文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

告知 ※文学フリマ東京(5/1)出展します。サークル「文化系女子になりたい」(ツー09)

今週のお題「私がブログを書く理由」 ということで、私がブログを書く理由。

このブログは主に漫画文学論を書いているが、それなりの文章(内容と分量)を書くのは面白いのだが、当然のことながらメンドクサイ。

何故に私はそんなめんどうなことをしているのか?それには理由がある。

ここで書いた文章をまとめて文学フリマに出展参加するためだ。

前回客として見に行ったコミティアがお祭り感あって楽しかったので、友人となりゆきで決めたのだ。

文章書くのを決めたはいいが、私は人生のほとんど(誇張)を漫画を読むことに費やしているので、漫画論くらいしか書くものがなかった。

漫画論を書くにあたって「この漫画読んでね」というただの紹介では面白くないので、「この漫画はこう読むと、『文学性』が垣間見えて面白いのだ!」という読み方指南するよう心掛けた。

 

ということで告知。

 第二十二回文学フリマ東京(5/1 日)出展参加します。

東京流通センター 第一展示場 11:00~17:00

第二十二回文学フリマ東京

 ブースは「ツー09」サークル名文化系女子になりたい

カテゴリは「評論(サブカルチャ-)」、出入口付近に陣取っております

冊子名はサークル名と同じく文化系女子になりたい』

肝心の冊子の中身は、私のブログから「漫画文学論」と、私の友人が作った短歌。

この友人は穂村弘の『短歌ください』(読者投稿)にも選ばれたことがあります(すごい!)

で、肝心のミニコミは1号と2号を作り、そのお値段は

1冊「お持ちの10円玉すべて or 50円玉」(おつり面倒だから)

100円しかない方は2冊さしあげます。お札しかない方はまだ決めてない(苦笑)

 

あとただ座って売るだけ、というのも寂しいので、来て下さる方、買って下さる方と積極的にコミュニケーションしに絡みにいくと思います。(今その仕掛けも考えてます。たぶん趣味やコンテンツの話でちょこっと盛り上がる感じになります)

あと、はてなID、Twitterある方は名乗ってくだされば飴ちゃんプレゼントします。

それから詰め将棋も出します。時間ある方は私(初段レベル)と将棋指しましょう。

あとそれからもう一つ告知。

私たち文フリで、友人と彼女募集します。私たちに興味持たれた方はぜひ仲良くしましょう!

 

で、ここまで書いておいて何だが、当のミニコミは完成してないのだ…。前日までには完成する予定…(おい)

 

女優・大後寿々花と、クンニ顔という概念

タイトルから分かるとおり駄文。

先日、深夜放送していた映画『桐島、部活やめるってよ』を観ていたら、吹奏楽部でサックスを吹いてる一人の女の子に目が留まった。

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この女優誰だっけ…と思い検索したら、大後寿々花という娘らしい。『桐島~』にはヒロインの橋本愛など美人女優が何人か出演しているが、この娘は特段に美人で目を惹くというわけではない。なぜこの娘に目が留まったのか…?

脳内検索すると、どうやら私はこの娘を見たことがあった…ということに気付く。

ドラマ『セクシーボイスアンドロボ』(2002)で、ヒロインのニコ役をつとめた女の子じゃないかしらん?と思うに、当たっていた。

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私はこのドラマが好きだったので、当時無名だった(少なくとも私は知らんかった)この純朴そうな女の子、このドラマが終わると見かけなくなったので、まぁやっぱ人気出なかったなぁ…華なかったし。と思っていたのだ。久しぶりに彼女の存在を確認してなんとなくうれしかった。

そして私は映画を観ることに意識を戻そうとすると、画面に彼女の顔が映っている。

そのとき私はふと「あークンニしたい」 と思った。大後寿々花 にクンニしたいと思った。(自分で書いててキモイな 苦笑)

そして自分で思っておいて難だが、驚いた。というより戸惑った。この感情は何だ。何故クンニなのか?それもピンポイントに!

美人女優がテレビに出てきたら「この人とセックスしたい」と思うことくらいは誰にでもあることだろう。しかし何の脈絡もなく「クンニしたい。クンニだけしたい」と思うことはあるのだろうか。

大後寿々花の何がそう思わせるのか、考えてみる。まず、彼女の顔が「私の中の、標準的なAV女優顔」であることに気付く。美人すぎず、ブスすぎない、どことなくキカタン(企画系から単体系に出世した)女優っぽいのではないか。あとサックス吹いてるのがさらにAVイメージにつながるとか。(これはサックスへの風評被害だ 笑)

そこまで考えて、私はある仮説に気付く。世の中にはいわゆる「クンニ顔」といって、男が見ると「なんとなくクンニ(だけ)したくなる顔」をした女性がいるのではないか。同様に、女性から男をみたときに「フェラチオ顔」という「なんとなくフェラチオ(だけ)したくなる顔」というものも存在するのではないかと。

女性に「あなたクンニ顔ですね」ときいてみたら、その女性はどんな反応をするだろう。キモがられるか。そりゃそうだ。「あなたを抱きたくはないけどクンニはしたいです」これはうれしいのだろうか…さすがにそれもないだろう。いや、絶世のイケメンから言われたらうれしいのだろうか(女性の方教えてください)

それにだ。もし私がフェラチオ顔だったらどうなのか。会う女性会う女性から「フェラチオだけしたいです」と言われたら喜んでいいものか(喜んでしまいそうだが)

…ここまで書いて自分でキモイ奴だと思ったのでやめておく。

とにかく私はクンニ顔なるものを認識し、以降、この映画の大後寿々花のシーンは全く集中して観ることができなかった。

そして私はこれからの人生においてまたいつか「クンニ顔」の女性に遭遇するのではないかという思いを抱えながら生きていくことに愕然とし、もう私はクンニ顔という概念の存在しない世界を生きることはできないのだと観念し、それを頭から振り払うかのように眠りにつくのだった。   <了>

 

追記:大後寿々花さんのこれからのご活躍、ご健勝を期待しております

押見修造『惡の華』高校生編(7~11巻)を読む  ~破滅よりも、生きることに賭ける

前回記事押見修造『惡の華』中学生編(1~6巻)を読む に続き今回は『惡の華』高校生編。 

 今回ははじめに自分語りをしたい。『惡の華』について書く以上、述べておいた方がいいと思ったからだ。

前回記事冒頭に<「かつて思春期に苛まれた少年」であった私>と書いたが、私が思春期に苛まれたのは大学生の頃だった。中学生で中二病を発症した春日と比べるとシャレにならない遅さだった(というか少年とも呼べないし 苦笑)

私が入学していた大学は、私が希望するランクの大学ではなかった。一浪していたのでそのまま入学したが不本意な入学でもあった。

不本意であるとはいえ、念願の「東京」へ行くことができた。私の住む町(埼玉)にはなんのカルチャーもない。東京なら私の知らないカルチャーや、私のしらない世界へ連れて行ってくれる人がいるはずーー。期待に胸を膨らましての入学だった。

しかしその期待は入学早々裏切られた。同級生たちは去年まで普通の高校生だった人たちーーつまり私と同じく「特別なカルチャーも何も知らない」ごくごく普通の、そして「退屈で凡庸な」人間だった。私を「どこかへ」連れて行ってくれる友はみつからなかった。

私は落胆すると同時に五月病になり、精神的にひきこもるようになっていった。時間があれば本を読み、映画を観てサブカル論理武装(笑)し、飲み会などでは「『XX』知ってる?(『XX』には映画ならウディ・アレン、作家ならここ数年の芥川賞作家、漫画ならガロ系の作家が入る。5人中3人ほど知っているレベルの知名度の人。去年まで高校生やってた人だと、名前すら知らない人も少なくなかった)」と尋ねて「こいつは俺の御眼鏡に適うか」試していた。話が盛り上がれば、私は仲間扱いしてその話題で盛り上がる。しかし「誰それ」とでも答えるようなら「え、有名なのに知らないの?(いやらしい言い方だ)じゃあ君は何が面白いの??ww」と小馬鹿にして「俺は君とは違うんです」オーラを出していた。かなり嫌な奴だ(苦笑)

当時の私の口癖は「つまらない」「もっと面白い話、して」だった。平凡で輝きのない毎日を憎んでいた。私は<特別に面白いこと>に触れたかった。そして私自身が<特別に面白い人間>になりたかった。

こんな底意地の悪い奴には友達などできはしない。だんだん孤立していった。

しかし私は真剣だった。「このままだと空気の薄さに窒息死してしまう」と思っていた。この態度(つまり面白いことを真摯に求めること)で生きるしか他になかった。

惡の華』には仲村さんの「つまんないつまんないつまんない!」という台詞がある。私も心の中で同じ台詞を叫んでいた。

だから私は『惡の華』を初めて読んだとき、胸をつかまれるように共感した。

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そして今現在。あのときの私は過去に置いてきた。人生の「つまらなさ」にも慣れた。だが私は生きている。あの当時ほど<面白きもの>を求めずとも生きてられるようになった。あのとき私が思い描いていたような<特別に面白い人間>にもなれなかった。ただ数々のマンガを読むことで、私は「ここじゃないどこか」へと妄想を飛ばし、平凡な毎日をやり過ごす術を身に着けたーー。

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惡の華』論に話を戻す。「高校生編」のあらすじ。

 

この町で唯一、人がたくさん集まる夏祭り。春日と仲村さんは、この町のクソムシ共に一泡ふかせてやるためにーーそして同じくクソムシである自分たちを終わらせるためにーー 祭りのやぐらを占拠し焼身自殺を決行する。

「この町のすべてのクソムシども!」「沈め!沈め!錆びて腐りきって沈め!」

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 口上を述べて衆人が惹きつけられる中、春日は火をつけようとすると…「私ひとりで逝く」仲村は春日を突き飛ばした。保護され茫然とする春日。「仲村さん!」自らに火をつけようとする仲村…しかし間際で仲村の父親に止められる。二人の自殺は未遂に終わった…

時は過ぎて高校生編。春日は埼玉に転向し、高校生になった。「あの日」以来心を閉ざす毎日だ。心の中は、死ぬ間際に自分を突き飛ばした仲村さんの影に支配され、自分は幽霊のようだと思っている。

そんななか、春日は別のクラスの女子、常盤さんと出会う。垢ぬけたグループにいるが、実は文学が好きで、そのことは誰にも言えないらしい。ひょんなことから常盤さんと春日は本を貸し借りする仲になり、常盤さんが小説を書こうとしていることを知る。

彼女が書いている小説のプロットをきくと、それはまるで「かつての、そして今現在の自分」であるかのように思えた。春日は常盤さんに、彼女が書く小説を読みたいと望む。一方、常盤さんも初めて、文学好きな本当の自分を受け入れてくれた春日に惹かれる。

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 ある日偶然、春日は街で佐伯さんに再開する。中学のとき以来だ。春日に似た青年と付き合っているという。佐伯さんは春日に言う「あの日、春日君が無様に生き延びさせられたのを見て『ざまあみろ』って笑いが込み上げてきた」「あのまま二人が死んでたら悔しすぎて…私どうしていいかわからなかったかも」そしてさらに続ける「春日君はまたそうやって逃げてるんだね」「あのコ(常盤さん)も不幸にするの?私みたいに」

春日は常盤さんのことを思う。彼女の小説には囚われの幽霊が出てきた。それは常盤さん自身が(そして春日も)幽霊だからだ。

春日は、常盤さんを救うことを決心する。「キミはずっと…ひとりで悩んで…幽霊みたいに…」「僕にはできない 一生 幽霊の世界で生きていくなんて」「僕と生きてくれ」 

春日の告白を常盤さんは受け入れる。

常盤さんの小説が完成した。春日に読んでほしいと言う。しかし春日は、自分にはまだその資格がないと、春日は中学生時代の自分をーー仲村さんとの出来事すべてをーー常盤さんに打ち明けた。「仲村さんに会いたい」。常盤さんは春日の背負っている過去に愕然とするが、「私も行く」と決める。

仲村さんは、千葉の港町で母親と暮らしているという。定食屋を営んでいた。

仲村さんと春日の再開。海辺で三人で話すことになった。

春日はきく「あの時、僕を突き落したのはなぜ?」。「さあ…忘れた」と仲村さんははぐらかすように答える。「きみはその人とつきあってるの?」「そうやってみんなが行く道を選んだんだね」。

去ろうとする仲村さんに常盤さんが声をかける。「あなたを見てると辛い。…まるで過去の自分を見ているようで」常盤さんは言う。春日には彼女と生きていく道があるのではないか?それがいいのではないか?と。

その言葉に、春日は仲村さんを砂浜に投げ飛ばして言う「僕は何もつかまえられない 必死で手を伸ばしても 触れたと思ったら離れてく」「僕はうれしい 仲村さんが消えないでいてくれて」

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春日に殴り返す仲村さん。ふたりは海の中でもつれ合い、春日は常盤さんを海に引きずり込む。

…海辺に寝転ぶ3人。「二度と来るなよ。ふつうにんげん」と仲村さん。

場面変わって大学生活。春日は常盤さんとの幸せな生活を営んでいる。ふたりは体を重ね…。

最終話。物語は、中学生時代の仲村さん視点へと円環する。顔のないクソムシ共に囲まれる仲村さん。気が狂いそうな日々。そのとき、自分とは別の変態・春日を発見する。

ここで初めて、仲村さんの世界に色がつく。

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そして春日が仲村さんに邂逅する場面をもって物語は幕を閉じる。

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 春日たちが夏祭りで焼身自殺しようとするのは、コミックの中書きやインタビューでも言及されているが、フランス映画『小さな悪の華』(70)のオマージュだ。

この映画は、寄宿学校に通う「無垢な」少女二人が、盗みや放火、悪魔崇拝の儀式を繰り返し、それが露見し大人たちに捕まることになると、学芸会で『悪の華』を朗読しながら焼身自殺するーーそれが彼女たちにとっての「純真」だからだーー話だ。

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 『小さな悪の華』では少女たちは破滅して幕を閉じるが、『惡の華』はその先ーーつまりこれからも生き続けなければならない彼らーーを描く。

佐伯さんが言ったように、彼らは「無様に生き延びさせられてしまった」のだ。

死ねなかった春日は、また灰色の毎日に飲み込まれる。あの日夏祭りの事件ーー前回述べたとおり、それは春日と仲村さんの究極のプラトニックロマンスであり、強烈に淫靡な輝きを放っていたのだーーも、もはや現実世界(と春日の内面)に影を落とす記憶でしかない。

惡の華』 高校生編は、嵐のように怒りの感情が噴出し渦巻いていた中学生編と比べると、まるで小雨のような静けさと暗さが同居した作風に変わる。私は読みながら、春日の同級生たちにかつての事件が知れ渡り、そこから無視などのいじめに発展していく…という予想をしていたが、そんな波乱もなく、春日の前に現れた女性・常盤さんと春日のほとんど二人の関係性だけで話はすすんでいく。

常盤さんは、表立てては見せないが、その内面には孤独を抱えている。この孤独(作中では「幽霊のような」と形容されている)に共感した春日が、常盤さんを救う決意をするーー。ここが高校生編のひとつのハイライトである。

中学生のとき、かつて春日は、憎悪と絶望に囚われた仲村さんを「救おうと決意して」、結果ふたりは破滅へと(未遂に終わったが)すすんだ。いや、春日が求めていたのは仲村の救済だけではなく、「自意識」ーーいやもっと強固なーー「自分という存在」という生きていれば必ず付き纏わざるをえないものからの脱出であった。だから春日は(そして同じ問題を抱えていた仲村さんも)、究極的に自分から離脱(つまり死)することを求めた。

しかし、今回常盤さんを孤独から救うという決意というのは、それは「よく生きる」ことへの賭けだ。春日の「僕と生きてくれ」という言葉は、「自分という存在」を抱えながらも、それを憎悪し拒絶するのではなく、(他者と)共有していこうとする決意だ。

もうひとつのハイライト、海辺での場面も美しい。仲村さんに思いをぶつけ、もみ合う春日は、傍観者である常盤さんをその戯れの中へと引っ張り込む。春日が、能動的に常盤さんを自分の人生に引き入れていこうとする決意の表れだからだ。

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「破滅」を選ぶよりも、「他者と共に生きること」を選ぶ。私はそれを美しい意志だと思う。なぜなら、「自分という存在」という不安を抱えながら、それを他者という「自分にはままならない存在」と共に生きることに賭けるその行為は、破滅を願うより、より困難な方へと賭けることだからだ。そして困難な賭けであるからこそ、そこには「愛」が生まれるのだ。

仲村さんが「二度と来るなよ。ふつうにんげん」と言うが、それはたぶん悪い意味ではない。生(そして愛)という困難へと賭けることができた春日への、「二人で生きてみせろ」という彼女からのエールだ。そしてたぶん春日は、もう仲村さんに会いにいこうとはしないだろう。なぜなら春日は、もはや仲村さんの幻影(つまり「破滅しきれなかった自分」)から解放され、自分の力で常盤さんと生きていくことができるのだから。

そして最終話、物語は仲村さんの視点で物語はじめへと円環する。ここでこの『惡の華』は春日の物語ではなく、「仲村さんが救われるための」物語になって幕を閉じようとする。春日は「他者と生きることに」、つまり愛を紡いで生きることに賭けた。仲村さんも春日のように愛を紡いで「ふつうにんげん」になることができるのだろうか。…きっと彼女も「ふつうにんげん」になれるだろう。あのとき海辺で全力で戯れた3人の笑顔からは、きっと彼女も誰かと共に生を選び取る人間になるだろうという予感をさせるのだ。   <了>

 

本日のマンガ名言:二度と来るなよ。ふつうにんげん

 

押見修造『惡の華』中学生編(1~6巻)を読む ~クソムシたちのプラトニックロマンス

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 今回は押見修造惡の華』。

「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。」

最終巻のあとがきに書かれた作者の言葉通り、「かつて思春期に苛まれた少年」であった私は、この作品について言いたいことがある…と言いたいところだが実はもうそれほどない。もう大方の事は(私以外の人によって)言い尽くされてしまったからである。*1

この作品には、それくらい読者たちに「これは俺だ」と惹きつける力があったのではないかと思っている。

 

この作品のあらすじを知らない方は、まずアニメ版『惡の華』のあらすじを見ていただくとして(原作の中盤、「中学生編」まで対応している)*2

【ネタバレ注意】画像でわかる!アニメ『惡の華』の内容【全13話】 - NAVER まとめ

blog 141 惡の華 第13話 (最終話) 感想

 原作のあらすじを「中学生編」までかいつまんで述べる。

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 ボードレールの詩集『悪の華』を読んでいることを自らのアイデンティティにしている自意識過剰な中学生・春日。彼はクラスの美少女・佐伯さんに対し密かに想いを寄せていた。

春日の席の後ろには、教師に対し平然と「クソムシが」と罵声を浴びせるクラスで浮いた女子仲村さんがいる。

ある日、春日は偶発的に佐伯さんの体操着を盗んでしまう。それを仲村に見られた春日は、彼女から「契約」を持ちかけられる。

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「春日くんはずぶずぶのど変態やろうだから 私にその中身全部剥かれる契約」

 春日は、佐伯さんと付き合うことになる。しかしその裏では常に仲村が春日が「変態であること」を(春日に)暴き出すために糸を引いていた。

春日と仲村さんの破滅的な契約がエスカレートするにつれて、佐伯さんは自分の体操着を盗んだのが春日であると気づく。しかし「初めて、本当の自分を知ってくれた」春日の事は好きなままだ、仲村さんしか知らない本当のことを話してほしい、と言う。

 一方、春日は自分の「空っぽさ」に直面し、仲村さんが抱える孤独と過剰な鬱屈・苛立ちに満ちた内面に魅せられる。あるとき春日は仲村さんのノートを見る。そこには仲村さんが「自分と同類の変態」である春日を発見した喜び、春日との破滅を含んだ「契約」の充実した気分、しかしそれでも「<ここではない向こう側>には行けなかった」という絶望の言葉が書かれていた。春日は決意する。

「仲村さん、今度は僕と契約しよう… このクソムシの海から、這い出す契約を…!」

 春日は水泳の授業中にクラスの女子全員の下着を盗み出し、河川敷の林の中に秘密基地を作った。仲村さんを招く。「仲村さん、ここだけは、この町の中の<向こう側>なんだ」

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この町で唯一人が多く集まる夏祭りで、何かしでかそうとたくらむ二人。ーーその時、佐伯さんは春日と仲村の後をつけ、この秘密基地を突き止めていた。

 次の日。佐伯さんは春日を秘密基地に呼び出す。「春日君の大切なものが燃えてるよ」と。春日が行くと、そこにいた佐伯さんは下着姿だった。「春日君 わたしとしよう」

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拒絶する春日。「こんなの佐伯さんじゃない!」。しかし佐伯さんは無理やり春日を犯すーー。

逃げる春日。振り返ると秘密基地は燃えている。佐伯さんが火をつけたのだ。 そこへ仲村さんが来る。佐伯さんは仲村さんを挑発するが、仲村さんは動じない。戸惑う佐伯は漏らした。「どうして!どうして私は仲村さんじゃないの!?」。仲村は「やっと吐き出したね」「でもお前の中身は蠅よりただれてるよ」

(※ここまでのさらに詳しいあらすじはこちら ジョニログ : 悪の華 -あらすじ-

 この放火事件により、春日たちの「契約」は白日のもとに晒された。春日は警察で取り調べを受けたのち、外出禁止を言い渡される。しかし春日は仲村の元へと行く。

仲村は初めて涙を見せて言う。「向こう側なんて無い こっち側もない 何もない。クソムシも変態もない。もう…何も無い」「どこへいっても 私は消えてくれないから

そして二人は決心するのだった。

「春日君…明日捨てようか これからの人生すべて」

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この作品は、作者インタビューによると、連載前の編集者との打ち合わせで「古谷実谷崎潤一郎ぽいの」というテーマで連載することが決まったらしい。少年誌ながらある程度、読者年齢層を高めに設定したようだ。

創刊編集長の朴鐘顕さんにお会いしたときに引き合いに出されたのが、谷崎潤一郎とか『ヒミズ』でしたから。

拙ブログでも古谷実シガテラはとりあげた。(古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

惡の華』の主題も『シガテラ』と同じく、「肥大化した自意識を持つ主人公が、灰色の日常を生きる」である。ただし『惡の華』がシガテラの主人公・荻野と決定的に違うのは、彼がなんとか「日常を生ききる」のに対し、『惡の華』の彼ら(春日だけではない。仲村・佐伯さんの3人だ)は「日常を生ききれずに破滅へと向かう」ことだ。

「日常を生ききれずに破滅へと向かう」作品は、特に珍しいものでもない。

有名なところでは、岡崎京子リバーズ・エッジ』(93年)では「『平坦な戦場』と例えられた<終わりなき日常>の中で、川岸で見つけた死体を眺めているときにしか、<生>を実感することができない」閉塞感が描かれている。(ラストにはある登場人物の破滅がある)

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

惡の華』では、「<田舎の日常>という閉塞感」というよりも、「その閉塞感ゆえの<自意識の肥大化>」が物語のテーマになっている。

二人のファム・ファタルとプラトニックロマンス

悪の華を読んでいる特別な自分」であることを自尊心としている春日にとって、彼の恋愛観が「プラトニック(精神的な結合)」であることは当然だろう。佐伯さんに告白するときも「僕とプラトニックなおつきあいをしましょう!」だった。もちろん春日が佐伯さんの体操服に欲情してしまうことからも彼に肉欲はあるのだけど(笑)、「プラトニックラブから始まらなければ、特別な存在である<僕と彼女>には相応しくない」という考えだ。まぁ、思春期なんて誰でもそんなもんで、「初恋の相手じゃなくてもセックスさせてくれれば初めて付き合う女性は誰でもいい!」なんて少年はあまりいないと思う。(もちろんセックスは少年にとって魔物なので一概にそうとも言えないのだが、この話は脇に置いておく 笑)

そして春日は佐伯さんのことを「オレの詩神(ミューズ)、運命の女(ファム・ファタール)」と呼び、理想化する。

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 佐伯さんは(のちに告白するように)常に<優等生を演じている>人間だった。彼女が春日(含むクラスメイト)から理想の少女に思われるのは、彼女が意識的に(そして無自覚に)演技しているからだ。

佐伯さんは始め「春日君が初めて本当の私を理解してくれた」と言うが、それは春日が「生身の佐伯さんと向き合いたくなかった」と告白するように佐伯さんの勘違いで、春日が見ていた佐伯さん像は終始「春日によって理想化された」<演技されたミューズ>でしかなかった。

一方の仲村さん。彼女は、つまらない世間に迎合している奴ら全ては「クソムシ」だとみなして拒絶している。ドロドロの欲望を隠した普通の人々が演じる<無味乾燥な平穏な日常>という芝居に耐えられない…誰よりも<純粋な>存在ーー彼女の言葉で言うなら純粋さゆえの「変態」だ。

ファム・ファタル」とは運命の女であるがーーそれは男を惑わし破滅へ導く女のことである。直接的に春日を破滅に導く女は仲村さんであり、彼女がファム・ファタルであることは間違いない。

しかし…佐伯さんの本性、<演技されたミューズ>でありながらそうでない部分の彼女もまたファム・ファタルであり、春日を破滅に導こうとした。「私として」「見てよ…触ってよ…私は人間なの!」と春日に迫ることによって。潔癖な春日に、彼女のドロドロとした欲望をみせつけた。佐伯さんは聖女から誘う女、淫婦へと変容する。

それに対しての仲村さんは非常に冷徹だ。「お前の中身は蠅よりただれてる」と彼女(佐伯)の「変態さ」を指摘しながら、それでも「お前になんかわかってたまるか」と、彼女に<純粋さ(=嫌悪すべき日常に迎合することに、嫌悪すること)>が欠けていることまで指摘する。聖女から淫婦へと変容したファム・ファタル佐伯さんとは対象的に、仲村さんは、悪女として登場しながらも<終始純粋な>ファム・ファタルだ。

放火事件後、もはや<向こう側>も「変態」も何もなくなった3人。春日は、<純粋な>ファム・ファタル仲村さんについて行くことを決める。仲村さんはもはや「クソムシも変態もない。何も無い」人間となった。そこで春日が選ぶのは、「クソムシも何もない」空っぽな者同士だからこそ共感しあう、最もプラトニックな関係であり破滅への決断ーーつまり『ロミオとジュリエット』が叶わぬ恋の末心中で幕を閉じるような、究極のロマンスだーーだった。

仲村さんと春日の間に、恋愛感情は最後までなかった。そこにあるのは、当初春日が佐伯さんとの間に望んだようなプラトニックラブではない。春日が選びとるのは、仲村さんと共に破滅へ向かうという<二人のつながり>…それはまぎれもなく究極のプラトニックロマンスなのだ       <了>

 

高校生編は次回書きます

 ※書きました 押見修造惡の華』高校生編(7~11巻)を読む  ~破滅よりも、生きることに賭ける

本日のマンガ名言:黙れ クソムシ(仲村さんから春日へ)

*1:感想記事は数多いが、『惡の華』のおしまいによせて - ホンダナノスキマが特に面白いか

*2:アニメ2期(高校生編)は、ロトスコープでの制作が大変だったため、断念したそうだ。残念!

よしながふみ『愛すべき娘たち』を読む ~不完全な女たちと、愛すべき彼女たち

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 よしながふみの、女性(娘)をテーマにした連作短編集『愛すべき娘たち』

この漫画はよしながふみの数ある作品の中ではマイナーな部類だろうと思う。私はブコフの百円コーナーでたまたまみつけて買った。初見だった。

ネット上にあまりレビューはないだろう…と思ったが、そこそこの数があるようだ。*1

 

この作品は、ある一人の独身女性・雪子を軸に、母娘(雪子とその母)の物語に始まり、2話以降は雪子の友人女性たちの物語へと移り、最終話で雪子の母と祖母の物語、つまりまた「母娘の物語」に遡(さかのぼ)り還って終わる構造をもつ。

各話のあらすじはこちら 愛すべき娘たち  にゆずるとして、第1話と最終話をレビューしてみたい。

~~~~~

第1話

雪子の母・麻里は気が強い。高校時代、片づけをしない雪子の私物を母は捨てようとする。雪子が「そういうのって八当たり」と言うと「そうよ、八当たりよ悪い?」「親だって人間だもの、機嫌の悪いときぐらいあるわよ!」と返してくるような母だった。

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そんな母が病気して快復して以降、気が弱くなったのか、年下の男と再婚する(というか、もうした)と言い出す。相手は雪子より年下の時代劇俳優志望の男・健だった。

絶対に母はその男に騙されているという雪子だったが、どうやら健は本当に母(麻里)のことが好きなようだ。健は若いときの麻里の写真を見て「きれいだ」と言う。雪子は、私も綺麗な母だと思っているが、本人は自分の顔が好きではない、小さいころ親から「出っ歯だ」と言われて育ったそうだから、と。

今まで母と健に強い態度をとっていた雪子は、健と母が仲良くしている場面をみて決意する。「私家から出ていくわ。今まで黙っていたけど職場の同僚とつきあっていたの」

荷物をまとめる雪子は健に胸の内を明ける。「ずっと私だけのお母さんだったのよ」

「ごめんね、でも本当に好きになっちゃったから」「わかってるわよ、だから私も出ていくの」 …それを見た麻里は、ひとり涙をこらえる雪子の背中に寄り添うのだった。

 

1話は<「母の人生」と「自分の人生」が分離されることで、娘は今まで自覚してなかった、「自分の中の母の存在の大きさ」に気づく>という話。

そして最終話では「この母あり」に至るまでの、業、あるいは因縁が描かれ、この母娘の人生の、ある種の謎解きになる。

 

 最終話

実家の葬式。雪子の母親麻里は、祖母(つまり麻里の母)と仲が悪い。陰で「実の親でも、あのばあさんが死んでも泣かないわ」と言う。

麻里は母から「出っ歯だ、顔がニキビだらけ」と言われ続けながら育ったからだった。

回想。子供時代の麻里。弟の方が悪いのに、母は自分だけを叱る。弟ばかり贔屓してと言うと母は「あなたの為を思って叱るのよ」と泣く。そのとき麻里は思う。「私が親になったとき、私もきっと完璧な親じゃない。八当たりで怒ることもあるだろう。でもそのとき『あなたの為を思って』なんて嘘はつかないんだ

話は現代に戻る。麻里は母を反面教師にして、娘の容姿について無神経な事を言って傷つけまいとしてきたと語る。

雪子は祖母の家に行く。家にある母の少女時代の写真を見ると、それは可愛い少女だった。なのになぜ祖母は自分の娘に対し、容姿の欠点ばかりあげつらっていたのか?

雪子は祖母に問う。祖母は顔をゆがめて答えた。

ーー祖母には若い頃、容姿のよさを鼻にかけ平然と人を傷つける同級生がいた。その同級生のことなど忘れていたが、自分の容姿がいいと気づいた娘麻里の振る舞いを見たとき、娘がその同級生と重なった…。

「私これ以上この子ちやほやされたらこの子は駄目になると思ったの。麻里のことをあの人のような人間にしてはいけないと思ったの!」

それ以来、娘の顔はわざと褒めないようにしてきた…と。

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雪子は悟る。 母というものは要するに 一人の不完全な女の事なんだ……

雪子は母の家に戻り、健にそのことを話した。健は言う、彼女もそれはわかっているだろう、だがそれで彼女のコンプレックスがなくなるわけじゃない。親を好きになれなかったのは不幸だけど、僕は彼女を愛している、と。

帰宅した母に雪子は言う。「私はお母さんが死んだら、お葬式ではうんと泣くからね」

~~~~~

「不完全な母と不完全な娘、そしてまたその娘が不完全な母となる…」この因縁を雪子が悟る場面は圧巻だ。

雪子は、第1話から見るに「母の不完全さ」を理解していたはずだ。しかし祖母に「不完全さ」をみたことで初めてそれを言語化することができた。

「母とは不完全な女だ。だからつまり女とは不完全な存在なのだ」と。もちろん雪子は、自分自身も「不完全な女」だと気づいているだろう。

 

ここでこの連作を最初から読んできた読者は思うはずだ。今まで各話ごとに主人公(語り手)の女たちは変わってきた。雪子が一人称視点の話は最初と最後のみで、他は皆ある種の不器用さを抱えながら生きてきた女たち。サンドイッチのような構成になっている。

読者はこの最終話を読むことで、これは最初から最後まで「不完全な女」という一本の串によって連ねられた連作物語なのだ、と理解することができる。

そして同時に思うだろう。「不完全な女たち」なのは物語中の彼女たちだけでなく、もちろん読者我々自身のことでもあるのだと。

 

『愛すべき娘たち』は「不完全な女たち」の物語ーー不完全な者が不完全さ故に間違いを犯したり悲しくなったり、…でもそれでも前に進んでみようとする話だ。

そして彼女たちがそれでいて(不完全な存在でありながら)<愛すべき娘たち>である所以は、我々も同じく不完全であるからこそ、彼女たちを愛おしく思わずにはいられないからなのだ。

 最終話ラスト、雪子が母に「私はお葬式で泣くからね」と言うシーンは、静かな描写ながら感動的である。自らの不完全さを弁えた雪子が、「不完全な母<であるがゆえに>愛しているのだ」と初めて言語化するからだ。

『愛すべき娘たち』という作品は、不完全な存在である我々が、不完全な彼女たちを愛おしく感じるのと同時に、不完全な彼女たちから、不完全な我々へエールを送ってくれる…そんな作品なのだ。  <了>

 

本日のマンガ名言:母というものは要するに 一人の不完全な女の事なんだ

追記:よしながふみ論は、夏目房之介『マンガは今どうなっておるのか?』に載っている。『愛すべき娘たち』も少しながら言及され、「今のマンガは面白くない」という人がいるなら、とりあえずこれを読んでほしい。と絶賛している。

マンガは今どうなっておるのか?

マンガは今どうなっておるのか?

 

 

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ in バレンタイン

www.france10.tv

に行くために久しぶりに下北沢へ。

講演会は午後七時からなのでそれまで渋谷。バレンタインデーのため街頭にはチョコレートの仮装(アポロやなんとかチョコの箱ね)をしたギブミーチョコレート野郎達がちらほらいて、それがごちゃごちゃしたシブヤの風景に馴染んでいてよい。

 

時間になったので下北へ。

会場について、用を足してトイレの個室から出ると、出会い頭に宮台が。宮台の著作はほぼ読んでいるがナマ本人をみるのは初。便所でみるのが初対面になるとは。どうでもいいけどさ。

会場は80人満員。8~9割男。大学生が多いのかな?まぁ平均30歳前とかそんなもんだろう。

宮台自身は女の子相手にした方が議論の実りが多いと思っているはずだが、実存に不安を抱える(?)宮台信者が今日の講演の相手だ。

 

で、肝心の講演内容、筆記具を忘れたのでメモとれず(おい)、誰か別の人がまとめてくれるのに期待して覚えてることだけ。

  前半部は「サヨフェミはクソ」。二村さんは「映画『マッドマックス』をやおいで読み解く(と楽しい)」なる文を書いたら、

【ELLE】【第19回】婚活女性も専業主婦もキャリアウーマンも必見! 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』|エル・オンライン

それがサヨフェミの逆鱗に触れたらしく、炎上したらしい。

宮台が「サヨフェミは社会がよくなれば性愛もよくなる(つまり幸せになれる)と信じているがそれは馬鹿。性愛の眩暈は言語領域(=社会)以前のプリミティブ(原始的)な領域だから」とサヨフェミのクソさを述べる。

まぁ「性愛は社会領域ではない」のは自明だし、宮台も著作に書いてたはずだし、私自身サヨフェミになんら興味ないので割愛。

 

 後半は、「社会と性愛は両立しえないのではないか」という問題。バクシーシ山下のAVはそのテーマが顕著だった。(詳しくない人は、どうみても実際のレイプにみえる「女犯」シリーズでググって。当時宮台は早い段階で、バクシーシを評価していた。そんでフェミから叩かれたらしい)

私も女優にしてください (¥800本 14)

私も女優にしてください (¥800本 14)

 

 また、ヴァンパイア映画「ポゼッション」(81)を引用し

(参考 ポゼッション(1981) のあらすじ ポゼッション(1981)|とし1のあらすじ)04の気ままに映画プログ2   )

ポゼッション デジタルニューマスター版

ポゼッション デジタルニューマスター版

 

社会とは<言語によって>成り立っているが、本来人間は(一万年前に)社会成立以前からもっている「非言語的な部分」が内蔵されている。

社会は、社会を成立(維持)させるために、その部分を人の中に押し込めているが、まれにそれを放出させてしまう人がいる。それが<ヴァンパイア>の寓話。

ヴァンパイア性は人間に備わっているが、それは社会によって抑圧されている。ヴァンパイア性を露出させた人間は、社会を営むのに不適合なので社会から排除される。

ベッキー不倫騒動、宮崎議員不倫騒動があれだけ炎上したのも、「社会性を帯びた」人々が、自分の中に(無自覚に)存在するヴァンパイア性を見せつけられたから、それによる過剰反応。

 

二村ヒトシがいう。「<斎藤環が述べてたラカン>を自分流に解釈すると、

人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。

満員電車に乗る『神経症』(=社会に適応した奴)は、ガマンして生きてるから苦しむ。裸で乗ってしまう『精神病』は社会から排除されてしまう(これが<ヴァンパイア>である)。最後の『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ」

 (詳しくは二村ヒトシの文 変態であること(3) 次の恋愛のための12のメモ   )

宮台が「社会はクソだから適合してはいけない。常に適合したフリしかない」とフォロー。近著『社会という荒野を生きる』でも書いてたね

社会という荒野を生きる。

社会という荒野を生きる。

 

 参加者の質疑応答

「私童貞なんですけど」という質問?に対しては、

くらもちふさこ『 海の天辺』や紡木たくホットロード』の少女漫画読んで、女の子が望んでる(かつ実際にはありえないと感じている、複雑な人間関係におけるロマンチズム)性愛を知れ」 (これも宮台は多くの著作に書いてる。少女漫画の極北という評価みたいだ)と、また

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

 
ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

 

「現代はホモソーシャル的なコミュニティ(先輩たちに風俗つれてってもらうとか)がないから、それに類する人間関係(メンター)を努力して作るしかない」

他の質問に、二村が

「身体性は大事。みんな運動はしたほうがいい。男は括約筋を鍛えろ、肛門閉める訓練を」と。

他の質問者で私の隣の人…自己紹介でAV男優の森林原人氏だった。今まで気づかんかった(笑)

最後の質問の〆で印象的だったのが、宮台

「メンヘラに関わるのは時間の無駄。実りがない。数々のメンヘラを相手にしてきた私が言うのだから間違いない(笑)」

「ヴァンパイア的な人間と一度付き合うと、相手は『もうこの人以外とつきあいたくはない』と交換不可能性を得られる。ヴァンパイア的に光ってる人間が少ない(劣化した)現代だからこそ、ヴァンパイア的になった人間は強い」とのこと。

別の参加者のツイートから引用するが、

 がまとめになるだろう。  この記事が誰かの性愛の糧・知恵になれば幸いだ。

あと、これは記憶(と検索)だけを頼りに書いたので、細部間違いがあるでしょうけど、他の参加者で気づいた方がいたら補足・訂正してください

 

本日の名言:括約筋鍛えろ!肛門閉める訓練 を

追記 去年の『男女素敵化』講演会 ようつべにあった


宮台真司×二村ヒトシ講演会「希望の恋愛学を語る~男女素敵化計画」2014 02 14

さらに追記 公式が記事にしてました

「女性の解放された性欲を、男性が受けとめるのは美しい」宮台真司×二村ヒトシが語る、本来の性の姿 - ウートピ

古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

シガテラ コミック 全6巻 完結セット (ヤンマガKC (1361))
 

今回紹介するのは、古谷実シガテラ』。古谷実の商業誌連載第5作目であり、

「笑いの時代は終わりました…。これより、不道徳の時間を始めます」のキャッチコピーと共に、これまでのギャグ路線からサスペンスホラー日常ものへと大きく作風を転換させた傑作ヒミズの次に描かれた作品。

新装版 ヒミズ 上 (KCデラックス ヤングマガジン)

新装版 ヒミズ 上 (KCデラックス ヤングマガジン)

 

シガテラとは、毒素に汚染された魚を摂取することで発生する食中毒のこと。 『シガテラ』のキャッチコピー「青春17遁走曲(フーガ)」、遁走曲(主旋律を後続の旋律が追いかけていく)のごとく、主人公の日常に、毒に汚染されたかのような非日常の影が、次々と追いかけてきて絡み合っていく。

 『シガテラ』を一読しての感想は「『ヒミズ』よりはわかりやすい」だった(だって『ヒミズ』ってわかりにくいんだもん 苦笑)

この漫画今友人に貸していて手元にないので、記憶をもとに書く。細部は間違っているかもしれないが(おい)、『シガテラ』の主軸となるあらすじはこう

~~~~~

 平凡な高校生荻野の日常は、学校で同学年の谷脇にいじめられている。そんな現実から逃れるように、同じくいじめられている友人高井とバイクの免許を取ろうとする。教習所で知り合った一つ年上の女子高校生南雲さんと知り合い、付き合うことになる。しかし、とても可愛く頭がいい南雲さんと自分が不釣合いでは無いかと不安を抱く。

そんな中、高井は学校を辞めてしまう。親の事業が失敗したらしい。高井は荻野との別れ際「俺がいじめられてたのは、そもそもお前が谷脇に俺を紹介したからじゃないのか?」という。

 荻野はなぜかあっさりといじめから解放される。プライベートでは南雲さんと初セックスする。

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 高井は「森の狼」と名乗る頭のイカレた男とつきあっていた。谷脇に復讐したいと依頼したのだ。森の狼は谷脇を拉致、両耳を削ぐなどの拷問を行う。高井は良心の呵責から恐ろしくなって、森の狼に内緒で谷脇を解放した。

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 谷脇は学校を辞める。荻野に平穏な日常が訪れた。荻野はクラスの斉藤と仲良くなる。斉藤は萩野がなくした携帯を拾い、そこに保存されていた南雲さんのアソコの画像を見てしまう。南雲さんが頭から離れない斉藤、なりゆきで友人と南雲さんを強姦しようとするが未遂に終わる。酔って眠っていた南雲さんはそれに気づかなかったが…。

 南雲さんは一流の大学に進学、荻野は将来の不安を抱え、果たして自分は南雲さんを幸せにできるかと言う不安に包まれる。自分の夢は…本当はバイクのレーサーになりたいが、それは無理だろう。ならば大学に入って会社に入って、南雲さんと結婚してマイホームのローンを組んで、消耗しながら働く日々を過ごし、定年したときに「俺は消耗しきったぞ!」と言えるようなごくごく普通の生活を手に入れたいと言う。

 しかし 荻野は再び…「毒のような非日常」にまた飲まれる。

 荻野と谷脇が再会する。どうやら谷脇はヤクザの下っ端になったらしい。「ビビった彼女に、拳銃を川に捨てられたから」と、 荻野はなりゆきで谷脇と川で拳銃を探すことになってしまった。そのとき、谷脇はヤクザに拉致られ、荻野も巻き添えを受けて拉致されてしまう。しかしすんでのところで二人は解放されて助かった。

興奮した荻野は叫ぶ「ぜんぶ谷脇のせいだ! おまえが悪いんだ、僕をこんなふうにしたのはおまえだ!」

すると谷脇はこう返す「それはお互い様だろ?」。お前に会わなければ高野にも会わなかったし、俺はこうしてヤクザになることもなかった、と。 

 荻野は気づく。自分は、自分が関わる人を不幸にしているのではないか…

  再び南雲さんとの日常に戻る。しかし自分は南雲さんを幸せにできるのか…僕といると不幸にさせてしまうのではないか… そんな荻野はひとつの決断をする。

「不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」

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  そして荻野はーー大人になった。大学を出て就職した。 

「荻野優介は変わった 大人になって強くなった がんばって 望んでそうなった」「不安定の固まりだった僕はもういない 僕は つまらない奴になった」

南雲さんは妊娠している…しかしそれは、萩野の子ではない。

荻野は別の女性と付き合っている。両親に婚約報告するつもりだ。

萩野は思い出したように、婚約者の女性に、バイクをーーかつて高校生の時に憧れていたヤツだーー買いたいと懇願する。そして最後、彼女に「愛してるよ」と言って物語は終わる。

~~~~~

 この作品は一貫して、「毒に侵された日常を生きる」ことがテーマになっている。

物語の始め、いじめられていた萩野の日常はまさしく「微妙に毒に侵された」ものであった。南雲さんと付き合ってからの日常も表面上は楽しいものであるが、その裏には「僕は彼女と幸せになれるのか?」という不安が必ず付きまとっていた。

とはいえ、翻ってみれば我々の青春も、おそらくはこんなものだっただろう。毎日はとりあえず楽しい(かもしれない)けど根本的には退屈だったし、これからの先の長い人生の不透明さを思っては憂鬱になったはずだ。

これは「思春期特有の自意識」といったものに絡め取られた人間がみる「日常」だ。

シガテラ』ではこのような 日常を「顕在化してないが、実は毒をはらんだもの」として描く。

そしてその日常の裏から「暴力をはらんだ、猛毒を帯びた非日常」が主人公萩野を追いかけくる、という構図になっている。

作品を通して提示された『シガテラ』の背骨は「日常とは顕在化しない毒であり、非日常とは顕在化した猛毒である」ということだ。

ただし注意してほしい。この根幹である「日常、非日常という毒」とは<世界のありよう>である。事実、ありさまのことだ。

その<世界のありよう>を、我々は作品においてそのまま見ることができるかというと、そうではない。なぜなら読者は、萩野の日常描写を、萩野の「自意識」というフィルターを通して読まなければならないからだ。

荻野は、無力感や劣等感を抱えるがゆえに、「思春期的な自意識」から逃れることができない。だから<世界のありよう(=日常、あるいは非日常という毒)>を「思春期的な自意識」によってとらえているのだ。

だから萩野は、無力感や劣等感から来る過剰な自意識があるがゆえに、自分は毒を振りまいて周りの人間を不幸にするのではないかと悩んだ。

これは、<世界のありよう>を理解するのに、「自意識」というフィルターを通して理解しようとしたゆえの悲劇、あるいは誤解だといえる。

たとえ事実として萩野が周りを不幸にさせる一因だったとしても、それが一因でしかない以上、萩野の「自意識」がなければーー「世界は残酷だ」。この一言ですんだであろう。

 つまり『シガテラ』は、表面上は萩野の人間関係とその「自我(自意識)」を描いているが、それに加えて執拗に「萩野を追いかける非日常」を挿入することによって、作品そのものが描こうとしているのは「自我(=萩野の不安定さ)」ではなく、<世界のありよう(=世界は残酷だ)>なのだとわかる構図になっているのだ。

さらにいえば、<世界のありよう>を描きながらその上に萩野の自意識を描くことが、この作品に奥行きを与えている。

萩野は自意識ゆえに悩んだが、また逆に自意識があるからこそ感動的なことに、「不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」と、愛する人を死ぬ気で大切にしたいと、世界で一番美しい勘違いを本気で思うことができた。この場面は思春期的な自意識がなせる、文学的な場面だと思う。

しかしこの作品はここで終わらない。

 

シガテラ』が優秀なのは、そこで終わらずにさらに「思春期的自意識からの転換」が描かれていることだろう。

最終話、萩野は大人になる。萩野は強くなった。強くなろうとして、「思春期的な自意識」を捨てた…それが大人になるために、強くなるために必要だったからだ。

過剰な自意識を捨てた萩野は、強くなった。かわりに「僕はつまらない奴になった」。なぜか。

「自意識」というフィルターをなくしたことで、<世界のありよう>=「世界の残酷さ」が剥き出しになったからだ。「日常」ーー毒に侵されてはいるが、それが顕在化されてないーーという毒の中を生きるということを、曇りのない眼で諦観(たいかん)しなければならなくなったのだ。

簡単にいえば、日常を日常として生きざるをえなくなった…夢や希望を含んだ可能性を、断念しなければならなかった。そして、人生において「失いながら生きる」ということに、耐えなければならなくなったのだ。

だから萩野は大人になった今は、かつてのように「君を超幸せにするぜぇぇぇ!!」と叫ぶことはできない。それは不可能だと理解しているから。

 萩野がこの物語の後にこれから生きていく日常は、どのようなものかはわからない。ごくごく普通の(世間的には)幸せな家庭を築くーーつまり毒が顕在化されてない日常だーーかもしれないし、もしかしたら不意に、暴力的な非日常に晒されることもあるのかもしれない。

それでも彼は、そして我々も、この日常を、この残酷な世界を生きていかなければならない。

それは絶望なのだろうか?ーーあるいはそこに細やかな希望はあるのだろうか? ラストシーンからその答えを出してみたい。

 

萩野は憧れのバイクがほしいと彼女に懇願した。大人になった萩野は、たまにバイクに乗るときにかつての自分を思い出すだろう。「思春期的な自意識」の自分…不安定で弱くて、それでいて純粋だった自分を。

彼が最後に、彼女に「愛している」と言った言葉は、かつて南雲さんに叫んだように恥ずかしいほど熱い言葉ではなかった。ではなかったが、大人になったからこそ、失った者だからこそ言えるその言葉は、地に足のついたーーそして一抹の不安をおびたーー心の底から誠実な「愛してる」なのだ。

「愛してる」と言った萩野が見るのは、絶望を越えた先に光る(絶望の中だからこそ光る)、細やかな希望なのだと私は思う。      <了>

 

本日のマンガ名言:不幸がおとずれる寸前まで 僕は!君を超幸せにするぜぇぇぇ!!

追記

『ヒミズ』『シガテラ』『ヒメアノ~ル』 古谷実 - 作家・長谷川善哉のブログ

シガテラを中心に古谷作品を解説してて面白いです