読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』をみる ~死者に規定された生者たち

マンガ文学論 このマンガを読むのだ

今回はアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。、略称『あの花』。漫画ではなくてアニメだけど、漫画文学論でとりあげる。漫画版もあるしね。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 1 (ジャンプコミックス)

 

『あの花』といえばご存じのとおり、「キャラの名前に下ネタをつけてあなる連呼させるって、岡田麿里(脚本)マジ天才だな」という初見のインパクトで有名であり、さらにくどいほどお涙頂戴に作られた最終回で視聴者をめんまロスにさせたアニメとしても有名である(ってこんな説明でいいのか)。

ところで、なぜ『あの花』をとりあげたかと言うと、前回の記事でヒカルの碁を「死者」をテーマにとりあげたからである。

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに - 文芸的な、あまりに文芸的な

ヒカ碁』は「死者は生者の中に現在する」という事実を、主人公のヒカルが気づく話であった。

『あの花』にも、めんまが幽霊(的存在。実はめんまの正体は花の精霊に生まれ変わった説などがある。この記事では便宜上、幽霊とする)として登場する。そして物語の主人公たちーー超平和バスターズの面々は、過去のめんまの死に際し後悔し、いわば死者に囚われていた。

つまり、『あの花』が描くのは「<自身に内在する死者>によって、<生を規定されてしまった>者たち」というテーマである。彼らは「自身に内在する死者」とどのように向き合うのだろうか。

「死者を心に抱えた生者たち」という観点から、『あの花』における文学性を考察してみたい。

『あの花』は、アニメ版とコミック版では多少の差異があるのだが、コミック版のあらすじを(アニメ版よりもわかりやすいので)解説する。

あらすじ~~~~~~

じんたん、めんま、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽの6人は、小学校時代に互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成して秘密基地に集まって遊ぶ仲間だった。しかし突然のめんまの事故死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、超平和バスターズは空中分解し、それぞれめんまに対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、中学校卒業後の現在では疎遠な関係となっていた。

f:id:akihiko810:20161103180945j:plain

かつてグループのリーダー格であったじんたんは、高校生となりひきこもりになっていた。そんなじんたんの前に、めんまの幽霊(姿は成長してるが、記憶は死んだ当時のまま)が現れた。めんまは「“みんな”じゃないと叶えられないお願いを、叶えて欲しい」と言う。しかし肝心のそのお願いの内容は覚えていない。そしてめんまは、じんたんにしか視えない。

じんたんはめんまの出現に困惑しながらも、めんまの願いを叶えて成仏させるために、超平和バスターズのメンバーと再交流することになった。初めは超平和バスターズの面々には、じんたんにめんまの霊が視えるなどとは当然ながら信じられない話であったが、じんたんの熱意を知るにつれ、皆じんたんの誘いを受けるのだった。

超平和バスターズの面々は、皆少なからず、めんまの死に囚われていた。

ゆきあつは、めんまに告白したがうやむやにされたままめんまが事故死してしまったことに罪悪感を感じ、めんまの姿に女装して深夜徘徊していたことが、皆の前で明らかになる。ぽっぽは、事故の日川で溺れためんまを、恐怖から助けずに、逃げ出してしまったことを後悔していた。あなるはじんたんが好きだったが(そして今も好きだが)、じんたんはめんまの方に好意を寄せており、自分はめんまには敵わないことを自覚していた。あのとき、めんまがいなくなってくれれば自分が一番になれると思ったことを後悔している。じんたんはめんまからの告白をはぐらかして「ブスなんか好きでない」と嘘をついて揶揄してしまった。それがめんまへの最後の言葉になってしまうとも知らずに…。

超平和バスターズの面々は、めんまが生前「ロケット花火を上げて神様に手紙を差し出し、じんたんのお母さんの病気を治してもらうようお願いする」と言っていたことを思い出し、その計画書(といっても子供が書いた妄想だ)をみつけ、めんまの願いが「皆で花火を上げること」だと確信する。

そして皆でめんまを成仏させるために、花火の資金を貯める、めんまの両親を説得して花火を見に来てもらう、打ち上げ花火を作るなどの活動をする。

じんたんは、めんまに成仏してほしいと思うが、それと同時にめんまと別れたくないとも思っている。

そして花火打ち上げの前日。超平和バスターズは決起集会という名目で秘密基地に集まり宴会をする。しかし皆がそこに集まった理由は、別にあった。

つるこの発案によって、じんたんには内緒で、じんたんに「あの日」ーーめんまが亡くなった日ーーを再現、いや、やり直してもらう意図があったのだ。

あなるはあの日と同じく言う。「じんたんってさ…めんまの事好きなんでしょ?」

じんたんは、あの日に言えなかった本音を言う。「好きだ…俺は、めんまが!」じんたんはたまらず逃げ出そうとするが、ぽっぽが「そこで逃げたら同じことになるぞ!」と制して止める。

じんたんは、めんまと別れたくない想いがあふれ、涙が出た。ーーそのときめんまは、何かを思い出したような感じがした……。

じんたんはめんまに「成仏しなくたって、このままここにいればいいじゃないか…」と本音を告げる。しかしめんまは、ちゃんと成仏して生まれ変わって皆に会いたい、と言う。

そして打ち上げ花火の当日。集まる超平和バスターズの面々。めんまの家族。じんたんは、めんまが成仏することを祈りながら…心の底では、別れるのを拒んでいた。

 f:id:akihiko810:20161103031025j:plain

打ち上げ花火が上がる。 …めんまはーーーー消えなかった……。

その夜。超平和バスターズの面々は、めんまが成仏しなかったことは、自分たちが自分勝手な思いでいて、心からめんまの成仏を願ってなかったからだととり乱す。そしてもう一度、めんまの本当の願いを叶えて成仏させようと誓う。

そしてじんたんが家に帰るとーーめんまの姿が消えかけていた

めんまは自分の叶えてほしい願いを思い出したのだ。それは病床のじんたんの母(病気でもう長生きできない)に「あの子は強がってて悲しいときも涙をみせない」と心配されたことから、めんまは「強がりをしているじんたんを、皆で泣かせる」と願ってたのだった。そしてその願いは、じんたんが涙をみせたことによってすでに達成されていたのだ。

めんまを背負って、秘密基地に向かうじんたん。そして秘密基地に集まる超平和バスターズの面々。が、秘密基地に着いた途端、じんたんにもめんまの姿が見えなくなってしまう。

「みんなとちゃんとお別れしなきゃ」と、最後の力を振り絞って、全員にメッセージを書くめんま

 そのメッセージを読む5人。そして「かくれんぼならお前を見つけるまで終わらない」と「もういいかいー!」を連呼する。皆めんまへの感謝と想いのたけを叫ぶ。めんまにもその想いは伝わる。そしてめんまは、もっと皆といたいけど、生まれ変わって皆と会いたいと涙ながらに言う。

めんまにすべての想いと感謝を述べた5人はーー「せーの!めんま、みぃーつけた!!」

めんまは「みつかちゃった…」と言って消える。そのときのめんまは、涙で顔を濡らしながら、笑っていた…。

f:id:akihiko810:20161106180148j:plain

…そして超平和バスターズの面々は、それぞれの日常に戻った。

「俺達は大人になっていく 。だけどあの花はきっとどこかに咲き続けている 。そうだ  俺達はいつまでもずっと  あの花の願いをずっと叶え続けていく――」

~~~~~

めんまが死者となってしまったことで、超平和バスターズの面々は、彼らの<めんまとの関係性>が、無念の残るものとして固定されてしまう。死者によって、生者の生が「規定されてしまった」のである。

<死者と生者の関係性>でやっかいなことは、(当然ながら)生者は死者に働きかけることができないという点である。<生者同士の関係性>ならば、片方が片方に働きかけて得たいものを得ることができる。つまり関係性のその意味を、再生産、再構築することができる。

しかし相手が死者ならばそうはいかない。相手を想起することしかなすすべがない。しかもここが大事な点なのだが、死者の側からは、生者に働きかけてくるのである。行為してくるのではなく(死者は実体がないのだからそれはできない)、いうならば<生者に内在する死者との関係性>が、「想起することを求めてくる」のだ。例え死者を思い出したくなくとも、どうしようもなく想起せざるにはいられないーーそんな感覚である。かつて我々(生者)に愛情や優しさや共感を注いでくれた者ーーつまり「自己の存在」感を与えてくれた他者ーーが死者になってしまえば、もうその他者からは、そういった「意味」を得ることができない。相手が死者になってしまったことで、代わりにその関係性(死者と生者の間にあった意味)だけが残って、懐かしさや未練といった<関係性の残像>を想起せざるを得なくなるのである。

死者は生者に、一方的に強烈な意味をーーしかも固定されてしまい再構築することが困難な意味をーー残すことで、生者の「生」そのものに影響を与える。それはときには、生きる者が影響を与える以上に、死者はその「不在性」故に、強い影響を、与えてくるのだ。

めんまとの関係性>が、未練の残るものとして固定されてしまったことによって、ぽっぽは「めんまの死を助けられなかった自分」を悔いて、高校に通わず世界放浪して「強い自分」になろうとしていた。ゆきあつに至っては、めんまに女装して「めんまと同化」しなければいられないほどに影響を与えられていた。(とはいえ、さすがにゆきあつの話は「アニメという(面白さのための)嘘」だろう。こんな奴現実にいたら変態すぎる 笑)

f:id:akihiko810:20161103031155j:plain

 しかしーーおそらく幸いなことにーーめんまが幽霊として彼らの前に再び現れたことで、彼らはまた新たに<関係性>をやり直す(つまり上書きする)機会を得ることができる。

そのやり直しとして、まずはロケット花火を作って打ち上げるも、結局それではめんまが成仏しない、というシーンがある。私はこれは物語の作りとしてうまく出来ていると思う。本命と思われたロケット花火がめんまの願いではないという描写には、そこには視聴者の読みを裏切る”透かし”の効果があるだけでなく、死者との(つまりは他者との)コミュニケーションの困難さを表す良シーンだろう。

そして最終回、超平和バスターズの面々には思いがけず、彼らの意図にはよらないところでめんまは成仏してしまうが、そこでの「くどいまでに泣かせるかくれんぼのお別れ」が、「死者との決別」(固定化された<死者との関係性>を変化させること)がいかにエネルギーを要することなのかということを、端的に、そして感動的に描いている。

 『あの花』アニメ本編を観た方ならば覚えてると思うが (あらすじを読んだだけではわかりにくいかもしれないが)、最終回、めんまが成仏するお別れのかくれんぼのシーンは、登場人物が皆「視聴者がひくくらい、泣き叫ぶ」シーンになっている。それは脚本の岡田麿理いわく、かつてNHK教育で放送されていた、十代の討論番組真剣10代しゃべり場を意識したからだという。

『あの花』の最終回は、あの伝説的テレビが元ネタ!? | ニコニコニュース

  思春期の少年少女が、こうして自我をぶつけあっているのを見るのは気持ち悪いものだなあって。いろんなものがあまりに未完成すぎて、生っぽすぎて、見ていてイライラして・・・・・・でも、それがすごくイイ(笑)。これだけ人の心をざわつかせられるってホントすごい、いつかアニメで同じようなことをやってみたいと思ったんですよ。

彼らがありったけの熱量で泣き叫ぶ様は、(脚本家の思惑通りに)我々視聴者の胸を打つ。それは彼らの「泣き叫ばずにはいられない」という気持ちが伝わるからだ。

彼らがこうまで泣き叫ばずにいられなかったのは何故か。

もちろん、(幽霊の実態としての)めんまが消失(成仏)するから「悲しくて」泣き叫んだ、というのが一つある。しかしそれだけではない。

彼らにとって、泣き叫ぶことそれ自体が(彼らの中に内在する死者としての)めんまの成仏だったのだ。自分の中のめんまを成仏させるために、<めんまとの関係性>を「未練の残る存在」から「未練は残るけれど、それでも美しい思い出をもつ存在」に変化させるために、彼らは泣いたのである。彼らはこうまで絶叫しないと、彼らの中のめんまーー彼らの心を捕えていた死者ーーを成仏させることはできなかったのだ。

彼らがくどいまでに泣き叫んだのは、それ程までに<彼らの中のめんま>が「決定的に意味を持っていた」からである。

最後の言葉「せーの!めんま、みぃーつけた!!」は、お別れとしてめんまに向けた「弔いの言葉」という意味だけでなく、自身の生を死者に囚われた状態から解放するために、めんまへの想いを「未練の残るものではなく、美しい思い出をもつ存在」に変化させるための、彼ら自身の為の言葉でもあるのだ。それ故にその叫びは、悲痛さを帯びる。この「悲痛さ」も我々視聴者の胸を打つ。

そしてめんまを成仏させ、<めんまとの関係性>を改善させた彼らは、日常にまた戻るーーいや、今までの「死者に囚われた生」から解き放たれた、新しい人生をまた始める。「あの花」がいつまでも心の中に咲いているように、いつまでも心の中にめんまへの想いを抱きながら。

このように、『あの花』は、<生者と死者との関係性>における、死者を想う(受容する)事の困難さと切なさを、真正面からーーつまりくどいまでに熱くなるのを厭わずに、描いた作品である。

そして現実の死者もーー生者にとって大切な人物であるならなおさらーーこのように生者に意味を投げかけてくる。だから人は死者と折り合いをつけるために、死者の弔いを行うのだろう。

ただしアニメではなく現世を生きる我々の前には、すでに死んでしまった死者は現れない。超平和バスターズの彼らとは違って、死者との関係を「やり直す」機会は与えられない。死者が「私」の事をどう思っているのかをきくこともできない。つまり現実には、<死者によって規定されてしまった生>を修正することはより困難性を伴う、ということである。我々は<死者との関係性>(つまりは大事な人との想い出)を、「自らの意思で」より良きものに変えなければならないのだ。

死者は生者の中に現在する。そしてその死者は私の中にどう現在させるのかーー、我々がそれをみつめるときに『あの花』は示唆を与えてくれるはずだ。

 

本日の漫画名言:超平和バスターズ はずっとなかよし

f:id:akihiko810:20161106032445j:plain