よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』を読む ~「正しくない」からこそ「正しい」、私たちの弱さ
『フラワー・オブ・ライフ』(全4巻)、今や大御所とも言ってもいい、よしながふみの少女コミックだ。
4巻のラストを考察してみたい。4巻ラストのあらすじ。
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高校生・花園春太郎は、同級生の三国とプロの漫画家になることを目指している。
あるとき春太郎は、姉と口論してしまう。姉は勢い余って、「だって、あんたなんて すぐ死んじゃうかもしれないんだから!!」と春太郎に家族が隠していたことーー春太郎が患っていた白血病は治ったものの、まだ5年以内に再発する可能性があること、骨髄移植した患者の1割が5年以内に死ぬことーーを春太郎にぶちまけてしまう。
姉は春太郎に今まで嘘をついていたことが重荷だったのだ。
春太郎は自分に嘘をついていた姉(と家族)を許すが、勉強をしているときにふと英和辞書にある例文をみつけてしまう。
He died in the Flower of Life. 彼は人生の花盛りで死んだ。
「10%なんてあんまりだ。普通の人の何十倍も何百倍も死にやすいんじゃないか」
春太郎はショックをうけて泣く。
一方、春太郎の同級生の真島(ドS鬼畜眼鏡)は、担任女教師の滋(しげる)とつきあっていた。滋が同僚の教師・小柳と不倫恋愛していたところに割って入ったのだ。
しかし真島は、滋がまた小柳とヨリを戻していたことを知る。
真島「どういうことだ。お前と小柳は今、別れていなければならない」
滋「あたしは生身の男と女なの!よりが戻ることもあるの!人間は本当に好きな人がいたって他の人と寝ることがあるの!」
「あたしはこういう女なの それが嫌だっていうんなら、あんたがあたしを捨てればいいじゃない!」
真島はプライドを傷つけられ、ショックをうける。カッターで滋を切ろうとまで考えるが、春太郎が来てなぜか急に泣き出したので思いとどまる。
そして2年生になる始業式の日ーー、滋は「私からきちんと別れを告げよう」と思う。別れるか別れないかを真島に決めさせようなんて、これまで私が小柳にされてきたことと同じだった、と。
春太郎は、同じく漫画を志す三国に、今は言えないが、1割の確率で再発するかもしれない、死ぬかもしれないということを、いつか告げようと思う。
「こうしておれは初めて友達に言えない秘密を持つことになった 高校2年生の春」
それぞれの Flower of Lifeーー人生の花盛りは、これからも続くのだ。
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この作品の主人公は春太郎だが、4巻のラストは誰が主人公とはいえない、群像劇のようになっている。この場面に限って言えば、春太郎、滋、真島の3人が主人公格といえる。
本稿では、滋(と真島)にしぼって考えてみたい。
滋は、世間一般の価値観に照らしてみれば(この話に限ってみれば)、ダメ人間と言われても仕方あるまい。何せ自分の「男関係のだらしなさ」を棚上げして、真島へ責任を転嫁しているのだから。
しかしたしかにダメ人間であるが、滋が真島に対して言う台詞は、一方で真実でもある。
「あたしはこういう女なの それが嫌だっていうんなら、あんたがあたしを捨てればいいじゃない!」
たしかに捨てればいいだけなのだ。これに関しては滋は正しく、真島は正しくない。
滋のこの言葉は苦し紛れにとっさに出てきた言葉かもしれないが、この言葉によって「正しくない」滋を、「実は正しい」ものへと反転させたのだ。しかしこの「正しさ」はもちろん、見かけ上のまやかしに過ぎない。
一方で、真島は滋の「正しくなさ」を裁こうとするが、滋がとっさにみせた「正しさ」に狼狽し、振り上げた拳を下すことができずに、カッターで切りかかろうなどという蛮行に及ぼうとする。
真島は<正しくない>滋を裁こうとして、逆に自らが裁かれてしまったのだ。
この「正しさ」を振り回したことによる関係性の反転に、文学性があると私は考える。
なぜ真島は滋を裁けなかったのだろうか。それは滋を裁こうとした真島も、滋と同じく「正しくない」人間だったからである。いや、正確に言えば、「自らの正しくなさ」を自覚していない人間だったからである。
真島は何が「正しくなかった」のだろうか。この場合で言えば、真島が常識を過信していた(男女がつきあえば、他の男とはもうつきあわないと思い込んでいた)ことだろうか。いや、もっと言うならば、「正しさ」そのものへの過信が正しくなかったといえるのではないか。
簡単にいえば真島は、人間は、正しくあるにはもろすぎる、ということを知らなかった。人は意図せずして間違えるし、場合によっては意図して間違える(滋の「正しくなさ」は「意図して間違いを選んだ」ことにある)こともある、ということを。
滋が「正しくない」のに「正しい」のは、「自らが正しくない」ということを自覚していた一点にある(滋が自らの正しくなさを自覚していることは、「あたしはこういう女なの」という開き直りの台詞から明らかである)。自身のもろさ、弱さを自覚しているからこそ、ひいては人間のもろさを知っているのだ。
話を春太郎の姉に変える。彼女は弟の春太郎を傷つけた。彼女もつまり弱い人間ーー正しくない人間ーーだったからである。そして春太郎は、そんな姉を許した。「そして分かったんだ ねーちゃんが今までどんなに辛かったか きっと俺がねーちゃんだったら、とっくに我慢できずに俺にホントの事を言っていただろう」という言葉と共に。春太郎も自らの弱さ、正しくなさを自覚する人間だったから、許す(赦す)ことができたのだ。
人は「正しさ」よりむしろ、「正しくなさ」で成り立っている。そして「正しくない」ことを自覚してこそ「正しい」ふるまいができるようになるのではないだろうか。
『フラワー・オブ・ライフ』の4巻のこの場面は、人の弱さ(正しくなさ)を正しく描いた名シーンだと私は思う。 <了>
本日のマンガ名言:
あたしは生身の男と女なの!よりが戻ることもあるの!人間は本当に好きな人がいたって他の人と寝ることがあるの!
極私的・今年度ベスト5マンガ 2018
初めての皆さんはじめまして。そうでない方はお久しぶりです、タムラ昭彦です。
私はそれなりの漫画読みでして、(正確には数えていないものの)年間200冊ほどの漫画を読んでいるはず。
今回は年末にはまだ少し早いけれど、今年私が読んだ漫画2018・ベスト5を発表したい。(※私が今年読んだ漫画であって、今年発売された作品ではありません)
第5位
『詩人ケン』業田良家
あらすじ:
誰もが何かに飢えている現代に生きる詩人ケン。金も職もないが妻子はいる彼は、今日も言葉を探し求め詩を作る。ケンと彼を取り巻く情深きひとびととの交流を描く。
短評:
あらすじ:
人類は滅亡するために生まれてきたのか――――!?
世界は確実におかしくなっていた。2011年に人類発祥の地・ケープタウンに不思議な木が生えたときから…
強制的に「世界の終わり」を意識させられる人類…
刹那的な享楽にふける人…全てを諦め投げやりな生き方を選ぶ人…
全てが急速に変わり始めた世界の中で、変わらないことを選び絶望に挑む、家族の物語。
第3位
『月影ベイベ 』小玉ユキ (全9巻)
あらすじ:
伝統行事「おわら」を踊りつぐ町。東京から転入してきた蛍子は、町の伝統「おわら」を踊れるが 人前では緊張して踊れなくなってしまう。 そんな蛍子にひかれる地元の高校生、光。 どうやら、光の叔父と蛍子は昔からの知り合いらしいが、 2人は何も語らない。 小さな町に吹き込む、謎と秘密の風。 情緒と青春を瑞々しく描く、新しい小玉ワールド。
短評:
富山県のおわら踊りを題材にした、三角関係少女マンガ。おわらという超地味な素材なので、1、2巻はまぁまぁだったが、3巻でおじさんが不倫していたことが明るみになってからはめっぽう面白くなった。やはり少女漫画は「関係性」を描くのが上手いが、この作者は「かなわない恋の関係性」を提示するのがすごく上手い。主人公が「これが恋か」と胸がズキンとする場面は涙モノ。正統にして秀作の少女漫画だと思う。
第2位
『ミツコの詩』榎屋克優 (既刊1巻)
あらすじ:
女子高生詩人は今日も「紙以外」の何かに書いている。
校長の車に、トイレの壁に、教室の床に。
元詩人の国語教師は今日も苛立っている。
詩を履き違えた、その女子高生詩人に。
だから二人は詠い続ける。
互いの魂が正しいことを証明するためにーーー!!
短評:
詩の朗読バトル(通称詩のボクシング)がテーマの漫画。学校の窓ガラスから校長のベンツにまで辺り構わず自作の詩を書き付ける女子高生ミツコが参加している詩の朗読バトルに、プライドが高い元詩人の国語教師の吹抜が足を踏み入れていく…。 内容は渋く魂を叩きつけるかのよう。画も劇画調の重厚な感じなのが合っている。これは傑作漫画になる予感。とはいえテーマが地味なだけに、長期連作にはならないだろう。3巻くらいでがっと詰め込んでほしい。
第1位
あらすじ:
81歳、孤独な老人。46歳独身、介護職の女。27歳、特別養護老人ホームを「ある事情」でやめた青年。ぬぐい去れない痛みを抱えた3人の奇妙な恋が始まる――――。脚本家・小説家山田太一の小説『空也上人がいた』を、鬼才・新井英樹が漫画化
短評:
特養での罪の意識を抱える青年が、ある老人宅で介護を頼まれる。老人から京都の空也上人像を見てくるよういわれ…。 原作・山田太一、漫画・新井英樹。このタッグで面白くないわけがなく、文句なしの傑作であった。「傷のある人間同士の愛のあるセックス」というラスト場面は、やはり新井が好きそうなテーマで、この原作を漫画化するに際しての意気込みが感じられた。介護職のしんどさ、闇がしっかり描かれているのも、抒情派だけでなく社会派なドラマだと思う。この傑作原作にも漫画にも敬意を表したい。
骨太なテーマの漫画が好きなのでこのランクインとなった。どの漫画も必読の面白さである。
他、今年度のオススメ漫画は以下。ぜひ読んでもらいたい作品群である。
「大家さんと僕」矢部太郎
「淋しいのはアンタだけじゃない」吉本浩二
「寺島町奇譚」滝田ゆう
「含羞(はぢらひ)我が友中原中也」曽根冨美子
「春と盆暗」熊倉献
「みちくさ日記」道草春子
「オンノジ」施川ユウキ
「Sunny」松本大洋
「1122」渡辺ペコ
「海街diarly」吉田秋生
「Beautiful Sunset」小玉ユキ
岡崎京子『pink』を読む ~愛と資本主義の物語。この消費社会で、愛は勝つのか
今回は、岡崎京子『pink』を紹介したい。
89年というバブル景気の絶頂期に描かれた作品である。
岡崎京子は、『pink』あとがきにこう書いている。
これは東京という退屈な街で生まれ育ち「普通に」壊れてしまった女のこの”愛”と”資本主義”をめぐる冒険と日常のお話です。
「すべての仕事は売春である」とJ・L・G(ジャン=リュック・ゴダール)も言ってますが、私もそう思います。(略)
そしてすべての仕事は愛でもあります。愛、愛ね。
”愛”と”資本主義”をめぐる冒険と日常のお話とはどういうことだろうか。
あらすじを紹介したい。
~~~~あらすじ~~
主人公のユミは昼間はOL、夜はホテトル嬢の仕事をしている。ピンク色のバラが好きな女の子だが、実は部屋で大好きなワニを飼っており、ワニのえさ代を稼ぐために彼女はホテトル嬢の仕事をしているのだ。
ユミの実の母親はすでに亡くなっており、代わりに、父親の金を目当てに結婚した継母がいる。ユミは、継母のことは嫌っているが、継母と父親の間に生まれた義理の妹のケイコとは相性が良く、ケイコはたびたびユミの部屋へ遊びにやってくる。
ある日、ユミは継母が若い男を愛人として買っていることを知る。そのことに興味を抱いたユミは、その若い男のもとを訪ねた。そのハルヲという大学生とユミは仲良くなり、それからユミの世界のなかにハルヲが存在するようになる。
ユミはマンションの管理人にワニを飼っていることがばれ、最終的にユミは部屋を出ていかされる。そして、行くところのなくなったユミとワニはハルヲの下宿先で暮らすようになった。ユミはハルヲの部屋で寝食を共にし、二人は恋人関係のようになる。
しかし、結局その関係は継母にばれてしまう。
継母は、ユミを懲らしめるために、ユミがずっと大切にしてきたワニを殺すことにした。ハルヲの小説の完成を祝って(ハルヲは小説家志望である)ユミとハルヲが食事に出かけている間に、継母の差し向けた遣いによってワニは連れ去られた。
ワニがいなくなってからのユミは元気がなくなり、昼間の仕事にも集中できず、ハルヲといてもため息ばかりつくようになった。ある日、ユミは人ごみのなかである発作を起こし、しゃがみこんでしまう。「どうしてあたしはここにいるの?」、「どうしてここに立っているの?」など、頭の中はクエスチョンマークだらけになってユミはパニックになる(ユミがこれを「あの発作」と呼んでいることから、この状況はユミの身にたびたび起きているのだということがわかる)。
この状況になったあと、ユミはハルヲに南の島に行きたいと言い出す。幸いにも、ハルヲが書いた小説が大きな賞をとり賞金が入ることがわかったので、二人は本当に南の島に行くことになった。
ユミが南の島に行くための準備をしているときに、ある荷物が届く。開けてみると、そこにはワニ革でできたトランクが入っていた。同封されていた手紙を読んで、このトランクは自分が飼っていたワニでつくられたものであり、それは継母の仕業によるものだとユミは気付く。
ワニを殺した継母に復讐するために、ユミは継母のもとへと向かう。ユミはバットで継母を殴るのだが、最終的にはケイコに止められ、継母を殺すことはなく部屋を荒らしてユミはその場を立ち去る。帰ってからもしばらく怒りはおさまらないのだが、ユミはあっけらかんと立ち直る。
そして南の島に向かう出発日当日、ハルヲは取材を受けてから空港に行くということで、ユミは先に空港に着いてハルヲを待っていた。しかし、ハルヲは仕事を終えて空港に向かう途中に、スクープを狙う週刊誌のカメラマン達に追われ、彼らから逃げようと走っている際に交通事故に遭い、死んでしまう。
ハルヲがそんな事態になっているとも知らないユミは、幸せな気持ちに浸りながら「最上の幸福がやってくるのを待つきもちってこんなもんかな」と、ワニのバッグを持ってケイコと二人でハルヲを待っているのだった。
~~~~~
主人公のユミは、実にあっけらかんとした女性として描かれている。ユミはこの消費社会に生きる女の象徴である。「仕事つまんねーな」と思いつつ、「買いたいモノは何でも買う」ために売春の仕事までしている。
ここで大事なポイントが、ユミは消費社会に極限まで適合しているが、それによって必ずしも幸福にはみえないーーかといって不幸ではないーーという点であろう。
せいぜい「なんとなく愉快に過ごせる」程度のものだろう。いや、ユミからは消費の快楽へ対する倦怠感が伺えるといってもいい。
彼女の真の安らぎはペットのワニにあり、これが彼女にとっての幸福の象徴である。
ただし、この幸福の象徴であるワニは、ベラボウに飼育費がかかる(売春する必要すらあるほど)という点で、この消費社会がなければなりたたないということに留意する必要がある。
資本主義社会は、消費において幸福になるわけではない。しかし、幸福の為には消費(カネ)が必要である、ということだ。
清貧などクソ喰らえ、さすがバブル期のマンガであり、しかし消費社会万歳ではなく消費社会の実態がマンガの中に落とし込めていると思う。
次に、愛。
ユミにとっての愛の象徴として出てくるのが、ワニである。「幸福と愛の象徴」として登場するのがワニだ。
物語後半では、ユミはハルヲとたびたびセックスし、恋人関係になる。ワニの他に新たな愛の象徴として、ハルヲができた、といってもいい。
ただし、この作品に描かれるーーというよりも、ほとんどの岡崎作品で描かれるーー「愛」は、強い絆をもってなされる愛や、ドロドロと粘っこい愛とは違う。サバサバした関係の愛、とも違う。
「なんとなく楽しいセックスをしたら好きになっちゃった」みたいな感じの、どことなく小ざっぱりした、<浮遊した感覚のある関係性>である。
ただし、これは「安っぽい」とか「軽薄な」愛、という意味ではない。<浮遊した関係性>だからこそクールな「愛」なのである。
クールでありながら、(「深い」ではないかもしれないが)濃い愛(関係性)ということだ。これが岡崎京子の描く愛である。
(ちなみに岡崎京子が時代の寵児になったのは、ひとえにこの「クールな感じ」をひっさげてデビューし、この「クールさ」と作品における「陰鬱さ」が時代の最先端とマッチしたからだと私は思っている。)
そして物語は終盤に入り、ワニはカバンにされる。
幸福の象徴であるワニを喪失し、「私をカタチ作っていた<消費>行動」への倦怠感が剥き出しになりパニックになる。
最終盤にハルヲが死んでしまうが、ユミはこれを知ることがなく終わり、物語に余韻をもたらす。
さて、冗長であると思うが、この作品がもし、もう少し続くとするなら、どういう展開になるだろうか。ユミがハルヲの死を知ったらどうなるだろうか。ワニを皮鞄にされたときのように立ち直ることができるだろうか…。
私が思うに、ユミはひとしきり泣き悲しんだ後、またあっけらかんと立ち直ることができるのではないかと思う。
これは彼女が「立ち直りの早い」女だという以上に理由がある。
それはこの物語における愛の形が、<消費によっての代替性をもつもの>として描かれているような気がするからだ。
ユミにとってハルヲとの関係性(愛)は代替のきかないものであるはずである。しかしでも実は、この消費社会では、愛すら代替できるのではないだろうか。
なぜならユミにとって、「ハルヲがハルヲである必然性」が薄いからである。ハルヲとの関係が<浮遊した関係性>であるが故に、その関係が代替不可能であるという前提が薄いのだ。そしてそれはもしかしたら、この消費社会では愛は、別の消費によって代替できるのではないだろうか、と、これがこのマンガが描く余韻から伺える「”愛”と”資本主義”」なのではないかと私は感じる。
ただしそこには、「代替できるということは、ただの軽薄な愛だった」という諦観はない。愛は愛であり美しく、ただ、資本主義における愛の一つの形が示されただけにとどまる。
だから私は、この作品を「資本主義の中の愛の一つの限界ーー消費社会における愛の代替性」を描いた物語だと読む。
そしてこの諦観めいたテーマは、89年当時の感覚からしたら「非常にクールだった」のだと思う。
この物語が描かれた89年は、そしてこの作品から続く90年代前半は、こうした諦観を描く作品がひとつの最先端だった。
しかし90年代はオウム、阪神大震災、酒鬼薔薇事件やエヴァブームを経験し、「諦観を描くだけ」の作品はありふれたものになった。
本作『pink』は、今現代に読んでも色あせることはない。しかし現代を生きるための「新しい知恵」が描かれているわけでもない(30年前の作品なのだからそれが普通なのだけど)。
資本主義社会はいまだ克服されてなく、その意味においても「消費社会における愛の代替性」はいまだ変わらない。代替的な愛も代替不可能な愛もありえるだろう。
その中で、あえて「代替できない愛」を目指すかどうかは、我々の意志ひとつである。<了>
本日のマンガ名言:
「お母さんが良く言ってたわ シアワセじゃなきゃ死んだ方がましだって」
「お母さんは?」
「…そのとおりに死んだわ」
大傑作劇画・上村一夫『しなの川』。 再実写化するなら主役は誰?
とんでもない傑作漫画を読んだ。
どれくらい傑作なのかというと、私の「生涯で読んだ凄い漫画」ベスト2、3に食い込むのではないか、というレベルの傑作である。
自慢ではないが、私は32年の人生としては、結構な数のマンガを読んでいる(上には上がいるものなので、実際自慢にはならない)。子供の頃から読んで覚えているのは、おそらく600作品~はあると思う。数えたことはないけど。
600作の中のベスト2、3にくるのだから、傑作さの度合いがわかろうというものだ。実際、読み終えて私も「こんな傑作があったのか!」と驚いた。
この傑作漫画は、上村一夫画・岡崎英夫原作『しなの川』である。
73年に、『ヤングコミック』という雑誌で連載された劇画だ。
無料で1日180P読めるウェブマンガサイト「スキマ」で読んだ。
[無料漫画] しなの川|スキマ|全巻無料漫画が17,000冊以上読み放題!
無料で上村一夫の傑作劇画が読めるとは恐るべしである。
このサイトは他にも、永島慎二ややまだ紫といった昭和ガロ漫画家、ふくしま政美などの昭和劇画が読める、古本屋の掘り出し物みたいなマンガサイトである。すごい。
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では、この『しなの川』のあらすじ。
昭和3年という、世界恐慌がありやがて日中戦争に突入していくことになる激動の時代、新潟県信濃川沿いの、裕福な商家の一人娘・高野雪絵という少女の「女一代記」である。
雪絵は奉公人・竜吉と初恋になるが、竜吉を捨て、左翼の教師と禁断の恋仲になり駆け落ちする。雪絵はやがて母の犯した過ちと、自分の中に流れる淫蕩の血を知り、母と同じく男を抱き、男を捨て、心中するも生き残り、また男を虜にし…という雪絵の「女の業」が、信濃川の激しい流れと共に描かれる。
淫蕩の業を背負った女雪絵と彼女に翻弄される男たちの末路を、ぜひ本作を読んで堪能してもらいたい。
さてこの『しなの川』、過去に水戸黄門のかげろうお銀で有名な由美かおるの若い頃(73年)に主演で映画化されていて、由美かおるはヌードにもなっている。
『しなの川』ポスター
今この映画はネット上で観ることはできなさそうなので、もし今、再実写化するとしたら、主演女優は誰が適切か考えてみたい。
- 物語は雪絵の15歳~40代を描く女一代記なので、その歳の女性を演じられる20代の女優。
- 主演雪絵役は当然ヌード、濡れ場あり。今までヌードを披露したことのない女優にも当然脱いでもらう。
- この傑作を余すことなく実写化するため映画の尺は4時間ほしい。なので当然演技力のある人がいい。
という点を踏まえて、さっそく審議に入ろう。
エントリーNo.1 剛力彩芽
まずはいきなり、「当然」というか「まさか」というか、ゴリ押しで有名なゴメさんである。
ギャラが安いのと、事務所のゴリ押しで一時期ドラマに出まくってたが、ここでもゴリ押しである。いや、今回はちゃんとノミネートした理由がある。
ノミネート理由は「顔が上村一夫の描く美女に似てる」。ほっそりした顔と細い目が上村美人なのだ。「雰囲気」だけでみれば合格である。
しかし問題はある。まず、彼女の演技はしょっぱい。下手とは言わないが、あまり上手くはない。キャラありきの 「エンタメドラマ」程度なら問題ないが、文芸大河映画で彼女が主演の映画を4時間観るのは、正直つらいだろう。
次の問題点。剛力の裸はたぶんエロくない。
これは重大な問題点である。剛力はまだ演技でヌードになったことはないし、もしかしたら濡れ場自体を演じたこともないのかもしれない。それ自体は濡れ場初挑戦すればいいだけだが、いかんせんエロスを感じさせないのはいかんともしがたい。
剛力にエロスを感じないのは、たぶん彼女から「何か秘めた感じ」を感じ取れないからである。
エロスとは秘め事である。男にとってのエロスとは「女の中にある<わからなさ>」だ。剛力はたぶん何も秘めてない。
ましてや、演じる雪絵に流れる血は「淫蕩の血」である。剛力に流れてるのはせいぜいヤクルトジョアだろう(苦笑)。
だから私は剛力の裸に魅力を感じない。もちろんなんかの作品でヌードになったら観るけども、これは男のサガである(苦笑)
エントリーNo.2 二階堂ふみ
まず彼女は、同世代の女優の中では抜群に演技が上手い。文芸映画で何度か主役張ってるので、今回も心配はない。
二階堂が「サブカルかぶれ」な人なのも、昔の劇画を実写化するにはイメージがあっている。
『観ずに死ねるか!傑作ドキュメンタリー88』という本で、二階堂はナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』(35年)をあげていた(苦笑)。たぶん「私は表現者なのだから、これくらいは観ないとダメ!」と観たのだろう。実に好感が持てる話だ。
さらに二階堂は過去に濡れ場を演じていて、放漫な肉体と挑発するような演技は観ていてエロかった。彼女なら濡れ場も安心してまかせられる。
映画『私の男』
ただ惜しむらくは、彼女は若干丸顔なので、「上村一夫美女」っぽさがどこまで出せるか、という点が不安点か。
エントリーNo.3 武井咲
剛力に続いて「オスカーゴリ押し女優」だが、彼女の演技は悪くない。
たまたまドラマ『黒革の手帖』で演じたのをみたら、なかなかの「大人なエロス」を醸し出す人だと感じた。
目がキリっとして、シュッとした顔立ち(キツい顔立ちの美人)なので、上村美女の雰囲気は出ている。
濡れ場はまだ演じたことがないようだが、完全に「実力派女優」へと脱皮するためにここいらで脱いで存在感をみせつけてもらいたいと思う。
…ともう少し武井咲について語りたいが、私はあまり彼女に興味がないのでもう言うことがない(苦笑)
知らんけどEXILEの人と結婚したそうで、「そういう部類の女性なんだなぁ」という感じ。『しなの川』なんて昔の漫画は一生読まないだろうし、ましてや文学フリマなんて(この記事は、同人誌即売会「文学フリマ」用に書いてるのです…)興味もないだろう。あらゆる意味で私とは違う世界の人だ。
他にも無名若手女優を挙げたいが、私はそれに詳しくないので以上3名にする。この中でなら一番の候補は二階堂ふみだろうか?
せっかくなので監督も指名したい。
『血と骨』の濡れ場
崔洋一といえば暴力描写の上手い監督だが、『しなの川』もこういう「暴力的な」濡れ場が中心となるので、いい出来の映画になるんじゃないかと思う。
しかし近作の『カムイ外伝』(09年)は駄作との評判だったが…。それに崔監督、もうここ8年ほど撮ってないんだなぁ。
ということで、『しなの川』を実写化する際には、ぜひこのメンツにしてもらいたい。
追記)私の「生涯で読んだ凄い漫画」ベスト1は、明確に決まっているのだが、長くなるのでこの記事では取り上げない。
私が19歳頃の「人生暗黒期」に、人生何もかも苦しく鬱だったときに読んだ作品である。やはり人生の作品を決める上では「人生でいつに出会ったか」も大事だね。
「人生で読むべき漫画」でありぜひ読んでもらいたいので、この傑作漫画がなにか知りたい方は、ツイッターかブログコメントで私に訊いてください。
田亀源五郎『弟の夫』を読む ~ゲイというマイノリティの物語に描かれる、<家族>という物語
田亀源五郎『弟の夫』全4巻。
ゲイエロ漫画界の巨匠が初めて一般誌で連載した、ゲイ男性と同居するホームドラマだ。
この物語は、ゲイへの偏見による「マイノリティが感じる苦悩」を巧みに描いた作品である。
しかしこの作品は「性的マイノリティ」の問題だけに終始しない。
登場人物ががゲイというマイノリティなだけでなく、主人公が「シングルファザー」という、世間的な少数者なのである。
このマンガでは彼らの日常生活が丹念に描かれ、そこから「彼らマイノリティが営む<家族>像」が浮かび上がる。
つまりこの作品は、「マイノリティが感じる苦悩」と「家族とはなにか(どのような存在か)」というテーマが二層構造になっているのだ。
あらすじ~~~~
弥一は、小学生の娘・夏菜を育てるシングルファザー。
弥一の元に、「弟の夫」であるカナダ人マイクが訪ねてくる。弥一の双子の弟涼二は、十年前に家を出て海外に行った以来音信不通だったのだが、実はカナダでマイクと同性婚しており、涼二が亡くなったのをきっかけに、マイクは涼二の唯一の親族(両親はすでに他界していた)である弥一の元を訪ねてきたのだ。
マイクは弥一の家に滞在することになり、弥一は初めてゲイの男性ーーそれも自分の義弟だという外人ーーと向き合うことに戸惑いを覚える。
マイクが滞在してから思いもかけないことがいくつもあった。
弥一は近所の人に、世間体を考えマイクのことを正直に「弟の夫」だと紹介できない自分に気付く。
また、夏菜がゲイの外国人男性と住んでいることがクラスで話題になると、夏菜の友人の母親は娘に「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言っていたらしいことが伝わってきた。本人への直接のものではないが、人づてにゲイへの無自覚な嫌悪感が伝わってきたのだ。弥一は、世間にはーー自身も含めてーーゲイへの無自覚な偏見があることを実感した。
弥一と夏菜は、マイクと、弥一の元妻・夏樹(わけあって離婚したが、現在は仲は悪くない)を誘って温泉旅行に行くことになった。
弥一は「旅館の人は、俺たちを『外国人の友人をもてなしてる子連れ夫婦』に見えるのだろうけど、実際は俺たちは今『夫婦』じゃないし、マイクはただの『お客さん』ではない。こういう関係をなんて呼べばいいのかな」と夏樹に話す。
夏樹は「家族…でいいと思うよ」「私とあなたの縁は夏菜でつながっていて、あなたとマイクは涼二さんの縁でつながっているのだから」と答える。
旅行も終わり日常に戻ると、弥一は夏樹の担任教師に呼び出され「御宅の事情は余所の家庭とは違っているので、夏樹がういてしまっていじめられるのではないか」と言われる。
自身がシングルファザーであること、同居人の外人が同性婚だということ…。「心配だと言って、実はさらっと差別された」と感じる弥一であったが、「もし夏樹に変わっていることがあったとしても、他人と違うからという理由だけでそれをやめさせたくない」と担任に伝え、そして「うちにいる滞在者は、私の弟の配偶者であの子の叔父です」と、初めて自分の口でマイクのことを「私の弟の配偶者」だと言った。
その晩、弥一はマイクに、ゲイだとカミングアウトされて以降なんとなく距離の出来てしまった、亡き弟・涼二との写真をみせてもらい思い出話をきく。写真の中の涼二はマイクと結婚して、弥一が見たことのないような楽しそうな笑顔をしていた。
マイクは言う。「涼二は結婚式で私の家族をみて、いつか日本に帰って、私を兄貴に『俺の結婚相手だ、新しい家族だ』と紹介したい、と言ってました」「だから涼二との約束を果たすために、弥一さんと家族になるために日本に来ました」
弥一は「その約束は果たせたね。もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えるのだった。
マイクがカナダへと帰る日、弥一は夏菜の未来の幸せを願い、「俺に弟がいたこと、弟はマイクと幸せに過ごしたこと」を教えてくれた、マイクと過ごした日々の大切さを思う。 完
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作者の田亀自身がゲイであるため、この作品に描かれる「ゲイが感じる苦悩」は実に現実的で、身につまされる。
マイクの元には、自身がゲイであることに悩む少年や、涼二の高校時代のゲイの友人ーー「カミングアウトせずに」生きていく者などが来て、性的マイノリティの人が直面する問題を描いている。
この作品のひとつの特徴は、明確な悪人(悪意)が出てこないことだ。
私は「最終巻はドラマチックに盛り上げるために、ゲイフォビア(嫌悪)な人物が出てくるのかな」と思って読んでいたのだが、登場するのはみな普通の、世間一般的な人ばかりであった。
作中には、「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言った友人の母親や、「弥一の家庭は一般的でない」と心配する担任教師が出てきたが、 彼らは「悪人」ではまったくない。むしろ一般的、いや「世間的」な人間である。
そしてこの世間的な一般人の持つ、無自覚で些細な偏見こそが、マイノリティを傷つけているのである。
作者田亀はインタビューにこう語る。
田亀: 人伝てにヘイトが来るのは、日本的でリアルだと思っているので、この漫画ではとても意識しています。陰ではそういった嫌悪の気持ちを持っている人でも、面と向かってダイレクトに気持ちをぶつけてはこないのが、日本でありがちな差別の姿だと思います。なので、それを描くことにとても意義があると思いました。
『弟の夫』で描きたかったのは無自覚の偏見、もしくは無自覚の差別です。自分がすでに差別構造の中にいるということに気づいていないことからもたらされる差別や偏見。
ゲイ・エロティック・アートの巨匠 田亀源五郎と担当編集に聞く『弟の夫』の現場 「無自覚の差別」とは何か?
こうしたゲイへの「無自覚な偏見」は、実に巧みに作品に描かれていると思う。
さて、ゲイの悩みの問題については述べたので、作品のもうひとつのテーマ、
<家族であること>についてみてみたい。
この物語はおそらく、「ゲイの男性と同居する」というコンセプトを際立たせるために、意図的に「妻」という女性の存在を排除することになったのだと思う。
それが主人公弥一に「離婚して別居」という設定を与え、結果的に、物語は<家族の形とは何か>を問う方向へと向かいやすくなった。
作中で弥一は、旅館で元妻に「僕たちの関係って、なんて呼ぶのだろう」と尋ねる場面がある。それに対して元妻夏樹は「家族…でいいと思う」と答える。
「家族」だという理由は、「私たちは、縁があってつながっているから」だと言う。
この物語において、弥一の「家族」は2方向に存在する。「元妻と娘」と「弟の涼二」に対してである。
そしてもうひとつこの物語に出てくる家族がある。「マイクとその配偶者の涼二」だ。
「弥一と元妻夏樹」はすでに離婚しており、「弥一と弟の涼二」はまったくの疎遠であり、「マイクとその配偶者の涼二」は同性婚であり、どの関係性も「世間一般的な家族」の形とは違う。
しかしどの関係性も、彼らにとって「家族」である。「弥一と元妻夏樹」も「マイクとその配偶者の涼二」も、彼らは縁によってーーそして愛情によって、繋がれているのだから。
「弥一と弟の涼二」の関係性は、涼二がカミングアウトして以降二人の間に溝ができ疎遠になってしまったが、マイクがまた再び二人の縁を繋いでくれた。そう、マイクによって、弥一と弟の涼二は「再び家族になった」のである。
弟の涼二がすでに故人である、という点も、<家族の関係性>を考える上でのポイントになる。
「マイクと故人である配偶者」、「弥一と故人である弟」という関係性は、「以前、家族であった」というべきなのだろうか、それとも「今も家族である」といえるのだろうか?
この作品を読んだ方なら、「今も家族である」という考えに違和感なく首肯するだろう。
なぜならここで彼らが抱いている「家族」という概念は、物理的な存在ではなく、<関係性>そのものを根拠にしているからだ。
ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに
という記事を書いたとき、
『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)という本から、
死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)
生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。
と引用した。
死んだ者とも関係性がある限り、つまり「思い続ける」限り、「家族」という関係性は残ったままなのである。
これが『弟の夫』という作品が示す<家族という関係性>である。
『弟の夫』という物語を究極的にいえば、疎遠であった「弥一と故人である弟の涼二」という関係性を、涼二の配偶者マイクが再び<家族という関係性>へと繋ぎ戻す、という物語だ。
そしてマイクは、弥一と涼二を<家族という関係性>へと繋ぎ戻すという「役割を引き受けた」ことによって、マイクは弥一とも<家族という関係性>を結び得ることができたのである。
だから弥一が 「もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えたのは、それは戸籍上の概念ではなく、本心から<家族という関係性>になっている、という意味だ。
『弟の夫』は、物語最後のコマに、3枚の写真が載せられて幕を閉じる。
「マイクと涼二」「夏菜が生まれたときの弥一と妻夏樹」、そして「温泉旅行で撮った、弥一、夏菜、夏樹と、マイクの4人」の写真である。
この3枚の写真は、彼らが「家族である」という証ーーたとえ「世間一般的な家族」の形とは違っても、彼らは間違いなく家族なのだーーであり、彼らの絆の記録なのだ。 <了>
本日のマンガ名言:もうとっくになってるよ、家族
極私的女優論:マンガ『私の少年』と、「私の妹」にしたい杉咲花
30歳独身恋人なしのOLが、ふとしたことから美形の少年に、夕方だけサッカーを教えることになることになり、そこから二人の交流が始まるマンガである。そこでは独身OLお姉さんと少年の、親子でもなく姉弟でもなく友人でもなく恋愛でもない、奇妙だが心地よい関係性が描かれる。
あとがきで作者曰く「これまで男性向けジャンルだったおねショタを、女性向けにしたもの」だそうだ。おねショタとは「おねえさん×ショタ」のことである。(私は「おねしょするショタ」と勘違いしてた。しかし気になるのは、おねショタ読者は、お姉さんに萌えるのだろうか、ショタに萌えるのだろうか?それともショタがお姉さんに甘える関係性に萌えるのだろうか?)
この『私の少年』に出てくる二人ーー30歳独身OLの聡子と、12歳美少年のましゅうーーは、30歳独身OLの聡子は仕事に悩む一般的な女性として、つまり30歳独身女性として一般的な「リアル」に描かれているのに対し、ましゅうは子供らしい純粋さやひたむきさを持った美少年キャラとして、つまり一種の「大人のもつ、<理想の子供>のイメージ」のキャラとして描かれている。
ましゅう(上)と聡子
私は昔、小学生という「少年」だったので断言するが、ここまで「純粋さ」を持つ12歳の少年は、現実には存在しない。なぜなら男子にとって少年期とは、人生で一番アホな年頃だからである。現実の小学生男子は、友人たちとクラスの女子に「ブス!」と悪態ついてにからかったりする「馬鹿ガキ」か、あるいは少し背伸びして大人ぶった言動をする「ませガキ」である。そこにあるのは輝くような「純粋さ」ではなく単なる「アホさ」だ。
もし、ましゅうのような<大人の考えるような理想の子供>が、実在するとしたら、クラスの大多数に馴染めず実はいじめられてるような、影のある孤独な子供だろう。
いずれにせよこの「純粋な美少年」は、リアルなキャラというより、大人(読者)の妄想を体現する理想のキャラ、といった側面が強い。
ましゅうが「妄想を体現する理想のキャラ」であり、聡子が「リアルなキャラ」ーー私達読者のリアルを投影する役割を持つーーだからこそ、この作品は強い魅力をもつ。
そしてこの作品は聡子というリアリティの上に成り立ち、フィクションでありながら「これ実在するかも」というリアリティある作品として成立している。
さて、私がこの作品を読んだ(既刊3巻まで読んだ)ときの感想は、まず「この出だしは傑作マンガになる予感!」だった。ここからどういう展開になり結末を迎えるのかはわからないがーーまさか、聡子と大人になったましゅうが結婚エンド、なんて陳腐な結末にはしないだろうーー、二人の成長とそこで変化する関係性を見ていきたいと思った。そしてもうひとつの率直な感想、むしろ私がこの漫画を読んでの第一声は「こんなのズルイ!」であった。もう少し詳しく言うと「女性ばっかり美少年に癒されるなんてズルイ!俺も癒されたい!」だ。
そりゃオトナの女性(読者)は現実に疲れているわけで、たとえ非現実的でも「純粋な美少年」に癒されたいのは当然だろう。オトナの女性は皆、純粋無垢な美少年に回転ずしをおごってあげて、楽しい時間を共に過ごしたいのである(聡子がましゅうを連れて初めて回転ずしに行くシーンは、この作品屈指の萌えシーンだと思う)。そこのツボを絶妙に押してくるこの作品は、実に目のつけどころがいい。
ましゅう初回転ずし。これは萌える!
私が「ズルイ」と思ったのは、そこには「性の非対称性」があるからである。これを男女を逆にして、「おじさんが、(親戚でも何でもない)全くの他人である美少女を愛でるマンガ」にしたら、もうこれは完全なフィクションになってしまうのだ。
このご時勢、「おじさん×純粋な美少女」は現実にはポリス沙汰である。それは大袈裟だとしても、そこにはどうしてもーーたとえ男性側に「その気」がなくてもーー見る側には男性側の「下心」がまとわりつく。
もちろんこういう「おじさん×純粋な美少女」設定のマンガは、(私には今の所思い浮かばないが)いくつかあるだろう。しかしそういう作品を「これ本当に実在しそう」なリアリティを提示して、ここまで深い関係性を成立させるのは、かなり困難なことのように私には思える。
『私の少年』にも、現実的なリアリティを表す場面として、<聡子が、親でなくただの他人でしかないましゅうの家庭の現実的な問題に対し、何もなす術がないことを思い知る>という場面がある。女性でもそうなのだから、男性が美少女を愛でる物語は夢物語というものだ。
そういう、絶妙で危ういリアリティの上に成立しているのが『私の少年』という作品である。
ーーとここまでマンガの紹介をしたわけだが、実はマンガ紹介だけをしたいわけではない。
「俺も『私の少年』みたいに、こういう女の子と仲良くおしゃべりしたい!癒されたい!」と思った話を書きたいのである。
先日、CSで『湯を沸かすほどの熱い愛』(16)という映画を観た。その年のキネ旬邦画ベストテン第7位、というなかなかの出来の映画であった。
宮沢りえが主役の母親役で、その娘(たぶん高1)役を、杉咲花が演じていた。
銭湯の娘役の花ちゃん
杉咲の演技は上手い。顔立ちは地味ながら愛嬌があり、私の好きな「若い女優」である。
私が彼女を女優として認知したのは、世間と同じく味の素のCMで回鍋肉を食べるシーンを見てだと思う。
以来ドラマとかで見かけると、存在感あるなぁと思っていたのだが、この映画が公開されたときに、番宣で『しゃべくり007』に宮沢りえと出演した回があった。
杉咲はトークで「『とと姉ちゃん』に出てから皆をくすぐるのがマイブームで…」と言って、ネプチュ-ン原田をくすぐりながら、なぜか
「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げていた(逆に、くすぐられている原田が「全然くすぐったくない」と全く笑ってないのにウケた。)
この光景を見て私は、「か、可愛い…」 一目惚れした。
笑い声を文字起こしすると「ウィーィッヒヒヒィー!」である。私は今まで、こんなに珍妙な笑い声をあげなら、ここまで無垢に笑い転げる女性を見たことがない。
笑い声が超ヘンでかわいい
その笑い転げる様に一目惚れした。しかしこの一目惚れは、「好き。付き合いたい」という感覚とは違った。私はおそらく、一回りほど杉咲の年上だろう。彼女と付き合いたいというより、妹になってほしいと思った。いや、妹だと近すぎる …親戚のおじさんになりたい。
そう、「親戚のおじさんになりたい」と思った。たまに会ってご飯でも食べながら話をして、そのときに「ウィーィッヒヒヒィー!」と奇妙に笑い転げて、私を癒してほしいと思った。
他愛のない話をしたら、なぜか彼女が「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げて、それにつられて私も笑ってしまう。彼女が「くすぐってあげるよ」と言って、笑い転げながら私をくすぐるが全然くすぐったくない、「くすぐったくないよ!」と私がツッコむと、やっぱり「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げる彼女 ーーそんな素敵な時間を過ごしたい。
そしたらおじさん、回転ずしでも回鍋肉でも何でもごちそうしてあげるわ。いやむしろごちそうさせてください!な気分である。(とはいえ、杉咲の方が私よりよっぽど金持ってるだろうけど)
ーーというわけで、マンガ『私の少年』みたいに、「年下女優・杉咲花と一緒に楽しい時間を過ごしたい!俺も年下に癒されたい!」という、私(おっさん)の妄想記事なのであった。
と、ここまで書いて、『私の少年』が男女逆になると一抹のキモチワルさが出てしまうことが実証されてしまうのであった(苦笑 さすがに俺もキモイことを書いてるのは自覚しているぞ!)
ところで杉咲花は、今ウィキペディアみたら97年生まれとのことで、現在20歳のようだ。顔立ちが幼いのか、高校生程度にしか見えないけどなぁ。
意外と大人だが、それでもやっぱり恋人ではなく親戚のおじさんになりたい(笑)
そして、肝心の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』だが、いじめられている杉咲がいじめに抗議して、教室で下着姿になるシーンがある。
このシーンを見ても、特に「眼福!」とうれしいわけでも、ドキっとするわけでもなく、ただ「わかったから、とにかく服着なさい!」となぜか保護者のような複雑な気持ちになってしまうのであった(苦笑)
だから私は、これからは杉咲花の概念上の保護者(エア保護者)として彼女を見守っていきたいと思う。もし彼女がお嫁にいくことになったら、エア祝辞を出して泣いてお祝いするつもりだ。 <了>
過去記事:女優・大後寿々花と、クンニ顔という概念
1年程前に書いた、大後寿々花 についての極私的女優論
こうの史代『この世界の片隅に』を読む ~戦時下という非日常でみつける<日常という奇跡>
今アニメ映画が大ヒット中である。キネ旬の今年の邦画第1位にもなった。でも私はまだ映画は未見だ。年末年始で支出が多いから、映画代がないのだ(苦笑)
で、原作。この作品は紛うことなき傑作である。「十年に1度レベルの」という枕詞をつけてもいい。
この作品は、作品における<日常描写のきめ細やかさ>が大きな魅力と物語性をもっているので、到底あらすじを紹介しただけではこの素晴らしさを語りつくすことはできないのだが、あらすじの紹介と、その文学性の考察をしたい。
あらすじ~~~~
時は昭和19年2月、絵を描くことが得意で、それ以外はぼーっとぬけた少女すずは広島市から、呉の北條家・周作のもとに嫁ぐ。
戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑(周作の姉)黒村徑子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていく。
9月、すずは遊女リンと知り合う。彼女の持っていたノートの切れ端が周作のものだということを偶然知り、夫がかつてリンの遊郭に通っていたことを悟る。
12月、すずの幼馴染で水兵である水原がすずを尋ねに来る。水原は帰る場所がないので、すずの家に泊まった。周作は、水兵でありもうすずと会えないかもしれないことを案じるが、家長の周作は水原が泊まることをよしとせず、納屋に寝てもらうことにした。すずも水原の納屋に泊まり話をすることになった。
水原はすずへの懐かしさにすずの肌に触れるが、すずは周作への想いからそれを受け入れなかった。水原は「これが普通じゃ」とすずの想いを悟り、この<まともでない世界>の中でもすずは「ずうっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と言う。
軍港の街である呉は、昭和20年3月19日を境に頻繁に空襲を受けるようになる。
6月22日の空襲で、投下されていた時限爆弾の爆発により、すずは姪(徑子の娘)晴美の命と、自らの右手を失う。7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下した。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日ーー8月6日ーーつまり読者は知っているあの日だーーに実家に帰ってくるように誘う。そして8月6日の朝、すずは徑子と和解し、すずは北條家に残ることを決意する。
その直後、閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する。広島への原爆投下だ。
8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは「そんなん覚悟のうえじゃなかったんかね。うちは納得できん!」と怒りをあらわにし泣き崩れる。
リンがいた遊郭は、空襲で焼失していた。
翌年1月、すずはようやく周作と広島市内に入る。廃墟となった広島でーー周作とすずが初めて会った場所でーーすずは「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝する。
戦災孤児の少女がすずに母親の面影を重ねていた。すずと周作は、この少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。
~~~~~
あらすじだけ読んでもこの作品の素晴らしさは伝わらないので、ぜひ実際に読んでもらいたい。
『この世界の片隅に』は、言ってしまえば<他愛のない日常生活>を、これでもかとばかりに丹念に描写し、それを積み重ねていく。
そしてそこからは「戦時下という非日常でも、今現在の私たちの生活と地続きの<日常>を人は生きていた」という、(戦時下を体験したことのない)現在を生きる我々が見落としがちな視点が浮かび上がる。
そして戦時下であるからもちろん、この<他愛のない日常生活>は戦争によって蹂躙されていく。
そして読者は<この日常>が、原爆投下という悲劇を迎えることを知りながら、彼らの生きる<日常>を追従する。
そして 原爆が投下され、終戦を迎え戦争というカオスが終わる。
このときすずは、この戦時下というカオスに今まで適応していたが、これがたかだか天皇一人の言葉で終わる程度のものだったことを知り、激しく憤る。
この大仰で凄惨な戦争がたかだかその程度のものであったこと、そして「たかだかその程度のもの」によって人々が蹂躙されていたのだということ。すずはそれを悟る。
終戦によってカオスが終わり、すずは自分にとって大切なことを意識する。
この作品の最も主題となる場面ーーすずが広島で「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝を述べる場面だーーこの言葉をきくことで読者は、すず達が生きていた「戦争という非日常の中の<日常>」の中にあったのは、「共に家族が過ごしていた<日常という奇跡>」であったということを知る。つまりこの場面は、すずがーーそしてそれを今まで見ていた読者にとってもーー、日常を奇跡だと受け止めること(感受性)を自覚し、言語化する場面なのだ。
『この世界の片隅に』における<他愛のない日常生活>の描写の積み重ねが、この<日常という奇跡>に説得力を与え、読者に<日常こそが奇跡である>と気付く感受性をもたらすことを可能にしたのである。
<日常こそが奇跡である>という感性とは、どのようなものだろうか。
宮台真司著『中学生からの愛の授業』には
中学生からの愛の授業 学校が教えてくれない「愛と性」の話をしよう (コア新書)
- 作者: 宮台真司
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「恋」が「単なる非日常」だとすると、「愛」は日常を奇跡だと受け止める感受性と結び付く。日常を奇跡だと受け止める感受性は、数限りない失敗と挫折と不幸を経験しないと育たない。リスクを回避して、平和な人生を送りたいと思っている人には、「愛」は永久に無理なんだ。
とある。
<日常こそが奇跡である>という感性は、つまりは「私がこの人とここにいたい」という「愛」の感情なのだ。
読者はこの物語を読み、<「戦争という不幸体験」を含む日常>を経験することで、そしてその日常の中に愛があることを感じ取ることで、読者は<日常こそが奇跡である>と受け止める感受性ーーつまり、日常を生きる糧である「愛」ーーを獲得するのである。
これが『この世界の片隅に』という物語がもつ文学性であり、そしてこの漫画が傑作たる理由であるといえる。
すずは戦時下という非日常のなかにあって、穏やかに煌めく日常の中から、その<日常という奇跡>を見出した。しかし現代の我々が生きる日常は、平穏無事なものであり、人によってはのっぺりとした退屈なものだろう。
我々読者は<日常という奇跡>を感知することができるのだろうか。
それはもちろん可能である。
なぜなら、我々は「この世界の片隅に」生きる小さな存在でしかない。
そんな小さな存在でしかないのに、わざわざ「みつけてくれる」他者がいてくれるのなら、そしてその他者の存在に気付くことができたのなら、それはもう「奇跡」としか言いようのない、感謝すべき幸福なのではないだろうか。
だからこの物語は、「この世界の片隅に」生きる我々のための物語なのである。 <了>
今日の漫画名言:この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう
追記;<日常という奇跡>は<関係性の履歴>である。