文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに

今回は、ほったゆみ(原作)・小畑健(漫画)ヒカルの碁』。

 唐突だが、私が道徳的観点、というより「人生の指標になる」という観点から「小学生が絶対に読むべき少年漫画」をいくつかあげるとしたら、「他者と内発的につながることーーそれが結果につながるのだということ」という、いわば「人生を生きる上で最も必要な心構え」を見事に描ききった、藤田和日郎うしおととら(96-99 週刊少年サンデー)と、荒川弘鋼の錬金術師(2001-10 月刊少年ガンガン)を真っ先にあげる。この2作を読めば、「マンガに人生を教わる」経験ができると、私は断言する。

 他にこれを、(次点として)ジャンプ漫画からあげるとすると、少し考えてしまう。

ジャンプの掲げる「努力・友情・勝利」は、「努力友情」は道徳的にいいとしても、「勝利」の部分がエンタメに寄りすぎていると感じる(「勝利」というのは過程ではなく結果であり、マンガの面白さを成す部分だ)。

勝利は人生の必須条件ではない。だからジャンプ漫画から「部分的に」人生を学ぶことはあるが、「作品丸ごとが人生の役に立つ!」と断言できるようなジャンプ漫画は、私にはぱっと思い浮かばないーーと書いてて思い出した。井上雄彦スラムダンクがあった。忘れるなよ俺。

人生の勝敗について私は思う。人生は勝てば当然うれしいが、ーーこれを理解してない大人も多いだろうがーー実は、人生は負けても構わない。 いや、というより、人生である以上そこには勝つことも負けることもあり、その上でなお続くのが人生なのだ。たとえどんな人生であっても、そこにはただ、「人生という味わい」があるだけだ。巷にある「人生は勝ち負けではない」という言葉は、たぶんそういう意味だろう。

先にあげたスラダンだって、最後山王戦に勝った後に、次の試合で「嘘のようにボロ負けした」からこそ深い味わいが残り、今なお名作として漫画史に君臨しているのだ。

ーー話が少しずれた。

今回紹介する『ヒカルの碁』、そんな「小学生が絶対に読むべき少年漫画」にあげても謙遜のない、優れたジャンプ漫画である。(と、この一文を書きたいがために前置きが長くなった!)

佐為(さい)編の終盤(コミックス14巻~17巻あたり)は、この漫画を傑作たらしめている。

 主人公ヒカルは、平安時代の天才囲碁棋士佐為(さい)という霊に取り憑かれる。佐為はかつて、江戸時代最強といわれた棋聖本因坊秀策に取り憑いていた幽霊だ(つまり、秀策の囲碁は佐為によるものである)。ヒカルはそれを境に囲碁にのめり込み、その才能と努力によって、中学生という若さながらプロ棋士になる。と、ここまでが物語の序盤。

そして佐為編・終盤のあらすじ ~~~~~

日本囲碁界のトップ・矢名人ネット碁を覚えたことをヒカルは知り、佐為はかねてから対局したいと願っていた塔矢名人と対局するチャンスを得た。幽霊であり自らの正体を明かせない佐為は、匿名のネット碁でしか対局できないからである。塔矢名人も、ネット上でsaiと名乗るただならぬ強さの何者か(正体は佐為)に強い興味を示していたので、ついに二人の対局が実現した。

この頂上決戦は一進一退の熱戦となり、佐為の妙手によって、佐為が辛くも勝利を収めた。強敵に打ち勝った佐為は深く満足し、これほどの名局を戦うことが出来た塔矢名人に深く感謝する。そのときヒカルは、盤面を見て言う。「この手だったら佐為の負けだ」局後の検討で、ヒカルは佐為も塔矢名人をも上回る手を発見し指摘したのだ。この瞬間、佐為は悟ったーー「私が亡霊として千年存在してきたのは、『この一局をヒカルに見せるため』だったのだ」と。そして役目を終えた自分が成仏するときが、まもなく来るということを…。

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…時が過ぎ5月5日。いつものようにヒカルが佐為と碁を打とうと、ヒカルが碁盤を用意しているときにーーヒカルが気づかぬうちにーー佐為は陽光の中に消えていったのだった。ヒカルに声をかけることも叶わず…。

佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。佐為を探しに、本因坊秀策所縁の地を巡る。そしてヒカルは、初めて秀策の棋譜を見直し、今になって初めて佐為という棋士の天才さを実感するのだった。

佐為がいなくなったショックで、ヒカルはプロ棋士の活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続いていた。ーー自分が碁を打たなければ、打ちたいと思わなければ、いつか佐為が帰ってくるのではないかーーと願うように思って。

そんな中、院生時代の同窓生でライバルだった伊角がヒカルの家に来た。伊角は、前回のプロ試験でのヒカルとの対局で反則負けを犯しプロになり損ねたという苦い記憶を、今回のプロ試験に臨むにあたって振り払うために、ヒカルとの対局を申し込む。当初は気の進まないヒカルであったが、「これは自分のためでなく伊角さんのためだから」と対局を受ける。

その対局にヒカルは次第に没頭しーー自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手と重なることにヒカルは気が付く。今まで探していた佐為がーー自分が佐為から受け継いだ囲碁の中に佐為が存在することを、ヒカルは悟ったのであった。

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ヒカルは涙を流し、これから終生、何百何千という碁を打ち佐為の面影を追うという決意をする。

~~~~~~

 ここは『ヒカルの碁』という物語全体を通して、盛り上がりが頂点となるところだ。

以降『ヒカ碁』は、佐為という一番の(あるいは唯一の)「マンガ的なキャラ(囲碁最強の幽霊)」を消したことによって、より現実な話づくりにならざるをえず、「マンガ的な表現」の幅を狭くしてしまう。佐為編のあとに続く「北斗杯編」を読むと、いかに佐為というキャラクターがヒカルという主人公と絡み、ヒカルと佐為が「二人で一人」なキャラクターとしてこの漫画を引っ張っていたかというのがわかる。

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「マンガはキャラクターが命」という漫画原作者小池一夫の名言(というか信念)が思い出されるが、本稿は「漫画文学論」なのでキャラの話はこれ以上しない。

あと念のため述べておくが、北斗杯編はそれはそれでまた盛り上がるし面白いので、ぜひ読んでもらいたい。佐為がいないというだけで(だけなのに)、まるで(微妙ながら)別漫画のような読み応えとなっているのも、ぜひ確認してもらいたい。

さて、漫画文学論。『ヒカ碁』の文学的なポイントをあげたい。

それは「死者は現在する」という事を、感動的に描いたところだと思う。今現在のゲンザイ(ゲンにアクセント)ではなく、「現に存在する」という意味のゲンザイ(ザイにアクセント)である。もちろんそれは、死者は幽霊になるとかいう話ではない(佐為は幽霊だけど)。

ここに描かれているのは、死者は死んだことで存在を失うのではない。むしろその存在感が増すのだ、という「死別することで人(生者)が直面する気づき」である。

佐為という幽霊は、成仏することで、語りかけることも語りかけられることもできない「完全な死者」となった。完全な死者となったことで、ヒカルにとってその存在が消えたのではなく、逆にヒカルにはーーまるで自身の内面にべったりと張り付いたようにーーその存在が増したのである。

話は少し変わるが、佐為のその成仏の仕方ーーつまりヒカルとの別れーーは、そこには悲劇さのかけらも感傷的に泣かせるような演出もなく、静かにすっと消滅するというものであり、非常に儚いものであった。毎週のアンケートで人気を判断される少年誌連載でありながら、別れの場面にわかりやすく派手で感動的なシーンにせずに、作者があえて、この静かな別れとして描いたことを賞賛したい。

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そしてこの「唐突で、静かな別れ」こそが、ヒカルが、佐為との別れを受け入れることのできない要因となった。もし別れの場面で、佐為とヒカルが何らかの別れの言葉を交わすことができたなら、ヒカルは佐為の消失を受け入れる、とはいわないまでも多少なりとも消化することができただろう。

しかし唐突な別れ(現実世界でいえば突然の事故で死別する、などに相当するだろう)は、それを心の底から受け入れることをさせない。ただ喪失感ーーというより、それを伴った困惑が襲ってくるだけだ。 

このような「死別と、死者の重さ」を記した本に 『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)というのがある。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

著者は恐山にある寺の住職である。言うまでもないが恐山は霊場であり、またイタコで有名であり、そこには死別した者となんとか話したい、思いを届けたいという人々がたくさん来る場所である。

 恐山には、死者の供養に来た者によって、大量の供物が持ち込まれる。故人の衣服だけでなく、故人が「生きていたら」その年齢で着ていただろう新品の服(つまり定期的に買い換えてお供えしている)もある。また結婚前の子を亡くした親は、せめてあの世で結婚させてあげたいと、花嫁人形や花婿人形、ウェディングドレスのお供えもあるという。

また恐山の岩場の草葉の陰には、参拝者が勝手に作った簡単なお墓(20cmほどの石板に戒名や名前が書いてある)が並び、お供えしてある石には、「もう一度会いたい 声をききたい」「○○くん、また会いに来るからね」などと書かれているという。

そこには、死への、いや「死者」への、圧倒的なリアリティがある。

 著者は考える。なぜ恐山に、こんなに多くの人が死者の供養をしに来るのだろうか。いや、人はそもそもなぜ「死者の供養」なんてことを考えるのだろうか。

恐山に来て2年ほどたったとき、著者は気づく。「ここには死者がいるのだ」と。死者は実在するのだとーー。

そして続ける

一見、死というものは、死者の側に張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山で掴んだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。

と。 そしてその根拠も著者は述べる。

 死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)

生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。

つまり、死者は生者がいるかぎり、生者のなかに現在するのだ。(南老師は「実在する」と書いているが、死者はもはや存在をもたないので、私は「現在する(現にある)」といいたい。)

話を『ヒカ碁』に戻そう。

ヒカルにとって佐為は掛けがえのない存在だった。それは同じく、佐為にとってもヒカルが掛けがえのない存在だったからである。片一方方向における関係ではなく、相互方向における結びつきだったからこそ、そこには(ヒカルにとって佐為は)強固な絆があったのだ。

そして、佐為は消えた。ヒカルは佐為の不在に戸惑い、苦しむ。

しかし、囲碁を通して、佐為と自分をつないでいた囲碁を通して、自分が打つ一手の中に、つまり己の中に、佐為が現在することに気付いた。

ヒカルは、自分と佐為が、<関係性の履歴>を育み、そこに強い絆があったことを始めて認識したのだ。

 (<関係性の履歴>については、拙ブログ記事 業田良家自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味 を参照してほしい)

akihiko810.hatenablog.com

 そしてヒカルは「北斗杯編」の最後、「お前はなぜ碁を打つのか」という問いに、「遠い過去と、遠い未来をつなげるために俺はいるんだ」と答える。

それは、碁の歴史に名前を刻むとか、佐為の碁を後世に残すとかいう話ではない。今回の記事のキーワード「死者」という言葉を使っていえば、「生きることとは、他者、そして死者から渡されたものを、他者に連綿と渡していくことだ」という決意である。

ヒカルと佐為が育んできた<関係性の履歴>は、二人の間で閉じているのではない。他者に連綿と受け継流れていくものなのだと『ヒカ碁』は提示するのだ。

ラストのヒカルの言葉は私たち読者に問いかける。

私たちが他者の死に対面したとき、いったい誰の死がそして想いが、己の中に現在するのだろうか。そして私自身が死んだとき、いったい誰の中に己の想いを現在させることができるのだろうか、と。

それこそが意味のある人生を、生きて死ぬということなのではないだろうか。 <了>

 

本日のマンガ名言:「 遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ 」