文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

映画の興行収入と利益についての忘備録 吉田正樹「メディアのリアル」

吉田正樹「メディアのリアル」という対談本に、映画プロデューサ-の小滝祥平(映画『ホワイトアウト』のプロデューサー)との対談で、

メディアのリアル

メディアのリアル

 

 映画の興行収入の話があったのでメモ。

だいたいの計算方法が以下だという。

 

興行収入(劇場にきた客数×チケット枚数の代金)が10億円とする。

このうち半分の5億円が劇場の取り分 (残り5億)

宣伝費などがざっくり2億円

配給会社に手数料で20~30%払う (ここで手元に残るのが2億円)

DVDやTVの放映権の収益が(仮に)5千万あるとすると、

手元に残るのが2億5千万円で「製作費回収+純利益」。

つまり2億5千万円の予算の映画は興行収入10億円でやっと回収できる

製作費のだいたい4倍の興行収入でトントン、というのが目安か。なかなかに厳しい数字だろう。

また、同本の対談の本広克行(『踊る大捜査線』の監督)によると、

通常の監督料(シナリオ、演出含む)が「三谷幸喜レベルで」500万円 とのこと。

ただし、本広は映画「踊る~」のときは、「固定ギャラの代わりに純利益の何%かをくれ」という特殊な形にして儲けたとのこと。当時は日本映画が冷え込んでいて、映画もそれほど当たるとは予測されなかったのでこれが通ったそうな。

一流監督(さすがに三谷レベルのヒットメーカーは日本にそういないだろう)のギャラが500万じゃ安いな。しかも振込は一年後だという。監督業だけじゃ食えないから、講演やワークショップで食いつなぐしかない。

 是枝裕和のインタビューでも同じことが書いてあった。

 「映画を撮りながら考えたこと」より

映画を撮りながら考えたこと

映画を撮りながら考えたこと

 

forbesjapan.com

実際のところ、劇場だけで回収できている映画は1割くらいか、それより少ないはず。テレビ局資本のものを除けば、劇場だけで回収できているのは3%くらいではないかと思います。

 ビジネスとしては博奕だよなぁ…と思った次第。だからといって「手堅い」どこかで観たことあるような作品ばかりなのは嫌なので、いい作品を作るためにがんばってもらいたい。(と無難にまとめる)

プロレス雑誌「KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 /ブル中野座談会が面白い

先日書店で、プロレス雑誌KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 を立ち読みしたのだが、滅茶苦茶面白かった。思わず一時間以上立ち読みしてしまった(だったら買えよなのだが、そこまで金ないのだ…)。

あまりにも面白かったので、忘備録もかねて、覚えている範囲で少し紹介。プロレスにあまり詳しくない人向け。そもそも私はプロレス雑誌読むだけ(試合は特に見ない)のニワカオタクなのでご了承を。

KAMINOGE vol.57

KAMINOGE vol.57

 

 まずは、前田日明スーパー・ササダンゴ・マシンの対談。(表紙のふたり)

ササダンゴ・マシンといえば、DDTプロレスの煽りパワポ、プレゼンレスラーとして有名。最近テレビにもちょくちょく出てる。

logmi.jp

ササの中身は「お前平田だろ!」の平田ではなく(これは本家、スーパー・ストロング・マシン)、今や伝説のプロレス団体マッスル(お笑い色の強い、というか小劇場系の演劇をとりいれたようなパフォーマンスで、「プロレスを考えるプロレス」を掲げていた)の主催者だったマッスル坂井

テレビ番組「水曜日のダウンタウン」でササが「私のプレゼンはこちら!プロレス界で一番滑舌が悪いのは、実は前田日明」と、「滑舌悪いレスラー」の代表格である長州や天龍を押しのけて推薦したところ、ドッキリで前田本人が降臨し、ササダンゴを頭突きで制裁したらしい。その縁で二人の対談になったという。

前田がササに「(お前の煽りパワポの)DVDみたけどオチないじゃん」などと先制攻撃を仕掛け、ササはたじたじ。前田はササにくらわせた頭突きのことも「あれは音だけの奴だからそんなでもないよ。俺、たぶん頭突きはレスラーの中で一番うまい。痛いやつは額(ひたい)の正中線にやるんだよ。昔サイン求めてきたファンに頭突きしたら、膝から崩れ落ちたからね」とかます(笑)

前田はササを気に入ったようで「お前はもっとシモネタ磨けよ。俺は海外遠征したときに、向こうの人気レスラーが人気と下ネタ駆使して女抱きまくってたのから学んだもん。リングス時代(前田はリングスという総合格闘技団体を創設し、レスラー兼最高責任者をし、興行のプロモートも自身で行っていた)は、まず外人レスラーに下ネタで心つかんでから『日本で試合やればオンナとできるぜ!』と口説いて、団体に引き抜いてたんだから」と豪快なアドバイス。

ササが実家の会社の金型の話をすると(ササは実家の医療系金型会社の専務であり、兼業レスラー)、「今は金型も金属だけじゃなくて色々素材かえてるじゃん、セラミックスとか」と、ササが関心するほどなぜか金型に詳しい前田もみれる。「人件費安いからアジアに進出しなよ。ベトナムとか。日本人はモテるから」と会社経営にまでアドバイスするのは、さすが経営者。

そしてもうひとつ個人的に面白かったのが、全女(全日本女子プロレス)の女帝・ブル中野の座談会。ブルが経営するバー「中野のぶるちゃん」で、浅草キッドの玉袋ともうひとりプロレスライターで飲みながら、ブルの全女時代の昔話。

f:id:akihiko810:20160913023749j:plain 極悪同盟初期のブル

全女はやはり厳しい所で、よくも悪くもの「悪くも」の体育会系だったらしく、かなり苦労したようだ。

デビュー前の身分でありながら会長から直接指導をうけてたので、技はかなり上のレベルだった。前座試合なのに先輩たちが使う技を使ってたので(それがご法度だとは知らなかった)、先輩方からいじめやリンチされた。

新人時代は食べて体を大きくしなければいけないが、先輩の世話や興行の準備に追われて食べる時間が全くなく、移動バスのなかで隠れてゴミ箱から漁った先輩たちの残飯食ってた。

などの苦労話も相当に面白かったのだが、

やっとレスラーとして独り立ちできると思ったら、会社からヒール転向を告げられ、泣くほどショックだった。当時のヒールは日本社会の全員に嫌われることと同じで、シャバを捨てるのといっしょだったから。(これは本当にそうで、女子プロの「ヒールで人気」というのが確立したのは、もう少しのちの極悪同盟がプロレス以外でテレビに出だした頃、と私は認識してる。まぁ、「ヒール人気」は普通の人気とは意味合いが違うのだが…)

当時ファンの男とつきあってたが、ヒール転向したらその彼氏が別の女子レスラーにのりかえてしまった。

全女はタイトル戦でもピストル(シュートのこと。結果の決まったアングルではなくガチの試合)だった。さすがにアイドル人気が凄いクラッシュギャルズは負けさせるわけにはいかないのでプロレスだった。

全女の社長が、選手をひとりひとり部屋に呼び出して「あいつ(対戦相手やライバル)はお前の事嫌ってるぞ。お前を潰そうとしてる」と嘘を言って煽ってた。みんな十代でプロレス業界に入った世間知らずの女子なので、本気でそれを信じてた。だから相手の事が本気で憎くてそれが試合に出てた。

30歳前になると、どんなトリを張ってたトップスターでも露骨に第2試合に組まれて2軍扱いされる。後輩からも冷ややかな視線で見られ、否応なく引退のレール(空気)がひかれる。だからダンプなどのトップレスラーはその前に全女を離脱した。私が初めて、全女でその「定年」にひっかかることなく全女でトップを走った。

など、全女裏話が滅茶苦茶に面白かった。

そしてこの座談会読んで何より驚いたのが、ブル中野が今現在、現役の時からは信じられない美熟女だということ。これは知らんかった。

f:id:akihiko810:20160913033003j:plain お店のブログより

とそういうわけで、プロレス好きはもとより、「プロレス知らないけど何か面白いもの読みたい」という人にも、この「KAMINOGE」はぜひ買って読んでもらいたい。もちろんまずはお前が買えよ、という話なのだけど(苦笑)

あと機会があったら「中野のぶるちゃん」行ってみたいと思った。酒飲めないけど…  <了>

短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました(友人が)。 その2

前記事の続き。  

短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が - 文芸的な、あまりに文芸的な

さて、私が見せてもらって特に好きだな、うまいなと思った歌は、

作業着に集まる無数の小豆たち どんなに美しかろうと死は死

まるで毒でも入っているかのようにコロネのチョコを除いて食べる

「10年後、私なにしてるんでしょう」桜餅の葉は水気を無くし

3Dプリンターから出た風が桶屋を儲けさせていた過去

だろうか。

1と3は、死をみつめながら、餡子を味わっているような感じ、「餡と死」という対比がいい。

2と4のコロネと3Dプリンターの歌は、雑誌に掲載された15首に入る。仕事中に動いている3Dプリンターを見て、「この風が桶屋を儲けさせていたのか」とふと思ったような「ふとした瞬間にする飛躍した発想」を歌っているように感じて面白い。

2のコロネの歌は穂村が「作者は、餡子がよきもので、対比としてチョコを毒としてとらえているのかな」と。

一方、選考委員から評価の高かった歌は

飛び降りるのかと思って見ていたがそれは飛び立ったような気がして

(遺影用トレースをする残業をする人が食べる)どら焼きふたつ

世界は終わるものではなく要らなくなるものだ そこらじゅうみんな餡精製所

だった。

餡というノスタルジーの中に死の匂いのする歌だ。

特に3の「そこらじゅうみんな餡精製所」は、「世界が<みんな餡精製所>になれば、世界からは差異がなくなり、そこに意味はなくなるのだ」というような選者の評があって、作者本人が「そこまで深く考えて作ったのではないというか、よくそこまで深読みして言葉にして批評してくれて驚いた」と舌を巻いていた。

選者の方々はさすがプロの歌人なだけあって、作者の手から離れた短歌を作品として「深読み」し、素人ではわからない(なんとなく感じるが言葉にならない)指摘をくれるものだと思った。

あと、今回の新人賞受賞を最終選考通過作以上をみてみると、たぶん6、7割くらいは30代以下の若い応募者だったと思う。あとは40代。新人賞を受賞したのも大学生(女子)と若かった。

現代短歌は本当に若い人の市場なんだなぁと思った次第。ツイッターとか投稿サイトとかあるから、入口は入りやすいのだな、と。

今回の友人の受賞に触発されて、私も短歌はじめてみるかなぁ…と半分以上本気で思ったりもした。

でもマンガ読んだり将棋指したり、やりたいことがたくさんあって決められないわ…と一人ごちる私だった。

 

 

あと最後に告知。次回の文学フリマ東京(11月の祝日)、前回5月と同じくサークル参加するかも。

ただ、文フリの学祭的なお祭り雰囲気は凄く楽しかったのだけど、また新しくいろいろ記事書いてミニコミ作るのははっきり言ってめんどい。忙しいし。

まぁ仮申し込みはしてあるので、お金振り込むかどうかはまた決めなければ。

鋭意的に同人誌作ってるひとのタフネスがうらやましい。同人制作が趣味な人は、他にマンガや本読んだりすることにどれだけ時間とエネルギー使ってるのだろうか?やはり一番、同人誌作りにエネルギー割いているのだろうか?

我々は本読む方が一番の趣味だから、記事書いたりいろいろとめんどいことは後回しになる…

趣味の場を広げるために、月1の読書倶楽部にも入会したし

短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が

私の友人が短歌雑誌「短歌研究」の新人賞で候補作を受賞した。新人賞(1名)、次作に次ぐ銅メダルで、応募500人のうちの8人くらいに残り、雑誌で選考歌人に1P半の選評が載せられた。これは快挙だ。

短歌研究 2016年 09 月号 [雑誌]

短歌研究 2016年 09 月号 [雑誌]

 

応募した友人は、私と前回文学フリマに参加して短歌パートを担当した。

文芸同人誌『文化系女子になりたい』編集後記

 「短歌研究」の方には応募した30首(連作)のうち15首掲載されたのだが(新人賞受賞者1名だけが30首掲載された)、その応募した30首を本人の了承を得てここに公開する。

タイトルは『an』。 あんこに関連した連作だ。

f:id:akihiko810:20160909015958p:plain

f:id:akihiko810:20160909020021p:plain

 f:id:akihiko810:20160909020201p:plain

選考では、加藤治郎という歌人(歌誌「未来」の選者らしい)が推してくださったようだ。

f:id:akihiko810:20160909022454p:plain

『an』というタイトルからは容易に連想できない、製餡所という「現代」とは逆行しているが、しかし確実に町のどこかに存在している「甘くて懐かしい」存在をテーマにしたことがうけたらしい。

私の(作者である友人も)好きな歌人穂村弘も選考者だったが、「僕は特に好きじゃないな」とか書いていたので、少し残念だった(苦笑) 

…と、この項まだ書きたいがブログ文字数がいっぱいになってしまった。次回は、連作の中からいくつかとりあげて私の評価、そして選評委員からどう評価されたかの解説をしたい。次回に続く

夏目三久アナと有吉熱愛、そして私の大学時代

怒り新党」で共演していた夏目三久アナと有吉の熱愛報道が出た。

夏目三久アナと有吉熱愛!すでに妊娠 番組きっかけ - 結婚・熱愛 : 日刊スポーツ

私がそのとき思ったのは「結局有吉かよ」であり、「あれから何年たったのか」であり、「でも大江アナがどっかの会社社長のおっさんと結婚発表したときよりはダメージがない」であった。

「あれから何年たったのか」のアレとは夏目オリジナル事件の事である。私はこの時感じたことをブログにしたためていたので覚えていたのだ。

記事を書いたのは2009年の7月20日。8年も前か。

 

当時私が書いた記事を全文引用してみる。

■[TVとか] 夏目アナは、マグロではない。

ちっと遅いが、日テレ夏目アナのコンドーム写真流出の件

日テレ清純派…夏目アナ、男と「コンドーム写真流出」 写真誌報道で局内外に波紋 芸能:ZAKZAK

 私は女子アナが好きだ。というのは女子アナというのはテレビに映る存在でありながらテレビタレントとはどこか違う、どこが違うのと言われてもそれは分からんけど、常に緊張をしいられる立場ではないところの無邪気さ?なのかは知らんけど、彼女たちがふと瞬間的に無防備・無邪気な姿をさらす、仕事場ではないところの素顔を見せる、たとえば原稿を読んでない、番組の中の隙間みたいな時間にふと見せるデレっとした笑顔やなんかえろい話題に対して反応しちゃうところ、みたいな天然さがキュートだからだ。

女子アナ(=知性のある)彼女たちがときおり見せる「でもわたし、ホントはちょっとおバカなの、てへっ。」という笑顔から覗く人間的な擦れてなさ(つまり「てへっ。」の部分)に萌えるのだ。

その代表的な存在をあげると、TBS青木裕子(通称セックスちゃん)、テレ朝大木ちゃん(大木優希)、テレ東の大江ちゃん(大江麻理子)じゃないだろうか。天然でエロの話題にうまく反応してくれて、深夜バラエティで活躍できる面々だ。

ちなみに世間的人気女子アナといわれるアヤパン・なかみー両名が見せる「てへっ。」は人工的模造「てへっ。」なので、微塵も萌えない。

 で、話を戻して日テレの夏目三久アナ。彼女は清純派といわれるが、実はかなりの「てへっ。」なアナではなかろうか。

周知のとおり、彼女は昼の情報番組「おもいッきりDON!」で中山秀ちゃんと共に、「マグロ」という一言コーナーをもっていて、タイトルコールでヒデちゃんやゲストが似てもいない(そして面白くもない)渡哲也のものまねをする。もちろんそこで言うマグロは、「マグロ女と桃尻男」のように夜の営みを連想させるわけで、秀ちゃんは当然のごとく夏目アナに対して「きみはマグロなんだよね?」といじる。秀ちゃんのくせに。

きみはまぐろなんだよね?

違う。夏目アナはまぐろはない。断じて。

 ~~~~~~~

「これ」 夏目はベッドの上で、スキンを片手に微笑む。「つけて」 つけて、の「て」にアクセントを置いた笑顔が、どこか物憂げで可愛い。僕はそれを受け入れる。

僕のペニスにスキンをかぶせながら、夏目はささやく。「こういうことは大事にしたいから」 僕は答える。そうだね。避妊はきちんとしないと。 

僕は何の気なしに答えたのだが、夏目は違った。 夏目は寂しげに、そっと目を閉じて言った。「いいえちがうわ。そうじゃないの。…距離。ふたりの距離のこと」 僕のペニスをしごきながら、夏目が続ける。「どんなに愛し合っても、人はひとつにはなれないでしょう。私はあなたにはなれないし、あなたは私にもなれない。恋人同士がひとつになれるなんて勘違いだわ、ふたりの他人がふたりのままいるだけ。あなたはあなた。私は私。決して完全につながり合うことはないわ。だからあなたとの距離は忘れたくないの」 夏目はつぶやく。あなたはあなた。私は私。私はまぐろ――

このスキンの0.02mm、それが私とあなたの距離。越えることのできない膜の壁よ」

夏目は僕のペニスを秘所へと導く。気持ちいい。 恍惚として薄れ行く意識の中で僕は思う。 それは違うよ、そんなのは関係ない。本当のひとつになんかならなくてもいいし、壁を越える必要もない。僕たちが愛し合うことは間違っていないし、この愛は本物だ。僕は秀ちゃんじゃないし、君はマグロでもない。そして僕たちはオカモトではない。二人の距離は、限りなくゼロなんだ。僕たち二人の間には、極うすしか存在しない。

 そんな妄想、そして夜のおかず。 <了>

 

ちょっと、というかかなりポエムってる。当時は(というか今でもそうだが)、どことなく文学的情緒のあるエッセイを書きたくてこんな文体でいくつか文章を書いていた。

こんな夏目アナの文を書いた動機は、スキャンダルに巻き込まれた夏目アナを不憫に思ったからであり、またコンドーム流出というこの事象を面白がったからであり、夏目アナに自分なりのエールを送りたかったからであり、そんなこんなの湧き上がった感情というか妄想を書き留めておきたかったからだろう。

もしかしたら当時私は、夏目アナの事をそんなに知らなかったかもしれない。私が夏目アナに好感を持ち始めたのはーー時は流れ夏目アナはフリーになり、「怒り新党」でその黒髪ショートカットの清楚さで視聴者を(というか私を)虜にしたからだった。

そういえば。今、一つ思い出した。

 

私は大学生の時分、大学に通うのが心底嫌で、大学のカウンセリング室に通っていた。大学で行われる授業には何の興味もなかった。将来の見通しもなかった。私の周りにいる凡庸な生徒たちも、そして凡庸な私自身も、私は大嫌いだった。ただ大学に通うのがーーいや、生きていることそのものがーー憂鬱で仕方なかった。

私を担当してくれたカウンセラーの先生は美人な女性だった。私は週に一回、その先生と会話することだけが唯一の楽しみで、そのためだけに大学に通い続けた。

その先生が、夏目アナに似た顔だちをしていたのだ。

普通、カウンセリングを受療する生徒は、相談する悩みが解決したらカウンセリングをやめるものだが、私はその先生に会いに行くこと自体が目的だったので、カウンセリングを卒業することなく、大学在籍中はずっとカウンセリングに、というか先生の元に通った。先生とは人生相談のような(表面上は)深刻そうな話から、たわいのない会話までしたと思う。先生の方からしたら私は「これまで何年も付き合ってるけど、何の進歩もない奴だな」と思われていたかもしれない。

それでも、美人な先生と会話する時間が存在したことで、私はなんとか「自殺することなく」大学を卒業することができた。

一体、あの先生は今何をなさっているのだろうか。まだ大学でカウンセリングの仕事をしているのだろうか。また当時の私みたいなーー生きる気力のない奴ーー生徒を相手に仕事しているのだろうか。もう先生の名前は忘れてしまった。

 

ーー思わず自分語りをしてしまった。昔書いた記事に言及することは、過去の自分と対峙することだから、それも仕方あるまい。

あと、そう、夏目アナには幸せになってもらいたい。ーーと書いて〆ようと思ったら、熱愛報道は誤報らしい。

有吉弘行との交際報道を夏目三久アナの事務所が否定 法的措置も検討

だったら夏目アナ、お願いだからおいらと結婚してくれ!   <了>

 

追記 ざっくり箱 [マツコ&有吉の怒り新党] 夏目ちゃんと有吉編 の夏目アナかわいすぎる

f:id:akihiko810:20160825031336j:plain 「(夢で)有吉さんとごはん食べてたり」

f:id:akihiko810:20160825031346j:plain 「有吉さんと家庭もちたいってこと!?」

f:id:akihiko810:20160825031357j:plain 

浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱

友人から借りて読んだ浅野いにおおやすみプンプン』。浅野いにおといえば「オサレサブカル漫画」の第一人者として若者に人気、一方で「サブカル臭いだけの薄っぺらい雰囲気漫画」として、いにお読者も「サブカル気取りのダサイ奴」扱いされてやり玉にあげられ、評価が真っ二つに二分する漫画家である。

私としては、いにお漫画は、まぁそれなりに読むけど、かといって大好きでもないレベルか。

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

 

 今回は『プンプン』後半部(7~13巻)のあらすじ。

前半部(小学生、中学生編)のあらすじは他ブログのこちらで。

 【ネタバレあり】おやすみプンプン~絶望に引き込まれる~【中学生編の感想・考察】 - 社会のルールを知ったトキ

あらすじの主軸はこう(『プンプン』は主軸となる話のシークエンスの他に、主軸とはかかわりのない話が挿入されて、ある種の群像劇のように物語が構成されている)~~~~~~

高校を卒業したプンプンは、一人暮らしすることを決意する。「一年後…今の状況と何も変わらなかったら、自殺する」と決めて。

そんな無目的で輝きのない毎日を送っていたプンプンは、小中学生時代の想い人・田中愛子がこの町にいることを知る。プンプンは愛子ちゃんと再会することを願うようになった。その一方、南条幸という漫画家志望の女性と出会い、漫画の原作を依頼される。そして幸とはお互い好意を寄せあう中になるが、プンプンの心には愛子ちゃんの影があるため、恋人同士として付き合うまでには至らない。

f:id:akihiko810:20160729180249j:plain

<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサス(星川としき)は、来る七月七日に世界が滅亡すると予知し、それを予言する>>>

そんな中、プンプンは愛子ちゃんと、自動車の教習所で運命の再開を果たす。

f:id:akihiko810:20160729175920j:plain

幸との関係はーー彼女は、元旦那(実はバツイチだった)との子供を身籠っていた。しかし彼女は、プンプンのいない日々は考えられないから堕胎するという。堕ろす日には病院に一緒についてきてほしいと言うが、当日になって「やっぱり君には甘えたくないから」、来なくてもいい。時間までは待っているから、君の判断に任せると。

プンプンは、幸の元には行かなかった。ーーその日、愛子ちゃんが家に来たから。彼女は何か事情を抱えてるらしい。プンプンは愛子ちゃんとセックスする。

愛子ちゃんは「家を出たい」と言う。一人親の母親から監視の名の元に虐待されていたのだ。二人は愛子ちゃんの母親の元にそのことを告げに行く。プンプンは思う。やっぱり愛子ちゃんは運命の人だったのだ、と。

しかしーーそこにあったのは破滅の幕開けだったーー愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。

死体を埋め、途方に暮れる二人。プンプンは「小学生の頃、一緒に鹿児島に行く約束をした」ことを思い出す。二人の逃避行劇が始まる。

幸はあの日、結局病院に行かなかった。あれ以来連絡が取れなくなったプンプンを探し始める。

プンプンたち二人は鹿児島の種子島に着いた。二人の逃避行劇は、目的があるわけではなく、まるで破滅に向かったものだった。プンプンはこの場所で二人心中しようとする。愛子ちゃんの首を絞めようとしたとき、愛子ちゃんは「あのとき母親にとどめを刺して殺したのは私」と告白する。そして「この島で暮らしたい」と。

生きる希望がかすかに沸いた二人であったが、遅かった。愛子ちゃんの母親が殺されたこと、その娘が行方不明であり事件に関係しているとみて捜査している、とテレビで報道されてしまったからだ。

二人は町を出てまた逃げることに。二人は民家を見つける。愛子ちゃんは交番に出頭すると言う。プンプンは「愛子ちゃんの罪を僕が被る」というが、それは拒否される。愛子ちゃんは言う。「小学生の時、流れ星にプンプンと両想いになれるように願ったんだ。それが叶ったなんて幸せ」「もしお互い離れ離れになっても、七夕の日はお互いを思い出そうね」

二人は眠りーープンプンが目を覚ますと、愛子ちゃんは首を吊って自殺していた

<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサスは、来る七月七日に世界が滅亡することを回避するため、同志達(ラヴァーズ)と共に焼身自殺する>>>

ーーー七月七日。プンプンは東京に戻る。小学生時代の思い出の場所で、自殺しようと首を突いた。流れ星が流れる星空を見ながら思う。ああやって燃えるように一瞬で消えることが出来たらどんなに楽だろうとーー。

そこに現れたのはだった。「つかまえた」ーープンプンは図らずも助かったのだった。

ーー何年後かの七月七日、プンプンは愛子ちゃんの事を想いだしていた。そして彼女に言う。自分は今、月並みに働いていて、幸の漫画は順調だ。幸の子供は僕になついてくる、と。さらに続ける。「この先ずっと七夕の空は永遠に曇り空で、それでも世界は終わらないから、僕は先に進まなきゃならないんだ」

プンプンの日常はーーいや、すべての人の日常は今日も続き、新しい物語が始まろうとしている。   完

~~~~~~~

『プンプン』はいわゆる日常憂鬱漫画(終わりなき日常が永遠に続く辛さを描く)である。このタイプの漫画では、このブログでは古谷実シガテラをとりあげた。

古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

「日常憂鬱」路線に、村上春樹ノルウェイの森のような「片一人の女性が破滅(自殺)する、三角関係」を加えた物語、といったところか。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

いにお漫画の批判としてよくあがるのは「雰囲気だけで薄っぺらい」、もっと極端にいえば「で、結局何が言いたいの?」という身も蓋もない感想である。

これは批判意見としては、決して的外れとはいえないと思っている。

なぜなら、いにお漫画(といっても私は、完結作は他にはまだソラニンしか読んだことないのだが 苦笑)は、「何もない日常を生きる<カラッポ>な主人公が、物語において非日常的な『通過儀礼を経験する。そしてまた日常に回帰するが、主人公は通過儀礼を迎える前と同じく、<カラッポなまま>の自分を抱えながら生きる」というモチーフだからである。つまり、「物語という<通過儀礼>を経ながら、何も成長してない(ようにみえる)」のだ。

通過儀礼(試練)を経ても成長しない(というより、成長できない)」というのは、「成長という物語」という近代的価値観が効力を失った、「ポストモダンである現代社会」の空気感と非常にマッチしている。

『プンプン』に面白い場面がある。第9巻で、漫画家を目指す幸が描いたマンガを、編集者が駄目出しするシーンだ。いわく「雰囲気でゴリ押ししてるだけで中身薄っぺら」「主人公が勝手に自己完結してて、こんなんじゃただの絶望ごっこにしかみえない」。これは典型的な、いにお批判の常套句である!(笑)

当然ながら、いにおは確信犯的に描いてるだろう。

こんな場面もある。同じく第9巻では、東日本大震災によって、原発が爆発したとテレビから流れてくる。友人は幸に「平凡な日常で退屈を嘆くような漫画、もう意味ない」と助言する。それに対して幸は「この程度じゃ変わんねーよ!仮に世の中がどうなったとしてもお前こそ変わんない!」と答える。

しかも当の漫画『プンプン』も「平凡な日常で退屈を嘆くような」漫画として続いていくのだ。(11巻から、物語は「殺人」という事件を伴って、大きく動き出す)

 社会学宮台真司が、著書『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の項 ■〈終わりなき日常〉の三つのレイヤー で

3・11後、「終わりなき日常は終わった」と発言する輩がいたが、〈終わりなき日常〉は終わっていない。概念的に言って、終わるはずがない。(全てはシステムの産出物に過ぎないという意味でのポストモダンが、定義的に終わらないのと同じ意味)

と述べているのとダブる。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

私は『おやすみプンプン』を(批判的にではなく肯定的に)評価するとするなら、「現代という終わりなきポストモダンがもたらす憂鬱を、主人公の半生に重ねて描くことで浮き彫りにした」という点であり、さらにいうなら、「ポストモダン的社会では、物語の主人公(あるいは現代の若者)には典型的な<通過儀礼における成長>は機能しない……たとえそれ(通過儀礼)が<死>ですらも!」という一種の絶望的な物語を提示したことだと思う。

プンプンは、「殺人と逃避行、さらに彼女の自殺」という非日常的な通過儀礼(殺人や愛子ちゃんの、だ)を経た結果、彼が選ぶのは自殺であった。いや、それすらも幸というもう一人のヒロインの助力によって助かって(つまり妨げられて)しまい、彼はついぞ自力で何かを成就することは叶わなかった。

ここにはつまり、このポストモダン的現代を生きる」ことは、何かしらを得ること(つまり成長すること)から見放されてしまっている、という絶望が描かれている。

この絶望こそが、幸のマンガに対する感想「まるで絶望ごっこ」の正体であり、そして『おやすみプンプン』を終始覆う、なんとも憂鬱になる読み応えの正体なのだ。

そしてその上で、生き延びてしまったプンプンは、物語の後もポストモダン的現代をーーつまり「何かしら得る」ことから見放された世界をーー生きていくことになるだろう。

プンプンはこの物語の先に、何かを(たとえば幸との家庭や、あるいはささやかな幸せを)得ることは出来るのだろうか?

作者インタビューによると、プンプンが事故死するエンド、も作者は考えていたという。

一番みじめでイヤな終わり方を、トゥルーエンドにしたかった。|【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー|浅野いにお|cakes(ケイクス)

 仮にこのエンドだったならば話は簡単で、『おやすみプンプン』はプンプンの死をもって、「ポストモダン的現代では、生きても何も得るものがない。以上」という解釈の物語で終わっただろう。

しかし、この物語は最後に、プンプンはこれからも生きていくーー彼だけでなく、人々が今日も生きて新しい物語を紡ぎだそうとしていることが描かれている。

おやすみプンプン』は、「成長という物語」が失効したポストモダン的現代ーーたとえ何か得ることが困難な世界にあったとしてもーーをプンプンの半生を通して描きながらも、ラストに人々が生きる様、「生きるということは、事実としてそういう姿勢でいることなのだ」という「絶望のその上でも<生を肯定>する」ことをも描いたことによって、名作たりうるのではないかと思う。

あと最後に話を変えて、『プンプン』の物語の構造をみてみると、プンプンパートの合間に挿入される、一見物語の主軸とは関係なさそうな奇行を繰り返す謎の男・ペガサスが、実は本当に(プンプン達のあずかり知らぬところで)神の啓示を受けていて、世界を破滅から救うーー従ってプンプン達はこの世界の日常を生きていられるのだーーという、『プンプン』のストーリーとしては<物語の裏>の立場にありながら、『プンプン』の世界では<実は世界の中心にいた>ということが読み進めていくと解き明かされていくところが面白い。

もしかしたら、所詮は我々が生きている人生も、神だか誰かの手の平の上で踊っているようなものなのかもしれないのだから。      <了>

f:id:akihiko810:20160730033450j:plain

本日のマンガ名言:グッドバイブレーション(謎の男・ペガサス)

 

追記:他に『プンプン』論では、この記事が一番良記事だと思います。ぜひお読みに

過去の呪縛から逃れられない男 『おやすみプンプン』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

手塚治虫『地球を呑む』

手塚治虫『地球を呑む』の手頃な感想がweb上にないようなので書く。そこそこ分厚いハードカバーが、ブコフで百円だったので読んだ。

手塚の初の大人向け長編らしく、手塚は気合を入れて描いたのだろうか、話もエロい。『地球を呑む』の連載開始は68年、『ブラックジャック』の連載開始(73年)よりも前の作品である。いわゆる手塚の「冬の時代」(1968年-1973年)、少年誌でのヒットが出せずに、活動の場を青年誌へと移行しつつある時代だ。

地球を呑む (小学館叢書)

地球を呑む (小学館叢書)

 

 あらすじ。この物語は全二十章からなる。各章のすじは以下のページ参照(以下リンクを読んでから、私の文を読んだ方がいいかも)

地球を呑む(Swallowing the earth) - 手塚治虫 のすべて

~~~

時は第二次世界大戦、昭和17年8月。 南太平洋ガダルカナル島へ出征した日本兵・安達原鬼太郎、関一本松の二人は、
自分達が殺したアメリカ兵が持っていた写真に写っていた、絶世の美女に心を奪われる。2人はこの美女の行方を探るも、「ゼフィルス」という名前である事以外、手掛かりを掴む事が出来ないまま月日は過ぎていった。

f:id:akihiko810:20160722175352p:plain

それから20年後、今や大企業の社長となった安達原は、取引先からゼフィルスが来日してホテルに滞在しているという知らせを聞き、関一本松の息子、関五本松にゼフィルスの調査を依頼する。

関五本松は、真面目ながら気ままに生きる偉丈夫で、性欲以上に酒を愛し、「地球を呑みつぶす」という野望があると言ってのける男であった。

五本松はゼフィルスの滞在するホテルを訪れ、ゼフィルスと出会う。次いでゼフィルスの住処であるというマムウ共和国を訪れる。ここから彼の奇妙な冒険が始まる。

マムウ共和国でゼフィルスの正体が明かされる。彼女はーーいや彼女たちは母親と同じ名前を名乗り、絶世の美女の姿の人工皮膚「デルモイドZ」を纏った7人姉妹であった。母ゼフィルスは生前・金と男に翻弄されて亡くなった。

f:id:akihiko810:20160722175939j:plain

ゼフィルス姉妹達は亡き母の遺言に従い、

1.金が人間社会を狂わせ,幸福と自由を人々から奪っている。金の価値を暴落させる
2.法律と道徳という規範意識を破壊する。
3.世の男性という男性を殲滅させる。

という壮大な復讐の野望を抱き、マムウ共和国の金(きん)とその美貌を用い、世界中の権力者たちと密通し、その陰謀を遂行していた。

ゼフィルス達の末妹・ミルダは日本で滞在した頃に出会った五本松に一目ぼれして、その愛ゆえに姉達を裏切り、刑を受けかけたところを逃れ、日本へ向かう。

しかし、その間にもゼフィルスの計画は進んでいた。人口皮膚「デルモイドZ」を大企業に製造販売させたことで、世界各地で人工皮膚を使って他人に成りすました犯罪の横行、それによる検挙率の低下という「法の崩壊」、さらにマムウ共和国に秘蔵されていた超大量の金塊(マムウはムー大陸の末裔だという)を無差別にばらまいたことにより、金の価値が暴落し「貨幣経済の崩壊」が起きていた。

世界はその混乱、不況を止めようと戦乱が起こり……ついに世界は物々交換を基本とする原始的な社会体制へと退行して行く。

ゼフィルス達の陰謀は達成し、ついに「地球は呑まれてしまった」のだった。

ミルダは五本松と共に経済社会崩壊後の世界を共に生きようと決意するが、五本松は他のゼフィルス姉妹によって粛清され殺される。ミルダも捕まって監禁されてしまった。

さらにときは流れーーミルダと五本松の息子・六本松が、航海からマムウ共和国に帰ってきた。母ミルダと再会し話をしている途中、ゼフィルス達が「六本松はマムウ共和国の外を知っている、危険人物だから」と六本松を幽閉しようとする。ミルダは六本松を逃がそうとするが射殺される。六本松はマムウ共和国に爆弾を仕掛け爆発させ、脱出した。

ここにマムウ共和国は崩壊した。六本松の船は、いや、新しい人類文明の行く末はどうなっていくのだろうか…。   完

~~~~

この作品は「主人公五本松の冒険譚」として読むと、作品の出来としては「中の上」といったところだろうか。物語の終わり方も、収拾がつかなくなって無理やり終わらせた感がないわけでもない。

しかしこの物語は、「世界が破滅する(地球が呑まれる)過程」を主軸として読むと、お話の壮大さが「漫画のウソ、ここ極まれり」といった感じとなりめっそう面白い。

上下巻版のあとがきによると、「話が大きくなりすぎて話が収集がつかなくなった。途中で中だるみに陥ったので一時読み切り形式にした」そうで、12~14章は、五本松の冒険譚ではなく、読み切りとしても読める(つまりこの各章には、別の裏主人公が立てられている)話になっている。

五本松の冒険の裏で、世界はどのように変貌していってるのか、また変貌した世界の中で他の人間はどのように生きて(あるいは死んで)いくのか、といったことが描かれているのだが、文芸評論家の加藤弘一

特に13章の贋家族のエピソードは独立の短編としても傑作である。この暴走部分がなかったら、凡作で終わっていただろう。

と述べているように、 (文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『地球を呑む』 手塚治虫

この読み切り章こそが、この作品を単なる「五本松の冒険譚」ではなく、「<地球が呑まれる>という壮大な物語」たらしめているといえる。

 

この『地球を呑む』、文学性に富んだマンガではけっしてないから、今回は「漫画文学論」ではなく、(もちろんこの作品は、文学性とは関係なく面白いマンガだ)マンガ紹介だけしか書かない。

とはいえついでにあえて、この作品の文学的な場面をあげるとするなら、やはり13章の贋家族のラストだろう。お互い自分たちは<偽物の家族>であることを受け入れながら暮らす彼らが、最後の別れの場面で、「美しい思い出のまま」残すために、今まで着ていた人工皮膚をマネキンにかぶせて去り、誰もいない家に残ったのは幸せそうな彼らの人形ーーというシーンはあまりに美しくせつない後味がある。