黒田硫黄『茄子』(1)を読む ~少女は日常を浮遊して生きる
今回紹介するのは黒田硫黄『茄子』。各話にナスが出てくるオムニバス短編集。
黒田硫黄はおそらく私の一番好きな漫画家。その理由は、筆ペンによる圧倒的な描写も素晴らしいが(ただし『茄子』は「筆で描く漫画家」と思われるのが嫌だから、という理由で、大部分の話がペンで描かれている)、それ以上に好きな理由は硫黄の作品はどれも文学的濃度が濃いからだ。
文学的濃度とは何ぞ、という話だが、一言でいえば<「生きるとは、こういうことか」としみじみ思う味わい>、とでもいえばいいのか。
ちなみに黒田硫黄、現時点での最高傑作は、間違いなく『セクシーボイスアンドロボ』。漫画におけるエンタメ性・文学性、ともに傑出している。だって女子中学生がスパイになるんだぜ?面白くないわけがない。
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- 作者: 黒田硫黄
- 出版社/メーカー: 小学館
- メディア: コミック
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対して『茄子』の方はエンタメ性に欠ける。そもそもテーマがナスしばりなだけに、地味にならざるをえない。しかし地味であるがゆえに、娯楽性に欠けるがゆえに、文学性が強烈に滴る作品だ。
『茄子』といえば収録短編のうちのひとつ『アンダルシアの夏』はアニメ化されたが
それは自転車ロードレースという「動き」のある、アニメーションに適した話だから(つまりはエンタメ性が高いから)アニメになったのであって、実をいうと動きのない「日常のちょっとした出来事」を描いた短編の方が文学性は濃い。
1巻において最も文学濃厚なのが、第1・2話の『3人』。
日常のちょっとした…というにはでかすぎる出来事だが、3人の日常の顛末を描いた傑作。
あらすじはこう。
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ナス農家を営むセンセイ(インテリ隠居人)の家の納屋に、一組の男女がくる(男は十代らしき少年、女は女子高生)。通学途中の電車で少年の方にナンパされて、ふとした思いつきで ーー何もしたいことのない日常に嫌気がさしたからーー 家出してきた、行く場所はまだ決まってないから泊めてほしいという。
強引に宿を借りた二人、本当になにも具体性がないようだ。
少年は言う「こいつは俺がいないとだ駄目なのさ」「だから俺なしじゃ生きていけない」
次の日、昼間二人はセンセイの農作業につきあい、夜は二人で風呂へ入る。
風呂で少女は、少年に対しこう言う ーー「どこにでも連れてってもらえると思ったけど、…でもどこにでもいけるわけじゃないね」
それをきいた少年は「結局金かよ」と、センセイの家にある猟銃を強奪しようとセンセイに刃物をむける。「銃はどこだい。…それで銀行を襲う」センセイは「お前みたいなメンドクサイ奴に何ができる」と鍋のふたで応戦。
その間に少女は、ーーなんの気まぐれかーー家を出てどこかに行ってしまう。
それに気づいた少年は、センセイの車を強奪して後を追いかける…もあえなく事故って車は大破。病院へ。
そこに少女から電話がくる。「お礼をいいそびれて。親切な人が駅まで送ってくれて」今は飲み屋でただ酒を飲んでいるという。「私これからどうしようか」
センセイは言う「お前さんを連れて行ってくれる奴はいくらでもいるだろう」「俺は駄目だ。メンドクサイから」
電話を切るとセンセイは歯を磨きながら、
「若い女には値打ちがあるが、若い男にはないからなぁ」
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「<ここではないどこか>を求めながらどこにへも行けない少年少女。しかし少女だけは結局どこかへ行ってしまう…」という顛末。
男女ともに日常から脱出してどこかへ行ってしまうのでもなく、共にどこにも行けずに挫折するのでもなく、少年だけがポシャって、少女だけがどこかへと行ってしまう。
「少女だけがどこかへ行ける」というのはーーこれは非常に文学的な展開だと私は思っているがーーなぜだろうか。
それを考える前に(そしてそれを答えるために)別の問いを立ててみたい。
この少女が行ってしまった(あるいはこれから行く)「どこか」は、いったいどこなのだろうか。
いや、場所がどこであろうが別にいい。彼女が行く先は<ここではないどこか>なのだろうか? あるいは<ここではないどこか>といえるのだろうか?
ーー答えは否。なぜなら<ここではないどこか>は存在しえないからだ。
なぜなら、<ここではないどこか>だと思ったその「どこか」においてですら、人はそこで生きればまた別の<ここではないどこか>を夢想せざるにはいられなくなるからである。そこにあるのは、<ここではないどこか>という漠然とした「非日常」ではなく、グロテスクなまでにはっきりとした実態のある「日常」なのだから。
それをふまえて考えると、少年がポシャった理由はわかりやすい。<ここではないどこか(=非日常)>を求めての挫折ーーつまり日常からの脱出という、とうてい不可能なことを試みたからだ。
もちろん「銀行強盗なんて大それたこと成功するわけないだろ」といいたいのではなく(そりゃ成功するわけないが)、日常からの「脱出」というスタンスが間違っていた、という意味だ。
では少女の方はどうか。少女はなぜ「どこか」へと行けたのか。
私が思うに、彼女は、ベタに<ここではないどこか>を目指したのではない。彼女は<ここではないどこか(=非日常)>を求めつつも、決して日常からの「脱出」は試みなかった。
彼女がしたのは、日常という地続きを、いわば日常という地面を「浮遊するように」歩くことだった。ベタに日常を生きるのではなく、日常を「日常でないなにか」に読み替えようとする行為。
彼女が生きる「そこ」は決して「非日常」ではないが、ベタな「日常」でもない。
<ここではないどこか(=非日常)>ではないのだから、退屈ではあるかもしれないが、それでもダルくはない。そんな浮遊した身体。
ここで彼女が風呂でもらした言葉「どこにでも連れてってもらえると思ったけど、…でもどこにでもいけるわけじゃない」は、文字通り現実なのだが、これは裏を返せば、いや、浮遊した身体によって読み替えれば、
<ここではないどこか>へ行くことはありえないが、日常を浮遊するように生きれば<ここではないどこか>であるかのように生きられる、ということにつながる。
少女がうまく日常を浮遊して生きることができるのは、日常のなかに「細やかな襞(ヒダ)」をみつけて、それを手繰りよせるように歩く(生きる)ことができるからだろう。
一般的に、女性はそれを楽にこなす。たとえば女性なら気分によって化粧を変えて日常にささいな変化をつけるように。
無知な男にはそうした(ある意味繊細な)芸当はできない。
だから日常を浮遊して生きることを知らない少年は、日常を浮遊して生きる少女に捨てられた。
「俺なしじゃ生きていけない」と少年は自負していたが、本当は彼女はどこに行こうが生きていけるのだ。「どこへでも行けるわけじゃない」が、どこに行こうが浮遊した身体で生きていける。
きっと彼女はまた、誰か男にどこか他へと連れ行ってもらえるのだろう。そこで彼女は生きるのだ。そこでもまた<ここではないどこか>を憧憬しながら。
だからこの話は、そして『茄子』という漫画は全編を通して、「日常を生きるということ」がテーマだ。
この『3人』の少年は日常を浮遊して生きることができなかったが、ほかの話には日常を浮遊して生きる青年も登場する。
『ランチボックス』という話にでてくる青年は「働かないで生きていけないかな」と言ってキャッチボールしたり、
他の話ではインドにバックパックに行ってそこでも「若隠居になれんかな」なんて言って日常を過ごしている。
ここに描かれる青年は、<ここ>という日常を<ここではないどこか>に読み替えるかのようにして、地に足をつけて<ここ>という日常を過ごす様が描かれている。
とにかく黒田硫黄は日常描写がうまい。いや、日常の描写ではなく、「日常を生きることの描写」がうまい。
これほどの「日常を生きるという描写力」をもつ漫画家は、私は黒田硫黄のほかに思い浮かばない。 <了>
本日のマンガ名言:若い女には値打ちがあるが、若い男にはないからなぁ
追記: 『茄子』各話の感想を書いてる人もいるよ
ここのブログの感想もいい 茄子/黒田硫黄 - 旧機械