文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

紡木たく『ホットロード』を読む ~恋愛という”痛み”ーー彼女が歩む道の先にあるのは

今回は、私は男なのであまり読んだことのないジャンル、少女マンガからのご紹介、紡木たくホットロード』。

1986年から王道少女漫画雑誌『別冊マーガレット(別マ)』に連載され、コミックは(わずか全4巻ながら)700万部売り上げた作品。(たしか、当時としては最速の売り上げだった、という話をきいたことがあるのだが、ググってもでてこない…)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

 

社会学者の宮台真司曰く「少女漫画のひとつの頂点」とのこと(宮台だけでなく、『ホットロード』を紹介するときにはよく言われる言葉だ)。「(少女漫画は)当初は、恋愛できない「ダメな私」が専らでしたが、77年あたりから〈関係性モデル〉が急速に高度化し、現実の恋愛でもみくちゃになる女の子が描かれはじめます」と、<複雑な関係性>の中で「生きることの痛み」を伴う恋愛を描き、少女漫画の表現はひとつのピークをむかえたらしい。

私の好きな少女マンガ:くらもちふさこ『海の天辺』(雑誌インタビュー記事)

宮台は男性にも「女性が望んでる、複雑な人間関係におけるロマンシズムを知れ」と、この『ホットロード』とくらもちふさこ『海の天辺』を薦めている。

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ in バレンタイン - 文芸的な、あまりに文芸的な 

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

 

 さてこの『ホットロード』だが、80年代に社会問題化した”暴走族”を少女漫画に取り入れてるのも、今読んでみると面白い。 あらすじ。

 ~~~~~

中二の主人公少女、和希(かずき)は父親がいない。母親は離婚調停中の男とつきあっており(高校時代から付き合っていた)、和希は自分のことを「ママが嫌々結婚した男(父)」との子だと思っている。生活の金も母親の男から出ているらしい。和希はたった一人の肉親である母からの愛情を感じたことはない。

和希は母の誕生日に万引きで捕まる。忙しい母は、和希にどう接していいのかわからない。和希は転校生にさそわれるがままについて行った、暴走族NIGHTSの集会で、春山(ハルヤマ)という少年と出会う。その出会いはハルヤマがちょっかい出してきたもので、和希には不快なものだったが、ハルヤマがナイツの湘南支部を束ねていること、先頭を走る危ない"切り込み"をまかされていることを知る。

和希は「今日から不良になる」と母親に宣言し、族の集会に行くようになる。

集会にいくたび、ハルヤマは和希にしつこく絡んできた。和希はハルヤマが「俺はミホコのためなら死ねる」と言うのを聞いたが、ハルヤマはその女(ひと)に振られてしまったらしい。和希はハルヤマのバイクで家に送ってもらったとき「おまえ、おれの女にならない」と告白された。…和希は、「愛」というものがどういうものか、よくわからない。

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暴走族ナイツに混ざる和希。

ナイツは、孤独感など心に傷を負った少年たちがたくさん集まっていた。ハルヤマも複雑な家庭環境で育ったらしい(一人暮らしをして働いている)。彼らは夜の湘南をバイクで駆け抜けていた。和希は暴走するハルヤマの背中にしがみつきながら孤独感を打ち消していた。

和希はハルヤマと過ごすにつれて、ハルヤマの言動に傷つきとまどうこともあり、前の彼女(ミホコさん)もこうやって泣かせてきたのだろうか、と思うが、次第にハルヤマは和希の中で大切な存在になっていく。

ある日和希はミホコさんに会い、ハルヤマと別れた理由が「嫌いだから別れたのではなく、危ないことをするハルヤマを見てるのが怖くなったから」だということを知る。

一方で母親とはさらにすれ違いが続き、学校に行ってないことがバレて口論になり、不倫している母に対する、心の底にためていた「…いらない子だったら生まなきゃよかったじゃないか」の言葉を吐いて和希は家を捨てた。

友人の家を転々とする和希。行く宛てがなくなった和希はハルヤマの家に同棲することになる。

その矢先、ハルヤマは総頭・トオルの指名で、歴代総頭が乗るホンダの400Four(ヨンフォア)のバイクを引き継ぎナイツの総頭に就任し、今まで以上にナイツにかかりきりとなる。和希は争いが絶えないハルヤマに生きた心地がしない。一方ハルヤマにとっても和希は自分自身にブレーキを踏ませる存在となり、総頭の自分と和希の想いとの間で悩み苦しんでいた。ハルヤマは和希との別れを選ぶ。「おまえみてっとイライラする。お前といると俺ダメになる。別れようぜ」

和希はハルヤマの真意がわからず傷つき苦しむが、ハルヤマについていくことを決める。

ハルヤマの誕生日の日、和希はハルヤマが自身と同じく複雑な家庭環境でありながら、家族の事を(ハルヤマなりに)思っていることを知り、和希は一度自宅に戻り、今まで聞けなかったことを母に問う。「ずっとひとりだったんだよあたし」「この家ん中、ほんとうにあたしのいるとこあんのかよって」

ハルヤマは言う。「おばさんこいつのこと嫌いなの?もしそーなら俺がもらってちゃうよ」。和希の母は「あげないわよ!誰にも!親が自分の子嫌いなわけないじゃないの!」と初めて和希の前で、母の愛を明かすのだった。

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これを境に和希は家に戻る。

その頃、ナイツは喧嘩でのしあがった族「漠統」と抗争が起きる寸前であった。母と和解した翌日、和希はハルヤマに「もう他には何も言わないから、(ケンカに)行かないで」と頼むが、ハルヤマは「俺がいなきゃなんにもできねーような女になるな。俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ」「そんでも俺が追っかけていくような女になれ」と言って和希の元から離れた。

その後しばらく二人は会わず、お互いの事を想っていたーーそして久しぶりに会う二人。和希は、「親も生きているのだから」とハルヤマに諭され、親の再婚を認めることにした。ハルヤマは、今の抗争が終わったら、もう和希には心配かけないと、ひとり思う。

しかしーー「漠統」との抗争に向かう途中、ハルヤマはトラックにはねられてしまい、意識不明の重体となる。病院に運ばれるが意識は戻らない。

これに激しくとり乱す和希だったがーー奇跡的にも、ハルヤマは意識を取り戻す。重い後遺症が残り、リハビリの後に鑑別所に入れられる。ハルヤマは和希に「ぜってー鑑別だけで帰ってくるから」と誓う。

ハルヤマが鑑別から帰ってから9か月、ハルヤマも、ナイツの友人たちもそれぞれの新しい道を行こうとしていた。

最後に和希が語る。
 「今日であたしは17歳になります。今まで人いっぱい傷つけました。これからはその分、人の痛みがわかる人間になりたい。この先もどうなるか全然わからないし、不安ばっかだけどずーっとずーっと先でいい。いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい…。それが今のあたしの誰にの言っていない小さな夢です」

あたしたちの道は、ずっと続いている。  完

  さらに詳細なあらすじは ホットロード映画化!漫画のあらすじネタバレ!結末?紡木たく現在?

~~~~~~ 

大塚英志『システムと儀式』所収の「〈14歳少女〉の構造」で、ホットロードについてこう述べているという(ネットから孫引き)

暴走族の世界に入った和希はハルヤマという少年と出会い、傷つきながら、しかし最終的に暴走族の世界から帰還してくる。この帰還してくる、という点が重要である。

ホットロード」は、物語全体が通過儀礼の構造を持っており、少女が〈少女〉の時間を終え成女(大人)になることが主題となっているのである。紡木たくは〈少女〉の時間をとどまるべき永遠の場所でなく、通過していく場所として描いた。しかも、そこを〈通過〉することによって少女は初めて大人になれる。(略)「ホットロード」は敢えて、傷つきつつも通過儀礼をなしとげる和希とハルヤマの姿を描いてみせた。しかもそれが読者たちの圧倒的な支持を受けた。

ホットロード論

つまり、「母の愛を知らない〈少女〉」は、ハルヤマという異界(暴走族の世界)とつきあうことによって、つまり”傷つきつつも”特別な時間を過ごしことによって通過儀礼)、「母やハルヤマとの平凡な日常を望む〈大人〉」へと成熟した、ということである。
「傷つきつつも」というのが、この物語の重要な文学的ポイントだろう。
物語序盤に提示されるのは、<和希とママ>の関係性。それは両者共に不完全な存在(親の愛が欠落した娘、娘の愛し方を知らいない母)であるが故に、すれ違いお互いに孤独をもたらす。
そして和希は、今まで経験したことのない不良の世界(異界)であらたな関係性を獲得しーー<和希とハルヤマ>の関係性だーー、その中で”戯れあう恋愛”ではなく、求め合うが故の(故意に、あるいは意図せずに)”傷つけあう恋愛”を経験する。
そしてこの”傷つく恋愛”を経験したからこそ、傷ついた不完全な存在である<私(和希)とママ>を許すことができるようになるーーつまり通過儀礼を経て大人になるーーという物語終盤へとつながっていく。
和希はハルヤマの事故によって暴走族の世界から離れ、文字通りの通過儀礼を終え大人になるのだが、通過儀礼を終えた(大人になった)和希はどのような人間になるのだろうか。
物語のラストに和希のモノローグーー「いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい。それがあたしの小さな夢です」が入る。和希は平凡で確実な幸せを望んでいるがーーそれは決して楽観した夢ではない。
ハルヤマとの恋愛で「生きることは、そして愛することは痛みを伴うもの」だということを経験し大人になった和希は、おそらく自身のこれからの人生もまたーーもちろん暴走族という危険な世界ほどではないにせよーーそれがハルヤマと歩む人生である以上、「必ず痛みを伴うもの」だということを理解し、そしてその「痛みを伴う幸せ」を、いとおしいささやかな夢として受け入れようとしているのである。「生きる痛み」を受け入れた上で、彼女は自分の人生と向き合っているのだ。
だからこそラストは「あたしたちの道は、ずっと続いている。」であり、この物語は幕を閉じても、二人はこの道を歩き続けることができるのだ。
ホットロード』は読者に、つまり少女たちに、「大人になること、生きることは痛みを伴うがーー、それでも愛し合うことには実りがある」というメッセージーーそれは少女たちには過激かもしれないが、嘘偽りのない誠実なものだと思うーーを投げかけているのである。
 
余談。以上のように『ホットロード』を精読してみると、そこにあるのは「生きること、恋愛することの痛み」という、大人になれば誰もが体感するであろう痛々しいまでのリアルである。これを読んで熱中していた当時の女子中高生は、なんと大人びていたことだろうか!
これを男子中学生が読んでも、たぶんこの「恋愛による痛み」なんて半分も理解できないだろう。もしこの「恋愛という痛み」のリアルさ彼らにに見せつけたら、幻想ではない「女という恐ろしさ」に気付いて、あふれる性欲もどこかに吹っ飛んでしまうのではないだろうか(苦笑)   <了>
 
今日のマンガ名言:俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ。そんでも俺が追っかけていくような女になれ

綿矢りさのおっぱいがでかい 文学は死んだ  --を短歌にしてみる

今日はてな匿名ダイアリー(通称 増田)にこんな投稿があった。

「綿谷りさのおっぱいがでかい 文学は死んだ」ただこれだけの一発ネタである。(綿谷は誤りであり、綿矢りさ が正しい)

しかしこれ、投稿者が意図したのかどうかは知らないが、自由律俳句(もしくは5・8・7の破調の無季俳句)として秀逸な出来になっていると思う。簡単に解説してみたい。

(長くなるので綿矢りさのおっぱいで一服)

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綿矢りさのおっぱいがでかい」 <おっぱいがでかい>は言うまでもなく生の象徴である。そこに唐突に

「文学は死んだ」と文学の死が宣言されるのである。

この短文で、生の象徴から死への転調へともってくるのは凄い。さらに言うなら、<おっぱい>という(一種の)下ネタから唐突に「文学は死んだ」と壮大な話へと飛躍するのところもうまいという他ない。

この自由律俳句を解釈するなら、

綿矢りさのおっぱいはでかい」し、「文学は死んだ」。しかしおっぱいの大きい<綿矢りさ>は生命力に溢れている、故にまだ(綿矢の)文学は生き残っている。

という、「生→死→<故に生>」という構図になるだろう。

 

私はこれを気に入ったので、勝手に推敲して短歌にしてみたい。

まず上の句。

綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」

「おっぱいがでかい」を「おっぱいは大きい」に変える。「が→は」への変更は、「おっぱいは」の方がソフトでおっぱいの柔らかさがでるから。「が」は濁音なのが固いと思った。

「でかい→大きい」への変更は「わたやりさの おっぱいはおおきい」で5・9の破調(字余り)にして、「でかい」よりもその大きさを印象づけるため。

「死んだ。」と読点で区切ってインパクト出す。「」で会話文にして誰かが言った感をつける。

これで5・9・8の上の句になった。かなりの破調である。破調が2つあると肝心な所(9のところ)は目立たないので「文学は/死んだ」と「死んだ」3音は下の句に回してもいいかもしれない。

 

で、下の句。これは私がいくつか考えてみる(ここからがけっこう難しい…)

A)おっぱいで考える

A1)本谷有希子の おっぱいも大きい (7・9)

これは上の記事のブクマを書いたときに考えたもの。

本谷有希子にしたのは、たぶん本当におっぱいでかいのだと思うのだが、一番ポイントなのは、一番最近に芥川賞受賞した女性だから。綿矢が芥川賞当時の文学は生きてるし、今の文学も生きてるよ(おっぱいでかい)という意味。

ただおっぱいの大きさを言ってるだけじゃないのだよ(ただわかりにくいかな…)

おっぱい 文学は死んだ おっぱい  と、一見無関係なものでサンドイッチになってるナンセンスさもポイント。

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(あ、でも思ったほど巨乳ではないんだな…たぶん)

 

B)綿矢といえば、なんといっても 芥川賞受賞作『蹴りたい背中』である。 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

B1)まだ読んでない『蹴りたい背中

B2)死んだ。」 読みかけの『蹴りたい背中』 (8・7)

B3) 積読していた『蹴りたい背中

「まだ読んでない」ところがポイント。文学は死んだが、まだ読んでいない『蹴りたい背中』には文学の可能性が残っているという意味。

「B2」が上の句とのつなぎがよく、「B3」は情景を詠むことに比重が出ている。

B4)蹴りたい背中』のページをめくる  (8・7)

これはシンプル・イズ・ベストでいいかもしれない。

「ページをめくりつ」にすると、本読みながら「文学は死んだ」と言っているわけで意味が通らなくなる。

「B3」の方がいいか?

B5)だからどうした『蹴りたい背中

文学が死んだからどうした、この本とは関係ないぜ という意味だが、うーん…。

B6)「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

ものすごい時間考えて作った。

「文学は死んだ。」と言った直後に「うそ」と否定して、「本も好きだけど、本当は好きなのはおっぱいなの…」という茶目っ気が出る感じにした。

 

C)そっけない感じを出す

C1)芥川賞は 今日決まるらしい (8・8)

死んだ文学(芥川賞)には興味ないが(決まる「らしい」)、なんとなくまだ興味は残っている…という感じ。

 

D)上の句から続くように下の句 

D1)死んだ」とほざいた 女(やつ)は貧乳  (8・7)

D2)死んだ」と言ったの 絶対貧乳 (8・7)

貧乳がやっかみで「文学は死んだ」なんて吐(ぬ)かしやがったんだろ! という意味の歌。ユーモアがあるが若干下品でもあり。

 

と、ここまで考えたのでまとめる。候補

A1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 本谷有希子のおっぱいも大きい 

B3)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 積読していた『蹴りたい背中

B6)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

C1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 芥川賞は今日決まるらしい 

D1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ」とほざいた女(やつ)は貧乳

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f:id:akihiko810:20160604032112g:plain   さて、この中から私選では、

一番作るのに時間がかかった、B6)

綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

を「綿矢りさ おっぱい」の一首ということにしたい。

 

結構頑張って作ったので、決して「上の句だけの自由律俳句の方がよくね?」とは言わないでもらいたい(苦笑)

候補作の中でこっちの方がいいよ、あるいは「私が作ったこっちの方がいい」という方はコメ蘭でぜひお願いします。

まあ結局、ここまで書いて何が言いたかったというと、綿矢りさのおっぱいはいいよな(小説もいいよ)ということに尽きるのである。    <了>

文学フリマ 『文化系女子になりたい』編集後記 ~私が文章を書く理由

作成した文芸同人誌『文化系女子になりたい』、紙面が尽きてしまったので、編集後記だけブログ上で発表。おまけコンテンツ。

 

文芸同人誌『文化系女子になりたい』をお買い上げいただいた方に、厚くお礼を申し上げたい。(といってもこれ書いてる時点でどれだか売れたかわからんし、そのうちいったい何人がこのページを見るかもわからないが)

まず、なぜサークル名と同人誌名が『文化系女子になりたい』なのかの説明をさせてもらいたい。

私は、文化系女子になりたいと常日頃から思っている。なぜなら文化系女子、カワイイ感じがするではないか。しかし私は何の因果か、男子に生まれてきてしまい、文化系女子になることはできない。文化系男子では「文化系女子」という響きのもつ匂いやイメージが、まったくないではないか。私は、文化系女子しか持ちえない、あの「匂い」や「感じ」に憧れるのだ。

だから私は、文化系女子になれないことを知りつつも、少しでも文化系女子になりたいと思いながら文章を書く。つまり私は文章を書く間は、私の何割かは文化系女子なのであるーー。

  

というのは当然ながらでまかせである。ただ男二人で作っても女っ気がないから、せめて名前だけでも女子っ気がほしかったからつけた。

 

~~~~~~ここから文学フリマ終了後に書いた文章

 

文フリ前にこの文章を書き終えることができなかった。

ミニコミは完売しました(1、2号 計30冊) 20人ほどの方に買っていただき、50人ほどの方がブースに来ていただきました。あらためてありがとうございます。

(これが私が友人と作ったミニコミ

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で、編集後記の続き。

私はなぜ文章を書くのか。私が文章を書くことによって何を望んでいるのか。

私のブログのメインコンテンツは(今は主に)漫画文学論である。「この漫画はここの部分が文学的だよ!」という解説であり、ひとつの漫画の読み方(味わい方)での指南だ。

これを始めようと思ったのは、単純に私が読んだ漫画の面白さを伝えたかったからだ。もっと詳しく言うと、「<私が漫画を読んだ読み方で、漫画を読むと>この漫画はこんなに面白い」ということを知ってほしかった。あるいは、共感してほしかったからのだ。

そう。共感してもらいたかった。私は、常々思うのだ。「なぜ他者は私ではないのか」と。他者でない以上、万弁を尽くさなければ、私の思いは完全には伝わらないではないか。いや、万弁を尽くしたところで完全になど伝わらないのだ。

特に、私が真に伝えたいのは、文学を読んだときに感じる、心が揺さぶられる「この感覚」であり「この感覚」だ。おそらくそれは、脳科学者の茂木健一郎がいうところのクオリアであり、他者への伝達は不可能なものだろう。

それでも私は他者に、「あなたの脳の髄まで」私の思考を理解してもらいたいし共感してもらいたいと心の底では思っている。そして私は同じように、「あなたの脳の髄まで」あなたを理解したいし、共感することができればいいと思っている。性器でつながるより深く身体が溶けるようにして脳髄でつながることができたら、それは最高に官能的じゃないか。

もちろんそれが不可能なことはわかっている。しかし私は、この感覚の百分一でもいいから他者に、つまりこ文章を読んでるあなたに、私の思考を理解してもらいたいとそして共感してもらいたいと思うから文章を書くのだ。 

最後に、ミニコミを読んで下さった方ありがとう。 このブログを読んで下さった方もありがとう。 ブログはたぶんまたぼちぼち書いていくだろうから、それもよろしく読んで下さい。あ、あと、感想やリプライがあるとうれしいので、何か感じるものがあればコメント欄にでもコメントください。 それではまた <了>

 

追記。ミニコミ文化系女子になりたい』は、1、2号ともにページの都合上、「ゼニゲバ論」を割愛しました。未読の方はぜひ読んでください

ジョージ秋山『銭ゲバ』 ~社会はクソ、人は悪ズラ。銭ゲバは銭の夢をみるか? - 文芸的な、あまりに文芸的な

 

 

業田良家『自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味

「このマンガは絶対に読む価値がある」

永井均『マンガは哲学する』でそう賞賛された、文字通り「人生において必読」の傑作。 

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

 

それが業田良家自虐の詩である。四コマ漫画であるがストーリーは連続している。四コマ大河漫画といってもいい。ギャグ漫画でありながら「日本一泣ける四コマ漫画」というあまりセンスのないキャッチコピーで売られているがーー実際にそれは間違いないのだがーー、そんな陳腐なキャッチコピーでは十全に言い表せない、とにかく壮絶な感動作だ。

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

 

 あらすじ。

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 主人公である幸江(ゆきえ)は、何かというとちゃぶ台をひっくり返して怒る亭主・イサオと暮らしている。イサオは働きもせず、ラーメン屋で働く幸江の収入で暮らす、元ヤクザのヒモである。はた目には幸江は全く幸せには見えないが、彼女はイサオを愛している、というよりイサオに依存しているように見える。なぜ幸江はイサオと別れずに暮らし、イサオを愛しているのだろうか?

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上巻は延々と、苦労する幸江、イサオがちゃぶ台返しして終わる(オチとなる)4コマが飽きるくらいに続いていくが、下巻から次第に幸江の過去の回想ーー彼女の悲惨で壮絶な過去ーーが明らかになってくるにつれて、読者は幸江のイサオへの愛情とその理由を知るようになる。

幸江の小学生時代。幸江にはもの心つく前から母親がいない。夫に愛想尽かせて出て行ったらしい。幸江の父はろくに働きもせずビンボーで、娘の幸江を働かせている。幸江は父の借金取りにも同情される始末だ。

中学生時代。幸江は唯一の友人熊本さんができる。熊本さんは幸江同様ブサイクであり、そして(おそらく幸恵よりも)貧乏であり、クラスの中では迫害される存在だ。幸江は唯一の友人熊本さんと、二人だけの友情を育む。

だが熊本さんが学校を休んだある日、憧れであった藤沢さんからお弁当を食べようと誘われ、藤沢さんグループに入ってしまう。幸江にとっては夢のように幸福な時間であった。しかし熊本さんが学校に復帰してくると、幸江は藤沢さんのグループから離れたくないために、藤沢さんたちと熊沢さんの影口を言いだし、あろうことか学校の備品を盗んでいた熊本さんの罪状をばらしてしまう。熊本さんはクラス中から無視され完全に孤立してしまった。

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しかしここで幸江に不幸が襲い掛かる。幸江の父ちゃんが愛人に金を貢ぐために、銀行強盗を犯してしまうのだ。

幸江はそれによってクラスから腫れもの扱いされ孤独になってしまう。どうして私だけこんなにも不幸なのか、いっそ死んでしまった方がーー。

こんな状況の幸江に手をさしのばしてくれたのが熊本さんだった。久しぶりに一緒に帰る二人。しかし河原に来ると、熊本さんは幸江をボコボコに殴って言う。「なんで私を裏切ったのか」。ボコボコにされるがままに殴られながらただ謝る幸江。熊本さんはさらに言う。「このまま、謝り続けながら、殴られたままで一生生きていくつもり?そんなヤツとは、友達でいられないじゃない。殴り返さないの?」その言葉に、大きな石で殴り返す幸江。卒倒してしまう熊沢さんに幸江は言う。「死なないで、熊本さん。私を一人にしないで。私の友達はあなたしかいない!」意識を取り戻す熊本さん。そして二人は「私たちは一生の友達!」と腫れた顔で抱き合うのだった。

熊本さんからの助言もあり、卒業後、幸江は東京へ出る。

話は現代に戻る。幸江はイサオの子を妊娠する。産むことを決意する幸江。旦那が旦那だけにアパートの隣の部屋のおばちゃんは心配する(そりゃそうだ)。そんなおばちゃんに幸江はイサオとの過去を語る。

東京に出た幸江は、シャブ中の売春婦(立ちんぼ)に身を落としていた。その境遇の中出会ったのが、ヤクザのイサオだった。イサオは幸江に惚れ「こんな仕事はあなたには似合わない、もうやめなよ」と幸江のことを気にかけるが、幸江は全く意に介さない。それでも幸江のことを案じるイサオ。あるとき幸江は自暴自棄になって手首を切るが、イサオがすぐさま助ける。幸江は次第にイサオを受け入れる。イサオは幸江と付き合うために、ヤクザから無理やり組抜けした。ーーかつてイサオが幸江を窮状から救ったことが、ここで読者に初めて明かされる。

妊娠した幸江は、自分を捨てた母の夢を見る。なぜ私を捨てたのかーー。恨んでやる!幸江は顔も知らない母の首を絞める。母は苦しみだす。首を絞められたからではないーー母が臨月だったからだ。その母の股が割れ、そこから出てくるのは赤ん坊の幸江。

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幸江ははっと目を覚ます。そのとき幸江は産まれたときの記憶を取り戻し、母を許した。そして気づく。「みんな母から生まれた そしてこの子は私から生まれる」のだと。

 幸江はどこにいるかもわからず、会ったこともない母親に向けて手紙を書き、宛先もないその手紙をポストに投函する。

「私は幼い頃、あなたの愛を失いました。 私は愛されたかった。ーー

でもそれがこんなところで、 自分の心の中で見つけるなんて。 ずっと握りしめていた手のひらを開くとそこにあった。 そんな感じで。

おかあちゃん、これからは何が起きても怖くありません。 勇気がわいています。 この人生を二度と幸や不幸ではかりません。

なんと言うことでしょう。 人生には意味があるだけです。 ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。 勇気がわいてきます。

おかあちゃん、いつか会いたい。 そしておかあちゃん、 いつもあなたをお慕い申しております。

追伸、私にももうすぐ赤ちゃんが生まれます。」

物語の最後、二十年ぶりに熊本さんから再会の電話がかかってくる。彼女も結婚して幸福になっていた。

かつて幸江が逃げるように東京へ出てくるとき、熊本さんはなけなしのお金から、大金の百円札を餞別に幸江を見送りに来てくれたのだった。

幸江は臨月のお腹を抱えて、東京駅まで会いに行く。使わずに手元にとっておいたその百円札を持って。

ラストは熊本さんと涙の再開を果たし、印象的なモノローグをもって物語は閉じる。

「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」 完

 ~~~~~

 感動的である。そこには小細工も、奇も衒(てら)いもない。ただ実直なメッセージーー「人生には明らかに意味がある」という断言があるだけである。

では、その「人生の意味」とは何だろうか?

と、その「人生の意味」を問うにあたって、そもそもそれは「哲学的に正しいのか」と哲学者の永井均は考察していたので紹介したい。

永井は『マンガは哲学する』(冒頭に紹介した本)において、こう疑問を投げかけている。

 感動的であるがー(略)ー幸江にイサオが現れず、そもそも熊本さんとも出会わなかったとしたら、それでも幸江は「シャブ中の立ちんぼ」の境遇のままで、人生にはーー幸や不幸ではなくーー意味があるのだというこの覚醒に到達できたであろうか。そうは思えないのだ。たまたま事実として、彼女は幸福になれたようにしか見えないのだ。

 私もこの意見に賛成である。「人生に意味がある」のではなく、「己の幸福を自覚できたからこそ、己の人生の意味を実感できている」のだ、という解釈が正しいように思える。

では、幸江に幸福をもたらしたものとは何だろうか。この物語を読んだ方ならすぐにわかるだろう。

それはイサオや熊本さんとの、苦難の日々や何気ない日々を過ごしてきたという軌跡ーーつまり他者と<関係性の履歴>を更新してきたという、その履歴が幸江に幸福を実感させたのだ。イサオとの妊娠や、熊本さんとの再会という幸福な出来事は、ただその<関係性の履歴>のわかりやすい「表れ」にすぎない。その根底にある、あるいはそこに至るまでの、苦難の日々を共に過ごした、何気ない愛おしい日々を一緒に過ごしたという「関係性の履歴」こそが、幸江の支えであり幸せへとつながったのだ。

だからこそ幸江は「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある」と心の底から思えるのだ。幸江が経験してきたすべての苦労(関係性の履歴)が、今の幸江を形作っているのだから。そしてこの「私は関係性の履歴を育んできたーーそしてだからこそ今の私がある」という実感こそが、幸江に「人生には明らかに意味がある」という覚醒をもたらしたのだ。

そしてこの覚醒に至った幸江は、手紙での言葉通りに、これからの人生を「幸や不幸ではかる」ことはないだろう。なぜなら、その幸不幸ーー他者との関係性の履歴ーーこそが人生の中身そのものであると理解しているのだから。だから幸江はこれから、子供を産み、夫イサオに苦労しながらも、それでも幸せにーー愛しき人と共に苦労していくことそのものが人生の中身でありそれこそが「幸せ」なのだーー生きていくだろう。

これが『自虐の詩』の提示する「人生の意味」である。

そして『自虐の詩』がもたらす感動は、私たち読者に「あなたは人生の意味ーー他者との関係性の履歴ーーをもっているか」と問いかけてくる。

<関係性の履歴>をもつ者はーーたとえ今現在、自分は不幸だと感じている者であったとしてもーー幸いである。その先にこそ「人生には明らかに意味が」あり、手ごたえのある人生の実感があるのだから。  <了>

 

今日の漫画名言:人生には明らかに意味がある

告知 ※文学フリマ東京(5/1)出展します。サークル「文化系女子になりたい」(ツー09)

今週のお題「私がブログを書く理由」 ということで、私がブログを書く理由。

このブログは主に漫画文学論を書いているが、それなりの文章(内容と分量)を書くのは面白いのだが、当然のことながらメンドクサイ。

何故に私はそんなめんどうなことをしているのか?それには理由がある。

ここで書いた文章をまとめて文学フリマに出展参加するためだ。

前回客として見に行ったコミティアがお祭り感あって楽しかったので、友人となりゆきで決めたのだ。

文章書くのを決めたはいいが、私は人生のほとんど(誇張)を漫画を読むことに費やしているので、漫画論くらいしか書くものがなかった。

漫画論を書くにあたって「この漫画読んでね」というただの紹介では面白くないので、「この漫画はこう読むと、『文学性』が垣間見えて面白いのだ!」という読み方指南するよう心掛けた。

 

ということで告知。

 第二十二回文学フリマ東京(5/1 日)出展参加します。

東京流通センター 第一展示場 11:00~17:00

第二十二回文学フリマ東京

 ブースは「ツー09」サークル名文化系女子になりたい

カテゴリは「評論(サブカルチャ-)」、出入口付近に陣取っております

冊子名はサークル名と同じく文化系女子になりたい』

肝心の冊子の中身は、私のブログから「漫画文学論」と、私の友人が作った短歌。

この友人は穂村弘の『短歌ください』(読者投稿)にも選ばれたことがあります(すごい!)

で、肝心のミニコミは1号と2号を作り、そのお値段は

1冊「お持ちの10円玉すべて or 50円玉」(おつり面倒だから)

100円しかない方は2冊さしあげます。お札しかない方はまだ決めてない(苦笑)

 

あとただ座って売るだけ、というのも寂しいので、来て下さる方、買って下さる方と積極的にコミュニケーションしに絡みにいくと思います。(今その仕掛けも考えてます。たぶん趣味やコンテンツの話でちょこっと盛り上がる感じになります)

あと、はてなID、Twitterある方は名乗ってくだされば飴ちゃんプレゼントします。

それから詰め将棋も出します。時間ある方は私(初段レベル)と将棋指しましょう。

あとそれからもう一つ告知。

私たち文フリで、友人と彼女募集します。私たちに興味持たれた方はぜひ仲良くしましょう!

 

で、ここまで書いておいて何だが、当のミニコミは完成してないのだ…。前日までには完成する予定…(おい)

 

女優・大後寿々花と、クンニ顔という概念

タイトルから分かるとおり駄文。

先日、深夜放送していた映画『桐島、部活やめるってよ』を観ていたら、吹奏楽部でサックスを吹いてる一人の女の子に目が留まった。

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この女優誰だっけ…と思い検索したら、大後寿々花という娘らしい。『桐島~』にはヒロインの橋本愛など美人女優が何人か出演しているが、この娘は特段に美人で目を惹くというわけではない。なぜこの娘に目が留まったのか…?

脳内検索すると、どうやら私はこの娘を見たことがあった…ということに気付く。

ドラマ『セクシーボイスアンドロボ』(2002)で、ヒロインのニコ役をつとめた女の子じゃないかしらん?と思うに、当たっていた。

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私はこのドラマが好きだったので、当時無名だった(少なくとも私は知らんかった)この純朴そうな女の子、このドラマが終わると見かけなくなったので、まぁやっぱ人気出なかったなぁ…華なかったし。と思っていたのだ。久しぶりに彼女の存在を確認してなんとなくうれしかった。

そして私は映画を観ることに意識を戻そうとすると、画面に彼女の顔が映っている。

そのとき私はふと「あークンニしたい」 と思った。大後寿々花 にクンニしたいと思った。(自分で書いててキモイな 苦笑)

そして自分で思っておいて難だが、驚いた。というより戸惑った。この感情は何だ。何故クンニなのか?それもピンポイントに!

美人女優がテレビに出てきたら「この人とセックスしたい」と思うことくらいは誰にでもあることだろう。しかし何の脈絡もなく「クンニしたい。クンニだけしたい」と思うことはあるのだろうか。

大後寿々花の何がそう思わせるのか、考えてみる。まず、彼女の顔が「私の中の、標準的なAV女優顔」であることに気付く。美人すぎず、ブスすぎない、どことなくキカタン(企画系から単体系に出世した)女優っぽいのではないか。あとサックス吹いてるのがさらにAVイメージにつながるとか。(これはサックスへの風評被害だ 笑)

そこまで考えて、私はある仮説に気付く。世の中にはいわゆる「クンニ顔」といって、男が見ると「なんとなくクンニ(だけ)したくなる顔」をした女性がいるのではないか。同様に、女性から男をみたときに「フェラチオ顔」という「なんとなくフェラチオ(だけ)したくなる顔」というものも存在するのではないかと。

女性に「あなたクンニ顔ですね」ときいてみたら、その女性はどんな反応をするだろう。キモがられるか。そりゃそうだ。「あなたを抱きたくはないけどクンニはしたいです」これはうれしいのだろうか…さすがにそれもないだろう。いや、絶世のイケメンから言われたらうれしいのだろうか(女性の方教えてください)

それにだ。もし私がフェラチオ顔だったらどうなのか。会う女性会う女性から「フェラチオだけしたいです」と言われたら喜んでいいものか(喜んでしまいそうだが)

…ここまで書いて自分でキモイ奴だと思ったのでやめておく。

とにかく私はクンニ顔なるものを認識し、以降、この映画の大後寿々花のシーンは全く集中して観ることができなかった。

そして私はこれからの人生においてまたいつか「クンニ顔」の女性に遭遇するのではないかという思いを抱えながら生きていくことに愕然とし、もう私はクンニ顔という概念の存在しない世界を生きることはできないのだと観念し、それを頭から振り払うかのように眠りにつくのだった。   <了>

 

追記:大後寿々花さんのこれからのご活躍、ご健勝を期待しております

押見修造『惡の華』高校生編(7~11巻)を読む  ~破滅よりも、生きることに賭ける

前回記事押見修造『惡の華』中学生編(1~6巻)を読む に続き今回は『惡の華』高校生編。 

 今回ははじめに自分語りをしたい。『惡の華』について書く以上、述べておいた方がいいと思ったからだ。

前回記事冒頭に<「かつて思春期に苛まれた少年」であった私>と書いたが、私が思春期に苛まれたのは大学生の頃だった。中学生で中二病を発症した春日と比べるとシャレにならない遅さだった(というか少年とも呼べないし 苦笑)

私が入学していた大学は、私が希望するランクの大学ではなかった。一浪していたのでそのまま入学したが不本意な入学でもあった。

不本意であるとはいえ、念願の「東京」へ行くことができた。私の住む町(埼玉)にはなんのカルチャーもない。東京なら私の知らないカルチャーや、私のしらない世界へ連れて行ってくれる人がいるはずーー。期待に胸を膨らましての入学だった。

しかしその期待は入学早々裏切られた。同級生たちは去年まで普通の高校生だった人たちーーつまり私と同じく「特別なカルチャーも何も知らない」ごくごく普通の、そして「退屈で凡庸な」人間だった。私を「どこかへ」連れて行ってくれる友はみつからなかった。

私は落胆すると同時に五月病になり、精神的にひきこもるようになっていった。時間があれば本を読み、映画を観てサブカル論理武装(笑)し、飲み会などでは「『XX』知ってる?(『XX』には映画ならウディ・アレン、作家ならここ数年の芥川賞作家、漫画ならガロ系の作家が入る。5人中3人ほど知っているレベルの知名度の人。去年まで高校生やってた人だと、名前すら知らない人も少なくなかった)」と尋ねて「こいつは俺の御眼鏡に適うか」試していた。話が盛り上がれば、私は仲間扱いしてその話題で盛り上がる。しかし「誰それ」とでも答えるようなら「え、有名なのに知らないの?(いやらしい言い方だ)じゃあ君は何が面白いの??ww」と小馬鹿にして「俺は君とは違うんです」オーラを出していた。かなり嫌な奴だ(苦笑)

当時の私の口癖は「つまらない」「もっと面白い話、して」だった。平凡で輝きのない毎日を憎んでいた。私は<特別に面白いこと>に触れたかった。そして私自身が<特別に面白い人間>になりたかった。

こんな底意地の悪い奴には友達などできはしない。だんだん孤立していった。

しかし私は真剣だった。「このままだと空気の薄さに窒息死してしまう」と思っていた。この態度(つまり面白いことを真摯に求めること)で生きるしか他になかった。

惡の華』には仲村さんの「つまんないつまんないつまんない!」という台詞がある。私も心の中で同じ台詞を叫んでいた。

だから私は『惡の華』を初めて読んだとき、胸をつかまれるように共感した。

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そして今現在。あのときの私は過去に置いてきた。人生の「つまらなさ」にも慣れた。だが私は生きている。あの当時ほど<面白きもの>を求めずとも生きてられるようになった。あのとき私が思い描いていたような<特別に面白い人間>にもなれなかった。ただ数々のマンガを読むことで、私は「ここじゃないどこか」へと妄想を飛ばし、平凡な毎日をやり過ごす術を身に着けたーー。

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惡の華』論に話を戻す。「高校生編」のあらすじ。

 

この町で唯一、人がたくさん集まる夏祭り。春日と仲村さんは、この町のクソムシ共に一泡ふかせてやるためにーーそして同じくクソムシである自分たちを終わらせるためにーー 祭りのやぐらを占拠し焼身自殺を決行する。

「この町のすべてのクソムシども!」「沈め!沈め!錆びて腐りきって沈め!」

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 口上を述べて衆人が惹きつけられる中、春日は火をつけようとすると…「私ひとりで逝く」仲村は春日を突き飛ばした。保護され茫然とする春日。「仲村さん!」自らに火をつけようとする仲村…しかし間際で仲村の父親に止められる。二人の自殺は未遂に終わった…

時は過ぎて高校生編。春日は埼玉に転向し、高校生になった。「あの日」以来心を閉ざす毎日だ。心の中は、死ぬ間際に自分を突き飛ばした仲村さんの影に支配され、自分は幽霊のようだと思っている。

そんななか、春日は別のクラスの女子、常盤さんと出会う。垢ぬけたグループにいるが、実は文学が好きで、そのことは誰にも言えないらしい。ひょんなことから常盤さんと春日は本を貸し借りする仲になり、常盤さんが小説を書こうとしていることを知る。

彼女が書いている小説のプロットをきくと、それはまるで「かつての、そして今現在の自分」であるかのように思えた。春日は常盤さんに、彼女が書く小説を読みたいと望む。一方、常盤さんも初めて、文学好きな本当の自分を受け入れてくれた春日に惹かれる。

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 ある日偶然、春日は街で佐伯さんに再開する。中学のとき以来だ。春日に似た青年と付き合っているという。佐伯さんは春日に言う「あの日、春日君が無様に生き延びさせられたのを見て『ざまあみろ』って笑いが込み上げてきた」「あのまま二人が死んでたら悔しすぎて…私どうしていいかわからなかったかも」そしてさらに続ける「春日君はまたそうやって逃げてるんだね」「あのコ(常盤さん)も不幸にするの?私みたいに」

春日は常盤さんのことを思う。彼女の小説には囚われの幽霊が出てきた。それは常盤さん自身が(そして春日も)幽霊だからだ。

春日は、常盤さんを救うことを決心する。「キミはずっと…ひとりで悩んで…幽霊みたいに…」「僕にはできない 一生 幽霊の世界で生きていくなんて」「僕と生きてくれ」 

春日の告白を常盤さんは受け入れる。

常盤さんの小説が完成した。春日に読んでほしいと言う。しかし春日は、自分にはまだその資格がないと、春日は中学生時代の自分をーー仲村さんとの出来事すべてをーー常盤さんに打ち明けた。「仲村さんに会いたい」。常盤さんは春日の背負っている過去に愕然とするが、「私も行く」と決める。

仲村さんは、千葉の港町で母親と暮らしているという。定食屋を営んでいた。

仲村さんと春日の再開。海辺で三人で話すことになった。

春日はきく「あの時、僕を突き落したのはなぜ?」。「さあ…忘れた」と仲村さんははぐらかすように答える。「きみはその人とつきあってるの?」「そうやってみんなが行く道を選んだんだね」。

去ろうとする仲村さんに常盤さんが声をかける。「あなたを見てると辛い。…まるで過去の自分を見ているようで」常盤さんは言う。春日には彼女と生きていく道があるのではないか?それがいいのではないか?と。

その言葉に、春日は仲村さんを砂浜に投げ飛ばして言う「僕は何もつかまえられない 必死で手を伸ばしても 触れたと思ったら離れてく」「僕はうれしい 仲村さんが消えないでいてくれて」

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春日に殴り返す仲村さん。ふたりは海の中でもつれ合い、春日は常盤さんを海に引きずり込む。

…海辺に寝転ぶ3人。「二度と来るなよ。ふつうにんげん」と仲村さん。

場面変わって大学生活。春日は常盤さんとの幸せな生活を営んでいる。ふたりは体を重ね…。

最終話。物語は、中学生時代の仲村さん視点へと円環する。顔のないクソムシ共に囲まれる仲村さん。気が狂いそうな日々。そのとき、自分とは別の変態・春日を発見する。

ここで初めて、仲村さんの世界に色がつく。

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そして春日が仲村さんに邂逅する場面をもって物語は幕を閉じる。

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 春日たちが夏祭りで焼身自殺しようとするのは、コミックの中書きやインタビューでも言及されているが、フランス映画『小さな悪の華』(70)のオマージュだ。

この映画は、寄宿学校に通う「無垢な」少女二人が、盗みや放火、悪魔崇拝の儀式を繰り返し、それが露見し大人たちに捕まることになると、学芸会で『悪の華』を朗読しながら焼身自殺するーーそれが彼女たちにとっての「純真」だからだーー話だ。

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 『小さな悪の華』では少女たちは破滅して幕を閉じるが、『惡の華』はその先ーーつまりこれからも生き続けなければならない彼らーーを描く。

佐伯さんが言ったように、彼らは「無様に生き延びさせられてしまった」のだ。

死ねなかった春日は、また灰色の毎日に飲み込まれる。あの日夏祭りの事件ーー前回述べたとおり、それは春日と仲村さんの究極のプラトニックロマンスであり、強烈に淫靡な輝きを放っていたのだーーも、もはや現実世界(と春日の内面)に影を落とす記憶でしかない。

惡の華』 高校生編は、嵐のように怒りの感情が噴出し渦巻いていた中学生編と比べると、まるで小雨のような静けさと暗さが同居した作風に変わる。私は読みながら、春日の同級生たちにかつての事件が知れ渡り、そこから無視などのいじめに発展していく…という予想をしていたが、そんな波乱もなく、春日の前に現れた女性・常盤さんと春日のほとんど二人の関係性だけで話はすすんでいく。

常盤さんは、表立てては見せないが、その内面には孤独を抱えている。この孤独(作中では「幽霊のような」と形容されている)に共感した春日が、常盤さんを救う決意をするーー。ここが高校生編のひとつのハイライトである。

中学生のとき、かつて春日は、憎悪と絶望に囚われた仲村さんを「救おうと決意して」、結果ふたりは破滅へと(未遂に終わったが)すすんだ。いや、春日が求めていたのは仲村の救済だけではなく、「自意識」ーーいやもっと強固なーー「自分という存在」という生きていれば必ず付き纏わざるをえないものからの脱出であった。だから春日は(そして同じ問題を抱えていた仲村さんも)、究極的に自分から離脱(つまり死)することを求めた。

しかし、今回常盤さんを孤独から救うという決意というのは、それは「よく生きる」ことへの賭けだ。春日の「僕と生きてくれ」という言葉は、「自分という存在」を抱えながらも、それを憎悪し拒絶するのではなく、(他者と)共有していこうとする決意だ。

もうひとつのハイライト、海辺での場面も美しい。仲村さんに思いをぶつけ、もみ合う春日は、傍観者である常盤さんをその戯れの中へと引っ張り込む。春日が、能動的に常盤さんを自分の人生に引き入れていこうとする決意の表れだからだ。

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「破滅」を選ぶよりも、「他者と共に生きること」を選ぶ。私はそれを美しい意志だと思う。なぜなら、「自分という存在」という不安を抱えながら、それを他者という「自分にはままならない存在」と共に生きることに賭けるその行為は、破滅を願うより、より困難な方へと賭けることだからだ。そして困難な賭けであるからこそ、そこには「愛」が生まれるのだ。

仲村さんが「二度と来るなよ。ふつうにんげん」と言うが、それはたぶん悪い意味ではない。生(そして愛)という困難へと賭けることができた春日への、「二人で生きてみせろ」という彼女からのエールだ。そしてたぶん春日は、もう仲村さんに会いにいこうとはしないだろう。なぜなら春日は、もはや仲村さんの幻影(つまり「破滅しきれなかった自分」)から解放され、自分の力で常盤さんと生きていくことができるのだから。

そして最終話、物語は仲村さんの視点で物語はじめへと円環する。ここでこの『惡の華』は春日の物語ではなく、「仲村さんが救われるための」物語になって幕を閉じようとする。春日は「他者と生きることに」、つまり愛を紡いで生きることに賭けた。仲村さんも春日のように愛を紡いで「ふつうにんげん」になることができるのだろうか。…きっと彼女も「ふつうにんげん」になれるだろう。あのとき海辺で全力で戯れた3人の笑顔からは、きっと彼女も誰かと共に生を選び取る人間になるだろうという予感をさせるのだ。   <了>

 

本日のマンガ名言:二度と来るなよ。ふつうにんげん