文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

夏目漱石『彼岸過迄』 ~近代的自意識に苦悩する男と、現実を生きる女

漱石は私の好きな作家だ。

漱石作品は基本的に新聞連載小説であるため、次の頁を早くめくりたくなるような話の展開なのがいい。漱石は、人間模様や会話もかなり上手い。

何より作品のテーマが「近代自意識という悩みと、それ以上に現実である女性関係」なのも好みである。

「理想は高いが、現実は陳腐」

「自意識ばかりで現実を生きてない男よりも、現実を生きる女の方が上手(うわて)」

これが漱石作品に通底する主題だと思う。

さて、漱石作品ではおそらくマイナーながら、面白い作品だったので紹介したい。

彼岸過迄

彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

後期3部作(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)の第1作であり、1年半前に「修善寺の大患」といわれる大病で死にかけて以来の復帰作。

明治最後の年(1912年)の元旦から連載され、「彼岸過ぎまで連載する予定」とのことでこの題名がつけられたが、実際の連載は4月いっぱいであった。(全然彼岸に届いてないよ!)

小説の構成は「いくつかの短編小説が連なって長編小説を構成する」という珍奇なもの。

基本的には「主人公・田川敬太郎が、幾人もの人から話を聞く」という筋。  章によって、語り手が敬太郎から他の人物に変わる。

話の筋はウィキペに譲るとして、 

彼岸過迄 - Wikipedia

おおまかな登場人物だけ紹介したい。

 

田川敬太郎 :

主人公。大学卒業後就職できず、働き口を斡旋してくれる人を探している。

世間知らずのロマンチストで、「探偵みたいな冒険の仕事に就いてみたい」などと夢想している。

仕事の口を紹介してもらいに行ったら、「駅にいるある人を尾行する」という探偵仕事を頼まれる。この尾行場面を書いた章「停留所」は、ミステリー小説のようにぐいぐい読ませてかなり面白い。

須永市蔵 :

敬太郎の大学の友人。物語後半部の実質的主人公。「近代的自我」に悩む漱石が、自身を投影した人物。章「須永の話」では、敬太郎に自身の恋愛話を語る。

幼馴染で親戚の千代子とは、母が許婚(いいなずけ)と決めた間柄である。千代子も須永に好意を寄せてはいる。しかし須永は千代子を嫁に貰うつもりはなく、千代子から逃げている。「恐れない女」である千代子に、「恐れる男」である僕は恐れているのだ、などと、「自我をこじらせた」自身の苦悩と自己弁護を延々と、延々と述べる。

しかも千代子に別の婚約者候補ができると、その男と千代子に腹の底で烈火のごとく嫉妬する(笑)

松本 :

須永の親戚。高等遊民。敬太郎が探偵したのはこの男だった。

「雨の降る日」では、雨の日に幼き娘が病気で突然死んだ、という、実際に漱石の娘が急死した体験を元にした話をする。

最終章「松本の話」では、以前須永が「何故僕が、こんな僻みの性格なのだか教えてくれ」と涙ながらに言うので、実は、須永は母の実子ではないということを明かしたと言う。母が千代子と結婚させたいのは、(千代子は親戚なので)須永と血縁ができるからだ、と。

ここで読者には、須永が千代子との婚姻を拒む理由は、「恋愛より先に血縁で決められた関係」だから、そこに「魂の恋愛」がないと須永が思っているからだ、と暗示される。

 

印象的な台詞をいくつか

あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです(27P)

この間僕の伴れていた若い女は高等淫売だって、僕自身がそう保証したと云って呉れたまえ (186P 高等遊民松本が、千代子の父に対して)

僕は常に考えている。「純粋な感情ほど美くしいものはない。 美くしいものほど強いものはない」と。 強いものが恐れないのは当り前である。 僕がもし千代子を妻にするとしたら、 妻の眼から出る強烈な光に堪たえられないだろう。 その光は必ずしも怒りを示すとは限らない。 情けの光でも、愛の光でも、 もしくは渇仰の光でも同じ事である。 僕はきっとその光のために射すくめられるにきまっている。 それと同程度あるいはより以上の輝くものを、 返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。  (252P 須永)

「何故愛してもいず、細君にもしようと思ってない妾(あたし)に対して…」「何故嫉妬なさるんです」  (324P 千代子)

あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡さえあなたはすでに疑ぐっていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたはひとの招待に応じておきながら、なぜ平生のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻いたも同じ事です。あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」

「侮辱を与えた覚はない」

「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」  (325P 千代子)

須永が最後、千代子に言いこめられるように、自意識に悩む男より、現実を生きる女の方が強い。そしてそれ故にすれ違うのである。

彼岸過迄』は、漱石作品ではマイナーながら、漱石の「近代自意識」というテーマが前面に出た、日本近代文学史に残る名作だと思う。

そして実写化する際(話が地味だからしないだろうけど)には、「ニートじゃない!高等遊民だ!」(ドラマ『デート〜恋とはどんなものかしら〜』)でお馴染みの長谷川博己を、ぜひ須永役にしてもらいたいものである。

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NHKで漱石役(『漱石の妻』)やってたし適役だと思う(笑)  <了>