文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

映画『若おかみは小学生!』論 ~死の側から覗く、おっこの成長物語

累計発行部数300万部を誇る人気児童文学シリーズの映画化である、アニメ映画『若おかみは小学生!』をみた。去年ネットで「この映画は凄い!」「泣けた!」とかなり話題になった作品である。

f:id:akihiko810:20190418190110j:plain

あらすじ。
小学6年生のおっこは交通事故で両親を亡くし、祖母が経営する花の湯温泉の旅館<春の屋>で若おかみ修行をしている。どじでおっちょこちょいのおっこは、旅館に昔から住み着いている幽霊のウリ坊に励まされながら、持ち前の明るさと頑張りで、お客様をもてなしていく…。

評判通り傑作といえる出来だったが、本作は不思議な作品であった。

児童文学らしくおっこの成長譚としてよく作られているが、幽霊の登場によって、物語の最初から最後まで常に「死」が隣に張り付いている奇妙な作品になっている。

「死が隣に張り付いている」、とはどういうことだろう。物語は、両親の事故死から始まる。それに幽霊のウリ坊が峰子(おばあちゃん)を見守り、同じく幽霊の美陽(みよ)が妹の真月(まつき)を見守っている。幽霊が常に登場するのだから、そこに死の匂いがするのはある意味必然なのだが、それだけでは死が登場するという程度で、「死が隣に張り付いている」とまではいえない。

これはやはり、おっこの両親が「夢」としておっこの前に現れること、しかもおっこにとっては現実とシームレス(地続き)に現れるということが大きい。亡き両親の生き生きとした姿が、「はっ、これは夢か……」みたいな描写がないまま、現実と地続きに挿入されるのだ。この描写は、おっこの中では「両親がまだ死んでいない」ことを意味すると思う。唐突すぎる両親の事故死を、おっこは呑み込み切れないまま毎日の生活をしているのだ。

それはおっこが両親の事故死後、ガランとした誰もいないマンションを「行ってきまーす」とさして落ち込みきった様子も見せずに出る場面や、仲居さんが「(両親を亡くして)大変ねぇ…」と泣く傍できょとんとしている場面からも明らかである。おっこは気丈に振舞っているのではなく、自身の状況をうまく呑み込めないのだ。

そんな「両親の死」を呑み込めないおっこだが、ふとしたときに事故のトラウマが噴出してしまう、というのも脚本としてうまい。作中では旅館客のグローリー水領と車で買い物に行ったときに、事故を思い出して過呼吸になっている。おっこには、死が隣に張り付いている。

しかしおっこはおかみの仕事を通し成長することで、その「死」を振り切ることになる。

ラストエピソードで、両親を事故死させた加害者が客としておっこの前に現れ、そこでおっこは初めて「両親が死んだこと」をつきつけられる。その上でおっこは「私は春の屋の若おかみです!」と、自分が「若おかみ」として生きていくことを選び取る。これはおっこの「親離れ」であると同時に、ここに至っておっこは「死」を克服し、「生きる術」を獲得するのだ。

この場面、(夢の中の)両親が「一緒にいられなくてごめんね」とおっこに語りかけるのだが、この場面で我々観客は「亡くなった両親の視点から」おっこの成長をみていることに気付く。つまりこの作品は、「死」が常に隣に張り付いているというだけでなく、観客がおっこの成長を「死の側から」見守っているという構造になっているのだ。

この点が私が本作を「不思議な作品」と評した所以である。

話を戻すと、それと同時に、おっこはウリ坊たち幽霊が見えなくなってくる。通過儀礼(おっこの「死」の克服だ)を終えたおっこは、幽霊たちと別れなければならない。

だが、おっこはこの別れに悲観することはない。おっこはもう、幽霊たちの力がなくとも生きていけるのだから。名残惜しさと共に、ウリ坊の言葉「転生して、きっとまた会えるよ」と共に、おっこが神楽を舞う最中に幽霊たちが消える。そしてそれと同時に物語の幕が閉じる。

 両親の事故で物語の幕が開け、幽霊たちの消失で物語の幕が下がる。物語は「死」で始まり、「死の克服」で終わるのだ。そして大事なことだが、これだけ「死」が物語の通底にあるにもかかわらず、この作品はギリギリのところで暗くはならない。おっこというキャラクターの明るさが全編にわたって出ているので、子供にもうける「明るい児童作品」になっているのが稀有なところであり、この作品の魅力なのである。

児童向けの作品でありながら、「死と成長」を真正面から(あまつさえ、死の側から!)描き、なおかつ魅力的なキャラクターを登場させ児童向けエンターテイメント作品として成立させたのが『若おかみ』であり、傑作と評される理由だろう。

この映画を観た後には児童小説版も読んでみたくなり、またおっこに会いたいと思わせてくれる、すぐれた作品であることは間違いない。 <了>