文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

田亀源五郎『弟の夫』を読む ~ゲイというマイノリティの物語に描かれる、<家族>という物語

田亀源五郎『弟の夫』全4巻。

ゲイエロ漫画界の巨匠が初めて一般誌で連載した、ゲイ男性と同居するホームドラマだ。

この物語は、ゲイへの偏見による「マイノリティが感じる苦悩」を巧みに描いた作品である。

しかしこの作品は「性的マイノリティ」の問題だけに終始しない。

登場人物ががゲイというマイノリティなだけでなく、主人公が「シングルファザー」という、世間的な少数者なのである。

このマンガでは彼らの日常生活が丹念に描かれ、そこから「彼らマイノリティが営む<家族>像」が浮かび上がる。

つまりこの作品は、「マイノリティが感じる苦悩」と「家族とはなにか(どのような存在か)」というテーマが二層構造になっているのだ。

 

あらすじ~~~~

弥一は、小学生の娘・夏菜を育てるシングルファザー。

弥一の元に、「弟の夫」であるカナダ人マイクが訪ねてくる。弥一の双子の弟涼二は、十年前に家を出て海外に行った以来音信不通だったのだが、実はカナダでマイクと同性婚しており、涼二が亡くなったのをきっかけに、マイクは涼二の唯一の親族(両親はすでに他界していた)である弥一の元を訪ねてきたのだ。

マイクは弥一の家に滞在することになり、弥一は初めてゲイの男性ーーそれも自分の義弟だという外人ーーと向き合うことに戸惑いを覚える。

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マイクが滞在してから思いもかけないことがいくつもあった。

弥一は近所の人に、世間体を考えマイクのことを正直に「弟の夫」だと紹介できない自分に気付く。

また、夏菜がゲイの外国人男性と住んでいることがクラスで話題になると、夏菜の友人の母親は娘に「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言っていたらしいことが伝わってきた。本人への直接のものではないが、人づてにゲイへの無自覚な嫌悪感が伝わってきたのだ。弥一は、世間にはーー自身も含めてーーゲイへの無自覚な偏見があることを実感した。

弥一と夏菜は、マイクと、弥一の元妻・夏樹(わけあって離婚したが、現在は仲は悪くない)を誘って温泉旅行に行くことになった。

弥一は「旅館の人は、俺たちを『外国人の友人をもてなしてる子連れ夫婦』に見えるのだろうけど、実際は俺たちは今『夫婦』じゃないし、マイクはただの『お客さん』ではない。こういう関係をなんて呼べばいいのかな」と夏樹に話す。

夏樹は「家族…でいいと思うよ」「私とあなたの縁は夏菜でつながっていて、あなたとマイクは涼二さんの縁でつながっているのだから」と答える。

旅行も終わり日常に戻ると、弥一は夏樹の担任教師に呼び出され「御宅の事情は余所の家庭とは違っているので、夏樹がういてしまっていじめられるのではないか」と言われる。

自身がシングルファザーであること、同居人の外人が同性婚だということ…。「心配だと言って、実はさらっと差別された」と感じる弥一であったが、「もし夏樹に変わっていることがあったとしても、他人と違うからという理由だけでそれをやめさせたくない」と担任に伝え、そして「うちにいる滞在者は、私の弟の配偶者であの子の叔父です」と、初めて自分の口でマイクのことを「私の弟の配偶者」だと言った。

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その晩、弥一はマイクに、ゲイだとカミングアウトされて以降なんとなく距離の出来てしまった、亡き弟・涼二との写真をみせてもらい思い出話をきく。写真の中の涼二はマイクと結婚して、弥一が見たことのないような楽しそうな笑顔をしていた。

マイクは言う。「涼二は結婚式で私の家族をみて、いつか日本に帰って、私を兄貴に『俺の結婚相手だ、新しい家族だ』と紹介したい、と言ってました」「だから涼二との約束を果たすために、弥一さんと家族になるために日本に来ました」

弥一は「その約束は果たせたね。もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えるのだった。

マイクがカナダへと帰る日、弥一は夏菜の未来の幸せを願い、「俺に弟がいたこと、弟はマイクと幸せに過ごしたこと」を教えてくれた、マイクと過ごした日々の大切さを思う。  完

~~~~~

作者の田亀自身がゲイであるため、この作品に描かれる「ゲイが感じる苦悩」は実に現実的で、身につまされる。

マイクの元には、自身がゲイであることに悩む少年や、涼二の高校時代のゲイの友人ーー「カミングアウトせずに」生きていく者などが来て、性的マイノリティの人が直面する問題を描いている。

この作品のひとつの特徴は、明確な悪人(悪意)が出てこないことだ。

私は「最終巻はドラマチックに盛り上げるために、ゲイフォビア(嫌悪)な人物が出てくるのかな」と思って読んでいたのだが、登場するのはみな普通の、世間一般的な人ばかりであった。

作中には、「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言った友人の母親や、「弥一の家庭は一般的でない」と心配する担任教師が出てきたが、 彼らは「悪人」ではまったくない。むしろ一般的、いや「世間的」な人間である。

そしてこの世間的な一般人の持つ、無自覚で些細な偏見こそが、マイノリティを傷つけているのである。

作者田亀はインタビューにこう語る。

田亀: 人伝てにヘイトが来るのは、日本的でリアルだと思っているので、この漫画ではとても意識しています。陰ではそういった嫌悪の気持ちを持っている人でも、面と向かってダイレクトに気持ちをぶつけてはこないのが、日本でありがちな差別の姿だと思います。なので、それを描くことにとても意義があると思いました。
『弟の夫』で描きたかったのは無自覚の偏見、もしくは無自覚の差別です。自分がすでに差別構造の中にいるということに気づいていないことからもたらされる差別や偏見。

 ゲイ・エロティック・アートの巨匠 田亀源五郎と担当編集に聞く『弟の夫』の現場 「無自覚の差別」とは何か?

こうしたゲイへの「無自覚な偏見」は、実に巧みに作品に描かれていると思う。

さて、ゲイの悩みの問題については述べたので、作品のもうひとつのテーマ、

<家族であること>についてみてみたい。

この物語はおそらく、「ゲイの男性と同居する」というコンセプトを際立たせるために、意図的に「妻」という女性の存在を排除することになったのだと思う。

それが主人公弥一に「離婚して別居」という設定を与え、結果的に、物語は<家族の形とは何か>を問う方向へと向かいやすくなった。

作中で弥一は、旅館で元妻に「僕たちの関係って、なんて呼ぶのだろう」と尋ねる場面がある。それに対して元妻夏樹は「家族…でいいと思う」と答える。

「家族」だという理由は、「私たちは、縁があってつながっているから」だと言う。

この物語において、弥一の「家族」は2方向に存在する。「元妻と娘」と「弟の涼二」に対してである。

そしてもうひとつこの物語に出てくる家族がある。「マイクとその配偶者の涼二」だ。

「弥一と元妻夏樹」はすでに離婚しており、「弥一と弟の涼二」はまったくの疎遠であり、「マイクとその配偶者の涼二」は同性婚であり、どの関係性も「世間一般的な家族」の形とは違う。

しかしどの関係性も、彼らにとって「家族」である。「弥一と元妻夏樹」も「マイクとその配偶者の涼二」も、彼らは縁によってーーそして愛情によって、繋がれているのだから。

「弥一と弟の涼二」の関係性は、涼二がカミングアウトして以降二人の間に溝ができ疎遠になってしまったが、マイクがまた再び二人の縁を繋いでくれた。そう、マイクによって、弥一と弟の涼二は「再び家族になった」のである。

弟の涼二がすでに故人である、という点も、<家族の関係性>を考える上でのポイントになる。

「マイクと故人である配偶者」、「弥一と故人である弟」という関係性は、「以前、家族であった」というべきなのだろうか、それとも「今も家族である」といえるのだろうか?

この作品を読んだ方なら、「今も家族である」という考えに違和感なく首肯するだろう。

なぜならここで彼らが抱いている「家族」という概念は、物理的な存在ではなく、<関係性>そのものを根拠にしているからだ。

私が以前、このブログで 

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに 

という記事を書いたとき、

『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)という本から、

死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)

生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。

と引用した。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 死んだ者とも関係性がある限り、つまり「思い続ける」限り、「家族」という関係性は残ったままなのである。

これが『弟の夫』という作品が示す<家族という関係性>である。

『弟の夫』という物語を究極的にいえば、疎遠であった「弥一と故人である弟の涼二」という関係性を、涼二の配偶者マイクが再び<家族という関係性>へと繋ぎ戻す、という物語だ。

そしてマイクは、弥一と涼二を<家族という関係性>へと繋ぎ戻すという「役割を引き受けた」ことによって、マイクは弥一とも<家族という関係性>を結び得ることができたのである。

だから弥一が 「もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えたのは、それは戸籍上の概念ではなく、本心から<家族という関係性>になっている、という意味だ。

『弟の夫』は、物語最後のコマに、3枚の写真が載せられて幕を閉じる。

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「マイクと涼二」「夏菜が生まれたときの弥一と妻夏樹」、そして「温泉旅行で撮った、弥一、夏菜、夏樹と、マイクの4人」の写真である。

この3枚の写真は、彼らが「家族である」という証ーーたとえ「世間一般的な家族」の形とは違っても、彼らは間違いなく家族なのだーーであり、彼らの絆の記録なのだ。     <了>

 

本日のマンガ名言:もうとっくになってるよ、家族

 

追記)他にLGBTがテーマのマンガでは、ふみふみこぼくらのへんたいを以前書いたので、読んでみてください。

ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期  

【告知】文学フリマ東京(11/23 木・祝)参加します。サークル「文化系女子になりたい」(カ-25)

文学系同人誌即売会 第二十五回文学フリマ東京に出展参加します。

 第二十五回文学フリマ東京

日時;11月23日(木祝) 11:00~17:00

会場;東京流通センター 第二展示場 東京モノレール流通センター駅」徒歩1分)

私たちのサークルは文化系女子になりたい」

ブースは「カ-25」2Fの入口から左の列の中盤にあります。

「批評 サブカルチャー」カテゴリのところです。

頒布する冊子はコピー本の合同誌文化系女子になりたい』

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1冊100円です。

内容は、短歌と、文芸マンガと、漫画文学論(漫画批評)の3本立てです。

短歌は私以外の2人のメンバーによる作品、

漫画文学論は私のブログ記事を掲載、文芸マンガは私が書きおろしました。

その他に、本誌に入りきらなかった記事や小冊子を10円~で出す予定です。

絶対に損はさせません、ぜひお越しください! 皆さんとお会いして何か語らいたいです!

『エロ本黄金時代』にみる、伝説のエロ本ライター・奥出哲雄という男の栄光と転落

サブカル度数の高い傑作本を読んだ。

『エロ本黄金時代』(本橋 信宏,東良 美季)。

エロ本黄金時代

エロ本黄金時代

 

タイトル通り、「エロ本黄金時代」である80年代のエロ本の変遷と、エロ本周辺の出版カルチャーを解説した労作だ。

私は85年生まれなので、エロ本カルチャーの洗礼は全く受けていない。私の「知らない世界」なのだが、この時代のこの業界の持つ熱気と”イカガワシサ”は、ものすごく面白いものだったようだ。

本書の内容を紹介したい。

  • 80年代エロ本クロニクル ーー80年代エロ本の変遷と紹介
  • 日本出版歴史のターニングポイント、80年の自販機本の世界 ーー「エロも載ってるサブカルアングラ雑誌」である、自販機本『Jam』は、なんと山口百恵宅のゴミ漁りを載せた(『Jam』については、ウィキペディアに詳しい。 Jam (自販機本) - Wikipedia 
  • エロ雑誌に「AV批評」を持ち込んだ伝説のエロ本ライター・奥出哲雄
  • 『ビデオ・ザ・ワールド』中沢慎一編集長インタビュー ーーサブカル色の強いエロ本。2013年に休刊。写真は撮影するのに金がかかるので、AV批評など文章を多く入れた内容だった。
  • エロ本『でらべっぴん』の英知出版・AVメーカー宇宙企画の社長・山崎紀雄についてのコラム
  • AV黎明期(80年前半)のヌードモデル中村京子インタビュー
  • エロ本デザイナー有野陽一、明日修一インタビュー
  • 不良雑誌『BURST』編集長ビスケンの(エロ時代)インタビュー

 と、エロ本がかつて持っていた「カウンターカルチャー性」を知ることのできる内容。

どの項目も眩暈がするほどサブカル濃度が濃くて面白いので、各項目について詳しくはぜひ本書を読んでもらいたい。

今回取り上げたいのは、本書に取り上げられていた<伝説のエロ本ライター・奥出哲雄である。

奥出哲雄。現在インターネットで検索しても、ほとんど彼に関する記事は出てこない。本書の紹介記事の中にぽつんと名前がヒットするくらいだ。いわば「忘れられた人物」といっていい。

奥出に関する情報で、唯一彼の人物像を書いたネット記事は、奥出に莫大な借金を背負わされた(!)AV男優の太賀麻郎が回顧した記事だけである。

太賀麻郎のブログ 復刻版・消えたハズの日記「奥出哲雄という生き方」2009/5・29

奥出について、太賀はこう書いている。

借金から逃げるような生活の氏は、妻子と相変わらずの別居暮らしで、事務所に住んでいた。

そこで金がないのに伝言ダイヤルにはまり、月に100人もの女の子を食った。

この老獪な妖怪のようになった彼に女の子達は援助交際のつもりで来ていたのに言いくるめられ、逆に説教までされて、若い肉体をむさぼられた。

アロックスの倒産で、氏の髪の毛はすべて抜けおち、体毛もすべて抜け、生えてこない状況の風貌はかなり不気味で、初めて見た人は度肝を抜かれるようであった。

なにやら悲惨な状況である。

しかし、本書を読むと、奥出哲雄は天才であり、間違いなく栄光を手にしていたという。

本書著者の東良美季は、奥出を師匠と仰いでいたようで、本の中で2章にわたって奥出の記事を書いている。

この記事では『エロ本黄金時代』に紹介されていた、伝説のエロ本ライター・奥出哲雄という男の「栄光と転落」を忘備録として記しておきたい。

  • 1950年生まれ、日大芸術学部卒業後、映画界が斜陽なのでピンク映画界に入り、山本晋也監督のチーフ助監督になる。村上龍が撮った映画『限りなく透明に近いブルー』では助監を務め、内トラ(身内エキストラ=スタッフが務める)として地下鉄に乗る三田村邦彦を追いかけてくる警察官として出演。小芝居をして、転ぶ警察官を演じた。
  • ピンク映画の助監では食えず(年収35万、とのこと)エロ本ライターに。まだAVがなかった時代、『オレンジ通信』というエロ本で、ビニ本裏ビデオを自分の足で仕入れ、自ら「オクデ先生」と名乗って紹介。単なる紹介ではない批評精神の高い記事を書く。東良は「奥出がエロ本の世界に批評を持ち込んだ」と評する。奥出はのちに『オレンジ通信』では紙面の6割の記事を書くことになる。
  • アダルトビデオの本格的な批評誌『ビデオ・ザ・ワールド創刊。編集長は、この雑誌はもとより奥出ありきだった(と著者東良は考えている)。この雑誌において取材ものに関しては、奥出の独断場だった。当時は「あの気持ち悪い」という評価であった村西とおるを、同誌で1番最初に評価した。
  • 月産1千枚以上は書く仕事量で、「去年の収入は一千二百万円を超えた。来年には二千万に届くであろう」と記事に書いていた。ワープロがほぼない時代なので右手が腱鞘炎になり、担当編集者が口述筆記していた。
  • 今でいう、大学教授の姜尚中のような風貌で、ニヒルでインテリだった。自身を偽悪的にみせるところがあり、奥さんがありながら、いつも4、5人の愛人がいると公言していた。とっかえひっかえ女性を口説いていた。

エロ本業界の姜尚中奥出のダンディなたたずまいがわかろうというものだ。

大量の仕事をこなし、ライターとして破格の金を稼ぎ、女を口説きまくる成功者ーーそれが奥出であった。

しかしこの後、奥出はAV業界へと転身し、そこから転落の道をたどることになる。

 

  • AVメーカーにディレクターとして関わる。村西とおるが女優とスタッフを引き連れAVメーカー「クリスタル映像」を離脱し、「ダイヤモンド映像」を設立したため、奥出は人員のいないクリスタル映像に移籍。奥出チームはクリスタル作品の半数を占めたという。
  • AVメーカーアロックス設立。しかしバブル崩壊と共に、実質2年で倒産。アロックスの作品の正規盤はあまり売れず、発売後1週間もすると海賊盤が出回っていたという。内部の人間が海賊盤を作っていたという噂もあった。 これにより奥出は借金を背負う。
  • 太賀麻郎の言うように、倒産してからの奥出は髪の毛がすべて抜け落ち、海坊主みたいな風貌だった。
  • 彗星舎というセルビデオメーカーを設立。「薄消し」というグレー(限りなく非合法)なビデオを制作。04年猥褻図画の容疑で逮捕拘留。
  • 太賀麻郎は奥出の借金を背負って自己破産。奥出はその後失踪、現在の消息はわからない。

以上が本書『エロ本黄金時代』から読み取れる、奥出哲雄の半生である。

私は読んでいないが、東良美季は『東京ノアール 消えた男優太賀麻郎の告白』という小説を発表したという。

東京ノアール 消えた男優 太賀麻郎の告白

東京ノアール 消えた男優 太賀麻郎の告白

 

 「AV男優太賀麻郎が、80年代末期~現在を回想する」という内容だそうだ。これがノンフィクションでなく「小説」という形式なのは、事実として書くにはヤバすぎる内容を多く含むこと、そしてあえて取材で裏は取らず、特異な感性の持ち主である太賀麻郎の目からみた世界を書きたいと思ったからだそうである。

この小説の中に「赤木晴彦」という男が出てくる。これは奥出がたまに使っていたペンネームで、奥出哲雄がモデルであり、本記事で述べたような転落を遂げる。「太賀麻郎から見た奥出哲雄」像である。

東良はこの小説を書き終えたあとも、「奥出哲雄」と「赤木晴彦」がうまく繋がらず、まるで「その時々で人格が2つに分裂していく」ようだと述べる。

(奥出の数々のトラブルのせいで)彼を悪く言う人がいる。しかし、僕にはそれが理解出来ない。太賀麻郎から聞いた話を元に『東京ノアール』という長い物語を書き終えて尚、それでも判らないのだ。何故なら奥出は僕にとって、常に限りなく優しい男だったからだ。

かつてエロ本業界には、奥出哲雄というーー少なくとも一人の男にとっては「優しかった」男ーー、一時代を築いたライターがいた。時代と共にに忘れ去られたこの男の半生を、現在に克明に伝えるだけでも、この『エロ本黄金時代』は価値のある傑作である。

極私的女優論:マンガ『私の少年』と、「私の妹」にしたい杉咲花

高野ひと深私の少年というマンガがある。

30歳独身恋人なしのOLが、ふとしたことから美形の少年に、夕方だけサッカーを教えることになることになり、そこから二人の交流が始まるマンガである。そこでは独身OLお姉さんと少年の、親子でもなく姉弟でもなく友人でもなく恋愛でもない、奇妙だが心地よい関係性が描かれる。

 あとがきで作者曰く「これまで男性向けジャンルだったおねショタを、女性向けにしたもの」だそうだ。おねショタとは「おねえさん×ショタ」のことである。(私は「おねしょするショタ」と勘違いしてた。しかし気になるのは、おねショタ読者は、お姉さんに萌えるのだろうか、ショタに萌えるのだろうか?それともショタがお姉さんに甘える関係性に萌えるのだろうか?)

この『私の少年』に出てくる二人ーー30歳独身OLの聡子と、12歳美少年のましゅうーーは、30歳独身OLの聡子は仕事に悩む一般的な女性として、つまり30歳独身女性として一般的な「リアル」に描かれているのに対し、ましゅうは子供らしい純粋さやひたむきさを持った美少年キャラとして、つまり一種の「大人のもつ、<理想の子供>のイメージ」のキャラとして描かれている。

f:id:akihiko810:20171017211246j:plain ましゅう(上)と聡子

私は昔、小学生という「少年」だったので断言するが、ここまで「純粋さ」を持つ12歳の少年は、現実には存在しない。なぜなら男子にとって少年期とは、人生で一番アホな年頃だからである。現実の小学生男子は、友人たちとクラスの女子に「ブス!」と悪態ついてにからかったりする「馬鹿ガキ」か、あるいは少し背伸びして大人ぶった言動をする「ませガキ」である。そこにあるのは輝くような「純粋さ」ではなく単なる「アホさ」だ。

もし、ましゅうのような<大人の考えるような理想の子供>が、実在するとしたら、クラスの大多数に馴染めず実はいじめられてるような、影のある孤独な子供だろう。

いずれにせよこの「純粋な美少年」は、リアルなキャラというより、大人(読者)の妄想を体現する理想のキャラ、といった側面が強い。

ましゅうが「妄想を体現する理想のキャラ」であり、聡子が「リアルなキャラ」ーー私達読者のリアルを投影する役割を持つーーだからこそ、この作品は強い魅力をもつ。

そしてこの作品は聡子というリアリティの上に成り立ち、フィクションでありながら「これ実在するかも」というリアリティある作品として成立している。

さて、私がこの作品を読んだ(既刊3巻まで読んだ)ときの感想は、まず「この出だしは傑作マンガになる予感!」だった。ここからどういう展開になり結末を迎えるのかはわからないがーーまさか、聡子と大人になったましゅうが結婚エンド、なんて陳腐な結末にはしないだろうーー、二人の成長とそこで変化する関係性を見ていきたいと思った。そしてもうひとつの率直な感想、むしろ私がこの漫画を読んでの第一声は「こんなのズルイ!」であった。もう少し詳しく言うと「女性ばっかり美少年に癒されるなんてズルイ!俺も癒されたい!だ。

そりゃオトナの女性(読者)は現実に疲れているわけで、たとえ非現実的でも「純粋な美少年」に癒されたいのは当然だろう。オトナの女性は皆、純粋無垢な美少年に回転ずしをおごってあげて、楽しい時間を共に過ごしたいのである(聡子がましゅうを連れて初めて回転ずしに行くシーンは、この作品屈指の萌えシーンだと思う)。そこのツボを絶妙に押してくるこの作品は、実に目のつけどころがいい。

f:id:akihiko810:20171018022714j:plain ましゅう初回転ずし。これは萌える!

私が「ズルイ」と思ったのは、そこには「性の非対称性」があるからである。これを男女を逆にして、「おじさんが、(親戚でも何でもない)全くの他人である美少女を愛でるマンガ」にしたら、もうこれは完全なフィクションになってしまうのだ。

このご時勢、「おじさん×純粋な美少女」は現実にはポリス沙汰である。それは大袈裟だとしても、そこにはどうしてもーーたとえ男性側に「その気」がなくてもーー見る側には男性側の「下心」がまとわりつく。

もちろんこういう「おじさん×純粋な美少女」設定のマンガは、(私には今の所思い浮かばないが)いくつかあるだろう。しかしそういう作品を「これ本当に実在しそう」なリアリティを提示して、ここまで深い関係性を成立させるのは、かなり困難なことのように私には思える。

私の少年』にも、現実的なリアリティを表す場面として、<聡子が、親でなくただの他人でしかないましゅうの家庭の現実的な問題に対し、何もなす術がないことを思い知る>という場面がある。女性でもそうなのだから、男性が美少女を愛でる物語は夢物語というものだ。

そういう、絶妙で危ういリアリティの上に成立しているのが『私の少年という作品である。

ーーとここまでマンガの紹介をしたわけだが、実はマンガ紹介だけをしたいわけではない。

「俺も『私の少年』みたいに、こういう女の子と仲良くおしゃべりしたい!癒されたい!と思った話を書きたいのである。

先日、CSで湯を沸かすほどの熱い愛』(16)という映画を観た。その年のキネ旬邦画ベストテン第7位、というなかなかの出来の映画であった。

湯を沸かすほどの熱い愛
 

 宮沢りえが主役の母親役で、その娘(たぶん高1)役を、杉咲花が演じていた。

f:id:akihiko810:20171018024618j:plain 銭湯の娘役の花ちゃん

杉咲の演技は上手い。顔立ちは地味ながら愛嬌があり、私の好きな「若い女優」である。

私が彼女を女優として認知したのは、世間と同じく味の素のCMで回鍋肉を食べるシーンを見てだと思う。

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以来ドラマとかで見かけると、存在感あるなぁと思っていたのだが、この映画が公開されたときに、番宣で『しゃべくり007』に宮沢りえと出演した回があった。

杉咲はトークで「『とと姉ちゃん』に出てから皆をくすぐるのがマイブームで…」と言って、ネプチュ-ン原田をくすぐりながら、なぜか

「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げていた(逆に、くすぐられている原田が「全然くすぐったくない」と全く笑ってないのにウケた。)

この光景を見て私は、「か、可愛い…」 一目惚れした。

笑い声を文字起こしすると「ウィーィッヒヒヒィー!」である。私は今まで、こんなに珍妙な笑い声をあげなら、ここまで無垢に笑い転げる女性を見たことがない。

f:id:akihiko810:20171018025758j:plain 笑い声が超ヘンでかわいい

その笑い転げる様に一目惚れした。しかしこの一目惚れは、「好き。付き合いたい」という感覚とは違った。私はおそらく、一回りほど杉咲の年上だろう。彼女と付き合いたいというより、妹になってほしいと思った。いや、妹だと近すぎる …親戚のおじさんになりたい。

そう、「親戚のおじさんになりたい」と思った。たまに会ってご飯でも食べながら話をして、そのときに「ウィーィッヒヒヒィー!」と奇妙に笑い転げて、私を癒してほしいと思った。

他愛のない話をしたら、なぜか彼女が「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げて、それにつられて私も笑ってしまう。彼女が「くすぐってあげるよ」と言って、笑い転げながら私をくすぐるが全然くすぐったくない、「くすぐったくないよ!」と私がツッコむと、やっぱり「ウィーィッヒヒヒィー!」と笑い転げる彼女 ーーそんな素敵な時間を過ごしたい。

そしたらおじさん、回転ずしでも回鍋肉でも何でもごちそうしてあげるわ。いやむしろごちそうさせてください!な気分である。(とはいえ、杉咲の方が私よりよっぽど金持ってるだろうけど)

 ーーというわけで、マンガ『私の少年』みたいに、「年下女優・杉咲花と一緒に楽しい時間を過ごしたい!俺も年下に癒されたい!」という、私(おっさん)の妄想記事なのであった。

と、ここまで書いて、私の少年』が男女逆になると一抹のキモチワルさが出てしまうことが実証されてしまうのであった(苦笑 さすがに俺もキモイことを書いてるのは自覚しているぞ!)

ところで杉咲花は、今ウィキペディアみたら97年生まれとのことで、現在20歳のようだ。顔立ちが幼いのか、高校生程度にしか見えないけどなぁ。

意外と大人だが、それでもやっぱり恋人ではなく親戚のおじさんになりたい(笑)

そして、肝心の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』だが、いじめられている杉咲がいじめに抗議して、教室で下着姿になるシーンがある。

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このシーンを見ても、特に「眼福!」とうれしいわけでも、ドキっとするわけでもなく、ただ「わかったから、とにかく服着なさい!」となぜか保護者のような複雑な気持ちになってしまうのであった(苦笑)

だから私は、これからは杉咲花の概念上の保護者(エア保護者)として彼女を見守っていきたいと思う。もし彼女がお嫁にいくことになったら、エア祝辞を出して泣いてお祝いするつもりだ。 <了> 

 

 過去記事:女優・大後寿々花と、クンニ顔という概念

1年程前に書いた、大後寿々花 についての極私的女優論

イベント「モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」レポ

モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」という新宿でやったイベント(トークショー)にいってきました。メモしたことを公開。

 

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二村といえば、恋愛指南本『すべてはモテるためである』(男向け)、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか 』(女向け)の著書。私は二村の本はほとんど読んでいるはずだ。二村の話目当てに行った。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 深志美由紀という人は知らなかったのだけど、団鬼六をとった官能小説家だそうだ。ドMでだめんず好きで、売れないバンドマンを養ったりするのが好きだとのこと。

ところで今のご時世、官能小説って食えるのだろうか…?

花鳥籠 (悦文庫)

花鳥籠 (悦文庫)

 

アダルトグッズ企業のラブメルシーが協賛してたので、参加者全員にバイブと試供品コンドームが配られた(笑

ということでメモ公開。 ざっくりメモとっただけだったのと、イベントから数日たってるため記憶も曖昧なので、完全に正しい書きおこしではないので容赦されたし。

 

二村:自分は演劇をやっていてそこそこ客が入っていたが、スズナリとかで松尾スズキの「大人計画」をみて「こいつらには勝てないわ…」と思った。

そのときにはもうAVの世界に足つっこんでいた。なぜか根拠もなく「俺のセックスはカネになる」と思っていた。セックス好きだったので。ちょうど子供が産まれた時期が、運よくSODが出てきたときで、AV作品でも「痴女モノ」がうけるようになったので、AVで食えてた。…とのこと。

 二村が演劇やってたのは知っていたが、大人計画みて挫折した口だったのは初めて知った。私も大人計画好きなのだが、そういう演劇人は多かっただろうと想像できる。 あとこの講演とは関係ないが、SOD勃興期の話は、本橋信宏 著『新・AV時代 悩ましき人々の群れ』 に収録されていてかなり面白かったので、皆さんぜひ読んでみるといいと思う。 

新・AV時代

新・AV時代

 

〇男性向け編

 深志:私はヤリチンとばっかつきあってた。「感じのイイ馬鹿」が好き。二村とも同意したが、「うわの空な男(自分に100%を注いでこない男)はモテる」。ムーミンでいうスナフキン

二村恋愛工学は敵だが、論理的には正しい。一人の女に執着する男は(二村用語でいう)キモさが出る(恋愛工学でいう非モテコミット)ので、そうならないようヤリチンになるべき、という理論なので。 非モテが恋愛工学身に着けてもキモい。

深志:デートコースからセックスするまでを詳細に練習するヤリチン男がいた。このタイミングで手を繋いでキスして…みたいなのを事前に一人で現場で練習する。部屋は間接照明にお香。普通に考えればこんな男はキモいのだが、実際のデートでは全くキモくなかった。ギラギラ感がなくなるまで練習すれば、キモさは出ないのかも。

二村:男は「多くの女にモテたい」と思えばヤリチンになり、その逆ならラピュタみたく空から落ちてくる運命の女を待ってるような男になりキモい。

モテたいと思う相手がいないのに、男はなぜモテたいと思うのか?社会的に承認されたいとか、男社会のお約束がキモイ。なぜモテたいのか、こういう欲望を持っているのかということを男は考えなすぎ。 逆に女は、「なぜ私はモテないのか」考えすぎ。その時間でオナニーして、いいオーガズムを勉強すべき。男は考えずにオナニーしすぎで、女は考えすぎるくらいじゃオナニーしたほうがいい 。

深志:二村の『すべてはモテるためである』ではモテない男はキャバクラで女性と話す練習しろとあったが、キャバクラの接客は100%ヨイショなので練習にならない。相席居酒屋で練習するくらいがいいのでは。

〇女性向け編

二村:男はモテないことに悩む一方、女の人はなぜあの人を好きになるのかって言う自責の念に襲われる。女は考えすぎ。

女が「支配してくれる男」が好きなのは、「女は主体的になるなという」(二村用語の)「心の穴」を(主に親から)空けられているから。女の人は自主性を持った方がよい。

客席から)女性がモテるようになるコツは?

深志女性は隙のある女がモテる。これは真理。男はやれそうかどうか見てる。実際にやらせなくていい。多数の男をとにかく「食事につれてって」と誘う。…非モテコミットされたら?それが「モテる」ってことでしょ?まぁ、興味ない男にはおごらせておけば?

「うわの空の女」はやれそう感がないので、ヤリチンも手を出してこない。50代のチャレンジャーヤリチンくらい?

二村:意識的にポジティブヤリマンになろうとすると、必ずネガティブヤリマンになって闇落ちする。 メンヘル化する。 自分の中の男性性を自覚するといいヤリマンになれる。

〇モテとオタクについて

参加者のメールより)

女「今までつきあったことがない。恋愛できない自分が寂しい」

男「低収入で自信がない。恋愛願望がない。心配だ」

二村:もし他のことで心の穴が埋まっているのなら別に恋愛しなくていい。恋愛とは他人と出会うことで傷つくことだから。

たとえばオタクになるとか。僕は「自分を確立したインポ」として優しく老後を生きたい(二村は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の主人公マックスを、性欲につき動かされてないインポヒーローだと肯定的に評していた)

他人というものは思い通りにならないものなので、恋愛しても寂しい人は寂しい。相思相愛などこの世にない。「愛し返す」くらいしかできない。

恋愛やセックスを何か重大なものと思い込みすぎ。そういうことを客観視するとうまくいくことが多い

深志:オタクは疑似恋愛。オタクは皆性的。腐女子は皆、アナルアナル言ってるし。

二村:モテの代償行為(逃避)としてオタクをやっていると、キモさが周りにバレてしまうのでモテない。ガチで(つまり「モテるために」でなく)やると、だいたいはオタク仲間ができるので、その中で異性ができることもある。「うわの空理論」と重なる。

深志:ただ、オタクになるのには才能がいる。

二村:元も子もないけどそれで言うと、恋愛も才能

〇その他

 二村:「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」って言うのがモテるかの第一歩。多くの男はそれを考えたことがない。

 二村:メンヘラ女性ブロガーは客観性がないので小説は書けない(北条かやのことか 笑)

深志:ツイッターのフォロワーに、「宅配荷物の受け取りを全裸でする」フェチの人がいた。包茎ちんぽを女性宅配員にみせる性癖。しかしその人は、包茎手術したらこの欲望がなくなってしまったという。コンプレックスが性癖に影響するいい例。

 二村:乙武は圧倒的自己肯定感のかたまりのような人。だから乙武とセックスしたいと思わない女性はいないでしょ?絶対レイプしないし

乙武については『KAMINOGE』というプロレス雑誌で、前田日明が「性欲、ネゴシエーション能力、コミュニケーション能力、そのすべてが称賛に値する!」と褒めてたのを思い出して笑ってしまった。やっぱ乙武はモテるよな)

 

かきおこし以上。質疑応答では、質問者にバイブやローションなどのラブグッズが配られて楽しかった。

トークショーのあとは懇親会(食事会)だったが、新宿で書店めぐりする予定を優先して参加しなかった。もしこの記事をみた人で、参加した人がいたらどんな話が出てたのか教えてください。

私の感想としては、自分はオタクメンタルなので、現状特にモテなくても辛くないのかなと思った。

「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」という質問を自分投げかけてみたが、私は「好きな事をやってる女性(=オタクなひと)」が好きなので、自分は「なる」と思った。普段意識したことはなかったが、自分は自己肯定感が高い人間のようだ(笑

あと、「<自分の居場所>のない人」って世の中結構いるのだな、と思った。私は趣味の場では読書会に参加してるし、友人も何人かいるので、精神的にもコミュニティ的にも「居場所」はあるので、その点は安心した。

自身のモテの話でいうと、年齢30超えると性欲衰えるし、趣味とかいろいろやることに忙しくて時間ないし、「複数の女性にモテたい」とは全然思わない。「この人面白いな」って人にピンポイントでモテたい。自分は「非モテコミット」な人間なのだと思った。なのでそのキモさが出ない感じで、気の合う女性にモテたいなと思った。

ということで、私と一緒にバイブでエッチな遊びをしてくれるオタク系の女子とつきあいたいです!誰か私とつきあって!

 

 追記)以前参加した、二村の話のレポ

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ in バレンタイン

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こうの史代『この世界の片隅に』を読む ~戦時下という非日常でみつける<日常という奇跡>

こうの史代この世界の片隅に』。

今アニメ映画が大ヒット中である。キネ旬の今年の邦画第1位にもなった。でも私はまだ映画は未見だ。年末年始で支出が多いから、映画代がないのだ(苦笑)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

で、原作。この作品は紛うことなき傑作である。「十年に1度レベルの」という枕詞をつけてもいい。

この作品は、作品における<日常描写のきめ細やかさ>が大きな魅力と物語性をもっているので、到底あらすじを紹介しただけではこの素晴らしさを語りつくすことはできないのだが、あらすじの紹介と、その文学性の考察をしたい。

あらすじ~~~~

時は昭和19年2月、絵を描くことが得意で、それ以外はぼーっとぬけた少女すず広島市から、呉の北條家・周作のもとに嫁ぐ。

戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑(周作の姉)黒村徑子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていく。

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9月、すずは遊女リンと知り合う。彼女の持っていたノートの切れ端が周作のものだということを偶然知り、夫がかつてリンの遊郭に通っていたことを悟る。

12月、すずの幼馴染で水兵である水原がすずを尋ねに来る。水原は帰る場所がないので、すずの家に泊まった。周作は、水兵でありもうすずと会えないかもしれないことを案じるが、家長の周作は水原が泊まることをよしとせず、納屋に寝てもらうことにした。すずも水原の納屋に泊まり話をすることになった。

水原はすずへの懐かしさにすずの肌に触れるが、すずは周作への想いからそれを受け入れなかった。水原は「これが普通じゃ」とすずの想いを悟り、この<まともでない世界>の中でもすずは「ずうっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と言う。

軍港の街である呉は、昭和20年3月19日を境に頻繁に空襲を受けるようになる。

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6月22日の空襲で、投下されていた時限爆弾の爆発により、すずは姪(徑子の娘)晴美の命と、自らの右手を失う。7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下した。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日ーー8月6日ーーつまり読者は知っているあの日だーーに実家に帰ってくるように誘う。そして8月6日の朝、すずは徑子と和解し、すずは北條家に残ることを決意する。

その直後、閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する。広島への原爆投下だ。

8月15日、ラジオで終戦詔勅を聞いたすずは「そんなん覚悟のうえじゃなかったんかね。うちは納得できん!」と怒りをあらわにし泣き崩れる。 

リンがいた遊郭は、空襲で焼失していた。

翌年1月、すずはようやく周作と広島市内に入る。廃墟となった広島でーー周作とすずが初めて会った場所でーーすずはこの世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝する。

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戦災孤児の少女がすずに母親の面影を重ねていた。すずと周作は、この少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。

~~~~~

あらすじだけ読んでもこの作品の素晴らしさは伝わらないので、ぜひ実際に読んでもらいたい。

この世界の片隅に』は、言ってしまえば<他愛のない日常生活>を、これでもかとばかりに丹念に描写し、それを積み重ねていく。

そしてそこからは「戦時下という非日常でも、今現在の私たちの生活と地続きの<日常>を人は生きていた」という、(戦時下を体験したことのない)現在を生きる我々が見落としがちな視点が浮かび上がる。

そして戦時下であるからもちろん、この<他愛のない日常生活>は戦争によって蹂躙されていく。

そして読者は<この日常>が、原爆投下という悲劇を迎えることを知りながら、彼らの生きる<日常>を追従する。

そして 原爆が投下され、終戦を迎え戦争というカオスが終わる。

このときすずは、この戦時下というカオスに今まで適応していたが、これがたかだか天皇一人の言葉で終わる程度のものだったことを知り、激しく憤る。

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この大仰で凄惨な戦争がたかだかその程度のものであったこと、そして「たかだかその程度のもの」によって人々が蹂躙されていたのだということ。すずはそれを悟る。

終戦によってカオスが終わり、すずは自分にとって大切なことを意識する。

この作品の最も主題となる場面ーーすずが広島でこの世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝を述べる場面だーーこの言葉をきくことで読者は、すず達が生きていた「戦争という非日常の中の<日常>」の中にあったのは、「共に家族が過ごしていた<日常という奇跡>」であったということを知る。つまりこの場面は、すずがーーそしてそれを今まで見ていた読者にとってもーー、日常を奇跡だと受け止めること(感受性)を自覚し、言語化する場面なのだ。

この世界の片隅に』における<他愛のない日常生活>の描写の積み重ねが、この<日常という奇跡>に説得力を与え、読者に<日常こそが奇跡である>と気付く感受性をもたらすことを可能にしたのである。

<日常こそが奇跡である>という感性とは、どのようなものだろうか。

宮台真司著『中学生からの愛の授業』には

「恋」が「単なる非日常」だとすると、「愛」は日常を奇跡だと受け止める感受性と結び付く。日常を奇跡だと受け止める感受性は、数限りない失敗と挫折と不幸を経験しないと育たない。リスクを回避して、平和な人生を送りたいと思っている人には、「愛」は永久に無理なんだ。

 とある。

<日常こそが奇跡である>という感性は、つまりは「私がこの人とここにいたい」という「愛」の感情なのだ。

読者はこの物語を読み、<「戦争という不幸体験」を含む日常>を経験することで、そしてその日常の中に愛があることを感じ取ることで、読者は<日常こそが奇跡である>と受け止める感受性ーーつまり、日常を生きる糧である「愛」ーーを獲得するのである。

 これが『この世界の片隅に』という物語がもつ文学性であり、そしてこの漫画が傑作たる理由であるといえる。

すずは戦時下という非日常のなかにあって、穏やかに煌めく日常の中から、その<日常という奇跡>を見出した。しかし現代の我々が生きる日常は、平穏無事なものであり、人によってはのっぺりとした退屈なものだろう。

我々読者は<日常という奇跡>を感知することができるのだろうか。

それはもちろん可能である。

なぜなら、我々は「この世界の片隅に」生きる小さな存在でしかない。

そんな小さな存在でしかないのに、わざわざ「みつけてくれる」他者がいてくれるのなら、そしてその他者の存在に気付くことができたのなら、それはもう「奇跡」としか言いようのない、感謝すべき幸福なのではないだろうか。 
だからこの物語は、「この世界の片隅に」生きる我々のための物語なのである。 <了>

 

今日の漫画名言:この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう

 

追記;<日常という奇跡>は<関係性の履歴>である。

業田良家自虐の詩』もあわせて読んでほしい。

akihiko810.hatenablog.com

 

オウム真理かるた

オウム真理教アレフが、教義を広めるためにかるたを作ったらしい。

たぶん堅苦しくて面白くないだろうから、私が、皆がもっと楽しむことのできるように「オウム真理かるた」を作ってみた。

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 ああいえば上祐
 イニシエーション 修業するぞ 修業するぞ
 うまかろう安かろう亭で ただ働き
 江川紹子が有名になったきっかけ
 オウム真理教に入ろう

 上九一色村サティアン
 救済するぞ 救済するぞ
 グル 麻原彰晃
 ケロヨンクラブは オウム派生団体
 甲本ヒロトの同級生、中川智正死刑囚(元医師)

 サリン製造 第7サティアン
 しょうこう しょうこう あさはらしょうこう
 水中クンバカ「よーしアーナンダ、もうダイレクトにいくぞ!」(麻原がクンバカする弟子に言った言葉) 
 選挙に出馬だ 真理党
 尊師 尊師 麻原尊師

 ダーキニーの愛人囲い
 地下鉄にサリン
 次にポアするのは 池田大作
 電流流すヘッドギア
 苫米地英人が脱洗脳

 生ダラにも出た 麻原さん
 日本シャンバラ化計画
 抜き打ち捜査も かわしてみせる
 熱湯に入れ キリストのイニシエーション(LSDを体から抜くために熱湯に入れられた)
 残り湯の ミラクルポンドは2万円(麻原の風呂の残り湯をミラクルポンドと称し信者に売ってた)

 走る爆弾娘・菊地直子
 ひかりの輪は上祐派
 VXガスで襲撃
 弁護士一家殺害事件 TBSがビデオ流出
 ポアするぞ ポア

 松本智津夫死刑囚
 未解決 国松長官狙撃事件 
 村井秀夫刺殺事件 あっけなく死ぬナンバー2
 メチルホスホン酸モノイソプロピル(サリンの副生成物。当時のニュースで連呼された)

 森達也が潜入取材 ドキュメンタリー『A』と『A2』

 ヤソーダラーは麻原夫人
 許さない 脱退信者はリンチでポアだ
 横山弁護士「も、もう~やめて!」

 (ダライ)ラマにも謁見 麻原尊師
 陸上競技部もありました
 ルドラチャクリンのイニシエーション(覚醒剤とLSDを飲む修業)
 練習すれば 誰でもできる 空中浮遊
 ロシアで布教だ モスクワ支部

 私はやってない 潔白だ(エンマの数え歌)
 ヲわりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル
 

いかがだろうか。

ぜひお正月にこのかるたで家族で遊んで、オウムの教義にふれていただきたい(おい

なお、この記事は匿名ダイアリにまず投稿し、トラバやブコメで意見を募ったことをここに記しておく。

anond.hatelabo.jp