に進学、荻野は将来の不安を抱え、果たして自分は南雲さんを幸せにできるかと言う不安に包まれる。自分の夢は…本当はバイクのレーサーになりたいが、それは無理だろう。ならば大学に入って会社に入って、南雲さんと結婚してマイホームのローンを組んで、消耗しながら働く日々を過ごし、定年したときに「俺は消耗しきったぞ!」と言えるようなごくごく普通の生活を手に入れたいと言う。

 しかし 荻野は再び…「毒のような非日常」にまた飲まれる。

 荻野と谷脇が再会する。どうやら谷脇はヤクザの下っ端になったらしい。「ビビった彼女に、拳銃を川に捨てられたから」と、 荻野はなりゆきで谷脇と川で拳銃を探すことになってしまった。そのとき、谷脇はヤクザに拉致られ、荻野も巻き添えを受けて拉致されてしまう。しかしすんでのところで二人は解放されて助かった。

興奮した荻野は叫ぶ「ぜんぶ谷脇のせいだ! おまえが悪いんだ、僕をこんなふうにしたのはおまえだ!」

すると谷脇はこう返す「それはお互い様だろ?」。お前に会わなければ高野にも会わなかったし、俺はこうしてヤクザになることもなかった、と。 

 荻野は気づく。自分は、自分が関わる人を不幸にしているのではないか…

  再び南雲さんとの日常に戻る。しかし自分は南雲さんを幸せにできるのか…僕といると不幸にさせてしまうのではないか… そんな荻野はひとつの決断をする。

「不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」

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  そして荻野はーー大人になった。大学を出て就職した。 

「荻野優介は変わった 大人になって強くなった がんばって 望んでそうなった」「不安定の固まりだった僕はもういない 僕は つまらない奴になった」

南雲さんは妊娠している…しかしそれは、萩野の子ではない。

荻野は別の女性と付き合っている。両親に婚約報告するつもりだ。

萩野は思い出したように、婚約者の女性に、バイクをーーかつて高校生の時に憧れていたヤツだーー買いたいと懇願する。そして最後、彼女に「愛してるよ」と言って物語は終わる。

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 この作品は一貫して、「毒に侵された日常を生きる」ことがテーマになっている。

物語の始め、いじめられていた萩野の日常はまさしく「微妙に毒に侵された」ものであった。南雲さんと付き合ってからの日常も表面上は楽しいものであるが、その裏には「僕は彼女と幸せになれるのか?」という不安が必ず付きまとっていた。

とはいえ、翻ってみれば我々の青春も、おそらくはこんなものだっただろう。毎日はとりあえず楽しい(かもしれない)けど根本的には退屈だったし、これからの先の長い人生の不透明さを思っては憂鬱になったはずだ。

これは「思春期特有の自意識」といったものに絡め取られた人間がみる「日常」だ。

シガテラ』ではこのような 日常を「顕在化してないが、実は毒をはらんだもの」として描く。

そしてその日常の裏から「暴力をはらんだ、猛毒を帯びた非日常」が主人公萩野を追いかけくる、という構図になっている。

作品を通して提示された『シガテラ』の背骨は「日常とは顕在化しない毒であり、非日常とは顕在化した猛毒である」ということだ。

ただし注意してほしい。この根幹である「日常、非日常という毒」とは<世界のありよう>である。事実、ありさまのことだ。

その<世界のありよう>を、我々は作品においてそのまま見ることができるかというと、そうではない。なぜなら読者は、萩野の日常描写を、萩野の「自意識」というフィルターを通して読まなければならないからだ。

荻野は、無力感や劣等感を抱えるがゆえに、「思春期的な自意識」から逃れることができない。だから<世界のありよう(=日常、あるいは非日常という毒)>を「思春期的な自意識」によってとらえているのだ。

だから萩野は、無力感や劣等感から来る過剰な自意識があるがゆえに、自分は毒を振りまいて周りの人間を不幸にするのではないかと悩んだ。

これは、<世界のありよう>を理解するのに、「自意識」というフィルターを通して理解しようとしたゆえの悲劇、あるいは誤解だといえる。

たとえ事実として萩野が周りを不幸にさせる一因だったとしても、それが一因でしかない以上、萩野の「自意識」がなければーー「世界は残酷だ」。この一言ですんだであろう。

 つまり『シガテラ』は、表面上は萩野の人間関係とその「自我(自意識)」を描いているが、それに加えて執拗に「萩野を追いかける非日常」を挿入することによって、作品そのものが描こうとしているのは「自我(=萩野の不安定さ)」ではなく、<世界のありよう(=世界は残酷だ)>なのだとわかる構図になっているのだ。

さらにいえば、<世界のありよう>を描きながらその上に萩野の自意識を描くことが、この作品に奥行きを与えている。

萩野は自意識ゆえに悩んだが、また逆に自意識があるからこそ感動的なことに、「不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」と、愛する人を死ぬ気で大切にしたいと、世界で一番美しい勘違いを本気で思うことができた。この場面は思春期的な自意識がなせる、文学的な場面だと思う。

しかしこの作品はここで終わらない。

 

シガテラ』が優秀なのは、そこで終わらずにさらに「思春期的自意識からの転換」が描かれていることだろう。

最終話、萩野は大人になる。萩野は強くなった。強くなろうとして、「思春期的な自意識」を捨てた…それが大人になるために、強くなるために必要だったからだ。

過剰な自意識を捨てた萩野は、強くなった。かわりに「僕はつまらない奴になった」。なぜか。

「自意識」というフィルターをなくしたことで、<世界のありよう>=「世界の残酷さ」が剥き出しになったからだ。「日常」ーー毒に侵されてはいるが、それが顕在化されてないーーという毒の中を生きるということを、曇りのない眼で諦観(たいかん)しなければならなくなったのだ。

簡単にいえば、日常を日常として生きざるをえなくなった…夢や希望を含んだ可能性を、断念しなければならなかった。そして、人生において「失いながら生きる」ということに、耐えなければならなくなったのだ。

だから萩野は大人になった今は、かつてのように「君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」と叫ぶことはできない。それは不可能だと理解しているから。

 萩野がこの物語の後にこれから生きていく日常は、どのようなものかはわからない。ごくごく普通の(世間的には)幸せな家庭を築くーーつまり毒が顕在化されてない日常だーーかもしれないし、もしかしたら不意に、暴力的な非日常に晒されることもあるのかもしれない。

それでも彼は、そして我々も、この日常を、この残酷な世界を生きていかなければならない。

それは絶望なのだろうか?ーーあるいはそこに細やかな希望はあるのだろうか? ラストシーンからその答えを出してみたい。

 

萩野は憧れのバイクがほしいと彼女に懇願した。大人になった萩野は、たまにバイクに乗るときにかつての自分を思い出すだろう。「思春期的な自意識」の自分…不安定で弱くて、それでいて純粋だった自分を。

彼が最後に、彼女に「愛している」と言った言葉は、かつて南雲さんに叫んだように恥ずかしいほど熱い言葉ではなかった。ではなかったが、大人になったからこそ、失った者だからこそ言えるその言葉は、地に足のついたーーそして一抹の不安をおびたーー心の底から誠実な「愛してる」なのだ。

「愛してる」と言った萩野が見るのは、絶望を越えた先に光る(絶望の中だからこそ光る)、細やかな希望なのだと私は思う。      <了>

 

本日のマンガ名言:不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!

追記

『ヒミズ』『シガテラ』『ヒメアノ~ル』 古谷実 - 作家・長谷川善哉のブログ

シガテラを中心に古谷作品を解説してて面白いです