文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期

ふみふみこぼくらのへんたい(全10巻)。

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

ぼくらのへんたい(1) (RYU COMICS)

 

 世間から見れば「変態」にみられるであろうおとこの娘女装男子3人が、さなぎが蝶になるように「変態していく」様にーー己の人生を受け入れる様を描いた物語。

ーーー登場人物とあらすじーーー

主人公は、中学生の女装男子3人。

性同一性障害であり、純粋に女の子になりたい青木裕太 /まりか

精神を病んだ母親のために、死んだ姉の身代わりになるために姉の女装をする木島亮介  / ユイ

 片思い相手(男)の要望がもとで女装している田村修/ パロウ。幼少期に男からレイプされたトラウマがあり、同性愛者であるようだ。

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ネットのオフ会で3人は出会う。

「自分は好きで女装しているわけじゃない…」そういう思いのあるユイ(亮介)は「マジでキモイなお前ら」と辛らつな言葉をぶつける。そしてこの場はお開きになる。

これで3人の関係は終わりかと思ったが…裕太の入学した中学は亮介と同じ中学だった。ここから3人の”おとこの娘”関係が始まる。

もう一度集まり、なぜ自分が女装をするのかを述べる3人。そして鍵っ子のまりか(裕太)の家に集まるようになる。パロウ(田村)はまりかをーー自分のようにドロドロとした感情を持たない彼をーー誘惑し犯す。

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亮介はそんなパロウに怒りを感じ殴る。パロウは、亮介に誰かのために怒ることのできる優しさをみて「この人が好きだ」と思う。そしてこのように性に溺れている自分はなんて汚いのだろう、と自己嫌悪している。

まりかは、はじめての相手であったパロウに憧れと恋心を抱く。

裕太(まりか)は学校で、女装に肯定的な中世的な男子、夏目智(トモち)という友人ができる。また、同級生から「オカマだろ」と陰口を言われることもあった。

…そんな中… 裕太はついに変声期を迎える。自分の意志とは関係なく、男になっていく体。

裕太は精神科医に行き、医者にこう告げる。

「わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです」

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制服も女性服で通学し、「まりか」として女として生きていく決心をする。

一方亮介は、母親が精神異常であることがつきあっている彼女に知られ、母は亮介と引き離され入院となる。亮介は「今まで自分が母のために女装してきたのは無意味な事だったのか」と悩む。

田村(パロウ)はまりかから告白され、「じゃあその気持ち見せてもらおうじゃないか」と、まりかと性関係をもとうとするが、無垢なまりかを犯すこととかつて自分が男からレイプされたトラウマがダブり、吐いてしまう。

まりかは「パロウさんがかわいそう」と泣く。

自らのトラウマを払拭するために、パロウは自分を女装へと導いた、かつての憧れの人と手をきった。

悩みを抱えたまま久しぶりに学校に復帰する亮介。入院後実家に戻っていた母親が、また倒れたという知らせが入ってきた。一人で田舎に帰ることが出来ず困惑したが、まりかの手助けによって、二人で亮介の田舎に行く。母は病気がよくなっていた。母から始めて承認される亮介。

亮介は、自分が大変なときに支えてくれたまりかのことが好きになったことに気付く。まりかがパロウのことを好きなのは知っていたが、自分のけじめのためにまりかに告白する。

まりかはその告白に答えることができなかったが、「私達3人が出会えて本当に良かったと思っている。あのとき二人と出会ってなかったら、もっと苦しんでいたと思う」と述べる。

亮介は田村(パロウ)の高校に進学し、田村に勉強を教えてもらうようになった。田村はパロウに女装し、「亮介のことを今でも好き」と誘惑する。「こうすることでしか誰からも好きになってもらえない」とパロウは思っている。しかしこれに亮介は、「そうやって閉じこもるのはやめろ。女装しなくても、俺もまりかもお前の事が好きだ」と諭す。

田村(パロウ)の高校の学園祭に行く一同。そこでは女装コンテストが行われていた。それに参加する一同。コンテストではまりかが優勝した。

まりかは「わたしは女装っていうか」と戸惑うが、パロウは言う。

「いいじゃない。 みんなヘンタイで」

そしてそれぞれ皆が大人になっていくのだ。  <完>

 ~~~~~~

この物語は女装男子「3人の成長物語」であり、「3人の関係性、彼らの実らない恋」を描くラブストーリーでもある

私は今まで作者のふみふみこが(短編しか書かなかったので)、女性なのか男性なのかよくわからなかったが、この作品を何度か読むことで、「登場人物の関係性に敏感なマンガ」を描くことから、典型的な女性作家なんだなと理解した。(ウィキペによると実際に女性だそうだ)

さて、この話をラブストーリーの部分はすっとばして、彼らの成長の物語ーーつまりさなぎから蝶へと「変態する」話としてみてみたい。

物語の序盤から中盤は、特に裕太(まりか)とパロウの「変態性(変態性欲の方の変態)」が描かれている。

ユイ(亮介)に犯されたいと妄想し、先輩との性関係に溺れていながら、それを汚いと自己嫌悪するパロウ。裕太(まりか)はお姫様ごっこのような妄想一人芝居をしていたが、パロウに性行為を迫られたことがきっかけで、男性としての自慰行為を覚えるようになり、少女趣味の幻想に浸れなくなってしまい苦悩する。

どちらも性的な意味で変態である。思春期に誰もが抱えるであろう「変態さ」を、内に秘めきれずにあふれ出てしまっているといっていい。

しかし物語中盤以降は、そうした変態描写がほとんどなくなってくる。

その転換期はどこだろう。

それは、裕太は「女性として、まりかとして生きる」ことを告白し決めたとき、パロウは自分を女装へと導いた性的関係にある先輩と絶縁すると決めたときである。

彼らは、成長し自ら意思決定することで、つまり「(蝶に変わるように)変態すること」によって、己の変態性に決着をつけるのである。

まりかは女として生きることで、かつての「妄想的で変態的な」裕太の生き方ではなくーー妄想の中だけで「本来の自分である女の子になる」生き方ではなくーー、より本来の自分らしい<現実の女としての>自分を生きることになった。

彼らは生き方を変え「変態する」ことで、今まで生きていた妄想の世界(変態的世界)から、「誰々のことが好き」という現実的な<関係性の世界>へと興味を移すことになる。

しかし、彼らに変態性がなくなったわけでは、おそらくないだろう。

変態性がなくなったのではなく、今までの「あふれ出ていた変態さ」を、コントロールできるようになったのだ。だから「表面上は」彼らは変態ではない。しかしひとたびその皮をむけば、まりかはパロウに犯されることを受け入れたように、パロウはユイ(亮介)を誘惑したように、彼らの中身は変態なのである。

この作品は変態を肯定している。(「いいじゃない。 みんなヘンタイで」

しかし、剥き出しの変態は、自己嫌悪の形で自身を苦しめ、場合によっては他者を傷つける。裕太が男として自慰をして苦しんだり、パロウがまりかを犯そうとしたように。

だから変態は、自らの内に秘められるように、自らコントロールできるようにしなければいけないのだ。

そして「変態をコントロールできる」ようになったそのときこそ、自身のドロドロとした思春期が終わり、青年への(つまり大人への)入口に入っていくことができるのだ。

つまり、「あふれ出る変態」は<通過儀礼的な思春期>そのものであり、変態が終わった時に思春期もまた終わるのだ。

思春期とは甘酸っぱく輝かしいものではない。もっと煮えたぎっていてドロドロとしていて、自分でも制御できない黒い感情のことである。

そういえば以前、宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポというのに行ったことがある。

akihiko810.hatenablog.com

AV監督の二村ヒトシは言う。

人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。

『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ。

人は成長し、<クソみたいな>社会の中でそれでも幸せに生きていくには、社会には隠れて変態である必要があるという。変態でない奴はクソみたいな社会に摩耗し潰され、変態剥き出しの奴は、社会を構成し営むのに邪魔なので排除されてしまうからだ。

まりかやパロウら彼らは、剥き出しのドロドロの変態のままでは大人になれないが、その変態性をコントロールできるようになって、初めて大人になれるのだ。

その意味で「変態することで」、変態性をコントロールできるようになることが、大人へとなるための通過儀礼であり、それが思春期の終わりなのだと思う。

ところで、せっかくの思春期なのだから、変態じゃなくてもいいじゃないか、もっとさわやかな青春の方がいいと思う人がいるかもしれない。

変態的な思春期は辛いものだから、そんなものはない方がいいじゃないか、「ドロドロとした変態な思春期を経て」大人になるよりも、「初めから変態でなく」大人になる方がいいじゃないかーーそう思う人がいるかもしれないが、それはきっと違う。

思春期を終わらせることはーードロドロとした自分を受け入れることはーー生きやすさを手に入れるという意味では、ゼロからプラスになるというより、マイナスからゼロになってそこから出発するという感じだ。たしかにそこだけ見ればプラスではない。

しかしその思春期にかつてあった「ドロドロとした変態さ」を、思春期を過ぎて後々になって振り返れば、「あのときは確かに辛かったけど、濃密な味があったな」と思うことができるはずだ。そして必ず「あのときがあったからこそ、今の私は<世界の深さ>を味わうことができるのだ」という、自らの人生の糧になっていることを気づく瞬間がくるはずだ。

私の経験から言うとーーいや、私の経験からだけでなく、他の作家も何人か書いているのでその通りなのだと思うがーー、人が経験から成長できるのは、そしてそれが自身の糧になったと自覚できるのは、辛かった経験、失敗した経験からだけだ。楽しかった経験、成功した経験は、そこには運要素が絡んでくるので何が成功要素だったのか見極めるのが難しく、またそこから自省しようとすることはほとんどない。

「かつての辛かったとき」が人生の糧になるのだ。

だから「明るく楽しい青春」ではなく「ドロドロとした変態的な思春期」を経た彼らは、必ずこれからの人生で「何が幸いなことなのか」「人生はどう生きたらいいのか」という答えをみつけるはずである。

彼らにーーいや「彼女たち」に、幸あらんことを。   <完>

 

本日のマンガ名言:わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです

 

追記)変態が思春期を経て、真人間に成長するというマンガでは、押見修造惡の華を以前書いたので、ぜひ読んでみてください。

押見修造『惡の華』中学生編(1~6巻)を読む - 文芸的な、あまりに文芸的な

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アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみる ~死者に規定された生者たち

今回はアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。、略称『あの花』。漫画ではなくてアニメだけど、漫画文学論でとりあげる。漫画版もあるしね。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

 

『あの花』といえばご存じのとおり、「キャラの名前に下ネタをつけてあなる連呼させるって、岡田麿里(脚本)マジ天才だな」という初見のインパクトで有名であり、さらにくどいほどお涙頂戴に作られた最終回で視聴者をめんまロスにさせたアニメとしても有名である(ってこんな説明でいいのか)。

ところで、なぜ『あの花』をとりあげたかと言うと、前回の記事でヒカルの碁を「死者」をテーマにとりあげたからである。

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに - 文芸的な、あまりに文芸的な

ヒカ碁』は「死者は生者の中に現在する」という事実を、主人公のヒカルが気づく話であった。

『あの花』にも、めんまが幽霊(的存在。実はめんまの正体は花の精霊に生まれ変わった説などがある。この記事では便宜上、幽霊とする)として登場する。そして物語の主人公たちーー超平和バスターズの面々は、過去のめんまの死に際し後悔し、いわば死者に囚われていた。

つまり、『あの花』が描くのは「<自身に内在する死者>によって、<生を規定されてしまった>者たち」というテーマである。彼らは「自身に内在する死者」とどのように向き合うのだろうか。

「死者を心に抱えた生者たち」という観点から、『あの花』における文学性を考察してみたい。

『あの花』は、アニメ版とコミック版では多少の差異があるのだが、コミック版のあらすじを(アニメ版よりもわかりやすいので)解説する。

あらすじ~~~~~~

じんたん、めんま、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽの6人は、小学校時代に互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成して秘密基地に集まって遊ぶ仲間だった。しかし突然のめんまの事故死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、超平和バスターズは空中分解し、それぞれめんまに対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、中学校卒業後の現在では疎遠な関係となっていた。

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かつてグループのリーダー格であったじんたんは、高校生となりひきこもりになっていた。そんなじんたんの前に、めんまの幽霊(姿は成長してるが、記憶は死んだ当時のまま)が現れた。めんまは「“みんな”じゃないと叶えられないお願いを、叶えて欲しい」と言う。しかし肝心のそのお願いの内容は覚えていない。そしてめんまは、じんたんにしか視えない。

じんたんはめんまの出現に困惑しながらも、めんまの願いを叶えて成仏させるために、超平和バスターズのメンバーと再交流することになった。初めは超平和バスターズの面々には、じんたんにめんまの霊が視えるなどとは当然ながら信じられない話であったが、じんたんの熱意を知るにつれ、皆じんたんの誘いを受けるのだった。

超平和バスターズの面々は、皆少なからず、めんまの死に囚われていた。

ゆきあつは、めんまに告白したがうやむやにされたままめんまが事故死してしまったことに罪悪感を感じ、めんまの姿に女装して深夜徘徊していたことが、皆の前で明らかになる。ぽっぽは、事故の日川で溺れためんまを、恐怖から助けずに、逃げ出してしまったことを後悔していた。あなるはじんたんが好きだったが(そして今も好きだが)、じんたんはめんまの方に好意を寄せており、自分はめんまには敵わないことを自覚していた。あのとき、めんまがいなくなってくれれば自分が一番になれると思ったことを後悔している。じんたんはめんまからの告白をはぐらかして「ブスなんか好きでない」と嘘をついて揶揄してしまった。それがめんまへの最後の言葉になってしまうとも知らずに…。

超平和バスターズの面々は、めんまが生前「ロケット花火を上げて神様に手紙を差し出し、じんたんのお母さんの病気を治してもらうようお願いする」と言っていたことを思い出し、その計画書(といっても子供が書いた妄想だ)をみつけ、めんまの願いが「皆で花火を上げること」だと確信する。

そして皆でめんまを成仏させるために、花火の資金を貯める、めんまの両親を説得して花火を見に来てもらう、打ち上げ花火を作るなどの活動をする。

じんたんは、めんまに成仏してほしいと思うが、それと同時にめんまと別れたくないとも思っている。

そして花火打ち上げの前日。超平和バスターズは決起集会という名目で秘密基地に集まり宴会をする。しかし皆がそこに集まった理由は、別にあった。

つるこの発案によって、じんたんには内緒で、じんたんに「あの日」ーーめんまが亡くなった日ーーを再現、いや、やり直してもらう意図があったのだ。

あなるはあの日と同じく言う。「じんたんってさ…めんまの事好きなんでしょ?」

じんたんは、あの日に言えなかった本音を言う。「好きだ…俺は、めんまが!」じんたんはたまらず逃げ出そうとするが、ぽっぽが「そこで逃げたら同じことになるぞ!」と制して止める。

じんたんは、めんまと別れたくない想いがあふれ、涙が出た。ーーそのときめんまは、何かを思い出したような感じがした……。

じんたんはめんまに「成仏しなくたって、このままここにいればいいじゃないか…」と本音を告げる。しかしめんまは、ちゃんと成仏して生まれ変わって皆に会いたい、と言う。

そして打ち上げ花火の当日。集まる超平和バスターズの面々。めんまの家族。じんたんは、めんまが成仏することを祈りながら…心の底では、別れるのを拒んでいた。

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打ち上げ花火が上がる。 …めんまはーーーー消えなかった……。

その夜。超平和バスターズの面々は、めんまが成仏しなかったことは、自分たちが自分勝手な思いでいて、心からめんまの成仏を願ってなかったからだととり乱す。そしてもう一度、めんまの本当の願いを叶えて成仏させようと誓う。

そしてじんたんが家に帰るとーーめんまの姿が消えかけていた

めんまは自分の叶えてほしい願いを思い出したのだ。それは病床のじんたんの母(病気でもう長生きできない)に「あの子は強がってて悲しいときも涙をみせない」と心配されたことから、めんまは「強がりをしているじんたんを、皆で泣かせる」と願ってたのだった。そしてその願いは、じんたんが涙をみせたことによってすでに達成されていたのだ。

めんまを背負って、秘密基地に向かうじんたん。そして秘密基地に集まる超平和バスターズの面々。が、秘密基地に着いた途端、じんたんにもめんまの姿が見えなくなってしまう。

「みんなとちゃんとお別れしなきゃ」と、最後の力を振り絞って、全員にメッセージを書くめんま

 そのメッセージを読む5人。そして「かくれんぼならお前を見つけるまで終わらない」と「もういいかいー!」を連呼する。皆めんまへの感謝と想いのたけを叫ぶ。めんまにもその想いは伝わる。そしてめんまは、もっと皆といたいけど、生まれ変わって皆と会いたいと涙ながらに言う。

めんまにすべての想いと感謝を述べた5人はーー「せーの!めんま、みぃーつけた!!」

めんまは「みつかちゃった…」と言って消える。そのときのめんまは、涙で顔を濡らしながら、笑っていた…。

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…そして超平和バスターズの面々は、それぞれの日常に戻った。

「俺達は大人になっていく 。だけどあの花はきっとどこかに咲き続けている 。そうだ  俺達はいつまでもずっと  あの花の願いをずっと叶え続けていく――」

~~~~~

めんまが死者となってしまったことで、超平和バスターズの面々は、彼らの<めんまとの関係性>が、無念の残るものとして固定されてしまう。死者によって、生者の生が「規定されてしまった」のである。

<死者と生者の関係性>でやっかいなことは、(当然ながら)生者は死者に働きかけることができないという点である。<生者同士の関係性>ならば、片方が片方に働きかけて得たいものを得ることができる。つまり関係性のその意味を、再生産、再構築することができる。

しかし相手が死者ならばそうはいかない。相手を想起することしかなすすべがない。しかもここが大事な点なのだが、死者の側からは、生者に働きかけてくるのである。行為してくるのではなく(死者は実体がないのだからそれはできない)、いうならば<生者に内在する死者との関係性>が、「想起することを求めてくる」のだ。例え死者を思い出したくなくとも、どうしようもなく想起せざるにはいられないーーそんな感覚である。かつて我々(生者)に愛情や優しさや共感を注いでくれた者ーーつまり「自己の存在」感を与えてくれた他者ーーが死者になってしまえば、もうその他者からは、そういった「意味」を得ることができない。相手が死者になってしまったことで、代わりにその関係性(死者と生者の間にあった意味)だけが残って、懐かしさや未練といった<関係性の残像>を想起せざるを得なくなるのである。

死者は生者に、一方的に強烈な意味をーーしかも固定されてしまい再構築することが困難な意味をーー残すことで、生者の「生」そのものに影響を与える。それはときには、生きる者が影響を与える以上に、死者はその「不在性」故に、強い影響を、与えてくるのだ。

めんまとの関係性>が、未練の残るものとして固定されてしまったことによって、ぽっぽは「めんまの死を助けられなかった自分」を悔いて、高校に通わず世界放浪して「強い自分」になろうとしていた。ゆきあつに至っては、めんまに女装して「めんまと同化」しなければいられないほどに影響を与えられていた。(とはいえ、さすがにゆきあつの話は「アニメという(面白さのための)嘘」だろう。こんな奴現実にいたら変態すぎる 笑)

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 しかしーーおそらく幸いなことにーーめんまが幽霊として彼らの前に再び現れたことで、彼らはまた新たに<関係性>をやり直す(つまり上書きする)機会を得ることができる。

そのやり直しとして、まずはロケット花火を作って打ち上げるも、結局それではめんまが成仏しない、というシーンがある。私はこれは物語の作りとしてうまく出来ていると思う。本命と思われたロケット花火がめんまの願いではないという描写には、そこには視聴者の読みを裏切る”透かし”の効果があるだけでなく、死者との(つまりは他者との)コミュニケーションの困難さを表す良シーンだろう。

そして最終回、超平和バスターズの面々には思いがけず、彼らの意図にはよらないところでめんまは成仏してしまうが、そこでの「くどいまでに泣かせるかくれんぼのお別れ」が、「死者との決別」(固定化された<死者との関係性>を変化させること)がいかにエネルギーを要することなのかということを、端的に、そして感動的に描いている。

 『あの花』アニメ本編を観た方ならば覚えてると思うが (あらすじを読んだだけではわかりにくいかもしれないが)、最終回、めんまが成仏するお別れのかくれんぼのシーンは、登場人物が皆「視聴者がひくくらい、泣き叫ぶ」シーンになっている。それは脚本の岡田麿理いわく、かつてNHK教育で放送されていた、十代の討論番組真剣10代しゃべり場を意識したからだという。

『あの花』の最終回は、あの伝説的テレビが元ネタ!? | ニコニコニュース

  思春期の少年少女が、こうして自我をぶつけあっているのを見るのは気持ち悪いものだなあって。いろんなものがあまりに未完成すぎて、生っぽすぎて、見ていてイライラして・・・・・・でも、それがすごくイイ(笑)。これだけ人の心をざわつかせられるってホントすごい、いつかアニメで同じようなことをやってみたいと思ったんですよ。

彼らがありったけの熱量で泣き叫ぶ様は、(脚本家の思惑通りに)我々視聴者の胸を打つ。それは彼らの「泣き叫ばずにはいられない」という気持ちが伝わるからだ。

彼らがこうまで泣き叫ばずにいられなかったのは何故か。

もちろん、(幽霊の実態としての)めんまが消失(成仏)するから「悲しくて」泣き叫んだ、というのが一つある。しかしそれだけではない。

彼らにとって、泣き叫ぶことそれ自体が(彼らの中に内在する死者としての)めんまの成仏だったのだ。自分の中のめんまを成仏させるために、<めんまとの関係性>を「未練の残る存在」から「未練は残るけれど、それでも美しい思い出をもつ存在」に変化させるために、彼らは泣いたのである。彼らはこうまで絶叫しないと、彼らの中のめんまーー彼らの心を捕えていた死者ーーを成仏させることはできなかったのだ。

彼らがくどいまでに泣き叫んだのは、それ程までに<彼らの中のめんま>が「決定的に意味を持っていた」からである。

最後の言葉「せーの!めんま、みぃーつけた!!」は、お別れとしてめんまに向けた「弔いの言葉」という意味だけでなく、自身の生を死者に囚われた状態から解放するために、めんまへの想いを「未練の残るものではなく、美しい思い出をもつ存在」に変化させるための、彼ら自身の為の言葉でもあるのだ。それ故にその叫びは、悲痛さを帯びる。この「悲痛さ」も我々視聴者の胸を打つ。

そしてめんまを成仏させ、<めんまとの関係性>を改善させた彼らは、日常にまた戻るーーいや、今までの「死者に囚われた生」から解き放たれた、新しい人生をまた始める。「あの花」がいつまでも心の中に咲いているように、いつまでも心の中にめんまへの想いを抱きながら。

このように、『あの花』は、<生者と死者との関係性>における、死者を想う(受容する)事の困難さと切なさを、真正面からーーつまりくどいまでに熱くなるのを厭わずに、描いた作品である。

そして現実の死者もーー生者にとって大切な人物であるならなおさらーーこのように生者に意味を投げかけてくる。だから人は死者と折り合いをつけるために、死者の弔いを行うのだろう。

ただしアニメではなく現世を生きる我々の前には、すでに死んでしまった死者は現れない。超平和バスターズの彼らとは違って、死者との関係を「やり直す」機会は与えられない。死者が「私」の事をどう思っているのかをきくこともできない。つまり現実には、<死者によって規定されてしまった生>を修正することはより困難性を伴う、ということである。我々は<死者との関係性>(つまりは大事な人との想い出)を、「自らの意思で」より良きものに変えなければならないのだ。

死者は生者の中に現在する。そしてその死者は私の中にどう現在させるのかーー、我々がそれをみつめるときに『あの花』は示唆を与えてくれるはずだ。

 

本日の漫画名言:超平和バスターズ はずっとなかよし

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ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに

今回は、ほったゆみ(原作)・小畑健(漫画)ヒカルの碁』。

 唐突だが、私が道徳的観点、というより「人生の指標になる」という観点から「小学生が絶対に読むべき少年漫画」をいくつかあげるとしたら、「他者と内発的につながることーーそれが結果につながるのだということ」という、いわば「人生を生きる上で最も必要な心構え」を見事に描ききった、藤田和日郎うしおととら(96-99 週刊少年サンデー)と、荒川弘鋼の錬金術師(2001-10 月刊少年ガンガン)を真っ先にあげる。この2作を読めば、「マンガに人生を教わる」経験ができると、私は断言する。

 他にこれを、(次点として)ジャンプ漫画からあげるとすると、少し考えてしまう。

ジャンプの掲げる「努力・友情・勝利」は、「努力友情」は道徳的にいいとしても、「勝利」の部分がエンタメに寄りすぎていると感じる(「勝利」というのは過程ではなく結果であり、マンガの面白さを成す部分だ)。

勝利は人生の必須条件ではない。だからジャンプ漫画から「部分的に」人生を学ぶことはあるが、「作品丸ごとが人生の役に立つ!」と断言できるようなジャンプ漫画は、私にはぱっと思い浮かばないーーと書いてて思い出した。井上雄彦スラムダンクがあった。忘れるなよ俺。

人生の勝敗について私は思う。人生は勝てば当然うれしいが、ーーこれを理解してない大人も多いだろうがーー実は、人生は負けても構わない。 いや、というより、人生である以上そこには勝つことも負けることもあり、その上でなお続くのが人生なのだ。たとえどんな人生であっても、そこにはただ、「人生という味わい」があるだけだ。巷にある「人生は勝ち負けではない」という言葉は、たぶんそういう意味だろう。

先にあげたスラダンだって、最後山王戦に勝った後に、次の試合で「嘘のようにボロ負けした」からこそ深い味わいが残り、今なお名作として漫画史に君臨しているのだ。

ーー話が少しずれた。

今回紹介する『ヒカルの碁』、そんな「小学生が絶対に読むべき少年漫画」にあげても謙遜のない、優れたジャンプ漫画である。(と、この一文を書きたいがために前置きが長くなった!)

佐為(さい)編の終盤(コミックス14巻~17巻あたり)は、この漫画を傑作たらしめている。

 主人公ヒカルは、平安時代の天才囲碁棋士佐為(さい)という霊に取り憑かれる。佐為はかつて、江戸時代最強といわれた棋聖本因坊秀策に取り憑いていた幽霊だ(つまり、秀策の囲碁は佐為によるものである)。ヒカルはそれを境に囲碁にのめり込み、その才能と努力によって、中学生という若さながらプロ棋士になる。と、ここまでが物語の序盤。

そして佐為編・終盤のあらすじ ~~~~~

日本囲碁界のトップ・矢名人ネット碁を覚えたことをヒカルは知り、佐為はかねてから対局したいと願っていた塔矢名人と対局するチャンスを得た。幽霊であり自らの正体を明かせない佐為は、匿名のネット碁でしか対局できないからである。塔矢名人も、ネット上でsaiと名乗るただならぬ強さの何者か(正体は佐為)に強い興味を示していたので、ついに二人の対局が実現した。

この頂上決戦は一進一退の熱戦となり、佐為の妙手によって、佐為が辛くも勝利を収めた。強敵に打ち勝った佐為は深く満足し、これほどの名局を戦うことが出来た塔矢名人に深く感謝する。そのときヒカルは、盤面を見て言う。「この手だったら佐為の負けだ」局後の検討で、ヒカルは佐為も塔矢名人をも上回る手を発見し指摘したのだ。この瞬間、佐為は悟ったーー「私が亡霊として千年存在してきたのは、『この一局をヒカルに見せるため』だったのだ」と。そして役目を終えた自分が成仏するときが、まもなく来るということを…。

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…時が過ぎ5月5日。いつものようにヒカルが佐為と碁を打とうと、ヒカルが碁盤を用意しているときにーーヒカルが気づかぬうちにーー佐為は陽光の中に消えていったのだった。ヒカルに声をかけることも叶わず…。

佐為が消えてしまったことを理解できないヒカル。佐為を探しに、本因坊秀策所縁の地を巡る。そしてヒカルは、初めて秀策の棋譜を見直し、今になって初めて佐為という棋士の天才さを実感するのだった。

佐為がいなくなったショックで、ヒカルはプロ棋士の活動を停止し、誰とも囲碁を打たない日々が続いていた。ーー自分が碁を打たなければ、打ちたいと思わなければ、いつか佐為が帰ってくるのではないかーーと願うように思って。

そんな中、院生時代の同窓生でライバルだった伊角がヒカルの家に来た。伊角は、前回のプロ試験でのヒカルとの対局で反則負けを犯しプロになり損ねたという苦い記憶を、今回のプロ試験に臨むにあたって振り払うために、ヒカルとの対局を申し込む。当初は気の進まないヒカルであったが、「これは自分のためでなく伊角さんのためだから」と対局を受ける。

その対局にヒカルは次第に没頭しーー自分の打った一手が、かつて佐為の打っていた手と重なることにヒカルは気が付く。今まで探していた佐為がーー自分が佐為から受け継いだ囲碁の中に佐為が存在することを、ヒカルは悟ったのであった。

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ヒカルは涙を流し、これから終生、何百何千という碁を打ち佐為の面影を追うという決意をする。

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 ここは『ヒカルの碁』という物語全体を通して、盛り上がりが頂点となるところだ。

以降『ヒカ碁』は、佐為という一番の(あるいは唯一の)「マンガ的なキャラ(囲碁最強の幽霊)」を消したことによって、より現実な話づくりにならざるをえず、「マンガ的な表現」の幅を狭くしてしまう。佐為編のあとに続く「北斗杯編」を読むと、いかに佐為というキャラクターがヒカルという主人公と絡み、ヒカルと佐為が「二人で一人」なキャラクターとしてこの漫画を引っ張っていたかというのがわかる。

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「マンガはキャラクターが命」という漫画原作者小池一夫の名言(というか信念)が思い出されるが、本稿は「漫画文学論」なのでキャラの話はこれ以上しない。

あと念のため述べておくが、北斗杯編はそれはそれでまた盛り上がるし面白いので、ぜひ読んでもらいたい。佐為がいないというだけで(だけなのに)、まるで(微妙ながら)別漫画のような読み応えとなっているのも、ぜひ確認してもらいたい。

さて、漫画文学論。『ヒカ碁』の文学的なポイントをあげたい。

それは「死者は現在する」という事を、感動的に描いたところだと思う。今現在のゲンザイ(ゲンにアクセント)ではなく、「現に存在する」という意味のゲンザイ(ザイにアクセント)である。もちろんそれは、死者は幽霊になるとかいう話ではない(佐為は幽霊だけど)。

ここに描かれているのは、死者は死んだことで存在を失うのではない。むしろその存在感が増すのだ、という「死別することで人(生者)が直面する気づき」である。

佐為という幽霊は、成仏することで、語りかけることも語りかけられることもできない「完全な死者」となった。完全な死者となったことで、ヒカルにとってその存在が消えたのではなく、逆にヒカルにはーーまるで自身の内面にべったりと張り付いたようにーーその存在が増したのである。

話は少し変わるが、佐為のその成仏の仕方ーーつまりヒカルとの別れーーは、そこには悲劇さのかけらも感傷的に泣かせるような演出もなく、静かにすっと消滅するというものであり、非常に儚いものであった。毎週のアンケートで人気を判断される少年誌連載でありながら、別れの場面にわかりやすく派手で感動的なシーンにせずに、作者があえて、この静かな別れとして描いたことを賞賛したい。

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そしてこの「唐突で、静かな別れ」こそが、ヒカルが、佐為との別れを受け入れることのできない要因となった。もし別れの場面で、佐為とヒカルが何らかの別れの言葉を交わすことができたなら、ヒカルは佐為の消失を受け入れる、とはいわないまでも多少なりとも消化することができただろう。

しかし唐突な別れ(現実世界でいえば突然の事故で死別する、などに相当するだろう)は、それを心の底から受け入れることをさせない。ただ喪失感ーーというより、それを伴った困惑が襲ってくるだけだ。 

このような「死別と、死者の重さ」を記した本に 『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)というのがある。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

著者は恐山にある寺の住職である。言うまでもないが恐山は霊場であり、またイタコで有名であり、そこには死別した者となんとか話したい、思いを届けたいという人々がたくさん来る場所である。

 恐山には、死者の供養に来た者によって、大量の供物が持ち込まれる。故人の衣服だけでなく、故人が「生きていたら」その年齢で着ていただろう新品の服(つまり定期的に買い換えてお供えしている)もある。また結婚前の子を亡くした親は、せめてあの世で結婚させてあげたいと、花嫁人形や花婿人形、ウェディングドレスのお供えもあるという。

また恐山の岩場の草葉の陰には、参拝者が勝手に作った簡単なお墓(20cmほどの石板に戒名や名前が書いてある)が並び、お供えしてある石には、「もう一度会いたい 声をききたい」「○○くん、また会いに来るからね」などと書かれているという。

そこには、死への、いや「死者」への、圧倒的なリアリティがある。

 著者は考える。なぜ恐山に、こんなに多くの人が死者の供養をしに来るのだろうか。いや、人はそもそもなぜ「死者の供養」なんてことを考えるのだろうか。

恐山に来て2年ほどたったとき、著者は気づく。「ここには死者がいるのだ」と。死者は実在するのだとーー。

そして続ける

一見、死というものは、死者の側に張り付いていると思われがちです。しかし私が恐山で掴んだ感覚としては、死は実は死者の側にあるのではありません。むしろそれは死者を想う生者の側に張り付いているのです。

と。 そしてその根拠も著者は述べる。

 死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)

生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。

つまり、死者は生者がいるかぎり、生者のなかに現在するのだ。(南老師は「実在する」と書いているが、死者はもはや存在をもたないので、私は「現在する(現にある)」といいたい。)

話を『ヒカ碁』に戻そう。

ヒカルにとって佐為は掛けがえのない存在だった。それは同じく、佐為にとってもヒカルが掛けがえのない存在だったからである。片一方方向における関係ではなく、相互方向における結びつきだったからこそ、そこには(ヒカルにとって佐為は)強固な絆があったのだ。

そして、佐為は消えた。ヒカルは佐為の不在に戸惑い、苦しむ。

しかし、囲碁を通して、佐為と自分をつないでいた囲碁を通して、自分が打つ一手の中に、つまり己の中に、佐為が現在することに気付いた。

ヒカルは、自分と佐為が、<関係性の履歴>を育み、そこに強い絆があったことを始めて認識したのだ。

 (<関係性の履歴>については、拙ブログ記事 業田良家自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味 を参照してほしい)

akihiko810.hatenablog.com

 そしてヒカルは「北斗杯編」の最後、「お前はなぜ碁を打つのか」という問いに、「遠い過去と、遠い未来をつなげるために俺はいるんだ」と答える。

それは、碁の歴史に名前を刻むとか、佐為の碁を後世に残すとかいう話ではない。今回の記事のキーワード「死者」という言葉を使っていえば、「生きることとは、他者、そして死者から渡されたものを、他者に連綿と渡していくことだ」という決意である。

ヒカルと佐為が育んできた<関係性の履歴>は、二人の間で閉じているのではない。他者に連綿と受け継流れていくものなのだと『ヒカ碁』は提示するのだ。

ラストのヒカルの言葉は私たち読者に問いかける。

私たちが他者の死に対面したとき、いったい誰の死がそして想いが、己の中に現在するのだろうか。そして私自身が死んだとき、いったい誰の中に己の想いを現在させることができるのだろうか、と。

それこそが意味のある人生を、生きて死ぬということなのではないだろうか。 <了>

 

本日のマンガ名言:「 遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ 」

浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱

友人から借りて読んだ浅野いにおおやすみプンプン』。浅野いにおといえば「オサレサブカル漫画」の第一人者として若者に人気、一方で「サブカル臭いだけの薄っぺらい雰囲気漫画」として、いにお読者も「サブカル気取りのダサイ奴」扱いされてやり玉にあげられ、評価が真っ二つに二分する漫画家である。

私としては、いにお漫画は、まぁそれなりに読むけど、かといって大好きでもないレベルか。

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

 

 今回は『プンプン』後半部(7~13巻)のあらすじ。

前半部(小学生、中学生編)のあらすじは他ブログのこちらで。

 【ネタバレあり】おやすみプンプン~絶望に引き込まれる~【中学生編の感想・考察】 - 社会のルールを知ったトキ

あらすじの主軸はこう(『プンプン』は主軸となる話のシークエンスの他に、主軸とはかかわりのない話が挿入されて、ある種の群像劇のように物語が構成されている)~~~~~~

高校を卒業したプンプンは、一人暮らしすることを決意する。「一年後…今の状況と何も変わらなかったら、自殺する」と決めて。

そんな無目的で輝きのない毎日を送っていたプンプンは、小中学生時代の想い人・田中愛子がこの町にいることを知る。プンプンは愛子ちゃんと再会することを願うようになった。その一方、南条幸という漫画家志望の女性と出会い、漫画の原作を依頼される。そして幸とはお互い好意を寄せあう中になるが、プンプンの心には愛子ちゃんの影があるため、恋人同士として付き合うまでには至らない。

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<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサス(星川としき)は、来る七月七日に世界が滅亡すると予知し、それを予言する>>>

そんな中、プンプンは愛子ちゃんと、自動車の教習所で運命の再開を果たす。

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幸との関係はーー彼女は、元旦那(実はバツイチだった)との子供を身籠っていた。しかし彼女は、プンプンのいない日々は考えられないから堕胎するという。堕ろす日には病院に一緒についてきてほしいと言うが、当日になって「やっぱり君には甘えたくないから」、来なくてもいい。時間までは待っているから、君の判断に任せると。

プンプンは、幸の元には行かなかった。ーーその日、愛子ちゃんが家に来たから。彼女は何か事情を抱えてるらしい。プンプンは愛子ちゃんとセックスする。

愛子ちゃんは「家を出たい」と言う。一人親の母親から監視の名の元に虐待されていたのだ。二人は愛子ちゃんの母親の元にそのことを告げに行く。プンプンは思う。やっぱり愛子ちゃんは運命の人だったのだ、と。

しかしーーそこにあったのは破滅の幕開けだったーー愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。

死体を埋め、途方に暮れる二人。プンプンは「小学生の頃、一緒に鹿児島に行く約束をした」ことを思い出す。二人の逃避行劇が始まる。

幸はあの日、結局病院に行かなかった。あれ以来連絡が取れなくなったプンプンを探し始める。

プンプンたち二人は鹿児島の種子島に着いた。二人の逃避行劇は、目的があるわけではなく、まるで破滅に向かったものだった。プンプンはこの場所で二人心中しようとする。愛子ちゃんの首を絞めようとしたとき、愛子ちゃんは「あのとき母親にとどめを刺して殺したのは私」と告白する。そして「この島で暮らしたい」と。

生きる希望がかすかに沸いた二人であったが、遅かった。愛子ちゃんの母親が殺されたこと、その娘が行方不明であり事件に関係しているとみて捜査している、とテレビで報道されてしまったからだ。

二人は町を出てまた逃げることに。二人は民家を見つける。愛子ちゃんは交番に出頭すると言う。プンプンは「愛子ちゃんの罪を僕が被る」というが、それは拒否される。愛子ちゃんは言う。「小学生の時、流れ星にプンプンと両想いになれるように願ったんだ。それが叶ったなんて幸せ」「もしお互い離れ離れになっても、七夕の日はお互いを思い出そうね」

二人は眠りーープンプンが目を覚ますと、愛子ちゃんは首を吊って自殺していた

<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサスは、来る七月七日に世界が滅亡することを回避するため、同志達(ラヴァーズ)と共に焼身自殺する>>>

ーーー七月七日。プンプンは東京に戻る。小学生時代の思い出の場所で、自殺しようと首を突いた。流れ星が流れる星空を見ながら思う。ああやって燃えるように一瞬で消えることが出来たらどんなに楽だろうとーー。

そこに現れたのはだった。「つかまえた」ーープンプンは図らずも助かったのだった。

ーー何年後かの七月七日、プンプンは愛子ちゃんの事を想いだしていた。そして彼女に言う。自分は今、月並みに働いていて、幸の漫画は順調だ。幸の子供は僕になついてくる、と。さらに続ける。「この先ずっと七夕の空は永遠に曇り空で、それでも世界は終わらないから、僕は先に進まなきゃならないんだ」

プンプンの日常はーーいや、すべての人の日常は今日も続き、新しい物語が始まろうとしている。   完

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『プンプン』はいわゆる日常憂鬱漫画(終わりなき日常が永遠に続く辛さを描く)である。このタイプの漫画では、このブログでは古谷実シガテラをとりあげた。

古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

「日常憂鬱」路線に、村上春樹ノルウェイの森のような「片一人の女性が破滅(自殺)する、三角関係」を加えた物語、といったところか。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

いにお漫画の批判としてよくあがるのは「雰囲気だけで薄っぺらい」、もっと極端にいえば「で、結局何が言いたいの?」という身も蓋もない感想である。

これは批判意見としては、決して的外れとはいえないと思っている。

なぜなら、いにお漫画(といっても私は、完結作は他にはまだソラニンしか読んだことないのだが 苦笑)は、「何もない日常を生きる<カラッポ>な主人公が、物語において非日常的な『通過儀礼を経験する。そしてまた日常に回帰するが、主人公は通過儀礼を迎える前と同じく、<カラッポなまま>の自分を抱えながら生きる」というモチーフだからである。つまり、「物語という<通過儀礼>を経ながら、何も成長してない(ようにみえる)」のだ。

通過儀礼(試練)を経ても成長しない(というより、成長できない)」というのは、「成長という物語」という近代的価値観が効力を失った、「ポストモダンである現代社会」の空気感と非常にマッチしている。

『プンプン』に面白い場面がある。第9巻で、漫画家を目指す幸が描いたマンガを、編集者が駄目出しするシーンだ。いわく「雰囲気でゴリ押ししてるだけで中身薄っぺら」「主人公が勝手に自己完結してて、こんなんじゃただの絶望ごっこにしかみえない」。これは典型的な、いにお批判の常套句である!(笑)

当然ながら、いにおは確信犯的に描いてるだろう。

こんな場面もある。同じく第9巻では、東日本大震災によって、原発が爆発したとテレビから流れてくる。友人は幸に「平凡な日常で退屈を嘆くような漫画、もう意味ない」と助言する。それに対して幸は「この程度じゃ変わんねーよ!仮に世の中がどうなったとしてもお前こそ変わんない!」と答える。

しかも当の漫画『プンプン』も「平凡な日常で退屈を嘆くような」漫画として続いていくのだ。(11巻から、物語は「殺人」という事件を伴って、大きく動き出す)

 社会学宮台真司が、著書『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の項 ■〈終わりなき日常〉の三つのレイヤー で

3・11後、「終わりなき日常は終わった」と発言する輩がいたが、〈終わりなき日常〉は終わっていない。概念的に言って、終わるはずがない。(全てはシステムの産出物に過ぎないという意味でのポストモダンが、定義的に終わらないのと同じ意味)

と述べているのとダブる。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

私は『おやすみプンプン』を(批判的にではなく肯定的に)評価するとするなら、「現代という終わりなきポストモダンがもたらす憂鬱を、主人公の半生に重ねて描くことで浮き彫りにした」という点であり、さらにいうなら、「ポストモダン的社会では、物語の主人公(あるいは現代の若者)には典型的な<通過儀礼における成長>は機能しない……たとえそれ(通過儀礼)が<死>ですらも!」という一種の絶望的な物語を提示したことだと思う。

プンプンは、「殺人と逃避行、さらに彼女の自殺」という非日常的な通過儀礼(殺人や愛子ちゃんの、だ)を経た結果、彼が選ぶのは自殺であった。いや、それすらも幸というもう一人のヒロインの助力によって助かって(つまり妨げられて)しまい、彼はついぞ自力で何かを成就することは叶わなかった。

ここにはつまり、このポストモダン的現代を生きる」ことは、何かしらを得ること(つまり成長すること)から見放されてしまっている、という絶望が描かれている。

この絶望こそが、幸のマンガに対する感想「まるで絶望ごっこ」の正体であり、そして『おやすみプンプン』を終始覆う、なんとも憂鬱になる読み応えの正体なのだ。

そしてその上で、生き延びてしまったプンプンは、物語の後もポストモダン的現代をーーつまり「何かしら得る」ことから見放された世界をーー生きていくことになるだろう。

プンプンはこの物語の先に、何かを(たとえば幸との家庭や、あるいはささやかな幸せを)得ることは出来るのだろうか?

作者インタビューによると、プンプンが事故死するエンド、も作者は考えていたという。

一番みじめでイヤな終わり方を、トゥルーエンドにしたかった。|【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー|浅野いにお|cakes(ケイクス)

 仮にこのエンドだったならば話は簡単で、『おやすみプンプン』はプンプンの死をもって、「ポストモダン的現代では、生きても何も得るものがない。以上」という解釈の物語で終わっただろう。

しかし、この物語は最後に、プンプンはこれからも生きていくーー彼だけでなく、人々が今日も生きて新しい物語を紡ぎだそうとしていることが描かれている。

おやすみプンプン』は、「成長という物語」が失効したポストモダン的現代ーーたとえ何か得ることが困難な世界にあったとしてもーーをプンプンの半生を通して描きながらも、ラストに人々が生きる様、「生きるということは、事実としてそういう姿勢でいることなのだ」という「絶望のその上でも<生を肯定>する」ことをも描いたことによって、名作たりうるのではないかと思う。

あと最後に話を変えて、『プンプン』の物語の構造をみてみると、プンプンパートの合間に挿入される、一見物語の主軸とは関係なさそうな奇行を繰り返す謎の男・ペガサスが、実は本当に(プンプン達のあずかり知らぬところで)神の啓示を受けていて、世界を破滅から救うーー従ってプンプン達はこの世界の日常を生きていられるのだーーという、『プンプン』のストーリーとしては<物語の裏>の立場にありながら、『プンプン』の世界では<実は世界の中心にいた>ということが読み進めていくと解き明かされていくところが面白い。

もしかしたら、所詮は我々が生きている人生も、神だか誰かの手の平の上で踊っているようなものなのかもしれないのだから。      <了>

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本日のマンガ名言:グッドバイブレーション(謎の男・ペガサス)

 

追記:他に『プンプン』論では、この記事が一番良記事だと思います。ぜひお読みに

過去の呪縛から逃れられない男 『おやすみプンプン』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

手塚治虫『地球を呑む』

手塚治虫『地球を呑む』の手頃な感想がweb上にないようなので書く。そこそこ分厚いハードカバーが、ブコフで百円だったので読んだ。

手塚の初の大人向け長編らしく、手塚は気合を入れて描いたのだろうか、話もエロい。『地球を呑む』の連載開始は68年、『ブラックジャック』の連載開始(73年)よりも前の作品である。いわゆる手塚の「冬の時代」(1968年-1973年)、少年誌でのヒットが出せずに、活動の場を青年誌へと移行しつつある時代だ。

地球を呑む (小学館叢書)

地球を呑む (小学館叢書)

 

 あらすじ。この物語は全二十章からなる。各章のすじは以下のページ参照(以下リンクを読んでから、私の文を読んだ方がいいかも)

地球を呑む(Swallowing the earth) - 手塚治虫 のすべて

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時は第二次世界大戦、昭和17年8月。 南太平洋ガダルカナル島へ出征した日本兵・安達原鬼太郎、関一本松の二人は、
自分達が殺したアメリカ兵が持っていた写真に写っていた、絶世の美女に心を奪われる。2人はこの美女の行方を探るも、「ゼフィルス」という名前である事以外、手掛かりを掴む事が出来ないまま月日は過ぎていった。

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それから20年後、今や大企業の社長となった安達原は、取引先からゼフィルスが来日してホテルに滞在しているという知らせを聞き、関一本松の息子、関五本松にゼフィルスの調査を依頼する。

関五本松は、真面目ながら気ままに生きる偉丈夫で、性欲以上に酒を愛し、「地球を呑みつぶす」という野望があると言ってのける男であった。

五本松はゼフィルスの滞在するホテルを訪れ、ゼフィルスと出会う。次いでゼフィルスの住処であるというマムウ共和国を訪れる。ここから彼の奇妙な冒険が始まる。

マムウ共和国でゼフィルスの正体が明かされる。彼女はーーいや彼女たちは母親と同じ名前を名乗り、絶世の美女の姿の人工皮膚「デルモイドZ」を纏った7人姉妹であった。母ゼフィルスは生前・金と男に翻弄されて亡くなった。

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ゼフィルス姉妹達は亡き母の遺言に従い、

1.金が人間社会を狂わせ,幸福と自由を人々から奪っている。金の価値を暴落させる
2.法律と道徳という規範意識を破壊する。
3.世の男性という男性を殲滅させる。

という壮大な復讐の野望を抱き、マムウ共和国の金(きん)とその美貌を用い、世界中の権力者たちと密通し、その陰謀を遂行していた。

ゼフィルス達の末妹・ミルダは日本で滞在した頃に出会った五本松に一目ぼれして、その愛ゆえに姉達を裏切り、刑を受けかけたところを逃れ、日本へ向かう。

しかし、その間にもゼフィルスの計画は進んでいた。人口皮膚「デルモイドZ」を大企業に製造販売させたことで、世界各地で人工皮膚を使って他人に成りすました犯罪の横行、それによる検挙率の低下という「法の崩壊」、さらにマムウ共和国に秘蔵されていた超大量の金塊(マムウはムー大陸の末裔だという)を無差別にばらまいたことにより、金の価値が暴落し「貨幣経済の崩壊」が起きていた。

世界はその混乱、不況を止めようと戦乱が起こり……ついに世界は物々交換を基本とする原始的な社会体制へと退行して行く。

ゼフィルス達の陰謀は達成し、ついに「地球は呑まれてしまった」のだった。

ミルダは五本松と共に経済社会崩壊後の世界を共に生きようと決意するが、五本松は他のゼフィルス姉妹によって粛清され殺される。ミルダも捕まって監禁されてしまった。

さらにときは流れーーミルダと五本松の息子・六本松が、航海からマムウ共和国に帰ってきた。母ミルダと再会し話をしている途中、ゼフィルス達が「六本松はマムウ共和国の外を知っている、危険人物だから」と六本松を幽閉しようとする。ミルダは六本松を逃がそうとするが射殺される。六本松はマムウ共和国に爆弾を仕掛け爆発させ、脱出した。

ここにマムウ共和国は崩壊した。六本松の船は、いや、新しい人類文明の行く末はどうなっていくのだろうか…。   完

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この作品は「主人公五本松の冒険譚」として読むと、作品の出来としては「中の上」といったところだろうか。物語の終わり方も、収拾がつかなくなって無理やり終わらせた感がないわけでもない。

しかしこの物語は、「世界が破滅する(地球が呑まれる)過程」を主軸として読むと、お話の壮大さが「漫画のウソ、ここ極まれり」といった感じとなりめっそう面白い。

上下巻版のあとがきによると、「話が大きくなりすぎて話が収集がつかなくなった。途中で中だるみに陥ったので一時読み切り形式にした」そうで、12~14章は、五本松の冒険譚ではなく、読み切りとしても読める(つまりこの各章には、別の裏主人公が立てられている)話になっている。

五本松の冒険の裏で、世界はどのように変貌していってるのか、また変貌した世界の中で他の人間はどのように生きて(あるいは死んで)いくのか、といったことが描かれているのだが、文芸評論家の加藤弘一

特に13章の贋家族のエピソードは独立の短編としても傑作である。この暴走部分がなかったら、凡作で終わっていただろう。

と述べているように、 (文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『地球を呑む』 手塚治虫

この読み切り章こそが、この作品を単なる「五本松の冒険譚」ではなく、「<地球が呑まれる>という壮大な物語」たらしめているといえる。

 

この『地球を呑む』、文学性に富んだマンガではけっしてないから、今回は「漫画文学論」ではなく、(もちろんこの作品は、文学性とは関係なく面白いマンガだ)マンガ紹介だけしか書かない。

とはいえついでにあえて、この作品の文学的な場面をあげるとするなら、やはり13章の贋家族のラストだろう。お互い自分たちは<偽物の家族>であることを受け入れながら暮らす彼らが、最後の別れの場面で、「美しい思い出のまま」残すために、今まで着ていた人工皮膚をマネキンにかぶせて去り、誰もいない家に残ったのは幸せそうな彼らの人形ーーというシーンはあまりに美しくせつない後味がある。

紡木たく『ホットロード』を読む ~恋愛という”痛み”ーー彼女が歩む道の先にあるのは

今回は、私は男なのであまり読んだことのないジャンル、少女マンガからのご紹介、紡木たくホットロード』。

1986年から王道少女漫画雑誌『別冊マーガレット(別マ)』に連載され、コミックは(わずか全4巻ながら)700万部売り上げた作品。(たしか、当時としては最速の売り上げだった、という話をきいたことがあるのだが、ググってもでてこない…)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

 

社会学者の宮台真司曰く「少女漫画のひとつの頂点」とのこと(宮台だけでなく、『ホットロード』を紹介するときにはよく言われる言葉だ)。「(少女漫画は)当初は、恋愛できない「ダメな私」が専らでしたが、77年あたりから〈関係性モデル〉が急速に高度化し、現実の恋愛でもみくちゃになる女の子が描かれはじめます」と、<複雑な関係性>の中で「生きることの痛み」を伴う恋愛を描き、少女漫画の表現はひとつのピークをむかえたらしい。

私の好きな少女マンガ:くらもちふさこ『海の天辺』(雑誌インタビュー記事)

宮台は男性にも「女性が望んでる、複雑な人間関係におけるロマンシズムを知れ」と、この『ホットロード』とくらもちふさこ『海の天辺』を薦めている。

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ in バレンタイン - 文芸的な、あまりに文芸的な 

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

 

 さてこの『ホットロード』だが、80年代に社会問題化した”暴走族”を少女漫画に取り入れてるのも、今読んでみると面白い。 あらすじ。

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中二の主人公少女、和希(かずき)は父親がいない。母親は離婚調停中の男とつきあっており(高校時代から付き合っていた)、和希は自分のことを「ママが嫌々結婚した男(父)」との子だと思っている。生活の金も母親の男から出ているらしい。和希はたった一人の肉親である母からの愛情を感じたことはない。

和希は母の誕生日に万引きで捕まる。忙しい母は、和希にどう接していいのかわからない。和希は転校生にさそわれるがままについて行った、暴走族NIGHTSの集会で、春山(ハルヤマ)という少年と出会う。その出会いはハルヤマがちょっかい出してきたもので、和希には不快なものだったが、ハルヤマがナイツの湘南支部を束ねていること、先頭を走る危ない"切り込み"をまかされていることを知る。

和希は「今日から不良になる」と母親に宣言し、族の集会に行くようになる。

集会にいくたび、ハルヤマは和希にしつこく絡んできた。和希はハルヤマが「俺はミホコのためなら死ねる」と言うのを聞いたが、ハルヤマはその女(ひと)に振られてしまったらしい。和希はハルヤマのバイクで家に送ってもらったとき「おまえ、おれの女にならない」と告白された。…和希は、「愛」というものがどういうものか、よくわからない。

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暴走族ナイツに混ざる和希。

ナイツは、孤独感など心に傷を負った少年たちがたくさん集まっていた。ハルヤマも複雑な家庭環境で育ったらしい(一人暮らしをして働いている)。彼らは夜の湘南をバイクで駆け抜けていた。和希は暴走するハルヤマの背中にしがみつきながら孤独感を打ち消していた。

和希はハルヤマと過ごすにつれて、ハルヤマの言動に傷つきとまどうこともあり、前の彼女(ミホコさん)もこうやって泣かせてきたのだろうか、と思うが、次第にハルヤマは和希の中で大切な存在になっていく。

ある日和希はミホコさんに会い、ハルヤマと別れた理由が「嫌いだから別れたのではなく、危ないことをするハルヤマを見てるのが怖くなったから」だということを知る。

一方で母親とはさらにすれ違いが続き、学校に行ってないことがバレて口論になり、不倫している母に対する、心の底にためていた「…いらない子だったら生まなきゃよかったじゃないか」の言葉を吐いて和希は家を捨てた。

友人の家を転々とする和希。行く宛てがなくなった和希はハルヤマの家に同棲することになる。

その矢先、ハルヤマは総頭・トオルの指名で、歴代総頭が乗るホンダの400Four(ヨンフォア)のバイクを引き継ぎナイツの総頭に就任し、今まで以上にナイツにかかりきりとなる。和希は争いが絶えないハルヤマに生きた心地がしない。一方ハルヤマにとっても和希は自分自身にブレーキを踏ませる存在となり、総頭の自分と和希の想いとの間で悩み苦しんでいた。ハルヤマは和希との別れを選ぶ。「おまえみてっとイライラする。お前といると俺ダメになる。別れようぜ」

和希はハルヤマの真意がわからず傷つき苦しむが、ハルヤマについていくことを決める。

ハルヤマの誕生日の日、和希はハルヤマが自身と同じく複雑な家庭環境でありながら、家族の事を(ハルヤマなりに)思っていることを知り、和希は一度自宅に戻り、今まで聞けなかったことを母に問う。「ずっとひとりだったんだよあたし」「この家ん中、ほんとうにあたしのいるとこあんのかよって」

ハルヤマは言う。「おばさんこいつのこと嫌いなの?もしそーなら俺がもらってちゃうよ」。和希の母は「あげないわよ!誰にも!親が自分の子嫌いなわけないじゃないの!」と初めて和希の前で、母の愛を明かすのだった。

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これを境に和希は家に戻る。

その頃、ナイツは喧嘩でのしあがった族「漠統」と抗争が起きる寸前であった。母と和解した翌日、和希はハルヤマに「もう他には何も言わないから、(ケンカに)行かないで」と頼むが、ハルヤマは「俺がいなきゃなんにもできねーような女になるな。俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ」「そんでも俺が追っかけていくような女になれ」と言って和希の元から離れた。

その後しばらく二人は会わず、お互いの事を想っていたーーそして久しぶりに会う二人。和希は、「親も生きているのだから」とハルヤマに諭され、親の再婚を認めることにした。ハルヤマは、今の抗争が終わったら、もう和希には心配かけないと、ひとり思う。

しかしーー「漠統」との抗争に向かう途中、ハルヤマはトラックにはねられてしまい、意識不明の重体となる。病院に運ばれるが意識は戻らない。

これに激しくとり乱す和希だったがーー奇跡的にも、ハルヤマは意識を取り戻す。重い後遺症が残り、リハビリの後に鑑別所に入れられる。ハルヤマは和希に「ぜってー鑑別だけで帰ってくるから」と誓う。

ハルヤマが鑑別から帰ってから9か月、ハルヤマも、ナイツの友人たちもそれぞれの新しい道を行こうとしていた。

最後に和希が語る。
 「今日であたしは17歳になります。今まで人いっぱい傷つけました。これからはその分、人の痛みがわかる人間になりたい。この先もどうなるか全然わからないし、不安ばっかだけどずーっとずーっと先でいい。いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい…。それが今のあたしの誰にの言っていない小さな夢です」

あたしたちの道は、ずっと続いている。  完

  さらに詳細なあらすじは ホットロード映画化!漫画のあらすじネタバレ!結末?紡木たく現在?

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大塚英志『システムと儀式』所収の「〈14歳少女〉の構造」で、ホットロードについてこう述べているという(ネットから孫引き)

暴走族の世界に入った和希はハルヤマという少年と出会い、傷つきながら、しかし最終的に暴走族の世界から帰還してくる。この帰還してくる、という点が重要である。

ホットロード」は、物語全体が通過儀礼の構造を持っており、少女が〈少女〉の時間を終え成女(大人)になることが主題となっているのである。紡木たくは〈少女〉の時間をとどまるべき永遠の場所でなく、通過していく場所として描いた。しかも、そこを〈通過〉することによって少女は初めて大人になれる。(略)「ホットロード」は敢えて、傷つきつつも通過儀礼をなしとげる和希とハルヤマの姿を描いてみせた。しかもそれが読者たちの圧倒的な支持を受けた。

ホットロード論

つまり、「母の愛を知らない〈少女〉」は、ハルヤマという異界(暴走族の世界)とつきあうことによって、つまり”傷つきつつも”特別な時間を過ごしことによって通過儀礼)、「母やハルヤマとの平凡な日常を望む〈大人〉」へと成熟した、ということである。
「傷つきつつも」というのが、この物語の重要な文学的ポイントだろう。
物語序盤に提示されるのは、<和希とママ>の関係性。それは両者共に不完全な存在(親の愛が欠落した娘、娘の愛し方を知らいない母)であるが故に、すれ違いお互いに孤独をもたらす。
そして和希は、今まで経験したことのない不良の世界(異界)であらたな関係性を獲得しーー<和希とハルヤマ>の関係性だーー、その中で”戯れあう恋愛”ではなく、求め合うが故の(故意に、あるいは意図せずに)”傷つけあう恋愛”を経験する。
そしてこの”傷つく恋愛”を経験したからこそ、傷ついた不完全な存在である<私(和希)とママ>を許すことができるようになるーーつまり通過儀礼を経て大人になるーーという物語終盤へとつながっていく。
和希はハルヤマの事故によって暴走族の世界から離れ、文字通りの通過儀礼を終え大人になるのだが、通過儀礼を終えた(大人になった)和希はどのような人間になるのだろうか。
物語のラストに和希のモノローグーー「いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい。それがあたしの小さな夢です」が入る。和希は平凡で確実な幸せを望んでいるがーーそれは決して楽観した夢ではない。
ハルヤマとの恋愛で「生きることは、そして愛することは痛みを伴うもの」だということを経験し大人になった和希は、おそらく自身のこれからの人生もまたーーもちろん暴走族という危険な世界ほどではないにせよーーそれがハルヤマと歩む人生である以上、「必ず痛みを伴うもの」だということを理解し、そしてその「痛みを伴う幸せ」を、いとおしいささやかな夢として受け入れようとしているのである。「生きる痛み」を受け入れた上で、彼女は自分の人生と向き合っているのだ。
だからこそラストは「あたしたちの道は、ずっと続いている。」であり、この物語は幕を閉じても、二人はこの道を歩き続けることができるのだ。
ホットロード』は読者に、つまり少女たちに、「大人になること、生きることは痛みを伴うがーー、それでも愛し合うことには実りがある」というメッセージーーそれは少女たちには過激かもしれないが、嘘偽りのない誠実なものだと思うーーを投げかけているのである。
 
余談。以上のように『ホットロード』を精読してみると、そこにあるのは「生きること、恋愛することの痛み」という、大人になれば誰もが体感するであろう痛々しいまでのリアルである。これを読んで熱中していた当時の女子中高生は、なんと大人びていたことだろうか!
これを男子中学生が読んでも、たぶんこの「恋愛による痛み」なんて半分も理解できないだろう。もしこの「恋愛という痛み」のリアルさ彼らにに見せつけたら、幻想ではない「女という恐ろしさ」に気付いて、あふれる性欲もどこかに吹っ飛んでしまうのではないだろうか(苦笑)   <了>
 
今日のマンガ名言:俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ。そんでも俺が追っかけていくような女になれ

業田良家『自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味

「このマンガは絶対に読む価値がある」

永井均『マンガは哲学する』でそう賞賛された、文字通り「人生において必読」の傑作。 

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

 

それが業田良家自虐の詩である。四コマ漫画であるがストーリーは連続している。四コマ大河漫画といってもいい。ギャグ漫画でありながら「日本一泣ける四コマ漫画」というあまりセンスのないキャッチコピーで売られているがーー実際にそれは間違いないのだがーー、そんな陳腐なキャッチコピーでは十全に言い表せない、とにかく壮絶な感動作だ。

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

 

 あらすじ。

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 主人公である幸江(ゆきえ)は、何かというとちゃぶ台をひっくり返して怒る亭主・イサオと暮らしている。イサオは働きもせず、ラーメン屋で働く幸江の収入で暮らす、元ヤクザのヒモである。はた目には幸江は全く幸せには見えないが、彼女はイサオを愛している、というよりイサオに依存しているように見える。なぜ幸江はイサオと別れずに暮らし、イサオを愛しているのだろうか?

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上巻は延々と、苦労する幸江、イサオがちゃぶ台返しして終わる(オチとなる)4コマが飽きるくらいに続いていくが、下巻から次第に幸江の過去の回想ーー彼女の悲惨で壮絶な過去ーーが明らかになってくるにつれて、読者は幸江のイサオへの愛情とその理由を知るようになる。

幸江の小学生時代。幸江にはもの心つく前から母親がいない。夫に愛想尽かせて出て行ったらしい。幸江の父はろくに働きもせずビンボーで、娘の幸江を働かせている。幸江は父の借金取りにも同情される始末だ。

中学生時代。幸江は唯一の友人熊本さんができる。熊本さんは幸江同様ブサイクであり、そして(おそらく幸恵よりも)貧乏であり、クラスの中では迫害される存在だ。幸江は唯一の友人熊本さんと、二人だけの友情を育む。

だが熊本さんが学校を休んだある日、憧れであった藤沢さんからお弁当を食べようと誘われ、藤沢さんグループに入ってしまう。幸江にとっては夢のように幸福な時間であった。しかし熊本さんが学校に復帰してくると、幸江は藤沢さんのグループから離れたくないために、藤沢さんたちと熊沢さんの影口を言いだし、あろうことか学校の備品を盗んでいた熊本さんの罪状をばらしてしまう。熊本さんはクラス中から無視され完全に孤立してしまった。

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しかしここで幸江に不幸が襲い掛かる。幸江の父ちゃんが愛人に金を貢ぐために、銀行強盗を犯してしまうのだ。

幸江はそれによってクラスから腫れもの扱いされ孤独になってしまう。どうして私だけこんなにも不幸なのか、いっそ死んでしまった方がーー。

こんな状況の幸江に手をさしのばしてくれたのが熊本さんだった。久しぶりに一緒に帰る二人。しかし河原に来ると、熊本さんは幸江をボコボコに殴って言う。「なんで私を裏切ったのか」。ボコボコにされるがままに殴られながらただ謝る幸江。熊本さんはさらに言う。「このまま、謝り続けながら、殴られたままで一生生きていくつもり?そんなヤツとは、友達でいられないじゃない。殴り返さないの?」その言葉に、大きな石で殴り返す幸江。卒倒してしまう熊沢さんに幸江は言う。「死なないで、熊本さん。私を一人にしないで。私の友達はあなたしかいない!」意識を取り戻す熊本さん。そして二人は「私たちは一生の友達!」と腫れた顔で抱き合うのだった。

熊本さんからの助言もあり、卒業後、幸江は東京へ出る。

話は現代に戻る。幸江はイサオの子を妊娠する。産むことを決意する幸江。旦那が旦那だけにアパートの隣の部屋のおばちゃんは心配する(そりゃそうだ)。そんなおばちゃんに幸江はイサオとの過去を語る。

東京に出た幸江は、シャブ中の売春婦(立ちんぼ)に身を落としていた。その境遇の中出会ったのが、ヤクザのイサオだった。イサオは幸江に惚れ「こんな仕事はあなたには似合わない、もうやめなよ」と幸江のことを気にかけるが、幸江は全く意に介さない。それでも幸江のことを案じるイサオ。あるとき幸江は自暴自棄になって手首を切るが、イサオがすぐさま助ける。幸江は次第にイサオを受け入れる。イサオは幸江と付き合うために、ヤクザから無理やり組抜けした。ーーかつてイサオが幸江を窮状から救ったことが、ここで読者に初めて明かされる。

妊娠した幸江は、自分を捨てた母の夢を見る。なぜ私を捨てたのかーー。恨んでやる!幸江は顔も知らない母の首を絞める。母は苦しみだす。首を絞められたからではないーー母が臨月だったからだ。その母の股が割れ、そこから出てくるのは赤ん坊の幸江。

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幸江ははっと目を覚ます。そのとき幸江は産まれたときの記憶を取り戻し、母を許した。そして気づく。「みんな母から生まれた そしてこの子は私から生まれる」のだと。

 幸江はどこにいるかもわからず、会ったこともない母親に向けて手紙を書き、宛先もないその手紙をポストに投函する。

「私は幼い頃、あなたの愛を失いました。 私は愛されたかった。ーー

でもそれがこんなところで、 自分の心の中で見つけるなんて。 ずっと握りしめていた手のひらを開くとそこにあった。 そんな感じで。

おかあちゃん、これからは何が起きても怖くありません。 勇気がわいています。 この人生を二度と幸や不幸ではかりません。

なんと言うことでしょう。 人生には意味があるだけです。 ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。 勇気がわいてきます。

おかあちゃん、いつか会いたい。 そしておかあちゃん、 いつもあなたをお慕い申しております。

追伸、私にももうすぐ赤ちゃんが生まれます。」

物語の最後、二十年ぶりに熊本さんから再会の電話がかかってくる。彼女も結婚して幸福になっていた。

かつて幸江が逃げるように東京へ出てくるとき、熊本さんはなけなしのお金から、大金の百円札を餞別に幸江を見送りに来てくれたのだった。

幸江は臨月のお腹を抱えて、東京駅まで会いに行く。使わずに手元にとっておいたその百円札を持って。

ラストは熊本さんと涙の再開を果たし、印象的なモノローグをもって物語は閉じる。

「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」 完

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 感動的である。そこには小細工も、奇も衒(てら)いもない。ただ実直なメッセージーー「人生には明らかに意味がある」という断言があるだけである。

では、その「人生の意味」とは何だろうか?

と、その「人生の意味」を問うにあたって、そもそもそれは「哲学的に正しいのか」と哲学者の永井均は考察していたので紹介したい。

永井は『マンガは哲学する』(冒頭に紹介した本)において、こう疑問を投げかけている。

 感動的であるがー(略)ー幸江にイサオが現れず、そもそも熊本さんとも出会わなかったとしたら、それでも幸江は「シャブ中の立ちんぼ」の境遇のままで、人生にはーー幸や不幸ではなくーー意味があるのだというこの覚醒に到達できたであろうか。そうは思えないのだ。たまたま事実として、彼女は幸福になれたようにしか見えないのだ。

 私もこの意見に賛成である。「人生に意味がある」のではなく、「己の幸福を自覚できたからこそ、己の人生の意味を実感できている」のだ、という解釈が正しいように思える。

では、幸江に幸福をもたらしたものとは何だろうか。この物語を読んだ方ならすぐにわかるだろう。

それはイサオや熊本さんとの、苦難の日々や何気ない日々を過ごしてきたという軌跡ーーつまり他者と<関係性の履歴>を更新してきたという、その履歴が幸江に幸福を実感させたのだ。イサオとの妊娠や、熊本さんとの再会という幸福な出来事は、ただその<関係性の履歴>のわかりやすい「表れ」にすぎない。その根底にある、あるいはそこに至るまでの、苦難の日々を共に過ごした、何気ない愛おしい日々を一緒に過ごしたという「関係性の履歴」こそが、幸江の支えであり幸せへとつながったのだ。

だからこそ幸江は「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある」と心の底から思えるのだ。幸江が経験してきたすべての苦労(関係性の履歴)が、今の幸江を形作っているのだから。そしてこの「私は関係性の履歴を育んできたーーそしてだからこそ今の私がある」という実感こそが、幸江に「人生には明らかに意味がある」という覚醒をもたらしたのだ。

そしてこの覚醒に至った幸江は、手紙での言葉通りに、これからの人生を「幸や不幸ではかる」ことはないだろう。なぜなら、その幸不幸ーー他者との関係性の履歴ーーこそが人生の中身そのものであると理解しているのだから。だから幸江はこれから、子供を産み、夫イサオに苦労しながらも、それでも幸せにーー愛しき人と共に苦労していくことそのものが人生の中身でありそれこそが「幸せ」なのだーー生きていくだろう。

これが『自虐の詩』の提示する「人生の意味」である。

そして『自虐の詩』がもたらす感動は、私たち読者に「あなたは人生の意味ーー他者との関係性の履歴ーーをもっているか」と問いかけてくる。

<関係性の履歴>をもつ者はーーたとえ今現在、自分は不幸だと感じている者であったとしてもーー幸いである。その先にこそ「人生には明らかに意味が」あり、手ごたえのある人生の実感があるのだから。  <了>

 

今日の漫画名言:人生には明らかに意味がある