文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』を読む ~「正しくない」からこそ「正しい」、私たちの弱さ

フラワー・オブ・ライフ』(全4巻)、今や大御所とも言ってもいい、よしながふみ少女コミックだ。

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

 

4巻のラストを考察してみたい。4巻ラストのあらすじ。

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高校生・花園春太郎は、同級生の三国とプロの漫画家になることを目指している。

あるとき春太郎は、姉と口論してしまう。姉は勢い余って、「だって、あんたなんて すぐ死んじゃうかもしれないんだから!!」と春太郎に家族が隠していたことーー春太郎が患っていた白血病は治ったものの、まだ5年以内に再発する可能性があること、骨髄移植した患者の1割が5年以内に死ぬことーーを春太郎にぶちまけてしまう。

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姉は春太郎に今まで嘘をついていたことが重荷だったのだ。

春太郎は自分に嘘をついていた姉(と家族)を許すが、勉強をしているときにふと英和辞書にある例文をみつけてしまう。

He died in the Flower of Life.   彼は人生の花盛りで死んだ。

「10%なんてあんまりだ。普通の人の何十倍も何百倍も死にやすいんじゃないか」

春太郎はショックをうけて泣く。

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 一方、春太郎の同級生の真島(ドS鬼畜眼鏡)は、担任女教師のしげる)とつきあっていた。滋が同僚の教師・小柳と不倫恋愛していたところに割って入ったのだ。

しかし真島は、滋がまた小柳とヨリを戻していたことを知る。

真島「どういうことだ。お前と小柳は今、別れていなければならない」

滋「あたしは生身の男と女なの!よりが戻ることもあるの!人間は本当に好きな人がいたって他の人と寝ることがあるの!」

「あたしはこういう女なの それが嫌だっていうんなら、あんたがあたしを捨てればいいじゃない!」

真島はプライドを傷つけられ、ショックをうける。カッターで滋を切ろうとまで考えるが、春太郎が来てなぜか急に泣き出したので思いとどまる。

 

そして2年生になる始業式の日ーー、滋は「私からきちんと別れを告げよう」と思う。別れるか別れないかを真島に決めさせようなんて、これまで私が小柳にされてきたことと同じだった、と。

春太郎は、同じく漫画を志す三国に、今は言えないが、1割の確率で再発するかもしれない、死ぬかもしれないということを、いつか告げようと思う。

「こうしておれは初めて友達に言えない秘密を持つことになった 高校2年生の春」

 それぞれの Flower of Lifeーー人生の花盛りは、これからも続くのだ。

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この作品の主人公は春太郎だが、4巻のラストは誰が主人公とはいえない、群像劇のようになっている。この場面に限って言えば、春太郎、滋、真島の3人が主人公格といえる。

本稿では、滋(と真島)にしぼって考えてみたい。

滋は、世間一般の価値観に照らしてみれば(この話に限ってみれば)、ダメ人間と言われても仕方あるまい。何せ自分の「男関係のだらしなさ」を棚上げして、真島へ責任を転嫁しているのだから。

しかしたしかにダメ人間であるが、滋が真島に対して言う台詞は、一方で真実でもある。

「あたしはこういう女なの それが嫌だっていうんなら、あんたがあたしを捨てればいいじゃない!」

たしかに捨てればいいだけなのだ。これに関しては滋は正しく、真島は正しくない。

滋のこの言葉は苦し紛れにとっさに出てきた言葉かもしれないが、この言葉によって「正しくない」滋を、「実は正しい」ものへと反転させたのだ。しかしこの「正しさ」はもちろん、見かけ上のまやかしに過ぎない。

一方で、真島は滋の「正しくなさ」を裁こうとするが、滋がとっさにみせた「正しさ」に狼狽し、振り上げた拳を下すことができずに、カッターで切りかかろうなどという蛮行に及ぼうとする。

真島は<正しくない>滋を裁こうとして、逆に自らが裁かれてしまったのだ。

この「正しさ」を振り回したことによる関係性の反転に、文学性があると私は考える。

なぜ真島は滋を裁けなかったのだろうか。それは滋を裁こうとした真島も、滋と同じく「正しくない」人間だったからである。いや、正確に言えば、「自らの正しくなさ」を自覚していない人間だったからである。

真島は何が「正しくなかった」のだろうか。この場合で言えば、真島が常識を過信していた(男女がつきあえば、他の男とはもうつきあわないと思い込んでいた)ことだろうか。いや、もっと言うならば、「正しさ」そのものへの過信が正しくなかったといえるのではないか。

簡単にいえば真島は、人間は、正しくあるにはもろすぎる、ということを知らなかった。人は意図せずして間違えるし、場合によっては意図して間違える(滋の「正しくなさ」は「意図して間違いを選んだ」ことにある)こともある、ということを。

滋が「正しくない」のに「正しい」のは、「自らが正しくない」ということを自覚していた一点にある(滋が自らの正しくなさを自覚していることは、「あたしはこういう女なの」という開き直りの台詞から明らかである)。自身のもろさ、弱さを自覚しているからこそ、ひいては人間のもろさを知っているのだ。

話を春太郎の姉に変える。彼女は弟の春太郎を傷つけた。彼女もつまり弱い人間ーー正しくない人間ーーだったからである。そして春太郎は、そんな姉を許した。「そして分かったんだ ねーちゃんが今までどんなに辛かったか きっと俺がねーちゃんだったら、とっくに我慢できずに俺にホントの事を言っていただろう」という言葉と共に。春太郎も自らの弱さ、正しくなさを自覚する人間だったから、許す(赦す)ことができたのだ。

人は「正しさ」よりむしろ、「正しくなさ」で成り立っている。そして「正しくない」ことを自覚してこそ「正しい」ふるまいができるようになるのではないだろうか。

フラワー・オブ・ライフ』の4巻のこの場面は、人の弱さ(正しくなさ)を正しく描いた名シーンだと私は思う。 <了>

 

本日のマンガ名言:

あたしは生身の男と女なの!よりが戻ることもあるの!人間は本当に好きな人がいたって他の人と寝ることがあるの!