ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期
世間から見れば「変態」にみられるであろうおとこの娘・女装男子3人が、さなぎが蝶になるように「変態していく」様にーー己の人生を受け入れる様を描いた物語。
ーーー登場人物とあらすじーーー
主人公は、中学生の女装男子3人。
性同一性障害であり、純粋に女の子になりたい青木裕太 /まりか。
精神を病んだ母親のために、死んだ姉の身代わりになるために姉の女装をする木島亮介 / ユイ。
片思い相手(男)の要望がもとで女装している田村修/ パロウ。幼少期に男からレイプされたトラウマがあり、同性愛者であるようだ。
ネットのオフ会で3人は出会う。
「自分は好きで女装しているわけじゃない…」そういう思いのあるユイ(亮介)は「マジでキモイなお前ら」と辛らつな言葉をぶつける。そしてこの場はお開きになる。
これで3人の関係は終わりかと思ったが…裕太の入学した中学は亮介と同じ中学だった。ここから3人の”おとこの娘”関係が始まる。
もう一度集まり、なぜ自分が女装をするのかを述べる3人。そして鍵っ子のまりか(裕太)の家に集まるようになる。パロウ(田村)はまりかをーー自分のようにドロドロとした感情を持たない彼をーー誘惑し犯す。
亮介はそんなパロウに怒りを感じ殴る。パロウは、亮介に誰かのために怒ることのできる優しさをみて「この人が好きだ」と思う。そしてこのように性に溺れている自分はなんて汚いのだろう、と自己嫌悪している。
まりかは、はじめての相手であったパロウに憧れと恋心を抱く。
裕太(まりか)は学校で、女装に肯定的な中世的な男子、夏目智(トモち)という友人ができる。また、同級生から「オカマだろ」と陰口を言われることもあった。
…そんな中… 裕太はついに変声期を迎える。自分の意志とは関係なく、男になっていく体。
裕太は精神科医に行き、医者にこう告げる。
「わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです」
制服も女性服で通学し、「まりか」として女として生きていく決心をする。
一方亮介は、母親が精神異常であることがつきあっている彼女に知られ、母は亮介と引き離され入院となる。亮介は「今まで自分が母のために女装してきたのは無意味な事だったのか」と悩む。
田村(パロウ)はまりかから告白され、「じゃあその気持ち見せてもらおうじゃないか」と、まりかと性関係をもとうとするが、無垢なまりかを犯すこととかつて自分が男からレイプされたトラウマがダブり、吐いてしまう。
まりかは「パロウさんがかわいそう」と泣く。
自らのトラウマを払拭するために、パロウは自分を女装へと導いた、かつての憧れの人と手をきった。
悩みを抱えたまま久しぶりに学校に復帰する亮介。入院後実家に戻っていた母親が、また倒れたという知らせが入ってきた。一人で田舎に帰ることが出来ず困惑したが、まりかの手助けによって、二人で亮介の田舎に行く。母は病気がよくなっていた。母から始めて承認される亮介。
亮介は、自分が大変なときに支えてくれたまりかのことが好きになったことに気付く。まりかがパロウのことを好きなのは知っていたが、自分のけじめのためにまりかに告白する。
まりかはその告白に答えることができなかったが、「私達3人が出会えて本当に良かったと思っている。あのとき二人と出会ってなかったら、もっと苦しんでいたと思う」と述べる。
亮介は田村(パロウ)の高校に進学し、田村に勉強を教えてもらうようになった。田村はパロウに女装し、「亮介のことを今でも好き」と誘惑する。「こうすることでしか誰からも好きになってもらえない」とパロウは思っている。しかしこれに亮介は、「そうやって閉じこもるのはやめろ。女装しなくても、俺もまりかもお前の事が好きだ」と諭す。
田村(パロウ)の高校の学園祭に行く一同。そこでは女装コンテストが行われていた。それに参加する一同。コンテストではまりかが優勝した。
まりかは「わたしは女装っていうか」と戸惑うが、パロウは言う。
「いいじゃない。 みんなヘンタイで」
そしてそれぞれ皆が大人になっていくのだ。 <完>
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この物語は女装男子「3人の成長物語」であり、「3人の関係性、彼らの実らない恋」を描くラブストーリーでもある。
私は今まで作者のふみふみこが(短編しか書かなかったので)、女性なのか男性なのかよくわからなかったが、この作品を何度か読むことで、「登場人物の関係性に敏感なマンガ」を描くことから、典型的な女性作家なんだなと理解した。(ウィキペによると実際に女性だそうだ)
さて、この話をラブストーリーの部分はすっとばして、彼らの成長の物語ーーつまりさなぎから蝶へと「変態する」話としてみてみたい。
物語の序盤から中盤は、特に裕太(まりか)とパロウの「変態性(変態性欲の方の変態)」が描かれている。
ユイ(亮介)に犯されたいと妄想し、先輩との性関係に溺れていながら、それを汚いと自己嫌悪するパロウ。裕太(まりか)はお姫様ごっこのような妄想一人芝居をしていたが、パロウに性行為を迫られたことがきっかけで、男性としての自慰行為を覚えるようになり、少女趣味の幻想に浸れなくなってしまい苦悩する。
どちらも性的な意味で変態である。思春期に誰もが抱えるであろう「変態さ」を、内に秘めきれずにあふれ出てしまっているといっていい。
しかし物語中盤以降は、そうした変態描写がほとんどなくなってくる。
その転換期はどこだろう。
それは、裕太は「女性として、まりかとして生きる」ことを告白し決めたとき、パロウは自分を女装へと導いた性的関係にある先輩と絶縁すると決めたときである。
彼らは、成長し自ら意思決定することで、つまり「(蝶に変わるように)変態すること」によって、己の変態性に決着をつけるのである。
まりかは女として生きることで、かつての「妄想的で変態的な」裕太の生き方ではなくーー妄想の中だけで「本来の自分である女の子になる」生き方ではなくーー、より本来の自分らしい<現実の女としての>自分を生きることになった。
彼らは生き方を変え「変態する」ことで、今まで生きていた妄想の世界(変態的世界)から、「誰々のことが好き」という現実的な<関係性の世界>へと興味を移すことになる。
しかし、彼らに変態性がなくなったわけでは、おそらくないだろう。
変態性がなくなったのではなく、今までの「あふれ出ていた変態さ」を、コントロールできるようになったのだ。だから「表面上は」彼らは変態ではない。しかしひとたびその皮をむけば、まりかはパロウに犯されることを受け入れたように、パロウはユイ(亮介)を誘惑したように、彼らの中身は変態なのである。
この作品は変態を肯定している。(「いいじゃない。 みんなヘンタイで」)
しかし、剥き出しの変態は、自己嫌悪の形で自身を苦しめ、場合によっては他者を傷つける。裕太が男として自慰をして苦しんだり、パロウがまりかを犯そうとしたように。
だから変態は、自らの内に秘められるように、自らコントロールできるようにしなければいけないのだ。
そして「変態をコントロールできる」ようになったそのときこそ、自身のドロドロとした思春期が終わり、青年への(つまり大人への)入口に入っていくことができるのだ。
つまり、「あふれ出る変態」は<通過儀礼的な思春期>そのものであり、変態が終わった時に思春期もまた終わるのだ。
思春期とは甘酸っぱく輝かしいものではない。もっと煮えたぎっていてドロドロとしていて、自分でも制御できない黒い感情のことである。
そういえば以前、宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポというのに行ったことがある。
AV監督の二村ヒトシは言う。
人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。
『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ。
人は成長し、<クソみたいな>社会の中でそれでも幸せに生きていくには、社会には隠れて変態である必要があるという。変態でない奴はクソみたいな社会に摩耗し潰され、変態剥き出しの奴は、社会を構成し営むのに邪魔なので排除されてしまうからだ。
まりかやパロウら彼らは、剥き出しのドロドロの変態のままでは大人になれないが、その変態性をコントロールできるようになって、初めて大人になれるのだ。
その意味で「変態することで」、変態性をコントロールできるようになることが、大人へとなるための通過儀礼であり、それが思春期の終わりなのだと思う。
ところで、せっかくの思春期なのだから、変態じゃなくてもいいじゃないか、もっとさわやかな青春の方がいいと思う人がいるかもしれない。
変態的な思春期は辛いものだから、そんなものはない方がいいじゃないか、「ドロドロとした変態な思春期を経て」大人になるよりも、「初めから変態でなく」大人になる方がいいじゃないかーーそう思う人がいるかもしれないが、それはきっと違う。
思春期を終わらせることはーードロドロとした自分を受け入れることはーー生きやすさを手に入れるという意味では、ゼロからプラスになるというより、マイナスからゼロになってそこから出発するという感じだ。たしかにそこだけ見ればプラスではない。
しかしその思春期にかつてあった「ドロドロとした変態さ」を、思春期を過ぎて後々になって振り返れば、「あのときは確かに辛かったけど、濃密な味があったな」と思うことができるはずだ。そして必ず「あのときがあったからこそ、今の私は<世界の深さ>を味わうことができるのだ」という、自らの人生の糧になっていることを気づく瞬間がくるはずだ。
私の経験から言うとーーいや、私の経験からだけでなく、他の作家も何人か書いているのでその通りなのだと思うがーー、人が経験から成長できるのは、そしてそれが自身の糧になったと自覚できるのは、辛かった経験、失敗した経験からだけだ。楽しかった経験、成功した経験は、そこには運要素が絡んでくるので何が成功要素だったのか見極めるのが難しく、またそこから自省しようとすることはほとんどない。
「かつての辛かったとき」が人生の糧になるのだ。
だから「明るく楽しい青春」ではなく「ドロドロとした変態的な思春期」を経た彼らは、必ずこれからの人生で「何が幸いなことなのか」「人生はどう生きたらいいのか」という答えをみつけるはずである。
彼らにーーいや「彼女たち」に、幸あらんことを。 <完>
本日のマンガ名言:わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです
追記)変態が思春期を経て、真人間に成長するというマンガでは、押見修造『惡の華』論を以前書いたので、ぜひ読んでみてください。