告知 ※文学フリマ東京(11/23)出展します。サークル「文化系女子になりたい」キ-13
文学フリマ東京(11/23 水・祝)出展します。
サークルは「文化系女子になりたい」キ-13
評論サブカルチャーのブースコーナーです。詳しくはwebカタログで
1冊100円のコピー本です。
短歌、小説、漫画論(このブログの記事)、マンガをのせます。
各号のもくじ
3号
3号 中山「小説 マリッジブルーの穴」「短歌 ふたりとごはん」/和田「短歌 an」/ マンガ『夢二とお葉』『吾輩は猫である。マンガ読みである』漫画論「浅野いにお『おやすみプンプン』」「紡木たく『ホットロード』論」
— 文化系女子になりたい @文フリ キ-13 (@akihik0810) November 16, 2016
4号
@akihik0810 4号 中山「小説 にじ」「短歌 さんじ」/ 和田「短歌 単価ください 蛇の抜け殻篇」/マンガ『こじむい』『吾輩は猫である。マンガ読みである』漫画論「アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』論」「ほったゆみ『ヒカルの碁』論」
— 文化系女子になりたい @文フリ キ-13 (@akihik0810) November 16, 2016
私の担当は漫画文学論とマンガ。マンガはこのブログにのってません。
あと、「短歌研究」新人賞候補作となった『an』、短歌研究に載らなかった歌も含め30首すべてが収録されます。
— 和田浩史 (@hirofumi) 2016年8月21日
制作メンバーは私の他、
前回メンバーの和田(短歌)
新メンバーの 中山とりこさん(小説、短歌)です
中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR) | Twitter
私たちはさいたま読書倶楽部で知り合いました。読書会はかなり面白いので、皆さんのご参加お待ちしてます
ということで、よろしくおねがいします。
ブースに来てくれたみなさんとはなんらかのお話しが出来ればな、と思っています。
邪険にしないで仲良く気軽に絡んでやってください。
追記)コピー本できました
文学フリマ東京参加します。ブースはキー19 。コピー本「文化系女子になりたい」3・4号(約40P)一冊百円です。短歌、小説、マンガ、漫画評論と中身はバラエティにとんでおります。ツイッターで見た方は、ぜひ会場でお声おかけください #文フリ #文フリ東京 #bunfuri pic.twitter.com/GlZs1dMRci
— 文化系女子になりたい @文フリ キ-13 (@akihik0810) 2016年11月20日
アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみる ~死者に規定された生者たち
今回はアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、略称『あの花』。漫画ではなくてアニメだけど、漫画文学論でとりあげる。漫画版もあるしね。
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)
- 作者: 超平和バスターズ,泉光
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2012/09/04
- メディア: コミック
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『あの花』といえばご存じのとおり、「キャラの名前に下ネタをつけてあなる連呼させるって、岡田麿里(脚本)マジ天才だな」という初見のインパクトで有名であり、さらにくどいほどお涙頂戴に作られた最終回で視聴者をめんまロスにさせたアニメとしても有名である(ってこんな説明でいいのか)。
ところで、なぜ『あの花』をとりあげたかと言うと、前回の記事で『ヒカルの碁』を「死者」をテーマにとりあげたからである。
ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに - 文芸的な、あまりに文芸的な
『ヒカ碁』は「死者は生者の中に現在する」という事実を、主人公のヒカルが気づく話であった。
『あの花』にも、めんまが幽霊(的存在。実はめんまの正体は花の精霊に生まれ変わった説などがある。この記事では便宜上、幽霊とする)として登場する。そして物語の主人公たちーー超平和バスターズの面々は、過去のめんまの死に際し後悔し、いわば死者に囚われていた。
つまり、『あの花』が描くのは「<自身に内在する死者>によって、<生を規定されてしまった>者たち」というテーマである。彼らは「自身に内在する死者」とどのように向き合うのだろうか。
「死者を心に抱えた生者たち」という観点から、『あの花』における文学性を考察してみたい。
『あの花』は、アニメ版とコミック版では多少の差異があるのだが、コミック版のあらすじを(アニメ版よりもわかりやすいので)解説する。
あらすじ~~~~~~
じんたん、めんま、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽの6人は、小学校時代に互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成して秘密基地に集まって遊ぶ仲間だった。しかし突然のめんまの事故死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、超平和バスターズは空中分解し、それぞれめんまに対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、中学校卒業後の現在では疎遠な関係となっていた。
かつてグループのリーダー格であったじんたんは、高校生となりひきこもりになっていた。そんなじんたんの前に、めんまの幽霊(姿は成長してるが、記憶は死んだ当時のまま)が現れた。めんまは「“みんな”じゃないと叶えられないお願いを、叶えて欲しい」と言う。しかし肝心のそのお願いの内容は覚えていない。そしてめんまは、じんたんにしか視えない。
じんたんはめんまの出現に困惑しながらも、めんまの願いを叶えて成仏させるために、超平和バスターズのメンバーと再交流することになった。初めは超平和バスターズの面々には、じんたんにめんまの霊が視えるなどとは当然ながら信じられない話であったが、じんたんの熱意を知るにつれ、皆じんたんの誘いを受けるのだった。
超平和バスターズの面々は、皆少なからず、めんまの死に囚われていた。
ゆきあつは、めんまに告白したがうやむやにされたままめんまが事故死してしまったことに罪悪感を感じ、めんまの姿に女装して深夜徘徊していたことが、皆の前で明らかになる。ぽっぽは、事故の日川で溺れためんまを、恐怖から助けずに、逃げ出してしまったことを後悔していた。あなるはじんたんが好きだったが(そして今も好きだが)、じんたんはめんまの方に好意を寄せており、自分はめんまには敵わないことを自覚していた。あのとき、めんまがいなくなってくれれば自分が一番になれると思ったことを後悔している。じんたんはめんまからの告白をはぐらかして「ブスなんか好きでない」と嘘をついて揶揄してしまった。それがめんまへの最後の言葉になってしまうとも知らずに…。
超平和バスターズの面々は、めんまが生前「ロケット花火を上げて神様に手紙を差し出し、じんたんのお母さんの病気を治してもらうようお願いする」と言っていたことを思い出し、その計画書(といっても子供が書いた妄想だ)をみつけ、めんまの願いが「皆で花火を上げること」だと確信する。
そして皆でめんまを成仏させるために、花火の資金を貯める、めんまの両親を説得して花火を見に来てもらう、打ち上げ花火を作るなどの活動をする。
じんたんは、めんまに成仏してほしいと思うが、それと同時にめんまと別れたくないとも思っている。
そして花火打ち上げの前日。超平和バスターズは決起集会という名目で秘密基地に集まり宴会をする。しかし皆がそこに集まった理由は、別にあった。
つるこの発案によって、じんたんには内緒で、じんたんに「あの日」ーーめんまが亡くなった日ーーを再現、いや、やり直してもらう意図があったのだ。
あなるはあの日と同じく言う。「じんたんってさ…めんまの事好きなんでしょ?」
じんたんは、あの日に言えなかった本音を言う。「好きだ…俺は、めんまが!」じんたんはたまらず逃げ出そうとするが、ぽっぽが「そこで逃げたら同じことになるぞ!」と制して止める。
じんたんは、めんまと別れたくない想いがあふれ、涙が出た。ーーそのときめんまは、何かを思い出したような感じがした……。
じんたんはめんまに「成仏しなくたって、このままここにいればいいじゃないか…」と本音を告げる。しかしめんまは、ちゃんと成仏して生まれ変わって皆に会いたい、と言う。
そして打ち上げ花火の当日。集まる超平和バスターズの面々。めんまの家族。じんたんは、めんまが成仏することを祈りながら…心の底では、別れるのを拒んでいた。
打ち上げ花火が上がる。 …めんまはーーーー消えなかった……。
その夜。超平和バスターズの面々は、めんまが成仏しなかったことは、自分たちが自分勝手な思いでいて、心からめんまの成仏を願ってなかったからだととり乱す。そしてもう一度、めんまの本当の願いを叶えて成仏させようと誓う。
そしてじんたんが家に帰るとーーめんまの姿が消えかけていた。
めんまは自分の叶えてほしい願いを思い出したのだ。それは病床のじんたんの母(病気でもう長生きできない)に「あの子は強がってて悲しいときも涙をみせない」と心配されたことから、めんまは「強がりをしているじんたんを、皆で泣かせる」と願ってたのだった。そしてその願いは、じんたんが涙をみせたことによってすでに達成されていたのだ。
めんまを背負って、秘密基地に向かうじんたん。そして秘密基地に集まる超平和バスターズの面々。が、秘密基地に着いた途端、じんたんにもめんまの姿が見えなくなってしまう。
「みんなとちゃんとお別れしなきゃ」と、最後の力を振り絞って、全員にメッセージを書くめんま。
そのメッセージを読む5人。そして「かくれんぼならお前を見つけるまで終わらない」と「もういいかいー!」を連呼する。皆めんまへの感謝と想いのたけを叫ぶ。めんまにもその想いは伝わる。そしてめんまは、もっと皆といたいけど、生まれ変わって皆と会いたいと涙ながらに言う。
めんまにすべての想いと感謝を述べた5人はーー「せーの!めんま、みぃーつけた!!」
めんまは「みつかちゃった…」と言って消える。そのときのめんまは、涙で顔を濡らしながら、笑っていた…。
…そして超平和バスターズの面々は、それぞれの日常に戻った。
「俺達は大人になっていく 。だけどあの花はきっとどこかに咲き続けている 。そうだ 俺達はいつまでもずっと あの花の願いをずっと叶え続けていく――」
~~~~~
めんまが死者となってしまったことで、超平和バスターズの面々は、彼らの<めんまとの関係性>が、無念の残るものとして固定されてしまう。死者によって、生者の生が「規定されてしまった」のである。
<死者と生者の関係性>でやっかいなことは、(当然ながら)生者は死者に働きかけることができないという点である。<生者同士の関係性>ならば、片方が片方に働きかけて得たいものを得ることができる。つまり関係性のその意味を、再生産、再構築することができる。
しかし相手が死者ならばそうはいかない。相手を想起することしかなすすべがない。しかもここが大事な点なのだが、死者の側からは、生者に働きかけてくるのである。行為してくるのではなく(死者は実体がないのだからそれはできない)、いうならば<生者に内在する死者との関係性>が、「想起することを求めてくる」のだ。例え死者を思い出したくなくとも、どうしようもなく想起せざるにはいられないーーそんな感覚である。かつて我々(生者)に愛情や優しさや共感を注いでくれた者ーーつまり「自己の存在」感を与えてくれた他者ーーが死者になってしまえば、もうその他者からは、そういった「意味」を得ることができない。相手が死者になってしまったことで、代わりにその関係性(死者と生者の間にあった意味)だけが残って、懐かしさや未練といった<関係性の残像>を想起せざるを得なくなるのである。
死者は生者に、一方的に強烈な意味をーーしかも固定されてしまい再構築することが困難な意味をーー残すことで、生者の「生」そのものに影響を与える。それはときには、生きる者が影響を与える以上に、死者はその「不在性」故に、強い影響を、与えてくるのだ。
<めんまとの関係性>が、未練の残るものとして固定されてしまったことによって、ぽっぽは「めんまの死を助けられなかった自分」を悔いて、高校に通わず世界放浪して「強い自分」になろうとしていた。ゆきあつに至っては、めんまに女装して「めんまと同化」しなければいられないほどに影響を与えられていた。(とはいえ、さすがにゆきあつの話は「アニメという(面白さのための)嘘」だろう。こんな奴現実にいたら変態すぎる 笑)
しかしーーおそらく幸いなことにーーめんまが幽霊として彼らの前に再び現れたことで、彼らはまた新たに<関係性>をやり直す(つまり上書きする)機会を得ることができる。
そのやり直しとして、まずはロケット花火を作って打ち上げるも、結局それではめんまが成仏しない、というシーンがある。私はこれは物語の作りとしてうまく出来ていると思う。本命と思われたロケット花火がめんまの願いではないという描写には、そこには視聴者の読みを裏切る”透かし”の効果があるだけでなく、死者との(つまりは他者との)コミュニケーションの困難さを表す良シーンだろう。
そして最終回、超平和バスターズの面々には思いがけず、彼らの意図にはよらないところでめんまは成仏してしまうが、そこでの「くどいまでに泣かせるかくれんぼのお別れ」が、「死者との決別」(固定化された<死者との関係性>を変化させること)がいかにエネルギーを要することなのかということを、端的に、そして感動的に描いている。
『あの花』アニメ本編を観た方ならば覚えてると思うが (あらすじを読んだだけではわかりにくいかもしれないが)、最終回、めんまが成仏するお別れのかくれんぼのシーンは、登場人物が皆「視聴者がひくくらい、泣き叫ぶ」シーンになっている。それは脚本の岡田麿理いわく、かつてNHK教育で放送されていた、十代の討論番組『真剣10代しゃべり場』を意識したからだという。
『あの花』の最終回は、あの伝説的テレビが元ネタ!? | ニコニコニュース
思春期の少年少女が、こうして自我をぶつけあっているのを見るのは気持ち悪いものだなあって。いろんなものがあまりに未完成すぎて、生っぽすぎて、見ていてイライラして・・・・・・でも、それがすごくイイ(笑)。これだけ人の心をざわつかせられるってホントすごい、いつかアニメで同じようなことをやってみたいと思ったんですよ。
彼らがありったけの熱量で泣き叫ぶ様は、(脚本家の思惑通りに)我々視聴者の胸を打つ。それは彼らの「泣き叫ばずにはいられない」という気持ちが伝わるからだ。
彼らがこうまで泣き叫ばずにいられなかったのは何故か。
もちろん、(幽霊の実態としての)めんまが消失(成仏)するから「悲しくて」泣き叫んだ、というのが一つある。しかしそれだけではない。
彼らにとって、泣き叫ぶことそれ自体が(彼らの中に内在する死者としての)めんまの成仏だったのだ。自分の中のめんまを成仏させるために、<めんまとの関係性>を「未練の残る存在」から「未練は残るけれど、それでも美しい思い出をもつ存在」に変化させるために、彼らは泣いたのである。彼らはこうまで絶叫しないと、彼らの中のめんまーー彼らの心を捕えていた死者ーーを成仏させることはできなかったのだ。
彼らがくどいまでに泣き叫んだのは、それ程までに<彼らの中のめんま>が「決定的に意味を持っていた」からである。
最後の言葉「せーの!めんま、みぃーつけた!!」は、お別れとしてめんまに向けた「弔いの言葉」という意味だけでなく、自身の生を死者に囚われた状態から解放するために、めんまへの想いを「未練の残るものではなく、美しい思い出をもつ存在」に変化させるための、彼ら自身の為の言葉でもあるのだ。それ故にその叫びは、悲痛さを帯びる。この「悲痛さ」も我々視聴者の胸を打つ。
そしてめんまを成仏させ、<めんまとの関係性>を改善させた彼らは、日常にまた戻るーーいや、今までの「死者に囚われた生」から解き放たれた、新しい人生をまた始める。「あの花」がいつまでも心の中に咲いているように、いつまでも心の中にめんまへの想いを抱きながら。
このように、『あの花』は、<生者と死者との関係性>における、死者を想う(受容する)事の困難さと切なさを、真正面からーーつまりくどいまでに熱くなるのを厭わずに、描いた作品である。
そして現実の死者もーー生者にとって大切な人物であるならなおさらーーこのように生者に意味を投げかけてくる。だから人は死者と折り合いをつけるために、死者の弔いを行うのだろう。
ただしアニメではなく現世を生きる我々の前には、すでに死んでしまった死者は現れない。超平和バスターズの彼らとは違って、死者との関係を「やり直す」機会は与えられない。死者が「私」の事をどう思っているのかをきくこともできない。つまり現実には、<死者によって規定されてしまった生>を修正することはより困難性を伴う、ということである。我々は<死者との関係性>(つまりは大事な人との想い出)を、「自らの意思で」より良きものに変えなければならないのだ。
死者は生者の中に現在する。そしてその死者は私の中にどう現在させるのかーー、我々がそれをみつめるときに『あの花』は示唆を与えてくれるはずだ。
本日の漫画名言:超平和バスターズ はずっとなかよし
ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに
今回は、ほったゆみ(原作)・小畑健(漫画)の『ヒカルの碁』。
唐突だが、私が道徳的観点、というより「人生の指標になる」という観点から「小学生が絶対に読むべき少年漫画」をいくつかあげるとしたら、「他者と内発的につながることーーそれが結果につながるのだということ」という、いわば「人生を生きる上で最も必要な心構え」を見事に描ききった、藤田和日郎『うしおととら』(96-99 週刊少年サンデー)と、荒川弘『鋼の錬金術師』(2001-10 月刊少年ガンガン)を真っ先にあげる。この2作を読めば、「マンガに人生を教わる」経験ができると、私は断言する。
うしおととら 完全版 1 (少年サンデーコミックススペシャル)
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鋼の錬金術師 完全版 1巻 (ガンガンコミックスデラックス)
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他にこれを、(次点として)ジャンプ漫画からあげるとすると、少し考えてしまう。
ジャンプの掲げる「努力・友情・勝利」は、「努力友情」は道徳的にいいとしても、「勝利」の部分がエンタメに寄りすぎていると感じる(「勝利」というのは過程ではなく結果であり、マンガの面白さを成す部分だ)。
勝利は人生の必須条件ではない。だからジャンプ漫画から「部分的に」人生を学ぶことはあるが、「作品丸ごとが人生の役に立つ!」と断言できるようなジャンプ漫画は、私にはぱっと思い浮かばないーーと書いてて思い出した。井上雄彦『スラムダンク』があった。忘れるなよ俺。
人生の勝敗について私は思う。人生は勝てば当然うれしいが、ーーこれを理解してない大人も多いだろうがーー実は、人生は負けても構わない。 いや、というより、人生である以上そこには勝つことも負けることもあり、その上でなお続くのが人生なのだ。たとえどんな人生であっても、そこにはただ、「人生という味わい」があるだけだ。巷にある「人生は勝ち負けではない」という言葉は、たぶんそういう意味だろう。
先にあげたスラダンだって、最後山王戦に勝った後に、次の試合で「嘘のようにボロ負けした」からこそ深い味わいが残り、今なお名作として漫画史に君臨しているのだ。
ーー話が少しずれた。
今回紹介する『ヒカルの碁』、そんな「小学生が絶対に読むべき少年漫画」にあげても謙遜のない、優れたジャンプ漫画である。(と、この一文を書きたいがために前置きが長くなった!)
佐為(さい)編の終盤(コミックス14巻~17巻あたり)は、この漫画を傑作たらしめている。
主人公ヒカルは、平安時代の天才囲碁棋士・佐為(さい)という霊に取り憑かれる。佐為はかつて、江戸時代最強といわれた棋聖・本因坊秀策に取り憑いていた幽霊だ(つまり、秀策の囲碁は佐為によるものである)。ヒカルはそれを境に囲碁にのめり込み、その才能と努力によって、中学生という若さながらプロ棋士になる。と、ここまでが物語の序盤。
そして佐為編・終盤のあらすじ ~~~~~
日本囲碁界のトップ・塔矢名人がネット碁を覚えたことをヒカルは知り、佐為はかねてから対局したいと願っていた塔矢名人と対局するチャンスを得た。幽霊であり自らの正体を明かせない佐為は、匿名のネット碁でしか対局できないからである。塔矢名人も、ネット上でsaiと名乗るただならぬ強さの何者か(正体は佐為)に強い興味を示していたので、ついに二人の対局が実現した。
この頂上決戦は一進一退の熱戦となり、佐為の妙手によって、佐為が辛くも勝利を収めた。強敵に打ち勝った佐為は深く満足し、これほどの名局を戦うことが出来た塔矢名人に深く感謝する。そのときヒカルは、盤面を見て言う。「この手だったら佐為の負けだ」局後の検討で、ヒカルは佐為も塔矢名人をも上回る手を発見し指摘したのだ。この瞬間、佐為は悟ったーー「私が亡霊として千年存在してきたのは、『この一局をヒカルに見せるため』だったのだ」と。そして役目を終えた自分が成仏するときが、まもなく来るということを…。
…時が過ぎ5月5日。いつものようにヒカルが佐為と碁を打とうと、ヒカルが碁盤を用意しているときにーーヒカルが気づかぬうちにーー佐為は陽光の中に消えていったのだった。ヒカルに声をかけることも叶わず…。
佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。佐為を探しに、本因坊秀策所縁の地を巡る。そしてヒカルは、初めて秀策の棋譜を見直し、今になって初めて佐為という棋士の天才さを実感するのだった。
佐為がいなくなったショックで、ヒカルはプロ棋士の活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続いていた。ーー自分が碁を打たなければ、打ちたいと思わなければ、いつか佐為が帰ってくるのではないかーーと願うように思って。
そんな中、院生時代の同窓生でライバルだった伊角がヒカルの家に来た。伊角は、前回のプロ試験でのヒカルとの対局で反則負けを犯しプロになり損ねたという苦い記憶を、今回のプロ試験に臨むにあたって振り払うために、ヒカルとの対局を申し込む。当初は気の進まないヒカルであったが、「これは自分のためでなく伊角さんのためだから」と対局を受ける。
その対局にヒカルは次第に没頭しーー自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手と重なることにヒカルは気が付く。今まで探していた佐為がーー自分が佐為から受け継いだ囲碁の中に佐為が存在することを、ヒカルは悟ったのであった。
ヒカルは涙を流し、これから終生、何百何千という碁を打ち佐為の面影を追うという決意をする。
~~~~~~
ここは『ヒカルの碁』という物語全体を通して、盛り上がりが頂点となるところだ。
以降『ヒカ碁』は、佐為という一番の(あるいは唯一の)「マンガ的なキャラ(囲碁最強の幽霊)」を消したことによって、より現実な話づくりにならざるをえず、「マンガ的な表現」の幅を狭くしてしまう。佐為編のあとに続く「北斗杯編」を読むと、いかに佐為というキャラクターがヒカルという主人公と絡み、ヒカルと佐為が「二人で一人」なキャラクターとしてこの漫画を引っ張っていたかというのがわかる。
「マンガはキャラクターが命」という漫画原作者・小池一夫の名言(というか信念)が思い出されるが、本稿は「漫画文学論」なのでキャラの話はこれ以上しない。
あと念のため述べておくが、北斗杯編はそれはそれでまた盛り上がるし面白いので、ぜひ読んでもらいたい。佐為がいないというだけで(だけなのに)、まるで(微妙ながら)別漫画のような読み応えとなっているのも、ぜひ確認してもらいたい。
さて、漫画文学論。『ヒカ碁』の文学的なポイントをあげたい。
それは「死者は現在する」という事を、感動的に描いたところだと思う。今現在のゲンザイ(ゲンにアクセント)ではなく、「現に存在する」という意味のゲンザイ(ザイにアクセント)である。もちろんそれは、死者は幽霊になるとかいう話ではない(佐為は幽霊だけど)。
ここに描かれているのは、死者は死んだことで存在を失うのではない。むしろその存在感が増すのだ、という「死別することで人(生者)が直面する気づき」である。
佐為という幽霊は、成仏することで、語りかけることも語りかけられることもできない「完全な死者」となった。完全な死者となったことで、ヒカルにとってその存在が消えたのではなく、逆にヒカルにはーーまるで自身の内面にべったりと張り付いたようにーーその存在が増したのである。
話は少し変わるが、佐為のその成仏の仕方ーーつまりヒカルとの別れーーは、そこには悲劇さのかけらも感傷的に泣かせるような演出もなく、静かにすっと消滅するというものであり、非常に儚いものであった。毎週のアンケートで人気を判断される少年誌連載でありながら、別れの場面にわかりやすく派手で感動的なシーンにせずに、作者があえて、この静かな別れとして描いたことを賞賛したい。
そしてこの「唐突で、静かな別れ」こそが、ヒカルが、佐為との別れを受け入れることのできない要因となった。もし別れの場面で、佐為とヒカルが何らかの別れの言葉を交わすことができたなら、ヒカルは佐為の消失を受け入れる、とはいわないまでも多少なりとも消化することができただろう。
しかし唐突な別れ(現実世界でいえば突然の事故で死別する、などに相当するだろう)は、それを心の底から受け入れることをさせない。ただ喪失感ーーというより、それを伴った困惑が襲ってくるだけだ。
このような「死別と、死者の重さ」を記した本に 『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)というのがある。
著者は恐山にある寺の住職である。言うまでもないが恐山は霊場であり、またイタコで有名であり、そこには死別した者となんとか話したい、思いを届けたいという人々がたくさん来る場所である。
恐山には、死者の供養に来た者によって、大量の供物が持ち込まれる。故人の衣服だけでなく、故人が「生きていたら」その年齢で着ていただろう新品の服(つまり定期的に買い換えてお供えしている)もある。また結婚前の子を亡くした親は、せめてあの世で結婚させてあげたいと、花嫁人形や花婿人形、ウェディングドレスのお供えもあるという。
また恐山の岩場の草葉の陰には、参拝者が勝手に作った簡単なお墓(20cmほどの石板に戒名や名前が書いてある)が並び、お供えしてある石には、「もう一度会いたい 声をききたい」「○○くん、また会いに来るからね」などと書かれているという。
そこには、死への、いや「死者」への、圧倒的なリアリティがある。
著者は考える。なぜ恐山に、こんなに多くの人が死者の供養をしに来るのだろうか。いや、人はそもそもなぜ「死者の供養」なんてことを考えるのだろうか。
恐山に来て2年ほどたったとき、著者は気づく。「ここには死者がいるのだ」と。死者は実在するのだとーー。
そして続ける
一見、死というものは、死者の側に張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山で掴んだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。
と。 そしてその根拠も著者は述べる。
死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)
生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。
つまり、死者は生者がいるかぎり、生者のなかに現在するのだ。(南老師は「実在する」と書いているが、死者はもはや存在をもたないので、私は「現在する(現にある)」といいたい。)
話を『ヒカ碁』に戻そう。
ヒカルにとって佐為は掛けがえのない存在だった。それは同じく、佐為にとってもヒカルが掛けがえのない存在だったからである。片一方方向における関係ではなく、相互方向における結びつきだったからこそ、そこには(ヒカルにとって佐為は)強固な絆があったのだ。
そして、佐為は消えた。ヒカルは佐為の不在に戸惑い、苦しむ。
しかし、囲碁を通して、佐為と自分をつないでいた囲碁を通して、自分が打つ一手の中に、つまり己の中に、佐為が現在することに気付いた。
ヒカルは、自分と佐為が、<関係性の履歴>を育み、そこに強い絆があったことを始めて認識したのだ。
(<関係性の履歴>については、拙ブログ記事 業田良家『自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味 を参照してほしい)
そしてヒカルは「北斗杯編」の最後、「お前はなぜ碁を打つのか」という問いに、「遠い過去と、遠い未来をつなげるために俺はいるんだ」と答える。
それは、碁の歴史に名前を刻むとか、佐為の碁を後世に残すとかいう話ではない。今回の記事のキーワード「死者」という言葉を使っていえば、「生きることとは、他者、そして死者から渡されたものを、他者に連綿と渡していくことだ」という決意である。
ヒカルと佐為が育んできた<関係性の履歴>は、二人の間で閉じているのではない。他者に連綿と受け継流れていくものなのだと『ヒカ碁』は提示するのだ。
ラストのヒカルの言葉は私たち読者に問いかける。
私たちが他者の死に対面したとき、いったい誰の死がそして想いが、己の中に現在するのだろうか。そして私自身が死んだとき、いったい誰の中に己の想いを現在させることができるのだろうか、と。
それこそが意味のある人生を、生きて死ぬということなのではないだろうか。 <了>
本日のマンガ名言:「 遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ 」
映画の興行収入と利益についての忘備録 吉田正樹「メディアのリアル」
吉田正樹「メディアのリアル」という対談本に、映画プロデューサ-の小滝祥平(映画『ホワイトアウト』のプロデューサー)との対談で、
映画の興行収入の話があったのでメモ。
だいたいの計算方法が以下だという。
興行収入(劇場にきた客数×チケット枚数の代金)が10億円とする。
このうち半分の5億円が劇場の取り分 (残り5億)
宣伝費などがざっくり2億円
配給会社に手数料で20~30%払う (ここで手元に残るのが2億円)
DVDやTVの放映権の収益が(仮に)5千万あるとすると、
手元に残るのが2億5千万円で「製作費回収+純利益」。
つまり2億5千万円の予算の映画は興行収入10億円でやっと回収できる
製作費のだいたい4倍の興行収入でトントン、というのが目安か。なかなかに厳しい数字だろう。
また、同本の対談の本広克行(『踊る大捜査線』の監督)によると、
通常の監督料(シナリオ、演出含む)が「三谷幸喜レベルで」500万円 とのこと。
ただし、本広は映画「踊る~」のときは、「固定ギャラの代わりに純利益の何%かをくれ」という特殊な形にして儲けたとのこと。当時は日本映画が冷え込んでいて、映画もそれほど当たるとは予測されなかったのでこれが通ったそうな。
一流監督(さすがに三谷レベルのヒットメーカーは日本にそういないだろう)のギャラが500万じゃ安いな。しかも振込は一年後だという。監督業だけじゃ食えないから、講演やワークショップで食いつなぐしかない。
是枝裕和のインタビューでも同じことが書いてあった。
「映画を撮りながら考えたこと」より
実際のところ、劇場だけで回収できている映画は1割くらいか、それより少ないはず。テレビ局資本のものを除けば、劇場だけで回収できているのは3%くらいではないかと思います。
ビジネスとしては博奕だよなぁ…と思った次第。だからといって「手堅い」どこかで観たことあるような作品ばかりなのは嫌なので、いい作品を作るためにがんばってもらいたい。(と無難にまとめる)
プロレス雑誌「KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 /ブル中野座談会が面白い
先日書店で、プロレス雑誌「KAMINOGE」(かみのげ)vol.57 を立ち読みしたのだが、滅茶苦茶面白かった。思わず一時間以上立ち読みしてしまった(だったら買えよなのだが、そこまで金ないのだ…)。
あまりにも面白かったので、忘備録もかねて、覚えている範囲で少し紹介。プロレスにあまり詳しくない人向け。そもそも私はプロレス雑誌読むだけ(試合は特に見ない)のニワカオタクなのでご了承を。
まずは、前田日明とスーパー・ササダンゴ・マシンの対談。(表紙のふたり)
ササダンゴ・マシンといえば、DDTプロレスの煽りパワポ、プレゼンレスラーとして有名。最近テレビにもちょくちょく出てる。
ササの中身は「お前平田だろ!」の平田ではなく(これは本家、スーパー・
テレビ番組「水曜日のダウンタウン」でササが「私のプレゼンはこちら!プロレス界で一番滑舌が悪いのは、実は前田日明」と、「滑舌悪いレスラー」の代表格である長州や天龍を押しのけて推薦したところ、ドッキリで前田本人が降臨し、ササダンゴを頭突きで制裁したらしい。その縁で二人の対談になったという。
前田がササに「(お前の煽りパワポの)DVDみたけどオチないじゃん」などと先制攻撃を仕掛け、ササはたじたじ。前田はササにくらわせた頭突きのことも「あれは音だけの奴だからそんなでもないよ。俺、たぶん頭突きはレスラーの中で一番うまい。痛いやつは額(ひたい)の正中線にやるんだよ。昔サイン求めてきたファンに頭突きしたら、膝から崩れ落ちたからね」とかます(笑)
前田はササを気に入ったようで「お前はもっとシモネタ磨けよ。俺は海外遠征したときに、向こうの人気レスラーが人気と下ネタ駆使して女抱きまくってたのから学んだもん。リングス時代(前田はリングスという総合格闘技団体を創設し、レスラー兼最高責任者をし、興行のプロモートも自身で行っていた)は、まず外人レスラーに下ネタで心つかんでから『日本で試合やればオンナとできるぜ!』と口説いて、団体に引き抜いてたんだから」と豪快なアドバイス。
ササが実家の会社の金型の話をすると(ササは実家の医療系金型会社の専務であり、兼業レスラー)、「今は金型も金属だけじゃなくて色々素材かえてるじゃん、セラミックスとか」と、ササが関心するほどなぜか金型に詳しい前田もみれる。「人件費安いからアジアに進出しなよ。ベトナムとか。日本人はモテるから」と会社経営にまでアドバイスするのは、さすが経営者。
そしてもうひとつ個人的に面白かったのが、全女(全日本女子プロレス)の女帝・ブル中野の座談会。ブルが経営するバー「中野のぶるちゃん」で、浅草キッドの玉袋ともうひとりプロレスライターで飲みながら、ブルの全女時代の昔話。
極悪同盟初期のブル
全女はやはり厳しい所で、よくも悪くもの「悪くも」の体育会系だったらしく、かなり苦労したようだ。
デビュー前の身分でありながら会長から直接指導をうけてたので、技はかなり上のレベルだった。前座試合なのに先輩たちが使う技を使ってたので(それがご法度だとは知らなかった)、先輩方からいじめやリンチされた。
新人時代は食べて体を大きくしなければいけないが、先輩の世話や興行の準備に追われて食べる時間が全くなく、移動バスのなかで隠れてゴミ箱から漁った先輩たちの残飯食ってた。
などの苦労話も相当に面白かったのだが、
やっとレスラーとして独り立ちできると思ったら、会社からヒール転向を告げられ、泣くほどショックだった。当時のヒールは日本社会の全員に嫌われることと同じで、シャバを捨てるのといっしょだったから。(これは本当にそうで、女子プロの「ヒールで人気」というのが確立したのは、もう少しのちの極悪同盟がプロレス以外でテレビに出だした頃、と私は認識してる。まぁ、「ヒール人気」は普通の人気とは意味合いが違うのだが…)
当時ファンの男とつきあってたが、ヒール転向したらその彼氏が別の女子レスラーにのりかえてしまった。
全女はタイトル戦でもピストル(シュートのこと。結果の決まったアングルではなくガチの試合)だった。さすがにアイドル人気が凄いクラッシュギャルズは負けさせるわけにはいかないのでプロレスだった。
全女の社長が、選手をひとりひとり部屋に呼び出して「あいつ(対戦相手やライバル)はお前の事嫌ってるぞ。お前を潰そうとしてる」と嘘を言って煽ってた。みんな十代でプロレス業界に入った世間知らずの女子なので、本気でそれを信じてた。だから相手の事が本気で憎くてそれが試合に出てた。
30歳前になると、どんなトリを張ってたトップスターでも露骨に第2試合に組まれて2軍扱いされる。後輩からも冷ややかな視線で見られ、否応なく引退のレール(空気)がひかれる。だからダンプなどのトップレスラーはその前に全女を離脱した。私が初めて、全女でその「定年」にひっかかることなく全女でトップを走った。
など、全女裏話が滅茶苦茶に面白かった。
そしてこの座談会読んで何より驚いたのが、ブル中野が今現在、現役の時からは信じられない美熟女だということ。これは知らんかった。
お店のブログより
とそういうわけで、プロレス好きはもとより、「プロレス知らないけど何か面白いもの読みたい」という人にも、この「KAMINOGE」はぜひ買って読んでもらいたい。もちろんまずはお前が買えよ、という話なのだけど(苦笑)
あと機会があったら「中野のぶるちゃん」行ってみたいと思った。酒飲めないけど… <了>
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました(友人が)。 その2
前記事の続き。
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が - 文芸的な、あまりに文芸的な
さて、私が見せてもらって特に好きだな、うまいなと思った歌は、
作業着に集まる無数の小豆たち どんなに美しかろうと死は死
まるで毒でも入っているかのようにコロネのチョコを除いて食べる
「10年後、私なにしてるんでしょう」桜餅の葉は水気を無くし
3Dプリンターから出た風が桶屋を儲けさせていた過去
だろうか。
1と3は、死をみつめながら、餡子を味わっているような感じ、「餡と死」という対比がいい。
2と4のコロネと3Dプリンターの歌は、雑誌に掲載された15首に入る。仕事中に動いている3Dプリンターを見て、「この風が桶屋を儲けさせていたのか」とふと思ったような「ふとした瞬間にする飛躍した発想」を歌っているように感じて面白い。
2のコロネの歌は穂村が「作者は、餡子がよきもので、対比としてチョコを毒としてとらえているのかな」と。
一方、選考委員から評価の高かった歌は
飛び降りるのかと思って見ていたがそれは飛び立ったような気がして
(遺影用トレースをする残業をする人が食べる)どら焼きふたつ
世界は終わるものではなく要らなくなるものだ そこらじゅうみんな餡精製所
だった。
餡というノスタルジーの中に死の匂いのする歌だ。
特に3の「そこらじゅうみんな餡精製所」は、「世界が<みんな餡精製所>になれば、世界からは差異がなくなり、そこに意味はなくなるのだ」というような選者の評があって、作者本人が「そこまで深く考えて作ったのではないというか、よくそこまで深読みして言葉にして批評してくれて驚いた」と舌を巻いていた。
選者の方々はさすがプロの歌人なだけあって、作者の手から離れた短歌を作品として「深読み」し、素人ではわからない(なんとなく感じるが言葉にならない)指摘をくれるものだと思った。
あと、今回の新人賞受賞を最終選考通過作以上をみてみると、たぶん6、7割くらいは30代以下の若い応募者だったと思う。あとは40代。新人賞を受賞したのも大学生(女子)と若かった。
現代短歌は本当に若い人の市場なんだなぁと思った次第。ツイッターとか投稿サイトとかあるから、入口は入りやすいのだな、と。
今回の友人の受賞に触発されて、私も短歌はじめてみるかなぁ…と半分以上本気で思ったりもした。
でもマンガ読んだり将棋指したり、やりたいことがたくさんあって決められないわ…と一人ごちる私だった。
あと最後に告知。次回の文学フリマ東京(11月の祝日)、前回5月と同じくサークル参加するかも。
ただ、文フリの学祭的なお祭り雰囲気は凄く楽しかったのだけど、また新しくいろいろ記事書いてミニコミ作るのははっきり言ってめんどい。忙しいし。
まぁ仮申し込みはしてあるので、お金振り込むかどうかはまた決めなければ。
鋭意的に同人誌作ってるひとのタフネスがうらやましい。同人制作が趣味な人は、他にマンガや本読んだりすることにどれだけ時間とエネルギー使ってるのだろうか?やはり一番、同人誌作りにエネルギー割いているのだろうか?
我々は本読む方が一番の趣味だから、記事書いたりいろいろとめんどいことは後回しになる…
趣味の場を広げるために、月1の読書倶楽部にも入会したし
短歌研究新人賞・最終選考通過、候補作受賞しました。友人が
私の友人が短歌雑誌「短歌研究」の新人賞で候補作を受賞した。新人賞(1名)、次作に次ぐ銅メダルで、応募500人のうちの8人くらいに残り、雑誌で選考歌人に1P半の選評が載せられた。これは快挙だ。
短歌研究新人賞候補作。ありがたいことです。
— 和田浩史 (@hirofumi) August 21, 2016
誰一人作れないのさ完璧な白餡なんて黒餡だって/和田浩史『an』 pic.twitter.com/a7VK1Dx6Yu
応募した友人は、私と前回文学フリマに参加して短歌パートを担当した。
「短歌研究」の方には応募した30首(連作)のうち15首掲載されたのだが(新人賞受賞者1名だけが30首掲載された)、その応募した30首を本人の了承を得てここに公開する。
タイトルは『an』。 あんこに関連した連作だ。
選考では、加藤治郎という歌人(歌誌「未来」の選者らしい)が推してくださったようだ。
『an』というタイトルからは容易に連想できない、製餡所という「現代」とは逆行しているが、しかし確実に町のどこかに存在している「甘くて懐かしい」存在をテーマにしたことがうけたらしい。
私の(作者である友人も)好きな歌人の穂村弘も選考者だったが、「僕は特に好きじゃないな」とか書いていたので、少し残念だった(苦笑)
…と、この項まだ書きたいがブログ文字数がいっぱいになってしまった。次回は、連作の中からいくつかとりあげて私の評価、そして選評委員からどう評価されたかの解説をしたい。次回に続く