文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 ~地方で窒息するサブカル人と俺の上京

先月の読書会の交換本でもらって読んだ。「地方郊外のダルさ」を描いたファスト風土小説としてはてなでもかなり話題になったので、これは読みたいと思っていたのでうれしかった。

小説短編集・山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』

ここは退屈迎えに来て

ここは退屈迎えに来て

 

 いつもは、本の短い感想は読書メーターで書いているのだが、ながくなりそうなのでブログに書く。(読書メーターやっている方は、私をフォローしていただけるとうれしいです)

elk.bookmeter.com

結論から言うと、私にとって面白い短編は、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』だけであり、他の話は「まぁまぁ、こんなもんかな」という感想だった。小説全体としての得点は70点(個人的良作レベル)に届かない65点くらい…といったところか。

~~~

この小説は、「地方都市郊外に住む女性が、何にもないーーいや、正確に言えば、何でもあるが、『私にアイデンティティを与えてくれるようなサブカルチャー』は絶望的にない<こんなところ>に退屈、鬱屈した女性たち」が主人公で、東京に憧れを募らせたまま窒息しそうな毎日を過ごしていたり、東京に「脱出」することで生き生きとした人生を歩むことができたり、あるいは逆に「地方郊外のサブカルチャーのない生活」に適応してのびのびと生きる様が書かれている。

そしてどの短編にも、主人公女性の知り合い、あるいはかつての同級生という形で、椎名一樹という男が出てくる。この椎名は中高時代はサッカーのエースで同級生のカリスマでリア充で、高卒後そのまま地元でサッカー選手になるけれど、クラブが不況で解散したことで、地元で自動車教習所の教官として働き出してそのまま結婚して、つまり「地元でそのまま<普通の>大人になった」人間である。

そしてこの椎名は、各短編の主人公女子がこの地方郊外に退屈、ないし鬱屈しているのに対し、椎名は「地方郊外に全く退屈していない人間」として書かれている。

何故椎名は退屈しないのか。それは、彼がサブカルチャーを必要としないタイプの、リア充だからである。彼の生活は平日は仕事をし、休日はテレビだかスタジアムだかでサッカーを見る。彼の人間性は、人間関係は誰とでも仲良くでき、自ら場を盛り上げることができるリア充だ。それで何の不満もないし充足している。そんなタイプの人間だ。

一方、各短編の主人公女子たちは、ここにはない、東京には「あるはずの」、自らの退屈を埋めてくれる何か、自らにアイデンティティを与えてくれる何らかーーそれは大体の場合、この地方都市では聴く人がいないであろう音楽であり、マイナーな映画であり、東京にしかないファッションブランドであり、要は「ここにはない」サブカルチャーだーーと、それを「私に接続させてくれる」他者(友人や男)を心底から希求している。

彼女たちは「サブカルチャーを必要とする、リア充ではない」人間だ。あるいはリア充気質であっても、「サブカルチャーをコミュニケーション媒介とするためにサブカルチャーを必要とする」人間である。だからサブカルチャーのない地方都市では退屈し、窒息するしかない。

話は少しとぶが、面白いことに、そんな主人公女子のひとりが、椎名と結婚したことで、椎名に感化されて「地方都市で退屈しない地方都市に適応したリア充」になってしまう話がある(短編『やがて哀しき女の子』)。椎名スゴイ奴だな(笑)

さて、この小説の概要を述べたので、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』のあらすじと感想(考察ではない)を。

~~~あらすじ~~

主人公女子は、上京→地元にUターンしたライター。須田という同じく地元にUターン経験者の、サブカル好きなカメラマン須田と仕事をしている。「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」と言う須田に、「いい歳こいて」と呆れているが、一方で「須田は自分と同類の人間だ」とも思っている。

かつて同級生だった椎名と再会し、「自分の青春は、椎名とゲーセンで遊んだあの瞬間だけだった」ことを思い出すが、今や地方になじみ普通のおっさんになってしまった椎名に軽く失望している。

~~~

私は非常に共感してしまった。何せ私自身が高校時代に、地元には「特別なカルチャー」がないことに窒息し、とにかく上京するためだけに東京の大学に行き、大卒後はUターンして地元に帰ってきた人間だからだ。地元といっても埼玉だから東京都心には2時間あれば通えるのだが、今は埼玉の「16号化した風景」ファスト風土の中で暮らしている。

須田の「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」という言葉は私も同じで、私は「俺の魂は下北沢に置いてきた」と思っているくらいだ(笑)

須田の「こっち戻ってから、カラオケで何回EXILE聴かされたと思ってるんだよ」という台詞にも「地方あるある」な感じがして笑ってしまった。私はカラオケ行かないし、そもそもEXILE聴く人間とは絶対に友達にならないけど(笑

私は埼玉の郊外育ちなので、地方都市のどんよりした窒息感というのを知らない。いや、正確に言うと少しだけ体験したことがある。

大学のサークルで、茨城の水戸市に合宿に行ったことがある。水戸から近くの海に行って、その帰りに水戸市の中心街に寄った。そこは16号的な風景で、つまり没個性的な街だった。中心街にどんと構えるイオンなんかはどこでも行けるから、と、中心街から少し歩いて、なにか面白そうな店を探したが、サブカルチャー的な店は、潰れかけたオシャレ服屋と、ちょっと気の利いたマンガの置いてあるマンガ喫茶兼レストランだけしかなかった。そのレストランで鯨カツを食べ、手塚治虫どろろ』を読んだ。「たぶんここが、水戸で一番最先端で面白い場所なんだね」と友達と話しながら。そして「もしこの町で一生を過ごすことになったら、俺は窒息死するだろうなぁ」と思った。

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(検索してみたら、たしかにこの場所に見覚えがある風景を発見。懐かしい)

 ……さて、この短編からは少し脱線するが、サブカル好きは上京すればこの窒息から逃れられるのか? ということを私の少ない体験から少し述べてみたい。

その答えは「上京したからと言って、必ずしもやりたいことができるわけではない」という身も蓋もない答えだ。

サブカルチャーのある街なんて、都心(新宿)から電車15分圏くらいにしかないし、人によっては、今や(九十年代中ごろ以降)渋谷ですら「特別な街」ではなく、16号化した地元の街と同じような(人がやけに多いだけの)個性のない郊外的な街でしかない。

(渋谷の郊外化は宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』に詳しく載っている)

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

 地方から上京するということはほとんどの場合一人暮らしするということで、つまりある程度、家事労働に時間をとられる。自由な時間は期待していたほどない。

東京でやりたいことができないと、東京は人が多い分日々に疲れるし、「東京ですらできないのか」という絶望は地方にいるときよりもずっと辛い。これは私が上京直後に感じた挫折でもあった。ーー上京したからってサブカルチャー漬けの毎日を送れるわけじゃないのか、と。

しかし、「東京(都心)でしかできないこと」というのは間違いなく存在する。

消費活動ーーモノの購入は地方にいてもネットがあればできる。しかし「対面のリアルな」体験やイベントは都心にしかない。作家やクリエイターのトークショー、ワークショップ、そしてそれを通しての、自分と趣味趣向の合う人との出会いは、都心部にいなければコミットできないのだ。

そこにコミットできないのが、地方住みのサブカル人間が窒息する原因だと私は思っている。

さて、話を短編の方に戻す。

ラーメン屋に入った二人は、店にラーメン店主が綴った「地元サイコー!」「東京なんかクソくらえ!」「愛する地元のお前らにラーメン食わせてやるぜ!」とラップ調のポエムが貼られていることに気付く。(相田みつおの「人間だもの」カレンダーがトイレに貼ってある、というのは地方居酒屋あるあるなのだが、こんなヤンキーセンスに溢れた、センスのないラーメン屋というのは、本当に地方に実在するのだろうか(苦笑)。あったとして、客来なくなって潰れたりしないのだろうか?)

しかもあろうことか、二人は店主にポエムのアンサーポエムを求められてしまう。

須田さんは即興でこんなアンサーポエムを書く。

Yo! Yo! 楽しそうでなによりだNa!

俺は東京行ったさ文句あっか!?

ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ

あらかじめ失われた居場所探して、十年さすらった東京砂漠

そうさ俺は腹を空かせた名もなきカメラマン

いまだ彷徨う魂、高円寺の路地裏に残し

のこのこ帰ってきたぜ! ラーメン食いに帰ってきたぜ!

だからラーメン食わせろ!! 今すぐ俺にラーメン食わせろ!!

ここで 物語は終わる。

ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ」 これに似た気持ちは、私の中に常にある。私も地元に帰って「しまった」人間だからだ。たぶんUターン経験者は多かれ少なかれ持っている気持ちなのではないかと思う。

だから私はこの物語が胸に刺さり、同時に主人公たちを愛おしく思うのである。<了>

 

追記)『ここは退屈迎えに来て』 文庫版の解説

p-shirokuma.hatenadiary.com

地方に鬱屈している少年たちを描いたマンガ、押見修造惡の華』論

akihiko810.hatenablog.com

ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期

ふみふみこぼくらのへんたい(全10巻)。

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

 

 世間から見れば「変態」にみられるであろうおとこの娘女装男子3人が、さなぎが蝶になるように「変態していく」様にーー己の人生を受け入れる様を描いた物語。

ーーー登場人物とあらすじーーー

主人公は、中学生の女装男子3人。

性同一性障害であり、純粋に女の子になりたい青木裕太 /まりか

精神を病んだ母親のために、死んだ姉の身代わりになるために姉の女装をする木島亮介  / ユイ

 片思い相手(男)の要望がもとで女装している田村修/ パロウ。幼少期に男からレイプされたトラウマがあり、同性愛者であるようだ。

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ネットのオフ会で3人は出会う。

「自分は好きで女装しているわけじゃない…」そういう思いのあるユイ(亮介)は「マジでキモイなお前ら」と辛らつな言葉をぶつける。そしてこの場はお開きになる。

これで3人の関係は終わりかと思ったが…裕太の入学した中学は亮介と同じ中学だった。ここから3人の”おとこの娘”関係が始まる。

もう一度集まり、なぜ自分が女装をするのかを述べる3人。そして鍵っ子のまりか(裕太)の家に集まるようになる。パロウ(田村)はまりかをーー自分のようにドロドロとした感情を持たない彼をーー誘惑し犯す。

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亮介はそんなパロウに怒りを感じ殴る。パロウは、亮介に誰かのために怒ることのできる優しさをみて「この人が好きだ」と思う。そしてこのように性に溺れている自分はなんて汚いのだろう、と自己嫌悪している。

まりかは、はじめての相手であったパロウに憧れと恋心を抱く。

裕太(まりか)は学校で、女装に肯定的な中世的な男子、夏目智(トモち)という友人ができる。また、同級生から「オカマだろ」と陰口を言われることもあった。

…そんな中… 裕太はついに変声期を迎える。自分の意志とは関係なく、男になっていく体。

裕太は精神科医に行き、医者にこう告げる。

「わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです」

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制服も女性服で通学し、「まりか」として女として生きていく決心をする。

一方亮介は、母親が精神異常であることがつきあっている彼女に知られ、母は亮介と引き離され入院となる。亮介は「今まで自分が母のために女装してきたのは無意味な事だったのか」と悩む。

田村(パロウ)はまりかから告白され、「じゃあその気持ち見せてもらおうじゃないか」と、まりかと性関係をもとうとするが、無垢なまりかを犯すこととかつて自分が男からレイプされたトラウマがダブり、吐いてしまう。

まりかは「パロウさんがかわいそう」と泣く。

自らのトラウマを払拭するために、パロウは自分を女装へと導いた、かつての憧れの人と手をきった。

悩みを抱えたまま久しぶりに学校に復帰する亮介。入院後実家に戻っていた母親が、また倒れたという知らせが入ってきた。一人で田舎に帰ることが出来ず困惑したが、まりかの手助けによって、二人で亮介の田舎に行く。母は病気がよくなっていた。母から始めて承認される亮介。

亮介は、自分が大変なときに支えてくれたまりかのことが好きになったことに気付く。まりかがパロウのことを好きなのは知っていたが、自分のけじめのためにまりかに告白する。

まりかはその告白に答えることができなかったが、「私達3人が出会えて本当に良かったと思っている。あのとき二人と出会ってなかったら、もっと苦しんでいたと思う」と述べる。

亮介は田村(パロウ)の高校に進学し、田村に勉強を教えてもらうようになった。田村はパロウに女装し、「亮介のことを今でも好き」と誘惑する。「こうすることでしか誰からも好きになってもらえない」とパロウは思っている。しかしこれに亮介は、「そうやって閉じこもるのはやめろ。女装しなくても、俺もまりかもお前の事が好きだ」と諭す。

田村(パロウ)の高校の学園祭に行く一同。そこでは女装コンテストが行われていた。それに参加する一同。コンテストではまりかが優勝した。

まりかは「わたしは女装っていうか」と戸惑うが、パロウは言う。

「いいじゃない。 みんなヘンタイで」

そしてそれぞれ皆が大人になっていくのだ。  <完>

 ~~~~~~

この物語は女装男子「3人の成長物語」であり、「3人の関係性、彼らの実らない恋」を描くラブストーリーでもある

私は今まで作者のふみふみこが(短編しか書かなかったので)、女性なのか男性なのかよくわからなかったが、この作品を何度か読むことで、「登場人物の関係性に敏感なマンガ」を描くことから、典型的な女性作家なんだなと理解した。(ウィキペによると実際に女性だそうだ)

さて、この話をラブストーリーの部分はすっとばして、彼らの成長の物語ーーつまりさなぎから蝶へと「変態する」話としてみてみたい。

物語の序盤から中盤は、特に裕太(まりか)とパロウの「変態性(変態性欲の方の変態)」が描かれている。

ユイ(亮介)に犯されたいと妄想し、先輩との性関係に溺れていながら、それを汚いと自己嫌悪するパロウ。裕太(まりか)はお姫様ごっこのような妄想一人芝居をしていたが、パロウに性行為を迫られたことがきっかけで、男性としての自慰行為を覚えるようになり、少女趣味の幻想に浸れなくなってしまい苦悩する。

どちらも性的な意味で変態である。思春期に誰もが抱えるであろう「変態さ」を、内に秘めきれずにあふれ出てしまっているといっていい。

しかし物語中盤以降は、そうした変態描写がほとんどなくなってくる。

その転換期はどこだろう。

それは、裕太は「女性として、まりかとして生きる」ことを告白し決めたとき、パロウは自分を女装へと導いた性的関係にある先輩と絶縁すると決めたときである。

彼らは、成長し自ら意思決定することで、つまり「(蝶に変わるように)変態すること」によって、己の変態性に決着をつけるのである。

まりかは女として生きることで、かつての「妄想的で変態的な」裕太の生き方ではなくーー妄想の中だけで「本来の自分である女の子になる」生き方ではなくーー、より本来の自分らしい<現実の女としての>自分を生きることになった。

彼らは生き方を変え「変態する」ことで、今まで生きていた妄想の世界(変態的世界)から、「誰々のことが好き」という現実的な<関係性の世界>へと興味を移すことになる。

しかし、彼らに変態性がなくなったわけでは、おそらくないだろう。

変態性がなくなったのではなく、今までの「あふれ出ていた変態さ」を、コントロールできるようになったのだ。だから「表面上は」彼らは変態ではない。しかしひとたびその皮をむけば、まりかはパロウに犯されることを受け入れたように、パロウはユイ(亮介)を誘惑したように、彼らの中身は変態なのである。

この作品は変態を肯定している。(「いいじゃない。 みんなヘンタイで」

しかし、剥き出しの変態は、自己嫌悪の形で自身を苦しめ、場合によっては他者を傷つける。裕太が男として自慰をして苦しんだり、パロウがまりかを犯そうとしたように。

だから変態は、自らの内に秘められるように、自らコントロールできるようにしなければいけないのだ。

そして「変態をコントロールできる」ようになったそのときこそ、自身のドロドロとした思春期が終わり、青年への(つまり大人への)入口に入っていくことができるのだ。

つまり、「あふれ出る変態」は<通過儀礼的な思春期>そのものであり、変態が終わった時に思春期もまた終わるのだ。

思春期とは甘酸っぱく輝かしいものではない。もっと煮えたぎっていてドロドロとしていて、自分でも制御できない黒い感情のことである。

そういえば以前、宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポというのに行ったことがある。

akihiko810.hatenablog.com

AV監督の二村ヒトシは言う。

人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。

『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ。

人は成長し、<クソみたいな>社会の中でそれでも幸せに生きていくには、社会には隠れて変態である必要があるという。変態でない奴はクソみたいな社会に摩耗し潰され、変態剥き出しの奴は、社会を構成し営むのに邪魔なので排除されてしまうからだ。

まりかやパロウら彼らは、剥き出しのドロドロの変態のままでは大人になれないが、その変態性をコントロールできるようになって、初めて大人になれるのだ。

その意味で「変態することで」、変態性をコントロールできるようになることが、大人へとなるための通過儀礼であり、それが思春期の終わりなのだと思う。

ところで、せっかくの思春期なのだから、変態じゃなくてもいいじゃないか、もっとさわやかな青春の方がいいと思う人がいるかもしれない。

変態的な思春期は辛いものだから、そんなものはない方がいいじゃないか、「ドロドロとした変態な思春期を経て」大人になるよりも、「初めから変態でなく」大人になる方がいいじゃないかーーそう思う人がいるかもしれないが、それはきっと違う。

思春期を終わらせることはーードロドロとした自分を受け入れることはーー生きやすさを手に入れるという意味では、ゼロからプラスになるというより、マイナスからゼロになってそこから出発するという感じだ。たしかにそこだけ見ればプラスではない。

しかしその思春期にかつてあった「ドロドロとした変態さ」を、思春期を過ぎて後々になって振り返れば、「あのときは確かに辛かったけど、濃密な味があったな」と思うことができるはずだ。そして必ず「あのときがあったからこそ、今の私は<世界の深さ>を味わうことができるのだ」という、自らの人生の糧になっていることを気づく瞬間がくるはずだ。

私の経験から言うとーーいや、私の経験からだけでなく、他の作家も何人か書いているのでその通りなのだと思うがーー、人が経験から成長できるのは、そしてそれが自身の糧になったと自覚できるのは、辛かった経験、失敗した経験からだけだ。楽しかった経験、成功した経験は、そこには運要素が絡んでくるので何が成功要素だったのか見極めるのが難しく、またそこから自省しようとすることはほとんどない。

「かつての辛かったとき」が人生の糧になるのだ。

だから「明るく楽しい青春」ではなく「ドロドロとした変態的な思春期」を経た彼らは、必ずこれからの人生で「何が幸いなことなのか」「人生はどう生きたらいいのか」という答えをみつけるはずである。

彼らにーーいや「彼女たち」に、幸あらんことを。   <完>

 

本日のマンガ名言:わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです

 

追記)変態が思春期を経て、真人間に成長するというマンガでは、押見修造惡の華を以前書いたので、ぜひ読んでみてください。

押見修造『惡の華』中学生編(1~6巻)を読む - 文芸的な、あまりに文芸的な

押見修造『惡の華』高校生編(7~11巻)を読む  ~破滅よりも、生きることに賭ける - 文芸的な、あまりに文芸的な

第二十三回文学フリマ東京レポ ひとり反省会

第二十三回文学フリマ東京から一週間ほどたつので、忘れないうちにサークル参加の反省点を

文フリ当日の、我々のブース

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全体的な感想

作る

制作期間は2か月半ないくらいだったが、私の担当(漫画論4つとマンガ2つ)は、漫画論に手間取って、いつものごとく(苦笑)終わりがぎりぎりになってしまった。

私の創作モチベーションは、締め切りがあるのは必須だと思った。

文フリ当日

我々のブースに寄って、コピー本を買ってくれた方は17人くらい。25部ずつつくったので、7部づつくらい売れ残ってしまった。

前回参加時、15部が完売したので、前回より内容には自信があったので、今回はもっと売れると思ったのだが、前回と同じ売れ行きだった。

開始一時間半くらいブースに人が来なくて「大丈夫なのか?」と心配した。前回と違って入り口近くの場所じゃなかったので、前回よりお客さんが寄らなかった感があった。

 

反省点

コピー本だと、見本誌置き場の所で見栄えがよくなかった。そこでお客さんにスルーされた(であろう)のが痛かった。せめて表紙だけは光沢紙で作らないと、と思った。

印刷所で刷ってもいいが(そのほうが見栄えがいいから)、そうすると経費が掛かる…一冊300円以内にしたいが、それじゃペイしないし…。売れ残ったあとの取り扱いも面倒だ。

他のサークルにも言いたいが、印刷所を通すと1冊500円はするので高い。「これは欲しい」と思わないと買われない(少なくとも私は買わない)値段だと思う。他に買う本も(当然同人誌以外にも)あるので、私は「これ、もう少し安ければ買うのだけど…」なサークルが10はあった。実に残念。

だから、他のサークルにもいいたいのだが、廉価版のコピー本おいてくれるとありがたい

「少し興味あって読んでみたいけど高い」で敬遠されないような値段設定にしたい。個人的には「まぁ買ってみようかな」で買われるのが300円以内だと思う。

逆に言うと、100円という価格でも興味ない人は、たとえいくらだろうが興味ないのだろう。安い価格でいくなら「興味もってくれた人を取りこぼさない」ことが肝心か

 

コンセプト(テーマ)がない、のは客目をひきにくかったか。制作時には好き勝手に書いたのをまとめて出すので、テーマを作りづらいのはある。

 

客層はほとんどの人が男の人だった。せめて半分くらいは女性客がほしかった。内容が特に「女性向けではない」ことはないのだけど…。

文フリには美人な文化系女子がたくさん来てるだけに残念だった。もっといろんな人と話したかった。

俺みたいな男が店番してると女性は来づらいのだろうか?興味わかないのだろうか?一応サークルメンバーには女性もいたのだけど

 

良かった点

POPは急ごしらえだったので、可も不可もなかっただろう。他サークルみたいに「他イベントでも売ってます!文フリ何度も出てます!」みたく豪華なブースレイアウトはできないので。

「マンガ好きと語りあいたい」と書いたプラカードを持っていたら、漫画好きな人が一人話かけてくれた。一応目的は達成されたが、もっと話しかけてもらいたかったとも思う。

QRコード印刷しておいて「ツイッターフォローしてくれたら2冊100円(半額)」にしたのは良かった。誰が買ってくれたかわかるし、「できれば感想ください」と頼むこともできたので。

サークル名が「文化系女子になりたい」なので「文化系女子割り」をやったら、女性客がもっと来てくれるんじゃないかと思った。男性差別?もっと女性とおしゃべりしたいんだよ!

 

買った同人誌のレビューは後日するかも。10冊ほど買ったが、実はまだ1冊も読んでない…。

 

最後に、編集後記から和田のをもう一度(本人が再掲を望んだので)

◆和田浩史  (@hirofumi) | Twitter

文化系女子になりたい』を読んでいただいた方、(ブースに立ち寄ってくれた方も)ありがとうございます。
短歌を始めて年数の浅い私ですが、「へー」とか「ふーん」とか
少しでも引っ掛かる歌があったら嬉しい限りです。

ふだんtwitterをよく見るのですが、短歌業界(業ではないですね)の結社のようなつながりにうまく馴染めないなぁと思っています。
みんな楽しそうでなんか近づきにくいなぁとそう思っている人も多いのではないでしょうか。

だから自分にとっては『文化系女子になりたい』をもはや結社にするのも良いかもと思ってます。
文化系女子になりたい』を屋号にして、みんなで短歌を書こうじゃないかと
思ったりするわけです。

そんなわけで突然ですが、次の冊子刊行に向けて(活動形態は冊子で無くても良いかもしれません)新メンバーをゆるく募集しようかな、と。

というのも先日、文フリで印象的な2つのサークルに出会いました。

一つは、僕たちの隣のブースだった、エクリオさん。
いわゆるゲームまわりの評論冊子ですね。
僕はゲーム評論が好きなので購入しましたが、まあ面白い!
中の記事に触発されてさやわかさんの『僕たちのゲーム史』(星海社新書)も読み始めました。
エクリオさんのブースはすごい人気で、購入する人が列をなすほど。
なんかこう一般的な本屋さんのような感じと言うか開かれている感じがしてすごく良いなと思ったんです。
社会とつながっている感じと言うか。

そしてもう1つは、『素数』という短歌冊子のブース。
こちらも購入して読んでますがまあ面白い!
装丁も格好良いし、メンバーのセンスがまた良い。
正直、このブースは短歌カテゴリの中でもかなり開かれている感じがしたんです。
他の数多の創作物と同じ土俵で勝負する的な。

…またがっつり短歌を詠みたくなりました。
俳句や川柳だって、キャッチコピーや大喜利だって、みんな面白いですが、短歌はまた別の面白さ。
若い人の作る短歌を「平成アイデア短歌」などと揶揄したのは誰だったでしょうか。
面白ければいいじゃん!

というわけで、新メンバーをゆるゆる募集しますので@hirofumi までコメントください。(集まるんでしょうか…)

第二十三回文学フリマ東京「文化系女子になりたい」編集後記

 作成した文芸同人誌『文化系女子になりたい』、紙面が尽きてしまったので、編集後記だけブログ上で発表。おまけコンテンツ。

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まずは、今回文芸同人誌『文化系女子になりたい』を購入してくださった方、私たちのブースに寄って下さった方、そしてこのページを読んで下さっている方にお礼を述べます。本当にありがとうございます。

まずは宣伝。さいたま読書倶楽部という読書倶楽部があります。月1回の読書会です。

  さいたま読書倶楽部(さいたま市で読書会開催中!)

私たち『文化系女子になりたい』制作メンバーもこの読書会に参加しています。

参加者は60人ほどで、主な年齢層は20代~50代。本当に刺激的で面白いですよ。興味のある方はぜひご参加ください。(※私たちは読書会の主催者ではないので、HPからお申し込みください)

…といったところで、以下は編集後記らしく、今回の同人誌編集の所感を。

前回の文学フリマ(第22回東京 5/1)に続き、2度目の参加である。前回の参加で、この即売会の雰囲気がなんとなくつかめたので、今回はほんの少しだけ余裕をもって臨みたいと思う(この文を書いているのは文フリ開催前日)。

今回は、私の大学時代からの友人、和田(和田浩史 (@hirofumi) | Twitter)の他、

中山とりこさん(中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR) | Twitter)も参加してくれた。3人態勢になったことで、同人誌のジャンルに幅ができたと思う。

 前回の「漫画論と短歌」に加え、中山さんが小説を、そして私が(初めて)マンガを描いた。

まずは、わたくしタムラが担当したマンガ制作に関する雑感を。

私は「マンガを読む」ことをライフワークにしている(自称。世の中私以上の漫画読みはたくさんいるだろうけど)のだが、「マンガを書く」のは初めてだった。小学生低学年時に、「自分が読むために」マンガを描いていたことはあったが、「発表するために」描くのは初めてだった。「絵を描く」こともしたことがない。ただ、漫画を多量に読むうちにいつしか「自分でも描いてみたい」「絵がうまくなくてもいいのなら(そして趣味でやるにはそれで問題ないのだから)、自分でも描けるのではないか」と思って、今回マンガを描いた。

マンガのページ数は少ないので、なんとか「ヘタウマ」な、いや「ヘタ・ヘタウマ」な絵でのりきろうと思った。イメージとしては西岸良平(『三丁目の夕日』作者)を下手にした絵で、つげ義春っぽい話」を描きたかった。

そしてなんとか出来たのはーー「下手が下手なりに書いた」画でかいたマンガだった。ヘタウマというには個性がない絵。ヘタウマな絵でマンガを成立させるには、1コマだけでなく「マンガ全体を統一して」ヘタウマにしなければならない。これはこれで結構な技術のいるものだと、実感した。漫画文学論の原稿が遅れに遅れて、マンガは5日ほどで仕上げなければならなかったので、ヘタウマな画を研究することが出来なかったのも一因だった。

マンガペン(Gペン)は持っていないので、ボールペン書き(ボールペン漫画には、こうの 史代『ぼおるぺん古事記』という、ボールペン描きの味のある漫画もあるのだが、私にはもちろんそれを再現できる能力はない)。本当は、ほしのよりこ(『今日の猫村さん』作者)のように鉛筆書きで書きたかったのだが、コピー印刷したときにあまりに線が薄かったので断念した(ほしの漫画はどんな印刷してるのだろう?印刷会社通せばあの鉛筆線が出るのだろうか?)。

コマ割りも難しかった。躍動感のある絵は描けないので、「(動きの少ない)静かな」話にしたのだが、もう少し「動きのある」マンガにしたかったとも思う。しかし今の私にはそこまでの技術がないので、それをふまえて考えれば、出来たマンガの「話」の面では不満がない。

まあ、今の私の能力からしたら及第点のマンガだと思いたい(自分への評価が甘いわけじゃないよ。厳しくもないけど 笑)

そしてもうひとつ思ったのが、「人間(の姿)を描く」ことの難しさ、というより面倒くささ。竹久夢二という実在の人物が登場人物だったので人間を描いたが、思えば水木しげる猫楠』みたいにデフォルメした動物にすればもっと簡単に描けたのではないかと思った。イメージとしては羽海野チカの描く熊の自画像みたいな。

というわけで、初心者がマンガを描くときは、デフォルメされた動物で描くことをオススメする。

と、初めてマンガを描いた感想はここまで。

文化系女子になりたい』同人誌を両号ご購入でない方もいると思うので、いずれ、両号のマンガをこのブログで公開する予定である。

なお、『文化系女子になりたい』原稿コピー時に、画像上下が見切れてしまった箇所が一部あるのでそこを訂正させていただく。(雰囲気でなんとなくわかると思うが…)

「3号 マンガ『夢二とお葉』4P」

1コマ(右上)「先生 わかってらっしゃるかしら…」

5コマ(左上)「先生ったら、私をお描きになっていたら ボーッとなさって」「そうだったかな」

 「3号 漫画文学論『おやすみぷんぷん』論 8P

最後の行「愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。

浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱 - 文芸的な、あまりに文芸的な

また、和田の短歌研究新人賞候補作受賞作『an』(4号に収録)の加藤治郎選評は、このブログで公開しているので、興味ある方はご覧いただきたい。


最後に、私たちがーーというより私が、文芸同人誌を作る(そして文フリに出る)理由を述べておきたい。

前回の文フリの編集後記に、私は、「私が文章を書く理由」は、

私は、この感覚の百分一でもいいから他者に、つまりこ文章を読んでるあなたに、私の思考を理解してもらいたいとそして共感してもらいたいと思うから文章を書くのだ。 

 と書いた。それは今でも変わらない。私は、私以外の誰かに、「私の思考を100%共感してもらいたい」と思って文章を書いている。(そしてもちろん、それは不可能なことだも承知している。その上で、あえて書くのだ。)

しかし今回は、他にも文学フリマに参加したいと思う理由があった。

ひとつは、文学フリマという「学園祭」的雰囲気を味わいたかったこと。学生時代で一番楽しい想い出であった学園祭を追体験したいと思ったことがひとつ。

こちらの同人誌サークルさんのページで

 「文フリは(批評性を持つ場ではなく)お祭りなのか、文フリがお祭りでいいと思っている人がどれだけいるのだろうか」という話を書かれているが、私自身は文フリはお祭りでいいと思っている。

その中で高度な批評や文学性の高い作品を発表する人が出て来ればいいのではないかと思う。ーーここで「私の書くものが文学だ」と言えればカッコイイのだろうが、一応私は文学の深さを知る者なので、そんな大それたことは言えない。「文学っぽいもの」の末席に加えてもらえればそれで光栄である。

そしてもうひとつ文フリに出る理由。それは私に共感してくれる人物と出会いたいからである。

平たく言えば、私の話になにか共感してくれる新たな知人友人がほしい。私の好きなマンガの話を、本の話を、趣味の話を語ることができる友人(友人とまで呼べずとも知人といえる程度の仲でもいい)に、万が一にでも廻り会えないだろうか、「文学好き」が集まるこの場なら、そんな偶然の出会い(といったら大袈裟だが、なにかそういうきっかけ)というのもあるのじゃないか、という淡い期待からである。

ということで、私にほんの少しなりでも興味を持った方は、ぜひこのブログ記事に感想コメントを残してもらいたい。あるいはツイッターでフォローして頂いたりお知らせしてもらいたいのです。私は、できればあなたと何か話したいのです。

いや別に私に興味なくてもいいので(全然いいです)、何かご感想を頂けたなら、メンバー一同泣いて感謝します。同人誌をやってる人はわかると思うけど、何でもいいから読者から反応があるとうのは、この上なくうれしいものなのです。

なのでぜひ感想待ってます。

そして最後に、言いたいことがもうひとつ。

私、彼女ほしいです!私とつきあってください!(爆

「結局それかい!」と自分でツッコむが、これは私の偽りのない本音。マンガや本の話を一緒にできる人と仲良くなりたい。

まぁともあれ言いたいことは、別に付き合うどうこうとか、そういう重い関係じゃなくても全然いいので、ツイッターでたまにおしゃべりするだけのライトでゆるい関係を、男女年齢問わずにしたい、ということです、本当に。

では最後に。本当に読んでいただいてありがとうございます。そしてご感想お待ちしております。

 

◆和田浩史  (@hirofumi) | Twitter

文化系女子になりたい』を読んでいただいた方、(ブースに立ち寄ってくれた方も)ありがとうございます。
短歌を始めて年数の浅い私ですが、「へー」とか「ふーん」とか
少しでも引っ掛かる歌があったら嬉しい限りです。

ふだんtwitterをよく見るのですが、短歌業界(業ではないですね)の結社のようなつながりにうまく馴染めないなぁと思っています。
みんな楽しそうでなんか近づきにくいなぁとそう思っている人も多いのではないでしょうか。

だから自分にとっては『文化系女子になりたい』をもはや結社にするのも良いかもと思ってます。
文化系女子になりたい』を屋号にして、みんなで短歌を書こうじゃないかと
思ったりするわけです。

そんなわけで突然ですが、次の冊子刊行に向けて(活動形態は冊子で無くても良いかもしれません)新メンバーをゆるく募集しようかな、と。

というのも先日、文フリで印象的な2つのサークルに出会いました。

一つは、僕たちの隣のブースだった、エクリオさん。
いわゆるゲームまわりの評論冊子ですね。
僕はゲーム評論が好きなので購入しましたが、まあ面白い!
中の記事に触発されてさやわかさんの
『僕たちのゲーム史』(星海社新書)も読み始めました。
エクリオさんのブースはすごい人気で、購入する人が列をなすほど。
なんかこう一般的な本屋さんのような感じと言うか
開かれている感じがしてすごく良いなと思ったんです。
社会とつながっている感じと言うか。

そしてもう1つは、『素数』という短歌冊子のブース。
こちらも購入して読んでますがまあ面白い!
装丁も格好良いし、メンバーのセンスがまた良い。
正直、このブースは短歌カテゴリの中でもかなり開かれている感じがしたんです。
他の数多の創作物と同じ土俵で勝負する的な。

…またがっつり短歌を詠みたくなりました。
俳句や川柳だって、キャッチコピーや大喜利だって、
みんな面白いですが、短歌はまた別の面白さ。
若い人の作る短歌を「平成アイデア短歌」などと

揶揄したのは誰だったでしょうか。
面白ければいいじゃん!

というわけで、新メンバーをゆるゆる募集しますので@hirofumi までコメントください。(集まるんでしょうか…)

 

◆中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR |Twitter  )        

文化系女子になりたいをお手にとっていただいた皆様、ありがとうございます。今回より、田村さん和田さんに混ぜていただきました、中山とりこと申します。もそもそと短歌や小説を書いています。

普段はTwitterや、noteというサイトに投稿しています。今回はvol.3に載せた短歌連作のカラー版も公開していますので、よろしければ見てみてください。

note.mu

告知 ※文学フリマ東京(11/23)出展します。サークル「文化系女子になりたい」キ-13

文学フリマ東京(11/23 水・祝)出展します。

サークルは文化系女子になりたい」キ-13

評論サブカルチャーのブースコーナーです。詳しくはwebカタログで

c.bunfree.net

配布するミニコミは「文化系女子になりたい」3・4号

1冊100円のコピー本です。

 短歌、小説、漫画論(このブログの記事)、マンガをのせます。

各号のもくじ

3号

4号

 私の担当は漫画文学論とマンガ。マンガはこのブログにのってません。

あと、「短歌研究」新人賞候補作となった『an』、短歌研究に載らなかった歌も含め30首すべてが収録されます。

pic.twitter.com/a7VK1Dx6Yu

twitter.com

 制作メンバーは私の他、

前回メンバーの和田(短歌)

和田浩史 (@hirofumi) | Twitter

新メンバーの 中山とりこさん(小説、短歌)です

中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR) | Twitter

私たちはさいたま読書倶楽部で知り合いました。読書会はかなり面白いので、皆さんのご参加お待ちしてます

さいたま読書倶楽部(さいたま市で読書会開催中!)

 

ということで、よろしくおねがいします。

ブースに来てくれたみなさんとはなんらかのお話しが出来ればな、と思っています。

邪険にしないで仲良く気軽に絡んでやってください。

 

追記)コピー本できました

アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみる ~死者に規定された生者たち

今回はアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。、略称『あの花』。漫画ではなくてアニメだけど、漫画文学論でとりあげる。漫画版もあるしね。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

 

『あの花』といえばご存じのとおり、「キャラの名前に下ネタをつけてあなる連呼させるって、岡田麿里(脚本)マジ天才だな」という初見のインパクトで有名であり、さらにくどいほどお涙頂戴に作られた最終回で視聴者をめんまロスにさせたアニメとしても有名である(ってこんな説明でいいのか)。

ところで、なぜ『あの花』をとりあげたかと言うと、前回の記事でヒカルの碁を「死者」をテーマにとりあげたからである。

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに - 文芸的な、あまりに文芸的な

ヒカ碁』は「死者は生者の中に現在する」という事実を、主人公のヒカルが気づく話であった。

『あの花』にも、めんまが幽霊(的存在。実はめんまの正体は花の精霊に生まれ変わった説などがある。この記事では便宜上、幽霊とする)として登場する。そして物語の主人公たちーー超平和バスターズの面々は、過去のめんまの死に際し後悔し、いわば死者に囚われていた。

つまり、『あの花』が描くのは「<自身に内在する死者>によって、<生を規定されてしまった>者たち」というテーマである。彼らは「自身に内在する死者」とどのように向き合うのだろうか。

「死者を心に抱えた生者たち」という観点から、『あの花』における文学性を考察してみたい。

『あの花』は、アニメ版とコミック版では多少の差異があるのだが、コミック版のあらすじを(アニメ版よりもわかりやすいので)解説する。

あらすじ~~~~~~

じんたん、めんま、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽの6人は、小学校時代に互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成して秘密基地に集まって遊ぶ仲間だった。しかし突然のめんまの事故死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、超平和バスターズは空中分解し、それぞれめんまに対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、中学校卒業後の現在では疎遠な関係となっていた。

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かつてグループのリーダー格であったじんたんは、高校生となりひきこもりになっていた。そんなじんたんの前に、めんまの幽霊(姿は成長してるが、記憶は死んだ当時のまま)が現れた。めんまは「“みんな”じゃないと叶えられないお願いを、叶えて欲しい」と言う。しかし肝心のそのお願いの内容は覚えていない。そしてめんまは、じんたんにしか視えない。

じんたんはめんまの出現に困惑しながらも、めんまの願いを叶えて成仏させるために、超平和バスターズのメンバーと再交流することになった。初めは超平和バスターズの面々には、じんたんにめんまの霊が視えるなどとは当然ながら信じられない話であったが、じんたんの熱意を知るにつれ、皆じんたんの誘いを受けるのだった。

超平和バスターズの面々は、皆少なからず、めんまの死に囚われていた。

ゆきあつは、めんまに告白したがうやむやにされたままめんまが事故死してしまったことに罪悪感を感じ、めんまの姿に女装して深夜徘徊していたことが、皆の前で明らかになる。ぽっぽは、事故の日川で溺れためんまを、恐怖から助けずに、逃げ出してしまったことを後悔していた。あなるはじんたんが好きだったが(そして今も好きだが)、じんたんはめんまの方に好意を寄せており、自分はめんまには敵わないことを自覚していた。あのとき、めんまがいなくなってくれれば自分が一番になれると思ったことを後悔している。じんたんはめんまからの告白をはぐらかして「ブスなんか好きでない」と嘘をついて揶揄してしまった。それがめんまへの最後の言葉になってしまうとも知らずに…。

超平和バスターズの面々は、めんまが生前「ロケット花火を上げて神様に手紙を差し出し、じんたんのお母さんの病気を治してもらうようお願いする」と言っていたことを思い出し、その計画書(といっても子供が書いた妄想だ)をみつけ、めんまの願いが「皆で花火を上げること」だと確信する。

そして皆でめんまを成仏させるために、花火の資金を貯める、めんまの両親を説得して花火を見に来てもらう、打ち上げ花火を作るなどの活動をする。

じんたんは、めんまに成仏してほしいと思うが、それと同時にめんまと別れたくないとも思っている。

そして花火打ち上げの前日。超平和バスターズは決起集会という名目で秘密基地に集まり宴会をする。しかし皆がそこに集まった理由は、別にあった。

つるこの発案によって、じんたんには内緒で、じんたんに「あの日」ーーめんまが亡くなった日ーーを再現、いや、やり直してもらう意図があったのだ。

あなるはあの日と同じく言う。「じんたんってさ…めんまの事好きなんでしょ?」

じんたんは、あの日に言えなかった本音を言う。「好きだ…俺は、めんまが!」じんたんはたまらず逃げ出そうとするが、ぽっぽが「そこで逃げたら同じことになるぞ!」と制して止める。

じんたんは、めんまと別れたくない想いがあふれ、涙が出た。ーーそのときめんまは、何かを思い出したような感じがした……。

じんたんはめんまに「成仏しなくたって、このままここにいればいいじゃないか…」と本音を告げる。しかしめんまは、ちゃんと成仏して生まれ変わって皆に会いたい、と言う。

そして打ち上げ花火の当日。集まる超平和バスターズの面々。めんまの家族。じんたんは、めんまが成仏することを祈りながら…心の底では、別れるのを拒んでいた。

 f:id:akihiko810:20161103031025j:plain

打ち上げ花火が上がる。 …めんまはーーーー消えなかった……。

その夜。超平和バスターズの面々は、めんまが成仏しなかったことは、自分たちが自分勝手な思いでいて、心からめんまの成仏を願ってなかったからだととり乱す。そしてもう一度、めんまの本当の願いを叶えて成仏させようと誓う。

そしてじんたんが家に帰るとーーめんまの姿が消えかけていた

めんまは自分の叶えてほしい願いを思い出したのだ。それは病床のじんたんの母(病気でもう長生きできない)に「あの子は強がってて悲しいときも涙をみせない」と心配されたことから、めんまは「強がりをしているじんたんを、皆で泣かせる」と願ってたのだった。そしてその願いは、じんたんが涙をみせたことによってすでに達成されていたのだ。

めんまを背負って、秘密基地に向かうじんたん。そして秘密基地に集まる超平和バスターズの面々。が、秘密基地に着いた途端、じんたんにもめんまの姿が見えなくなってしまう。

「みんなとちゃんとお別れしなきゃ」と、最後の力を振り絞って、全員にメッセージを書くめんま

 そのメッセージを読む5人。そして「かくれんぼならお前を見つけるまで終わらない」と「もういいかいー!」を連呼する。皆めんまへの感謝と想いのたけを叫ぶ。めんまにもその想いは伝わる。そしてめんまは、もっと皆といたいけど、生まれ変わって皆と会いたいと涙ながらに言う。

めんまにすべての想いと感謝を述べた5人はーー「せーの!めんま、みぃーつけた!!」

めんまは「みつかちゃった…」と言って消える。そのときのめんまは、涙で顔を濡らしながら、笑っていた…。

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…そして超平和バスターズの面々は、それぞれの日常に戻った。

「俺達は大人になっていく 。だけどあの花はきっとどこかに咲き続けている 。そうだ  俺達はいつまでもずっと  あの花の願いをずっと叶え続けていく――」

~~~~~

めんまが死者となってしまったことで、超平和バスターズの面々は、彼らの<めんまとの関係性>が、無念の残るものとして固定されてしまう。死者によって、生者の生が「規定されてしまった」のである。

<死者と生者の関係性>でやっかいなことは、(当然ながら)生者は死者に働きかけることができないという点である。<生者同士の関係性>ならば、片方が片方に働きかけて得たいものを得ることができる。つまり関係性のその意味を、再生産、再構築することができる。

しかし相手が死者ならばそうはいかない。相手を想起することしかなすすべがない。しかもここが大事な点なのだが、死者の側からは、生者に働きかけてくるのである。行為してくるのではなく(死者は実体がないのだからそれはできない)、いうならば<生者に内在する死者との関係性>が、「想起することを求めてくる」のだ。例え死者を思い出したくなくとも、どうしようもなく想起せざるにはいられないーーそんな感覚である。かつて我々(生者)に愛情や優しさや共感を注いでくれた者ーーつまり「自己の存在」感を与えてくれた他者ーーが死者になってしまえば、もうその他者からは、そういった「意味」を得ることができない。相手が死者になってしまったことで、代わりにその関係性(死者と生者の間にあった意味)だけが残って、懐かしさや未練といった<関係性の残像>を想起せざるを得なくなるのである。

死者は生者に、一方的に強烈な意味をーーしかも固定されてしまい再構築することが困難な意味をーー残すことで、生者の「生」そのものに影響を与える。それはときには、生きる者が影響を与える以上に、死者はその「不在性」故に、強い影響を、与えてくるのだ。

めんまとの関係性>が、未練の残るものとして固定されてしまったことによって、ぽっぽは「めんまの死を助けられなかった自分」を悔いて、高校に通わず世界放浪して「強い自分」になろうとしていた。ゆきあつに至っては、めんまに女装して「めんまと同化」しなければいられないほどに影響を与えられていた。(とはいえ、さすがにゆきあつの話は「アニメという(面白さのための)嘘」だろう。こんな奴現実にいたら変態すぎる 笑)

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 しかしーーおそらく幸いなことにーーめんまが幽霊として彼らの前に再び現れたことで、彼らはまた新たに<関係性>をやり直す(つまり上書きする)機会を得ることができる。

そのやり直しとして、まずはロケット花火を作って打ち上げるも、結局それではめんまが成仏しない、というシーンがある。私はこれは物語の作りとしてうまく出来ていると思う。本命と思われたロケット花火がめんまの願いではないという描写には、そこには視聴者の読みを裏切る”透かし”の効果があるだけでなく、死者との(つまりは他者との)コミュニケーションの困難さを表す良シーンだろう。

そして最終回、超平和バスターズの面々には思いがけず、彼らの意図にはよらないところでめんまは成仏してしまうが、そこでの「くどいまでに泣かせるかくれんぼのお別れ」が、「死者との決別」(固定化された<死者との関係性>を変化させること)がいかにエネルギーを要することなのかということを、端的に、そして感動的に描いている。

 『あの花』アニメ本編を観た方ならば覚えてると思うが (あらすじを読んだだけではわかりにくいかもしれないが)、最終回、めんまが成仏するお別れのかくれんぼのシーンは、登場人物が皆「視聴者がひくくらい、泣き叫ぶ」シーンになっている。それは脚本の岡田麿理いわく、かつてNHK教育で放送されていた、十代の討論番組真剣10代しゃべり場を意識したからだという。

『あの花』の最終回は、あの伝説的テレビが元ネタ!? | ニコニコニュース

  思春期の少年少女が、こうして自我をぶつけあっているのを見るのは気持ち悪いものだなあって。いろんなものがあまりに未完成すぎて、生っぽすぎて、見ていてイライラして・・・・・・でも、それがすごくイイ(笑)。これだけ人の心をざわつかせられるってホントすごい、いつかアニメで同じようなことをやってみたいと思ったんですよ。

彼らがありったけの熱量で泣き叫ぶ様は、(脚本家の思惑通りに)我々視聴者の胸を打つ。それは彼らの「泣き叫ばずにはいられない」という気持ちが伝わるからだ。

彼らがこうまで泣き叫ばずにいられなかったのは何故か。

もちろん、(幽霊の実態としての)めんまが消失(成仏)するから「悲しくて」泣き叫んだ、というのが一つある。しかしそれだけではない。

彼らにとって、泣き叫ぶことそれ自体が(彼らの中に内在する死者としての)めんまの成仏だったのだ。自分の中のめんまを成仏させるために、<めんまとの関係性>を「未練の残る存在」から「未練は残るけれど、それでも美しい思い出をもつ存在」に変化させるために、彼らは泣いたのである。彼らはこうまで絶叫しないと、彼らの中のめんまーー彼らの心を捕えていた死者ーーを成仏させることはできなかったのだ。

彼らがくどいまでに泣き叫んだのは、それ程までに<彼らの中のめんま>が「決定的に意味を持っていた」からである。

最後の言葉「せーの!めんま、みぃーつけた!!」は、お別れとしてめんまに向けた「弔いの言葉」という意味だけでなく、自身の生を死者に囚われた状態から解放するために、めんまへの想いを「未練の残るものではなく、美しい思い出をもつ存在」に変化させるための、彼ら自身の為の言葉でもあるのだ。それ故にその叫びは、悲痛さを帯びる。この「悲痛さ」も我々視聴者の胸を打つ。

そしてめんまを成仏させ、<めんまとの関係性>を改善させた彼らは、日常にまた戻るーーいや、今までの「死者に囚われた生」から解き放たれた、新しい人生をまた始める。「あの花」がいつまでも心の中に咲いているように、いつまでも心の中にめんまへの想いを抱きながら。

このように、『あの花』は、<生者と死者との関係性>における、死者を想う(受容する)事の困難さと切なさを、真正面からーーつまりくどいまでに熱くなるのを厭わずに、描いた作品である。

そして現実の死者もーー生者にとって大切な人物であるならなおさらーーこのように生者に意味を投げかけてくる。だから人は死者と折り合いをつけるために、死者の弔いを行うのだろう。

ただしアニメではなく現世を生きる我々の前には、すでに死んでしまった死者は現れない。超平和バスターズの彼らとは違って、死者との関係を「やり直す」機会は与えられない。死者が「私」の事をどう思っているのかをきくこともできない。つまり現実には、<死者によって規定されてしまった生>を修正することはより困難性を伴う、ということである。我々は<死者との関係性>(つまりは大事な人との想い出)を、「自らの意思で」より良きものに変えなければならないのだ。

死者は生者の中に現在する。そしてその死者は私の中にどう現在させるのかーー、我々がそれをみつめるときに『あの花』は示唆を与えてくれるはずだ。

 

本日の漫画名言:超平和バスターズ はずっとなかよし

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ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに

今回は、ほったゆみ(原作)・小畑健(漫画)ヒカルの碁』。

 唐突だが、私が道徳的観点、というより「人生の指標になる」という観点から「小学生が絶対に読むべき少年漫画」をいくつかあげるとしたら、「他者と内発的につながることーーそれが結果につながるのだということ」という、いわば「人生を生きる上で最も必要な心構え」を見事に描ききった、藤田和日郎うしおととら(96-99 週刊少年サンデー)と、荒川弘鋼の錬金術師(2001-10 月刊少年ガンガン)を真っ先にあげる。この2作を読めば、「マンガに人生を教わる」経験ができると、私は断言する。

 他にこれを、(次点として)ジャンプ漫画からあげるとすると、少し考えてしまう。

ジャンプの掲げる「努力・友情・勝利」は、「努力友情」は道徳的にいいとしても、「勝利」の部分がエンタメに寄りすぎていると感じる(「勝利」というのは過程ではなく結果であり、マンガの面白さを成す部分だ)。

勝利は人生の必須条件ではない。だからジャンプ漫画から「部分的に」人生を学ぶことはあるが、「作品丸ごとが人生の役に立つ!」と断言できるようなジャンプ漫画は、私にはぱっと思い浮かばないーーと書いてて思い出した。井上雄彦スラムダンクがあった。忘れるなよ俺。

人生の勝敗について私は思う。人生は勝てば当然うれしいが、ーーこれを理解してない大人も多いだろうがーー実は、人生は負けても構わない。 いや、というより、人生である以上そこには勝つことも負けることもあり、その上でなお続くのが人生なのだ。たとえどんな人生であっても、そこにはただ、「人生という味わい」があるだけだ。巷にある「人生は勝ち負けではない」という言葉は、たぶんそういう意味だろう。

先にあげたスラダンだって、最後山王戦に勝った後に、次の試合で「嘘のようにボロ負けした」からこそ深い味わいが残り、今なお名作として漫画史に君臨しているのだ。

ーー話が少しずれた。

今回紹介する『ヒカルの碁』、そんな「小学生が絶対に読むべき少年漫画」にあげても謙遜のない、優れたジャンプ漫画である。(と、この一文を書きたいがために前置きが長くなった!)

佐為(さい)編の終盤(コミックス14巻~17巻あたり)は、この漫画を傑作たらしめている。

 主人公ヒカルは、平安時代の天才囲碁棋士佐為(さい)という霊に取り憑かれる。佐為はかつて、江戸時代最強といわれた棋聖本因坊秀策に取り憑いていた幽霊だ(つまり、秀策の囲碁は佐為によるものである)。ヒカルはそれを境に囲碁にのめり込み、その才能と努力によって、中学生という若さながらプロ棋士になる。と、ここまでが物語の序盤。

そして佐為編・終盤のあらすじ ~~~~~

日本囲碁界のトップ・矢名人ネット碁を覚えたことをヒカルは知り、佐為はかねてから対局したいと願っていた塔矢名人と対局するチャンスを得た。幽霊であり自らの正体を明かせない佐為は、匿名のネット碁でしか対局できないからである。塔矢名人も、ネット上でsaiと名乗るただならぬ強さの何者か(正体は佐為)に強い興味を示していたので、ついに二人の対局が実現した。

この頂上決戦は一進一退の熱戦となり、佐為の妙手によって、佐為が辛くも勝利を収めた。強敵に打ち勝った佐為は深く満足し、これほどの名局を戦うことが出来た塔矢名人に深く感謝する。そのときヒカルは、盤面を見て言う。「この手だったら佐為の負けだ」局後の検討で、ヒカルは佐為も塔矢名人をも上回る手を発見し指摘したのだ。この瞬間、佐為は悟ったーー「私が亡霊として千年存在してきたのは、『この一局をヒカルに見せるため』だったのだ」と。そして役目を終えた自分が成仏するときが、まもなく来るということを…。

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…時が過ぎ5月5日。いつものようにヒカルが佐為と碁を打とうと、ヒカルが碁盤を用意しているときにーーヒカルが気づかぬうちにーー佐為は陽光の中に消えていったのだった。ヒカルに声をかけることも叶わず…。

佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。佐為を探しに、本因坊秀策所縁の地を巡る。そしてヒカルは、初めて秀策の棋譜を見直し、今になって初めて佐為という棋士の天才さを実感するのだった。

佐為がいなくなったショックで、ヒカルはプロ棋士の活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続いていた。ーー自分が碁を打たなければ、打ちたいと思わなければ、いつか佐為が帰ってくるのではないかーーと願うように思って。

そんな中、院生時代の同窓生でライバルだった伊角がヒカルの家に来た。伊角は、前回のプロ試験でのヒカルとの対局で反則負けを犯しプロになり損ねたという苦い記憶を、今回のプロ試験に臨むにあたって振り払うために、ヒカルとの対局を申し込む。当初は気の進まないヒカルであったが、「これは自分のためでなく伊角さんのためだから」と対局を受ける。

その対局にヒカルは次第に没頭しーー自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手と重なることにヒカルは気が付く。今まで探していた佐為がーー自分が佐為から受け継いだ囲碁の中に佐為が存在することを、ヒカルは悟ったのであった。

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ヒカルは涙を流し、これから終生、何百何千という碁を打ち佐為の面影を追うという決意をする。

~~~~~~

 ここは『ヒカルの碁』という物語全体を通して、盛り上がりが頂点となるところだ。

以降『ヒカ碁』は、佐為という一番の(あるいは唯一の)「マンガ的なキャラ(囲碁最強の幽霊)」を消したことによって、より現実な話づくりにならざるをえず、「マンガ的な表現」の幅を狭くしてしまう。佐為編のあとに続く「北斗杯編」を読むと、いかに佐為というキャラクターがヒカルという主人公と絡み、ヒカルと佐為が「二人で一人」なキャラクターとしてこの漫画を引っ張っていたかというのがわかる。

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「マンガはキャラクターが命」という漫画原作者小池一夫の名言(というか信念)が思い出されるが、本稿は「漫画文学論」なのでキャラの話はこれ以上しない。

あと念のため述べておくが、北斗杯編はそれはそれでまた盛り上がるし面白いので、ぜひ読んでもらいたい。佐為がいないというだけで(だけなのに)、まるで(微妙ながら)別漫画のような読み応えとなっているのも、ぜひ確認してもらいたい。

さて、漫画文学論。『ヒカ碁』の文学的なポイントをあげたい。

それは「死者は現在する」という事を、感動的に描いたところだと思う。今現在のゲンザイ(ゲンにアクセント)ではなく、「現に存在する」という意味のゲンザイ(ザイにアクセント)である。もちろんそれは、死者は幽霊になるとかいう話ではない(佐為は幽霊だけど)。

ここに描かれているのは、死者は死んだことで存在を失うのではない。むしろその存在感が増すのだ、という「死別することで人(生者)が直面する気づき」である。

佐為という幽霊は、成仏することで、語りかけることも語りかけられることもできない「完全な死者」となった。完全な死者となったことで、ヒカルにとってその存在が消えたのではなく、逆にヒカルにはーーまるで自身の内面にべったりと張り付いたようにーーその存在が増したのである。

話は少し変わるが、佐為のその成仏の仕方ーーつまりヒカルとの別れーーは、そこには悲劇さのかけらも感傷的に泣かせるような演出もなく、静かにすっと消滅するというものであり、非常に儚いものであった。毎週のアンケートで人気を判断される少年誌連載でありながら、別れの場面にわかりやすく派手で感動的なシーンにせずに、作者があえて、この静かな別れとして描いたことを賞賛したい。

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そしてこの「唐突で、静かな別れ」こそが、ヒカルが、佐為との別れを受け入れることのできない要因となった。もし別れの場面で、佐為とヒカルが何らかの別れの言葉を交わすことができたなら、ヒカルは佐為の消失を受け入れる、とはいわないまでも多少なりとも消化することができただろう。

しかし唐突な別れ(現実世界でいえば突然の事故で死別する、などに相当するだろう)は、それを心の底から受け入れることをさせない。ただ喪失感ーーというより、それを伴った困惑が襲ってくるだけだ。 

このような「死別と、死者の重さ」を記した本に 『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)というのがある。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

著者は恐山にある寺の住職である。言うまでもないが恐山は霊場であり、またイタコで有名であり、そこには死別した者となんとか話したい、思いを届けたいという人々がたくさん来る場所である。

 恐山には、死者の供養に来た者によって、大量の供物が持ち込まれる。故人の衣服だけでなく、故人が「生きていたら」その年齢で着ていただろう新品の服(つまり定期的に買い換えてお供えしている)もある。また結婚前の子を亡くした親は、せめてあの世で結婚させてあげたいと、花嫁人形や花婿人形、ウェディングドレスのお供えもあるという。

また恐山の岩場の草葉の陰には、参拝者が勝手に作った簡単なお墓(20cmほどの石板に戒名や名前が書いてある)が並び、お供えしてある石には、「もう一度会いたい 声をききたい」「○○くん、また会いに来るからね」などと書かれているという。

そこには、死への、いや「死者」への、圧倒的なリアリティがある。

 著者は考える。なぜ恐山に、こんなに多くの人が死者の供養をしに来るのだろうか。いや、人はそもそもなぜ「死者の供養」なんてことを考えるのだろうか。

恐山に来て2年ほどたったとき、著者は気づく。「ここには死者がいるのだ」と。死者は実在するのだとーー。

そして続ける

一見、死というものは、死者の側に張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山で掴んだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。

と。 そしてその根拠も著者は述べる。

 死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)

生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。

つまり、死者は生者がいるかぎり、生者のなかに現在するのだ。(南老師は「実在する」と書いているが、死者はもはや存在をもたないので、私は「現在する(現にある)」といいたい。)

話を『ヒカ碁』に戻そう。

ヒカルにとって佐為は掛けがえのない存在だった。それは同じく、佐為にとってもヒカルが掛けがえのない存在だったからである。片一方方向における関係ではなく、相互方向における結びつきだったからこそ、そこには(ヒカルにとって佐為は)強固な絆があったのだ。

そして、佐為は消えた。ヒカルは佐為の不在に戸惑い、苦しむ。

しかし、囲碁を通して、佐為と自分をつないでいた囲碁を通して、自分が打つ一手の中に、つまり己の中に、佐為が現在することに気付いた。

ヒカルは、自分と佐為が、<関係性の履歴>を育み、そこに強い絆があったことを始めて認識したのだ。

 (<関係性の履歴>については、拙ブログ記事 業田良家自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味 を参照してほしい)

akihiko810.hatenablog.com

 そしてヒカルは「北斗杯編」の最後、「お前はなぜ碁を打つのか」という問いに、「遠い過去と、遠い未来をつなげるために俺はいるんだ」と答える。

それは、碁の歴史に名前を刻むとか、佐為の碁を後世に残すとかいう話ではない。今回の記事のキーワード「死者」という言葉を使っていえば、「生きることとは、他者、そして死者から渡されたものを、他者に連綿と渡していくことだ」という決意である。

ヒカルと佐為が育んできた<関係性の履歴>は、二人の間で閉じているのではない。他者に連綿と受け継流れていくものなのだと『ヒカ碁』は提示するのだ。

ラストのヒカルの言葉は私たち読者に問いかける。

私たちが他者の死に対面したとき、いったい誰の死がそして想いが、己の中に現在するのだろうか。そして私自身が死んだとき、いったい誰の中に己の想いを現在させることができるのだろうか、と。

それこそが意味のある人生を、生きて死ぬということなのではないだろうか。 <了>

 

本日のマンガ名言:「 遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ 」