『エロ本黄金時代』にみる、伝説のエロ本ライター・奥出哲雄という男の栄光と転落
サブカル度数の高い傑作本を読んだ。
『エロ本黄金時代』(本橋 信宏,東良 美季)。
タイトル通り、「エロ本黄金時代」である80年代のエロ本の変遷と、エロ本周辺の出版カルチャーを解説した労作だ。
私は85年生まれなので、エロ本カルチャーの洗礼は全く受けていない。私の「知らない世界」なのだが、この時代のこの業界の持つ熱気と”イカガワシサ”は、ものすごく面白いものだったようだ。
本書の内容を紹介したい。
- 80年代エロ本クロニクル ーー80年代エロ本の変遷と紹介
- 日本出版歴史のターニングポイント、80年の自販機本の世界 ーー「エロも載ってるサブカルアングラ雑誌」である、自販機本『Jam』は、なんと山口百恵宅のゴミ漁りを載せた(『Jam』については、ウィキペディアに詳しい。 Jam (自販機本) - Wikipedia )
- エロ雑誌に「AV批評」を持ち込んだ伝説のエロ本ライター・奥出哲雄
- 『ビデオ・ザ・ワールド』中沢慎一編集長インタビュー ーーサブカル色の強いエロ本。2013年に休刊。写真は撮影するのに金がかかるので、AV批評など文章を多く入れた内容だった。
- エロ本『でらべっぴん』の英知出版・AVメーカー宇宙企画の社長・山崎紀雄についてのコラム
- AV黎明期(80年前半)のヌードモデル中村京子インタビュー
- エロ本デザイナー有野陽一、明日修一インタビュー
- 不良雑誌『BURST』編集長ビスケンの(エロ時代)インタビュー
と、エロ本がかつて持っていた「カウンターカルチャー性」を知ることのできる内容。
どの項目も眩暈がするほどサブカル濃度が濃くて面白いので、各項目について詳しくはぜひ本書を読んでもらいたい。
今回取り上げたいのは、本書に取り上げられていた<伝説のエロ本ライター・奥出哲雄>である。
奥出哲雄。現在インターネットで検索しても、ほとんど彼に関する記事は出てこない。本書の紹介記事の中にぽつんと名前がヒットするくらいだ。いわば「忘れられた人物」といっていい。
奥出に関する情報で、唯一彼の人物像を書いたネット記事は、奥出に莫大な借金を背負わされた(!)AV男優の太賀麻郎が回顧した記事だけである。
太賀麻郎のブログ 復刻版・消えたハズの日記「奥出哲雄という生き方」2009/5・29
奥出について、太賀はこう書いている。
借金から逃げるような生活の氏は、妻子と相変わらずの別居暮らしで、事務所に住んでいた。
そこで金がないのに伝言ダイヤルにはまり、月に100人もの女の子を食った。
この老獪な妖怪のようになった彼に女の子達は援助交際のつもりで来ていたのに言いくるめられ、逆に説教までされて、若い肉体をむさぼられた。
アロックスの倒産で、氏の髪の毛はすべて抜けおち、体毛もすべて抜け、生えてこない状況の風貌はかなり不気味で、初めて見た人は度肝を抜かれるようであった。
なにやら悲惨な状況である。
しかし、本書を読むと、奥出哲雄は天才であり、間違いなく栄光を手にしていたという。
本書著者の東良美季は、奥出を師匠と仰いでいたようで、本の中で2章にわたって奥出の記事を書いている。
この記事では『エロ本黄金時代』に紹介されていた、伝説のエロ本ライター・奥出哲雄という男の「栄光と転落」を忘備録として記しておきたい。
- 1950年生まれ、日大芸術学部卒業後、映画界が斜陽なのでピンク映画界に入り、山本晋也監督のチーフ助監督になる。村上龍が撮った映画『限りなく透明に近いブルー』では助監を務め、内トラ(身内エキストラ=スタッフが務める)として地下鉄に乗る三田村邦彦を追いかけてくる警察官として出演。小芝居をして、転ぶ警察官を演じた。
- ピンク映画の助監では食えず(年収35万、とのこと)エロ本ライターに。まだAVがなかった時代、『オレンジ通信』というエロ本で、ビニ本、裏ビデオを自分の足で仕入れ、自ら「オクデ先生」と名乗って紹介。単なる紹介ではない批評精神の高い記事を書く。東良は「奥出がエロ本の世界に批評を持ち込んだ」と評する。奥出はのちに『オレンジ通信』では紙面の6割の記事を書くことになる。
- アダルトビデオの本格的な批評誌『ビデオ・ザ・ワールド』創刊。編集長は、この雑誌はもとより奥出ありきだった(と著者東良は考えている)。この雑誌において取材ものに関しては、奥出の独断場だった。当時は「あの気持ち悪い」という評価であった村西とおるを、同誌で1番最初に評価した。
- 月産1千枚以上は書く仕事量で、「去年の収入は一千二百万円を超えた。来年には二千万に届くであろう」と記事に書いていた。ワープロがほぼない時代なので右手が腱鞘炎になり、担当編集者が口述筆記していた。
- 今でいう、大学教授の姜尚中のような風貌で、ニヒルでインテリだった。自身を偽悪的にみせるところがあり、奥さんがありながら、いつも4、5人の愛人がいると公言していた。とっかえひっかえ女性を口説いていた。
エロ本業界の姜尚中。奥出のダンディなたたずまいがわかろうというものだ。
大量の仕事をこなし、ライターとして破格の金を稼ぎ、女を口説きまくる成功者ーーそれが奥出であった。
しかしこの後、奥出はAV業界へと転身し、そこから転落の道をたどることになる。
- AVメーカーにディレクターとして関わる。村西とおるが女優とスタッフを引き連れAVメーカー「クリスタル映像」を離脱し、「ダイヤモンド映像」を設立したため、奥出は人員のいないクリスタル映像に移籍。奥出チームはクリスタル作品の半数を占めたという。
- AVメーカーアロックス設立。しかしバブル崩壊と共に、実質2年で倒産。アロックスの作品の正規盤はあまり売れず、発売後1週間もすると海賊盤が出回っていたという。内部の人間が海賊盤を作っていたという噂もあった。 これにより奥出は借金を背負う。
- 太賀麻郎の言うように、倒産してからの奥出は髪の毛がすべて抜け落ち、海坊主みたいな風貌だった。
- 彗星舎というセルビデオメーカーを設立。「薄消し」というグレー(限りなく非合法)なビデオを制作。04年猥褻図画の容疑で逮捕拘留。
- 太賀麻郎は奥出の借金を背負って自己破産。奥出はその後失踪、現在の消息はわからない。
以上が本書『エロ本黄金時代』から読み取れる、奥出哲雄の半生である。
私は読んでいないが、東良美季は『東京ノアール 消えた男優太賀麻郎の告白』という小説を発表したという。
「AV男優太賀麻郎が、80年代末期~現在を回想する」という内容だそうだ。これがノンフィクションでなく「小説」という形式なのは、事実として書くにはヤバすぎる内容を多く含むこと、そしてあえて取材で裏は取らず、特異な感性の持ち主である太賀麻郎の目からみた世界を書きたいと思ったからだそうである。
この小説の中に「赤木晴彦」という男が出てくる。これは奥出がたまに使っていたペンネームで、奥出哲雄がモデルであり、本記事で述べたような転落を遂げる。「太賀麻郎から見た奥出哲雄」像である。
東良はこの小説を書き終えたあとも、「奥出哲雄」と「赤木晴彦」がうまく繋がらず、まるで「その時々で人格が2つに分裂していく」ようだと述べる。
(奥出の数々のトラブルのせいで)彼を悪く言う人がいる。しかし、僕にはそれが理解出来ない。太賀麻郎から聞いた話を元に『東京ノアール』という長い物語を書き終えて尚、それでも判らないのだ。何故なら奥出は僕にとって、常に限りなく優しい男だったからだ。
かつてエロ本業界には、奥出哲雄というーー少なくとも一人の男にとっては「優しかった」男ーー、一時代を築いたライターがいた。時代と共にに忘れ去られたこの男の半生を、現在に克明に伝えるだけでも、この『エロ本黄金時代』は価値のある傑作である。
極私的女優論:マンガ『私の少年』と、「私の妹」にしたい杉咲花
30歳独身恋人なしのOLが、ふとしたことから美形の少年に、夕方だけサッカーを教えることになることになり、そこから二人の交流が始まるマンガである。そこでは独身OLお姉さんと少年の、親子でもなく姉弟でもなく友人でもなく恋愛でもない、奇妙だが心地よい関係性が描かれる。
あとがきで作者曰く「これまで男性向けジャンルだったおねショタを、女性向けにしたもの」だそうだ。おねショタとは「おねえさん×ショタ」のことである。(私は「おねしょするショタ」と勘違いしてた。しかし気になるのは、おねショタ読者は、お姉さんに萌えるのだろうか、ショタに萌えるのだろうか?それともショタがお姉さんに甘える関係性に萌えるのだろうか?)
この『私の少年』に出てくる二人ーー30歳独身OLの聡子と、12歳美少年のましゅうーーは、30歳独身OLの聡子は仕事に悩む一般的な女性として、つまり30歳独身女性として一般的な「リアル」に描かれているのに対し、ましゅうは子供らしい純粋さやひたむきさを持った美少年キャラとして、つまり一種の「大人のもつ、<理想の子供>のイメージ」のキャラとして描かれている。
ましゅう(上)と聡子
私は昔、小学生という「少年」だったので断言するが、ここまで「純粋さ」を持つ12歳の少年は、現実には存在しない。なぜなら男子にとって少年期とは、人生で一番アホな年頃だからである。現実の小学生男子は、友人たちとクラスの女子に「ブス!」と悪態ついてにからかったりする「馬鹿ガキ」か、あるいは少し背伸びして大人ぶった言動をする「ませガキ」である。そこにあるのは輝くような「純粋さ」ではなく単なる「アホさ」だ。
もし、ましゅうのような<大人の考えるような理想の子供>が、実在するとしたら、クラスの大多数に馴染めず実はいじめられてるような、影のある孤独な子供だろう。
いずれにせよこの「純粋な美少年」は、リアルなキャラというより、大人(読者)の妄想を体現する理想のキャラ、といった側面が強い。
ましゅうが「妄想を体現する理想のキャラ」であり、聡子が「リアルなキャラ」ーー私達読者のリアルを投影する役割を持つーーだからこそ、この作品は強い魅力をもつ。
そしてこの作品は聡子というリアリティの上に成り立ち、フィクションでありながら「これ実在するかも」というリアリティある作品として成立している。
さて、私がこの作品を読んだ(既刊3巻まで読んだ)ときの感想は、まず「この出だしは傑作マンガになる予感!」だった。ここからどういう展開になり結末を迎えるのかはわからないがーーまさか、聡子と大人になったましゅうが結婚エンド、なんて陳腐な結末にはしないだろうーー、二人の成長とそこで変化する関係性を見ていきたいと思った。そしてもうひとつの率直な感想、むしろ私がこの漫画を読んでの第一声は「こんなのズルイ!」であった。もう少し詳しく言うと「女性ばっかり美少年に癒されるなんてズルイ!俺も癒されたい!」だ。
そりゃオトナの女性(読者)は現実に疲れているわけで、たとえ非現実的でも「純粋な美少年」に癒されたいのは当然だろう。オトナの女性は皆、純粋無垢な美少年に回転ずしをおごってあげて、楽しい時間を共に過ごしたいのである(聡子がましゅうを連れて初めて回転ずしに行くシーンは、この作品屈指の萌えシーンだと思う)。そこのツボを絶妙に押してくるこの作品は、実に目のつけどころがいい。
ましゅう初回転ずし。これは萌える!
私が「ズルイ」と思ったのは、そこには「性の非対称性」があるからである。これを男女を逆にして、「おじさんが、(親戚でも何でもない)全くの他人である美少女を愛でるマンガ」にしたら、もうこれは完全なフィクションになってしまうのだ。
このご時勢、「おじさん×純粋な美少女」は現実にはポリス沙汰である。それは大袈裟だとしても、そこにはどうしてもーーたとえ男性側に「その気」がなくてもーー見る側には男性側の「下心」がまとわりつく。
もちろんこういう「おじさん×純粋な美少女」設定のマンガは、(私には今の所思い浮かばないが)いくつかあるだろう。しかしそういう作品を「これ本当に実在しそう」なリアリティを提示して、ここまで深い関係性を成立させるのは、かなり困難なことのように私には思える。
『私の少年』にも、現実的なリアリティを表す場面として、<聡子が、親でなくただの他人でしかないましゅうの家庭の現実的な問題に対し、何もなす術がないことを思い知る>という場面がある。女性でもそうなのだから、男性が美少女を愛でる物語は夢物語というものだ。
そういう、絶妙で危ういリアリティの上に成立しているのが『私の少年』という作品である。
ーーとここまでマンガの紹介をしたわけだが、実はマンガ紹介だけをしたいわけではない。
「俺も『私の少年』みたいに、こういう女の子と仲良くおしゃべりしたい!癒されたい!」と思った話を書きたいのである。
先日、CSで『湯を沸かすほどの熱い愛』(16)という映画を観た。その年のキネ旬邦画ベストテン第7位、というなかなかの出来の映画であった。
宮沢りえが主役の母親役で、その娘(たぶん高1)役を、杉咲花が演じていた。
銭湯の娘役の花ちゃん
杉咲の演技は上手い。顔立ちは地味ながら愛嬌があり、私の好きな「若い女優」である。
私が彼女を女優として認知したのは、世間と同じく味の素のCMで回鍋肉を食べるシーンを見てだと思う。
以来ドラマとかで見かけると、存在感あるなぁと思っていたのだが、この映画が公開されたときに、番宣で『しゃべくり007』に宮沢りえと出演した回があった。
杉咲はトークで「『とと姉ちゃん』に出てから皆をくすぐるのがマイブームで…」と言って、ネプチュ-ン原田をくすぐりながら、なぜか
「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げていた(逆に、くすぐられている原田が「全然くすぐったくない」と全く笑ってないのにウケた。)
この光景を見て私は、「か、可愛い…」 一目惚れした。
笑い声を文字起こしすると「ウィーィッヒヒヒィー!」である。私は今まで、こんなに珍妙な笑い声をあげなら、ここまで無垢に笑い転げる女性を見たことがない。
笑い声が超ヘンでかわいい
その笑い転げる様に一目惚れした。しかしこの一目惚れは、「好き。付き合いたい」という感覚とは違った。私はおそらく、一回りほど杉咲の年上だろう。彼女と付き合いたいというより、妹になってほしいと思った。いや、妹だと近すぎる …親戚のおじさんになりたい。
そう、「親戚のおじさんになりたい」と思った。たまに会ってご飯でも食べながら話をして、そのときに「ウィーィッヒヒヒィー!」と奇妙に笑い転げて、私を癒してほしいと思った。
他愛のない話をしたら、なぜか彼女が「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げて、それにつられて私も笑ってしまう。彼女が「くすぐってあげるよ」と言って、笑い転げながら私をくすぐるが全然くすぐったくない、「くすぐったくないよ!」と私がツッコむと、やっぱり「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げる彼女 ーーそんな素敵な時間を過ごしたい。
そしたらおじさん、回転ずしでも回鍋肉でも何でもごちそうしてあげるわ。いやむしろごちそうさせてください!な気分である。(とはいえ、杉咲の方が私よりよっぽど金持ってるだろうけど)
ーーというわけで、マンガ『私の少年』みたいに、「年下女優・杉咲花と一緒に楽しい時間を過ごしたい!俺も年下に癒されたい!」という、私(おっさん)の妄想記事なのであった。
と、ここまで書いて、『私の少年』が男女逆になると一抹のキモチワルさが出てしまうことが実証されてしまうのであった(苦笑 さすがに俺もキモイことを書いてるのは自覚しているぞ!)
ところで杉咲花は、今ウィキペディアみたら97年生まれとのことで、現在20歳のようだ。顔立ちが幼いのか、高校生程度にしか見えないけどなぁ。
意外と大人だが、それでもやっぱり恋人ではなく親戚のおじさんになりたい(笑)
そして、肝心の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』だが、いじめられている杉咲がいじめに抗議して、教室で下着姿になるシーンがある。
このシーンを見ても、特に「眼福!」とうれしいわけでも、ドキっとするわけでもなく、ただ「わかったから、とにかく服着なさい!」となぜか保護者のような複雑な気持ちになってしまうのであった(苦笑)
だから私は、これからは杉咲花の概念上の保護者(エア保護者)として彼女を見守っていきたいと思う。もし彼女がお嫁にいくことになったら、エア祝辞を出して泣いてお祝いするつもりだ。 <了>
過去記事:女優・大後寿々花と、クンニ顔という概念
1年程前に書いた、大後寿々花 についての極私的女優論
イベント「モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」レポ
「モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」という新宿でやったイベント(トークショー)にいってきました。メモしたことを公開。
二村といえば、恋愛指南本『すべてはモテるためである』(男向け)、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか 』(女向け)の著書。私は二村の本はほとんど読んでいるはずだ。二村の話目当てに行った。
なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)
- 作者: 二村ヒトシ
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2014/04/10
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深志美由紀という人は知らなかったのだけど、団鬼六賞をとった官能小説家だそうだ。ドMでだめんず好きで、売れないバンドマンを養ったりするのが好きだとのこと。
ところで今のご時世、官能小説って食えるのだろうか…?
アダルトグッズ企業のラブメルシーが協賛してたので、参加者全員にバイブと試供品コンドームが配られた(笑
ということでメモ公開。 ざっくりメモとっただけだったのと、イベントから数日たってるため記憶も曖昧なので、完全に正しい書きおこしではないので容赦されたし。
二村:自分は演劇をやっていてそこそこ客が入っていたが、スズナリとかで松尾スズキの「大人計画」をみて「こいつらには勝てないわ…」と思った。
そのときにはもうAVの世界に足つっこんでいた。なぜか根拠もなく「俺のセックスはカネになる」と思っていた。セックス好きだったので。ちょうど子供が産まれた時期が、運よくSODが出てきたときで、AV作品でも「痴女モノ」がうけるようになったので、AVで食えてた。…とのこと。
二村が演劇やってたのは知っていたが、大人計画みて挫折した口だったのは初めて知った。私も大人計画好きなのだが、そういう演劇人は多かっただろうと想像できる。 あとこの講演とは関係ないが、SOD勃興期の話は、本橋信宏 著『新・AV時代 悩ましき人々の群れ』 に収録されていてかなり面白かったので、皆さんぜひ読んでみるといいと思う。
〇男性向け編
深志:私はヤリチンとばっかつきあってた。「感じのイイ馬鹿」が好き。二村とも同意したが、「うわの空な男(自分に100%を注いでこない男)はモテる」。ムーミンでいうスナフキン。
二村:恋愛工学は敵だが、論理的には正しい。一人の女に執着する男は(二村用語でいう)キモさが出る(恋愛工学でいう非モテコミット)ので、そうならないようヤリチンになるべき、という理論なので。 非モテが恋愛工学身に着けてもキモい。
深志:デートコースからセックスするまでを詳細に練習するヤリチン男がいた。このタイミングで手を繋いでキスして…みたいなのを事前に一人で現場で練習する。部屋は間接照明にお香。普通に考えればこんな男はキモいのだが、実際のデートでは全くキモくなかった。ギラギラ感がなくなるまで練習すれば、キモさは出ないのかも。
二村:男は「多くの女にモテたい」と思えばヤリチンになり、その逆ならラピュタみたく空から落ちてくる運命の女を待ってるような男になりキモい。
モテたいと思う相手がいないのに、男はなぜモテたいと思うのか?社会的に承認されたいとか、男社会のお約束がキモイ。なぜモテたいのか、こういう欲望を持っているのかということを男は考えなすぎ。 逆に女は、「なぜ私はモテないのか」考えすぎ。その時間でオナニーして、いいオーガズムを勉強すべき。男は考えずにオナニーしすぎで、女は考えすぎるくらいじゃオナニーしたほうがいい 。
深志:二村の『すべてはモテるためである』ではモテない男はキャバクラで女性と話す練習しろとあったが、キャバクラの接客は100%ヨイショなので練習にならない。相席居酒屋で練習するくらいがいいのでは。
〇女性向け編
二村:男はモテないことに悩む一方、女の人はなぜあの人を好きになるのかって言う自責の念に襲われる。女は考えすぎ。
女が「支配してくれる男」が好きなのは、「女は主体的になるなという」(二村用語の)「心の穴」を(主に親から)空けられているから。女の人は自主性を持った方がよい。
客席から)女性がモテるようになるコツは?
深志:女性は隙のある女がモテる。これは真理。男はやれそうかどうか見てる。実際にやらせなくていい。多数の男をとにかく「食事につれてって」と誘う。…非モテコミットされたら?それが「モテる」ってことでしょ?まぁ、興味ない男にはおごらせておけば?
「うわの空の女」はやれそう感がないので、ヤリチンも手を出してこない。50代のチャレンジャーヤリチンくらい?
二村:意識的にポジティブヤリマンになろうとすると、必ずネガティブヤリマンになって闇落ちする。 メンヘル化する。 自分の中の男性性を自覚するといいヤリマンになれる。
〇モテとオタクについて
参加者のメールより)
女「今までつきあったことがない。恋愛できない自分が寂しい」
男「低収入で自信がない。恋愛願望がない。心配だ」
二村:もし他のことで心の穴が埋まっているのなら別に恋愛しなくていい。恋愛とは他人と出会うことで傷つくことだから。
たとえばオタクになるとか。僕は「自分を確立したインポ」として優しく老後を生きたい(二村は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の主人公マックスを、性欲につき動かされてないインポヒーローだと肯定的に評していた)
他人というものは思い通りにならないものなので、恋愛しても寂しい人は寂しい。相思相愛などこの世にない。「愛し返す」くらいしかできない。
恋愛やセックスを何か重大なものと思い込みすぎ。そういうことを客観視するとうまくいくことが多い
深志:オタクは疑似恋愛。オタクは皆性的。腐女子は皆、アナルアナル言ってるし。
二村:モテの代償行為(逃避)としてオタクをやっていると、キモさが周りにバレてしまうのでモテない。ガチで(つまり「モテるために」でなく)やると、だいたいはオタク仲間ができるので、その中で異性ができることもある。「うわの空理論」と重なる。
深志:ただ、オタクになるのには才能がいる。
二村:元も子もないけどそれで言うと、恋愛も才能。
〇その他
二村:「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」って言うのがモテるかの第一歩。多くの男はそれを考えたことがない。
二村:メンヘラ女性ブロガーは客観性がないので小説は書けない(北条かやのことか 笑)
深志:ツイッターのフォロワーに、「宅配荷物の受け取りを全裸でする」フェチの人がいた。包茎ちんぽを女性宅配員にみせる性癖。しかしその人は、包茎手術したらこの欲望がなくなってしまったという。コンプレックスが性癖に影響するいい例。
二村:乙武は圧倒的自己肯定感のかたまりのような人。だから乙武とセックスしたいと思わない女性はいないでしょ?絶対レイプしないし
(乙武については『KAMINOGE』というプロレス雑誌で、前田日明が「性欲、ネゴシエーション能力、コミュニケーション能力、そのすべてが称賛に値する!」と褒めてたのを思い出して笑ってしまった。やっぱ乙武はモテるよな)
かきおこし以上。質疑応答では、質問者にバイブやローションなどのラブグッズが配られて楽しかった。
トークショーのあとは懇親会(食事会)だったが、新宿で書店めぐりする予定を優先して参加しなかった。もしこの記事をみた人で、参加した人がいたらどんな話が出てたのか教えてください。
私の感想としては、自分はオタクメンタルなので、現状特にモテなくても辛くないのかなと思った。
「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」という質問を自分投げかけてみたが、私は「好きな事をやってる女性(=オタクなひと)」が好きなので、自分は「なる」と思った。普段意識したことはなかったが、自分は自己肯定感が高い人間のようだ(笑
あと、「<自分の居場所>のない人」って世の中結構いるのだな、と思った。私は趣味の場では読書会に参加してるし、友人も何人かいるので、精神的にもコミュニティ的にも「居場所」はあるので、その点は安心した。
自身のモテの話でいうと、年齢30超えると性欲衰えるし、趣味とかいろいろやることに忙しくて時間ないし、「複数の女性にモテたい」とは全然思わない。「この人面白いな」って人にピンポイントでモテたい。自分は「非モテコミット」な人間なのだと思った。なのでそのキモさが出ない感じで、気の合う女性にモテたいなと思った。
ということで、私と一緒にバイブでエッチな遊びをしてくれるオタク系の女子とつきあいたいです!誰か私とつきあって!
追記)以前参加した、二村の話のレポ
こうの史代『この世界の片隅に』を読む ~戦時下という非日常でみつける<日常という奇跡>
今アニメ映画が大ヒット中である。キネ旬の今年の邦画第1位にもなった。でも私はまだ映画は未見だ。年末年始で支出が多いから、映画代がないのだ(苦笑)
で、原作。この作品は紛うことなき傑作である。「十年に1度レベルの」という枕詞をつけてもいい。
この作品は、作品における<日常描写のきめ細やかさ>が大きな魅力と物語性をもっているので、到底あらすじを紹介しただけではこの素晴らしさを語りつくすことはできないのだが、あらすじの紹介と、その文学性の考察をしたい。
あらすじ~~~~
時は昭和19年2月、絵を描くことが得意で、それ以外はぼーっとぬけた少女すずは広島市から、呉の北條家・周作のもとに嫁ぐ。
戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑(周作の姉)黒村徑子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていく。
9月、すずは遊女リンと知り合う。彼女の持っていたノートの切れ端が周作のものだということを偶然知り、夫がかつてリンの遊郭に通っていたことを悟る。
12月、すずの幼馴染で水兵である水原がすずを尋ねに来る。水原は帰る場所がないので、すずの家に泊まった。周作は、水兵でありもうすずと会えないかもしれないことを案じるが、家長の周作は水原が泊まることをよしとせず、納屋に寝てもらうことにした。すずも水原の納屋に泊まり話をすることになった。
水原はすずへの懐かしさにすずの肌に触れるが、すずは周作への想いからそれを受け入れなかった。水原は「これが普通じゃ」とすずの想いを悟り、この<まともでない世界>の中でもすずは「ずうっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と言う。
軍港の街である呉は、昭和20年3月19日を境に頻繁に空襲を受けるようになる。
6月22日の空襲で、投下されていた時限爆弾の爆発により、すずは姪(徑子の娘)晴美の命と、自らの右手を失う。7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下した。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日ーー8月6日ーーつまり読者は知っているあの日だーーに実家に帰ってくるように誘う。そして8月6日の朝、すずは徑子と和解し、すずは北條家に残ることを決意する。
その直後、閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する。広島への原爆投下だ。
8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは「そんなん覚悟のうえじゃなかったんかね。うちは納得できん!」と怒りをあらわにし泣き崩れる。
リンがいた遊郭は、空襲で焼失していた。
翌年1月、すずはようやく周作と広島市内に入る。廃墟となった広島でーー周作とすずが初めて会った場所でーーすずは「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝する。
戦災孤児の少女がすずに母親の面影を重ねていた。すずと周作は、この少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。
~~~~~
あらすじだけ読んでもこの作品の素晴らしさは伝わらないので、ぜひ実際に読んでもらいたい。
『この世界の片隅に』は、言ってしまえば<他愛のない日常生活>を、これでもかとばかりに丹念に描写し、それを積み重ねていく。
そしてそこからは「戦時下という非日常でも、今現在の私たちの生活と地続きの<日常>を人は生きていた」という、(戦時下を体験したことのない)現在を生きる我々が見落としがちな視点が浮かび上がる。
そして戦時下であるからもちろん、この<他愛のない日常生活>は戦争によって蹂躙されていく。
そして読者は<この日常>が、原爆投下という悲劇を迎えることを知りながら、彼らの生きる<日常>を追従する。
そして 原爆が投下され、終戦を迎え戦争というカオスが終わる。
このときすずは、この戦時下というカオスに今まで適応していたが、これがたかだか天皇一人の言葉で終わる程度のものだったことを知り、激しく憤る。
この大仰で凄惨な戦争がたかだかその程度のものであったこと、そして「たかだかその程度のもの」によって人々が蹂躙されていたのだということ。すずはそれを悟る。
終戦によってカオスが終わり、すずは自分にとって大切なことを意識する。
この作品の最も主題となる場面ーーすずが広島で「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝を述べる場面だーーこの言葉をきくことで読者は、すず達が生きていた「戦争という非日常の中の<日常>」の中にあったのは、「共に家族が過ごしていた<日常という奇跡>」であったということを知る。つまりこの場面は、すずがーーそしてそれを今まで見ていた読者にとってもーー、日常を奇跡だと受け止めること(感受性)を自覚し、言語化する場面なのだ。
『この世界の片隅に』における<他愛のない日常生活>の描写の積み重ねが、この<日常という奇跡>に説得力を与え、読者に<日常こそが奇跡である>と気付く感受性をもたらすことを可能にしたのである。
<日常こそが奇跡である>という感性とは、どのようなものだろうか。
宮台真司著『中学生からの愛の授業』には
中学生からの愛の授業 学校が教えてくれない「愛と性」の話をしよう (コア新書)
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: コアマガジン
- 発売日: 2015/10/03
- メディア: 新書
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「恋」が「単なる非日常」だとすると、「愛」は日常を奇跡だと受け止める感受性と結び付く。日常を奇跡だと受け止める感受性は、数限りない失敗と挫折と不幸を経験しないと育たない。リスクを回避して、平和な人生を送りたいと思っている人には、「愛」は永久に無理なんだ。
とある。
<日常こそが奇跡である>という感性は、つまりは「私がこの人とここにいたい」という「愛」の感情なのだ。
読者はこの物語を読み、<「戦争という不幸体験」を含む日常>を経験することで、そしてその日常の中に愛があることを感じ取ることで、読者は<日常こそが奇跡である>と受け止める感受性ーーつまり、日常を生きる糧である「愛」ーーを獲得するのである。
これが『この世界の片隅に』という物語がもつ文学性であり、そしてこの漫画が傑作たる理由であるといえる。
すずは戦時下という非日常のなかにあって、穏やかに煌めく日常の中から、その<日常という奇跡>を見出した。しかし現代の我々が生きる日常は、平穏無事なものであり、人によってはのっぺりとした退屈なものだろう。
我々読者は<日常という奇跡>を感知することができるのだろうか。
それはもちろん可能である。
なぜなら、我々は「この世界の片隅に」生きる小さな存在でしかない。
そんな小さな存在でしかないのに、わざわざ「みつけてくれる」他者がいてくれるのなら、そしてその他者の存在に気付くことができたのなら、それはもう「奇跡」としか言いようのない、感謝すべき幸福なのではないだろうか。
だからこの物語は、「この世界の片隅に」生きる我々のための物語なのである。 <了>
今日の漫画名言:この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう
追記;<日常という奇跡>は<関係性の履歴>である。
オウム真理かるた
元オウム真理教のアレフが、教義を広めるためにかるたを作ったらしい。
たぶん堅苦しくて面白くないだろうから、私が、皆がもっと楽しむことのできるように「オウム真理かるた」を作ってみた。
あ ああいえば上祐
い イニシエーション 修業するぞ 修業するぞ
う うまかろう安かろう亭で ただ働き
え 江川紹子が有名になったきっかけ
お オウム真理教に入ろう
か 上九一色村にサティアン
き 救済するぞ 救済するぞ
く グル 麻原彰晃
け ケロヨンクラブは オウム派生団体
こ 甲本ヒロトの同級生、中川智正死刑囚(元医師)
さ サリン製造 第7サティアン
し しょうこう しょうこう あさはらしょうこう
す 水中クンバカ「よーしアーナンダ、もうダイレクトにいくぞ!」(麻原がクンバカする弟子に言った言葉)
せ 選挙に出馬だ 真理党
そ 尊師 尊師 麻原尊師
た ダーキニーの愛人囲い
ち 地下鉄にサリン
つ 次にポアするのは 池田大作だ
て 電流流すヘッドギア
と 苫米地英人が脱洗脳
な 生ダラにも出た 麻原さん
に 日本シャンバラ化計画
ぬ 抜き打ち捜査も かわしてみせる
ね 熱湯に入れ キリストのイニシエーション(LSDを体から抜くために熱湯に入れられた)
の 残り湯の ミラクルポンドは2万円(麻原の風呂の残り湯をミラクルポンドと称し信者に売ってた)
は 走る爆弾娘・菊地直子
ひ ひかりの輪は上祐派
ふ VXガスで襲撃
へ 弁護士一家殺害事件 TBSがビデオ流出
ほ ポアするぞ ポア
ま 松本智津夫死刑囚
み 未解決 国松長官狙撃事件
む 村井秀夫刺殺事件 あっけなく死ぬナンバー2
め メチルホスホン酸モノイソプロピル(サリンの副生成物。当時のニュースで連呼された)
も 森達也が潜入取材 ドキュメンタリー『A』と『A2』
や ヤソーダラーは麻原夫人
ゆ 許さない 脱退信者はリンチでポアだ
よ 横山弁護士「も、もう~やめて!」
ら (ダライ)ラマにも謁見 麻原尊師
り 陸上競技部もありました
る ルドラチャクリンのイニシエーション(覚醒剤とLSDを飲む修業)
れ 練習すれば 誰でもできる 空中浮遊
ろ ロシアで布教だ モスクワ支部
わ 私はやってない 潔白だ(エンマの数え歌)
を ヲわりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル
ん
いかがだろうか。
ぜひお正月にこのかるたで家族で遊んで、オウムの教義にふれていただきたい(おい
なお、この記事は匿名ダイアリにまず投稿し、トラバやブコメで意見を募ったことをここに記しておく。
山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 ~地方で窒息するサブカル人と俺の上京
先月の読書会の交換本でもらって読んだ。「地方郊外のダルさ」を描いたファスト風土小説としてはてなでもかなり話題になったので、これは読みたいと思っていたのでうれしかった。
小説短編集・山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』
いつもは、本の短い感想は読書メーターで書いているのだが、ながくなりそうなのでブログに書く。(読書メーターやっている方は、私をフォローしていただけるとうれしいです)
結論から言うと、私にとって面白い短編は、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』だけであり、他の話は「まぁまぁ、こんなもんかな」という感想だった。小説全体としての得点は70点(個人的良作レベル)に届かない65点くらい…といったところか。
~~~
この小説は、「地方都市郊外に住む女性が、何にもないーーいや、正確に言えば、何でもあるが、『私にアイデンティティを与えてくれるようなサブカルチャー』は絶望的にない<こんなところ>に退屈、鬱屈した女性たち」が主人公で、東京に憧れを募らせたまま窒息しそうな毎日を過ごしていたり、東京に「脱出」することで生き生きとした人生を歩むことができたり、あるいは逆に「地方郊外のサブカルチャーのない生活」に適応してのびのびと生きる様が書かれている。
そしてどの短編にも、主人公女性の知り合い、あるいはかつての同級生という形で、椎名一樹という男が出てくる。この椎名は中高時代はサッカーのエースで同級生のカリスマでリア充で、高卒後そのまま地元でサッカー選手になるけれど、クラブが不況で解散したことで、地元で自動車教習所の教官として働き出してそのまま結婚して、つまり「地元でそのまま<普通の>大人になった」人間である。
そしてこの椎名は、各短編の主人公女子がこの地方郊外に退屈、ないし鬱屈しているのに対し、椎名は「地方郊外に全く退屈していない人間」として書かれている。
何故椎名は退屈しないのか。それは、彼が「サブカルチャーを必要としないタイプの、リア充」だからである。彼の生活は平日は仕事をし、休日はテレビだかスタジアムだかでサッカーを見る。彼の人間性は、人間関係は誰とでも仲良くでき、自ら場を盛り上げることができるリア充だ。それで何の不満もないし充足している。そんなタイプの人間だ。
一方、各短編の主人公女子たちは、ここにはない、東京には「あるはずの」、自らの退屈を埋めてくれる何か、自らにアイデンティティを与えてくれる何らかーーそれは大体の場合、この地方都市では聴く人がいないであろう音楽であり、マイナーな映画であり、東京にしかないファッションブランドであり、要は「ここにはない」サブカルチャーだーーと、それを「私に接続させてくれる」他者(友人や男)を心底から希求している。
彼女たちは「サブカルチャーを必要とする、リア充ではない」人間だ。あるいはリア充気質であっても、「サブカルチャーをコミュニケーション媒介とするためにサブカルチャーを必要とする」人間である。だからサブカルチャーのない地方都市では退屈し、窒息するしかない。
話は少しとぶが、面白いことに、そんな主人公女子のひとりが、椎名と結婚したことで、椎名に感化されて「地方都市で退屈しない地方都市に適応したリア充」になってしまう話がある(短編『やがて哀しき女の子』)。椎名スゴイ奴だな(笑)
さて、この小説の概要を述べたので、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』のあらすじと感想(考察ではない)を。
~~~あらすじ~~
主人公女子は、上京→地元にUターンしたライター。須田という同じく地元にUターン経験者の、サブカル好きなカメラマン須田と仕事をしている。「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」と言う須田に、「いい歳こいて」と呆れているが、一方で「須田は自分と同類の人間だ」とも思っている。
かつて同級生だった椎名と再会し、「自分の青春は、椎名とゲーセンで遊んだあの瞬間だけだった」ことを思い出すが、今や地方になじみ普通のおっさんになってしまった椎名に軽く失望している。
~~~
私は非常に共感してしまった。何せ私自身が高校時代に、地元には「特別なカルチャー」がないことに窒息し、とにかく上京するためだけに東京の大学に行き、大卒後はUターンして地元に帰ってきた人間だからだ。地元といっても埼玉だから東京都心には2時間あれば通えるのだが、今は埼玉の「16号化した風景」ファスト風土の中で暮らしている。
須田の「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」という言葉は私も同じで、私は「俺の魂は下北沢に置いてきた」と思っているくらいだ(笑)
須田の「こっち戻ってから、カラオケで何回EXILE聴かされたと思ってるんだよ」という台詞にも「地方あるある」な感じがして笑ってしまった。私はカラオケ行かないし、そもそもEXILE聴く人間とは絶対に友達にならないけど(笑
私は埼玉の郊外育ちなので、地方都市のどんよりした窒息感というのを知らない。いや、正確に言うと少しだけ体験したことがある。
大学のサークルで、茨城の水戸市に合宿に行ったことがある。水戸から近くの海に行って、その帰りに水戸市の中心街に寄った。そこは16号的な風景で、つまり没個性的な街だった。中心街にどんと構えるイオンなんかはどこでも行けるから、と、中心街から少し歩いて、なにか面白そうな店を探したが、サブカルチャー的な店は、潰れかけたオシャレ服屋と、ちょっと気の利いたマンガの置いてあるマンガ喫茶兼レストランだけしかなかった。そのレストランで鯨カツを食べ、手塚治虫『どろろ』を読んだ。「たぶんここが、水戸で一番最先端で面白い場所なんだね」と友達と話しながら。そして「もしこの町で一生を過ごすことになったら、俺は窒息死するだろうなぁ」と思った。
(検索してみたら、たしかにこの場所に見覚えがある風景を発見。懐かしい)
……さて、この短編からは少し脱線するが、サブカル好きは上京すればこの窒息から逃れられるのか? ということを私の少ない体験から少し述べてみたい。
その答えは「上京したからと言って、必ずしもやりたいことができるわけではない」という身も蓋もない答えだ。
サブカルチャーのある街なんて、都心(新宿)から電車15分圏くらいにしかないし、人によっては、今や(九十年代中ごろ以降)渋谷ですら「特別な街」ではなく、16号化した地元の街と同じような(人がやけに多いだけの)個性のない郊外的な街でしかない。
(渋谷の郊外化は宮台真司の『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』に詳しく載っている)
地方から上京するということはほとんどの場合一人暮らしするということで、つまりある程度、家事労働に時間をとられる。自由な時間は期待していたほどない。
東京でやりたいことができないと、東京は人が多い分日々に疲れるし、「東京ですらできないのか」という絶望は地方にいるときよりもずっと辛い。これは私が上京直後に感じた挫折でもあった。ーー上京したからってサブカルチャー漬けの毎日を送れるわけじゃないのか、と。
しかし、「東京(都心)でしかできないこと」というのは間違いなく存在する。
消費活動ーーモノの購入は地方にいてもネットがあればできる。しかし「対面のリアルな」体験やイベントは都心にしかない。作家やクリエイターのトークショー、ワークショップ、そしてそれを通しての、自分と趣味趣向の合う人との出会いは、都心部にいなければコミットできないのだ。
そこにコミットできないのが、地方住みのサブカル人間が窒息する原因だと私は思っている。
さて、話を短編の方に戻す。
ラーメン屋に入った二人は、店にラーメン店主が綴った「地元サイコー!」「東京なんかクソくらえ!」「愛する地元のお前らにラーメン食わせてやるぜ!」とラップ調のポエムが貼られていることに気付く。(相田みつおの「人間だもの」カレンダーがトイレに貼ってある、というのは地方居酒屋あるあるなのだが、こんなヤンキーセンスに溢れた、センスのないラーメン屋というのは、本当に地方に実在するのだろうか(苦笑)。あったとして、客来なくなって潰れたりしないのだろうか?)
しかもあろうことか、二人は店主にポエムのアンサーポエムを求められてしまう。
須田さんは即興でこんなアンサーポエムを書く。
Yo! Yo! 楽しそうでなによりだNa!
俺は東京行ったさ文句あっか!?
ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ
あらかじめ失われた居場所探して、十年さすらった東京砂漠
そうさ俺は腹を空かせた名もなきカメラマン
いまだ彷徨う魂、高円寺の路地裏に残し
のこのこ帰ってきたぜ! ラーメン食いに帰ってきたぜ!
だからラーメン食わせろ!! 今すぐ俺にラーメン食わせろ!!
ここで 物語は終わる。
「ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ」 これに似た気持ちは、私の中に常にある。私も地元に帰って「しまった」人間だからだ。たぶんUターン経験者は多かれ少なかれ持っている気持ちなのではないかと思う。
だから私はこの物語が胸に刺さり、同時に主人公たちを愛おしく思うのである。<了>
追記)『ここは退屈迎えに来て』 文庫版の解説
ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期
世間から見れば「変態」にみられるであろうおとこの娘・女装男子3人が、さなぎが蝶になるように「変態していく」様にーー己の人生を受け入れる様を描いた物語。
ーーー登場人物とあらすじーーー
主人公は、中学生の女装男子3人。
性同一性障害であり、純粋に女の子になりたい青木裕太 /まりか。
精神を病んだ母親のために、死んだ姉の身代わりになるために姉の女装をする木島亮介 / ユイ。
片思い相手(男)の要望がもとで女装している田村修/ パロウ。幼少期に男からレイプされたトラウマがあり、同性愛者であるようだ。
ネットのオフ会で3人は出会う。
「自分は好きで女装しているわけじゃない…」そういう思いのあるユイ(亮介)は「マジでキモイなお前ら」と辛らつな言葉をぶつける。そしてこの場はお開きになる。
これで3人の関係は終わりかと思ったが…裕太の入学した中学は亮介と同じ中学だった。ここから3人の”おとこの娘”関係が始まる。
もう一度集まり、なぜ自分が女装をするのかを述べる3人。そして鍵っ子のまりか(裕太)の家に集まるようになる。パロウ(田村)はまりかをーー自分のようにドロドロとした感情を持たない彼をーー誘惑し犯す。
亮介はそんなパロウに怒りを感じ殴る。パロウは、亮介に誰かのために怒ることのできる優しさをみて「この人が好きだ」と思う。そしてこのように性に溺れている自分はなんて汚いのだろう、と自己嫌悪している。
まりかは、はじめての相手であったパロウに憧れと恋心を抱く。
裕太(まりか)は学校で、女装に肯定的な中世的な男子、夏目智(トモち)という友人ができる。また、同級生から「オカマだろ」と陰口を言われることもあった。
…そんな中… 裕太はついに変声期を迎える。自分の意志とは関係なく、男になっていく体。
裕太は精神科医に行き、医者にこう告げる。
「わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです」
制服も女性服で通学し、「まりか」として女として生きていく決心をする。
一方亮介は、母親が精神異常であることがつきあっている彼女に知られ、母は亮介と引き離され入院となる。亮介は「今まで自分が母のために女装してきたのは無意味な事だったのか」と悩む。
田村(パロウ)はまりかから告白され、「じゃあその気持ち見せてもらおうじゃないか」と、まりかと性関係をもとうとするが、無垢なまりかを犯すこととかつて自分が男からレイプされたトラウマがダブり、吐いてしまう。
まりかは「パロウさんがかわいそう」と泣く。
自らのトラウマを払拭するために、パロウは自分を女装へと導いた、かつての憧れの人と手をきった。
悩みを抱えたまま久しぶりに学校に復帰する亮介。入院後実家に戻っていた母親が、また倒れたという知らせが入ってきた。一人で田舎に帰ることが出来ず困惑したが、まりかの手助けによって、二人で亮介の田舎に行く。母は病気がよくなっていた。母から始めて承認される亮介。
亮介は、自分が大変なときに支えてくれたまりかのことが好きになったことに気付く。まりかがパロウのことを好きなのは知っていたが、自分のけじめのためにまりかに告白する。
まりかはその告白に答えることができなかったが、「私達3人が出会えて本当に良かったと思っている。あのとき二人と出会ってなかったら、もっと苦しんでいたと思う」と述べる。
亮介は田村(パロウ)の高校に進学し、田村に勉強を教えてもらうようになった。田村はパロウに女装し、「亮介のことを今でも好き」と誘惑する。「こうすることでしか誰からも好きになってもらえない」とパロウは思っている。しかしこれに亮介は、「そうやって閉じこもるのはやめろ。女装しなくても、俺もまりかもお前の事が好きだ」と諭す。
田村(パロウ)の高校の学園祭に行く一同。そこでは女装コンテストが行われていた。それに参加する一同。コンテストではまりかが優勝した。
まりかは「わたしは女装っていうか」と戸惑うが、パロウは言う。
「いいじゃない。 みんなヘンタイで」
そしてそれぞれ皆が大人になっていくのだ。 <完>
~~~~~~
この物語は女装男子「3人の成長物語」であり、「3人の関係性、彼らの実らない恋」を描くラブストーリーでもある。
私は今まで作者のふみふみこが(短編しか書かなかったので)、女性なのか男性なのかよくわからなかったが、この作品を何度か読むことで、「登場人物の関係性に敏感なマンガ」を描くことから、典型的な女性作家なんだなと理解した。(ウィキペによると実際に女性だそうだ)
さて、この話をラブストーリーの部分はすっとばして、彼らの成長の物語ーーつまりさなぎから蝶へと「変態する」話としてみてみたい。
物語の序盤から中盤は、特に裕太(まりか)とパロウの「変態性(変態性欲の方の変態)」が描かれている。
ユイ(亮介)に犯されたいと妄想し、先輩との性関係に溺れていながら、それを汚いと自己嫌悪するパロウ。裕太(まりか)はお姫様ごっこのような妄想一人芝居をしていたが、パロウに性行為を迫られたことがきっかけで、男性としての自慰行為を覚えるようになり、少女趣味の幻想に浸れなくなってしまい苦悩する。
どちらも性的な意味で変態である。思春期に誰もが抱えるであろう「変態さ」を、内に秘めきれずにあふれ出てしまっているといっていい。
しかし物語中盤以降は、そうした変態描写がほとんどなくなってくる。
その転換期はどこだろう。
それは、裕太は「女性として、まりかとして生きる」ことを告白し決めたとき、パロウは自分を女装へと導いた性的関係にある先輩と絶縁すると決めたときである。
彼らは、成長し自ら意思決定することで、つまり「(蝶に変わるように)変態すること」によって、己の変態性に決着をつけるのである。
まりかは女として生きることで、かつての「妄想的で変態的な」裕太の生き方ではなくーー妄想の中だけで「本来の自分である女の子になる」生き方ではなくーー、より本来の自分らしい<現実の女としての>自分を生きることになった。
彼らは生き方を変え「変態する」ことで、今まで生きていた妄想の世界(変態的世界)から、「誰々のことが好き」という現実的な<関係性の世界>へと興味を移すことになる。
しかし、彼らに変態性がなくなったわけでは、おそらくないだろう。
変態性がなくなったのではなく、今までの「あふれ出ていた変態さ」を、コントロールできるようになったのだ。だから「表面上は」彼らは変態ではない。しかしひとたびその皮をむけば、まりかはパロウに犯されることを受け入れたように、パロウはユイ(亮介)を誘惑したように、彼らの中身は変態なのである。
この作品は変態を肯定している。(「いいじゃない。 みんなヘンタイで」)
しかし、剥き出しの変態は、自己嫌悪の形で自身を苦しめ、場合によっては他者を傷つける。裕太が男として自慰をして苦しんだり、パロウがまりかを犯そうとしたように。
だから変態は、自らの内に秘められるように、自らコントロールできるようにしなければいけないのだ。
そして「変態をコントロールできる」ようになったそのときこそ、自身のドロドロとした思春期が終わり、青年への(つまり大人への)入口に入っていくことができるのだ。
つまり、「あふれ出る変態」は<通過儀礼的な思春期>そのものであり、変態が終わった時に思春期もまた終わるのだ。
思春期とは甘酸っぱく輝かしいものではない。もっと煮えたぎっていてドロドロとしていて、自分でも制御できない黒い感情のことである。
そういえば以前、宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポというのに行ったことがある。
AV監督の二村ヒトシは言う。
人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。
『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ。
人は成長し、<クソみたいな>社会の中でそれでも幸せに生きていくには、社会には隠れて変態である必要があるという。変態でない奴はクソみたいな社会に摩耗し潰され、変態剥き出しの奴は、社会を構成し営むのに邪魔なので排除されてしまうからだ。
まりかやパロウら彼らは、剥き出しのドロドロの変態のままでは大人になれないが、その変態性をコントロールできるようになって、初めて大人になれるのだ。
その意味で「変態することで」、変態性をコントロールできるようになることが、大人へとなるための通過儀礼であり、それが思春期の終わりなのだと思う。
ところで、せっかくの思春期なのだから、変態じゃなくてもいいじゃないか、もっとさわやかな青春の方がいいと思う人がいるかもしれない。
変態的な思春期は辛いものだから、そんなものはない方がいいじゃないか、「ドロドロとした変態な思春期を経て」大人になるよりも、「初めから変態でなく」大人になる方がいいじゃないかーーそう思う人がいるかもしれないが、それはきっと違う。
思春期を終わらせることはーードロドロとした自分を受け入れることはーー生きやすさを手に入れるという意味では、ゼロからプラスになるというより、マイナスからゼロになってそこから出発するという感じだ。たしかにそこだけ見ればプラスではない。
しかしその思春期にかつてあった「ドロドロとした変態さ」を、思春期を過ぎて後々になって振り返れば、「あのときは確かに辛かったけど、濃密な味があったな」と思うことができるはずだ。そして必ず「あのときがあったからこそ、今の私は<世界の深さ>を味わうことができるのだ」という、自らの人生の糧になっていることを気づく瞬間がくるはずだ。
私の経験から言うとーーいや、私の経験からだけでなく、他の作家も何人か書いているのでその通りなのだと思うがーー、人が経験から成長できるのは、そしてそれが自身の糧になったと自覚できるのは、辛かった経験、失敗した経験からだけだ。楽しかった経験、成功した経験は、そこには運要素が絡んでくるので何が成功要素だったのか見極めるのが難しく、またそこから自省しようとすることはほとんどない。
「かつての辛かったとき」が人生の糧になるのだ。
だから「明るく楽しい青春」ではなく「ドロドロとした変態的な思春期」を経た彼らは、必ずこれからの人生で「何が幸いなことなのか」「人生はどう生きたらいいのか」という答えをみつけるはずである。
彼らにーーいや「彼女たち」に、幸あらんことを。 <完>
本日のマンガ名言:わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです
追記)変態が思春期を経て、真人間に成長するというマンガでは、押見修造『惡の華』論を以前書いたので、ぜひ読んでみてください。