イベント「モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」レポ
「モテる大人のつくり方――アダルトビデオ監督・二村ヒトシに、女流官能小説家・深志美由紀が聞く!」という新宿でやったイベント(トークショー)にいってきました。メモしたことを公開。
二村といえば、恋愛指南本『すべてはモテるためである』(男向け)、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか 』(女向け)の著書。私は二村の本はほとんど読んでいるはずだ。二村の話目当てに行った。
なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)
- 作者: 二村ヒトシ
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2014/04/10
- メディア: 文庫
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深志美由紀という人は知らなかったのだけど、団鬼六賞をとった官能小説家だそうだ。ドMでだめんず好きで、売れないバンドマンを養ったりするのが好きだとのこと。
ところで今のご時世、官能小説って食えるのだろうか…?
アダルトグッズ企業のラブメルシーが協賛してたので、参加者全員にバイブと試供品コンドームが配られた(笑
ということでメモ公開。 ざっくりメモとっただけだったのと、イベントから数日たってるため記憶も曖昧なので、完全に正しい書きおこしではないので容赦されたし。
二村:自分は演劇をやっていてそこそこ客が入っていたが、スズナリとかで松尾スズキの「大人計画」をみて「こいつらには勝てないわ…」と思った。
そのときにはもうAVの世界に足つっこんでいた。なぜか根拠もなく「俺のセックスはカネになる」と思っていた。セックス好きだったので。ちょうど子供が産まれた時期が、運よくSODが出てきたときで、AV作品でも「痴女モノ」がうけるようになったので、AVで食えてた。…とのこと。
二村が演劇やってたのは知っていたが、大人計画みて挫折した口だったのは初めて知った。私も大人計画好きなのだが、そういう演劇人は多かっただろうと想像できる。 あとこの講演とは関係ないが、SOD勃興期の話は、本橋信宏 著『新・AV時代 悩ましき人々の群れ』 に収録されていてかなり面白かったので、皆さんぜひ読んでみるといいと思う。
〇男性向け編
深志:私はヤリチンとばっかつきあってた。「感じのイイ馬鹿」が好き。二村とも同意したが、「うわの空な男(自分に100%を注いでこない男)はモテる」。ムーミンでいうスナフキン。
二村:恋愛工学は敵だが、論理的には正しい。一人の女に執着する男は(二村用語でいう)キモさが出る(恋愛工学でいう非モテコミット)ので、そうならないようヤリチンになるべき、という理論なので。 非モテが恋愛工学身に着けてもキモい。
深志:デートコースからセックスするまでを詳細に練習するヤリチン男がいた。このタイミングで手を繋いでキスして…みたいなのを事前に一人で現場で練習する。部屋は間接照明にお香。普通に考えればこんな男はキモいのだが、実際のデートでは全くキモくなかった。ギラギラ感がなくなるまで練習すれば、キモさは出ないのかも。
二村:男は「多くの女にモテたい」と思えばヤリチンになり、その逆ならラピュタみたく空から落ちてくる運命の女を待ってるような男になりキモい。
モテたいと思う相手がいないのに、男はなぜモテたいと思うのか?社会的に承認されたいとか、男社会のお約束がキモイ。なぜモテたいのか、こういう欲望を持っているのかということを男は考えなすぎ。 逆に女は、「なぜ私はモテないのか」考えすぎ。その時間でオナニーして、いいオーガズムを勉強すべき。男は考えずにオナニーしすぎで、女は考えすぎるくらいじゃオナニーしたほうがいい 。
深志:二村の『すべてはモテるためである』ではモテない男はキャバクラで女性と話す練習しろとあったが、キャバクラの接客は100%ヨイショなので練習にならない。相席居酒屋で練習するくらいがいいのでは。
〇女性向け編
二村:男はモテないことに悩む一方、女の人はなぜあの人を好きになるのかって言う自責の念に襲われる。女は考えすぎ。
女が「支配してくれる男」が好きなのは、「女は主体的になるなという」(二村用語の)「心の穴」を(主に親から)空けられているから。女の人は自主性を持った方がよい。
客席から)女性がモテるようになるコツは?
深志:女性は隙のある女がモテる。これは真理。男はやれそうかどうか見てる。実際にやらせなくていい。多数の男をとにかく「食事につれてって」と誘う。…非モテコミットされたら?それが「モテる」ってことでしょ?まぁ、興味ない男にはおごらせておけば?
「うわの空の女」はやれそう感がないので、ヤリチンも手を出してこない。50代のチャレンジャーヤリチンくらい?
二村:意識的にポジティブヤリマンになろうとすると、必ずネガティブヤリマンになって闇落ちする。 メンヘル化する。 自分の中の男性性を自覚するといいヤリマンになれる。
〇モテとオタクについて
参加者のメールより)
女「今までつきあったことがない。恋愛できない自分が寂しい」
男「低収入で自信がない。恋愛願望がない。心配だ」
二村:もし他のことで心の穴が埋まっているのなら別に恋愛しなくていい。恋愛とは他人と出会うことで傷つくことだから。
たとえばオタクになるとか。僕は「自分を確立したインポ」として優しく老後を生きたい(二村は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の主人公マックスを、性欲につき動かされてないインポヒーローだと肯定的に評していた)
他人というものは思い通りにならないものなので、恋愛しても寂しい人は寂しい。相思相愛などこの世にない。「愛し返す」くらいしかできない。
恋愛やセックスを何か重大なものと思い込みすぎ。そういうことを客観視するとうまくいくことが多い
深志:オタクは疑似恋愛。オタクは皆性的。腐女子は皆、アナルアナル言ってるし。
二村:モテの代償行為(逃避)としてオタクをやっていると、キモさが周りにバレてしまうのでモテない。ガチで(つまり「モテるために」でなく)やると、だいたいはオタク仲間ができるので、その中で異性ができることもある。「うわの空理論」と重なる。
深志:ただ、オタクになるのには才能がいる。
二村:元も子もないけどそれで言うと、恋愛も才能。
〇その他
二村:「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」って言うのがモテるかの第一歩。多くの男はそれを考えたことがない。
二村:メンヘラ女性ブロガーは客観性がないので小説は書けない(北条かやのことか 笑)
深志:ツイッターのフォロワーに、「宅配荷物の受け取りを全裸でする」フェチの人がいた。包茎ちんぽを女性宅配員にみせる性癖。しかしその人は、包茎手術したらこの欲望がなくなってしまったという。コンプレックスが性癖に影響するいい例。
二村:乙武は圧倒的自己肯定感のかたまりのような人。だから乙武とセックスしたいと思わない女性はいないでしょ?絶対レイプしないし
(乙武については『KAMINOGE』というプロレス雑誌で、前田日明が「性欲、ネゴシエーション能力、コミュニケーション能力、そのすべてが称賛に値する!」と褒めてたのを思い出して笑ってしまった。やっぱ乙武はモテるよな)
かきおこし以上。質疑応答では、質問者にバイブやローションなどのラブグッズが配られて楽しかった。
トークショーのあとは懇親会(食事会)だったが、新宿で書店めぐりする予定を優先して参加しなかった。もしこの記事をみた人で、参加した人がいたらどんな話が出てたのか教えてください。
私の感想としては、自分はオタクメンタルなので、現状特にモテなくても辛くないのかなと思った。
「自分が女性だったら、自分のことを好きになるか?」という質問を自分投げかけてみたが、私は「好きな事をやってる女性(=オタクなひと)」が好きなので、自分は「なる」と思った。普段意識したことはなかったが、自分は自己肯定感が高い人間のようだ(笑
あと、「<自分の居場所>のない人」って世の中結構いるのだな、と思った。私は趣味の場では読書会に参加してるし、友人も何人かいるので、精神的にもコミュニティ的にも「居場所」はあるので、その点は安心した。
自身のモテの話でいうと、年齢30超えると性欲衰えるし、趣味とかいろいろやることに忙しくて時間ないし、「複数の女性にモテたい」とは全然思わない。「この人面白いな」って人にピンポイントでモテたい。自分は「非モテコミット」な人間なのだと思った。なのでそのキモさが出ない感じで、気の合う女性にモテたいなと思った。
ということで、私と一緒にバイブでエッチな遊びをしてくれるオタク系の女子とつきあいたいです!誰か私とつきあって!
追記)以前参加した、二村の話のレポ
こうの史代『この世界の片隅に』を読む ~戦時下という非日常でみつける<日常という奇跡>
今アニメ映画が大ヒット中である。キネ旬の今年の邦画第1位にもなった。でも私はまだ映画は未見だ。年末年始で支出が多いから、映画代がないのだ(苦笑)
で、原作。この作品は紛うことなき傑作である。「十年に1度レベルの」という枕詞をつけてもいい。
この作品は、作品における<日常描写のきめ細やかさ>が大きな魅力と物語性をもっているので、到底あらすじを紹介しただけではこの素晴らしさを語りつくすことはできないのだが、あらすじの紹介と、その文学性の考察をしたい。
あらすじ~~~~
時は昭和19年2月、絵を描くことが得意で、それ以外はぼーっとぬけた少女すずは広島市から、呉の北條家・周作のもとに嫁ぐ。
戦況の悪化で配給物資が次第に不足していく中、すずは小姑(周作の姉)黒村徑子の小言に耐えつつ、ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に守っていく。
9月、すずは遊女リンと知り合う。彼女の持っていたノートの切れ端が周作のものだということを偶然知り、夫がかつてリンの遊郭に通っていたことを悟る。
12月、すずの幼馴染で水兵である水原がすずを尋ねに来る。水原は帰る場所がないので、すずの家に泊まった。周作は、水兵でありもうすずと会えないかもしれないことを案じるが、家長の周作は水原が泊まることをよしとせず、納屋に寝てもらうことにした。すずも水原の納屋に泊まり話をすることになった。
水原はすずへの懐かしさにすずの肌に触れるが、すずは周作への想いからそれを受け入れなかった。水原は「これが普通じゃ」とすずの想いを悟り、この<まともでない世界>の中でもすずは「ずうっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と言う。
軍港の街である呉は、昭和20年3月19日を境に頻繁に空襲を受けるようになる。
6月22日の空襲で、投下されていた時限爆弾の爆発により、すずは姪(徑子の娘)晴美の命と、自らの右手を失う。7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下した。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日ーー8月6日ーーつまり読者は知っているあの日だーーに実家に帰ってくるように誘う。そして8月6日の朝、すずは徑子と和解し、すずは北條家に残ることを決意する。
その直後、閃光と衝撃波が響き、広島方面からあがる巨大な雲を目撃する。広島への原爆投下だ。
8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは「そんなん覚悟のうえじゃなかったんかね。うちは納得できん!」と怒りをあらわにし泣き崩れる。
リンがいた遊郭は、空襲で焼失していた。
翌年1月、すずはようやく周作と広島市内に入る。廃墟となった広島でーー周作とすずが初めて会った場所でーーすずは「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝する。
戦災孤児の少女がすずに母親の面影を重ねていた。すずと周作は、この少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。
~~~~~
あらすじだけ読んでもこの作品の素晴らしさは伝わらないので、ぜひ実際に読んでもらいたい。
『この世界の片隅に』は、言ってしまえば<他愛のない日常生活>を、これでもかとばかりに丹念に描写し、それを積み重ねていく。
そしてそこからは「戦時下という非日常でも、今現在の私たちの生活と地続きの<日常>を人は生きていた」という、(戦時下を体験したことのない)現在を生きる我々が見落としがちな視点が浮かび上がる。
そして戦時下であるからもちろん、この<他愛のない日常生活>は戦争によって蹂躙されていく。
そして読者は<この日常>が、原爆投下という悲劇を迎えることを知りながら、彼らの生きる<日常>を追従する。
そして 原爆が投下され、終戦を迎え戦争というカオスが終わる。
このときすずは、この戦時下というカオスに今まで適応していたが、これがたかだか天皇一人の言葉で終わる程度のものだったことを知り、激しく憤る。
この大仰で凄惨な戦争がたかだかその程度のものであったこと、そして「たかだかその程度のもの」によって人々が蹂躙されていたのだということ。すずはそれを悟る。
終戦によってカオスが終わり、すずは自分にとって大切なことを意識する。
この作品の最も主題となる場面ーーすずが広島で「この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう」と周作に感謝を述べる場面だーーこの言葉をきくことで読者は、すず達が生きていた「戦争という非日常の中の<日常>」の中にあったのは、「共に家族が過ごしていた<日常という奇跡>」であったということを知る。つまりこの場面は、すずがーーそしてそれを今まで見ていた読者にとってもーー、日常を奇跡だと受け止めること(感受性)を自覚し、言語化する場面なのだ。
『この世界の片隅に』における<他愛のない日常生活>の描写の積み重ねが、この<日常という奇跡>に説得力を与え、読者に<日常こそが奇跡である>と気付く感受性をもたらすことを可能にしたのである。
<日常こそが奇跡である>という感性とは、どのようなものだろうか。
宮台真司著『中学生からの愛の授業』には
中学生からの愛の授業 学校が教えてくれない「愛と性」の話をしよう (コア新書)
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: コアマガジン
- 発売日: 2015/10/03
- メディア: 新書
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「恋」が「単なる非日常」だとすると、「愛」は日常を奇跡だと受け止める感受性と結び付く。日常を奇跡だと受け止める感受性は、数限りない失敗と挫折と不幸を経験しないと育たない。リスクを回避して、平和な人生を送りたいと思っている人には、「愛」は永久に無理なんだ。
とある。
<日常こそが奇跡である>という感性は、つまりは「私がこの人とここにいたい」という「愛」の感情なのだ。
読者はこの物語を読み、<「戦争という不幸体験」を含む日常>を経験することで、そしてその日常の中に愛があることを感じ取ることで、読者は<日常こそが奇跡である>と受け止める感受性ーーつまり、日常を生きる糧である「愛」ーーを獲得するのである。
これが『この世界の片隅に』という物語がもつ文学性であり、そしてこの漫画が傑作たる理由であるといえる。
すずは戦時下という非日常のなかにあって、穏やかに煌めく日常の中から、その<日常という奇跡>を見出した。しかし現代の我々が生きる日常は、平穏無事なものであり、人によってはのっぺりとした退屈なものだろう。
我々読者は<日常という奇跡>を感知することができるのだろうか。
それはもちろん可能である。
なぜなら、我々は「この世界の片隅に」生きる小さな存在でしかない。
そんな小さな存在でしかないのに、わざわざ「みつけてくれる」他者がいてくれるのなら、そしてその他者の存在に気付くことができたのなら、それはもう「奇跡」としか言いようのない、感謝すべき幸福なのではないだろうか。
だからこの物語は、「この世界の片隅に」生きる我々のための物語なのである。 <了>
今日の漫画名言:この世界の片隅にうちをみつけてくれてありがとう
追記;<日常という奇跡>は<関係性の履歴>である。
オウム真理かるた
元オウム真理教のアレフが、教義を広めるためにかるたを作ったらしい。
たぶん堅苦しくて面白くないだろうから、私が、皆がもっと楽しむことのできるように「オウム真理かるた」を作ってみた。
あ ああいえば上祐
い イニシエーション 修業するぞ 修業するぞ
う うまかろう安かろう亭で ただ働き
え 江川紹子が有名になったきっかけ
お オウム真理教に入ろう
か 上九一色村にサティアン
き 救済するぞ 救済するぞ
く グル 麻原彰晃
け ケロヨンクラブは オウム派生団体
こ 甲本ヒロトの同級生、中川智正死刑囚(元医師)
さ サリン製造 第7サティアン
し しょうこう しょうこう あさはらしょうこう
す 水中クンバカ「よーしアーナンダ、もうダイレクトにいくぞ!」(麻原がクンバカする弟子に言った言葉)
せ 選挙に出馬だ 真理党
そ 尊師 尊師 麻原尊師
た ダーキニーの愛人囲い
ち 地下鉄にサリン
つ 次にポアするのは 池田大作だ
て 電流流すヘッドギア
と 苫米地英人が脱洗脳
な 生ダラにも出た 麻原さん
に 日本シャンバラ化計画
ぬ 抜き打ち捜査も かわしてみせる
ね 熱湯に入れ キリストのイニシエーション(LSDを体から抜くために熱湯に入れられた)
の 残り湯の ミラクルポンドは2万円(麻原の風呂の残り湯をミラクルポンドと称し信者に売ってた)
は 走る爆弾娘・菊地直子
ひ ひかりの輪は上祐派
ふ VXガスで襲撃
へ 弁護士一家殺害事件 TBSがビデオ流出
ほ ポアするぞ ポア
ま 松本智津夫死刑囚
み 未解決 国松長官狙撃事件
む 村井秀夫刺殺事件 あっけなく死ぬナンバー2
め メチルホスホン酸モノイソプロピル(サリンの副生成物。当時のニュースで連呼された)
も 森達也が潜入取材 ドキュメンタリー『A』と『A2』
や ヤソーダラーは麻原夫人
ゆ 許さない 脱退信者はリンチでポアだ
よ 横山弁護士「も、もう~やめて!」
ら (ダライ)ラマにも謁見 麻原尊師
り 陸上競技部もありました
る ルドラチャクリンのイニシエーション(覚醒剤とLSDを飲む修業)
れ 練習すれば 誰でもできる 空中浮遊
ろ ロシアで布教だ モスクワ支部
わ 私はやってない 潔白だ(エンマの数え歌)
を ヲわりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル
ん
いかがだろうか。
ぜひお正月にこのかるたで家族で遊んで、オウムの教義にふれていただきたい(おい
なお、この記事は匿名ダイアリにまず投稿し、トラバやブコメで意見を募ったことをここに記しておく。
山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』 ~地方で窒息するサブカル人と俺の上京
先月の読書会の交換本でもらって読んだ。「地方郊外のダルさ」を描いたファスト風土小説としてはてなでもかなり話題になったので、これは読みたいと思っていたのでうれしかった。
小説短編集・山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』
いつもは、本の短い感想は読書メーターで書いているのだが、ながくなりそうなのでブログに書く。(読書メーターやっている方は、私をフォローしていただけるとうれしいです)
結論から言うと、私にとって面白い短編は、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』だけであり、他の話は「まぁまぁ、こんなもんかな」という感想だった。小説全体としての得点は70点(個人的良作レベル)に届かない65点くらい…といったところか。
~~~
この小説は、「地方都市郊外に住む女性が、何にもないーーいや、正確に言えば、何でもあるが、『私にアイデンティティを与えてくれるようなサブカルチャー』は絶望的にない<こんなところ>に退屈、鬱屈した女性たち」が主人公で、東京に憧れを募らせたまま窒息しそうな毎日を過ごしていたり、東京に「脱出」することで生き生きとした人生を歩むことができたり、あるいは逆に「地方郊外のサブカルチャーのない生活」に適応してのびのびと生きる様が書かれている。
そしてどの短編にも、主人公女性の知り合い、あるいはかつての同級生という形で、椎名一樹という男が出てくる。この椎名は中高時代はサッカーのエースで同級生のカリスマでリア充で、高卒後そのまま地元でサッカー選手になるけれど、クラブが不況で解散したことで、地元で自動車教習所の教官として働き出してそのまま結婚して、つまり「地元でそのまま<普通の>大人になった」人間である。
そしてこの椎名は、各短編の主人公女子がこの地方郊外に退屈、ないし鬱屈しているのに対し、椎名は「地方郊外に全く退屈していない人間」として書かれている。
何故椎名は退屈しないのか。それは、彼が「サブカルチャーを必要としないタイプの、リア充」だからである。彼の生活は平日は仕事をし、休日はテレビだかスタジアムだかでサッカーを見る。彼の人間性は、人間関係は誰とでも仲良くでき、自ら場を盛り上げることができるリア充だ。それで何の不満もないし充足している。そんなタイプの人間だ。
一方、各短編の主人公女子たちは、ここにはない、東京には「あるはずの」、自らの退屈を埋めてくれる何か、自らにアイデンティティを与えてくれる何らかーーそれは大体の場合、この地方都市では聴く人がいないであろう音楽であり、マイナーな映画であり、東京にしかないファッションブランドであり、要は「ここにはない」サブカルチャーだーーと、それを「私に接続させてくれる」他者(友人や男)を心底から希求している。
彼女たちは「サブカルチャーを必要とする、リア充ではない」人間だ。あるいはリア充気質であっても、「サブカルチャーをコミュニケーション媒介とするためにサブカルチャーを必要とする」人間である。だからサブカルチャーのない地方都市では退屈し、窒息するしかない。
話は少しとぶが、面白いことに、そんな主人公女子のひとりが、椎名と結婚したことで、椎名に感化されて「地方都市で退屈しない地方都市に適応したリア充」になってしまう話がある(短編『やがて哀しき女の子』)。椎名スゴイ奴だな(笑)
さて、この小説の概要を述べたので、最初の短編『私たちがすごかった栄光の話』のあらすじと感想(考察ではない)を。
~~~あらすじ~~
主人公女子は、上京→地元にUターンしたライター。須田という同じく地元にUターン経験者の、サブカル好きなカメラマン須田と仕事をしている。「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」と言う須田に、「いい歳こいて」と呆れているが、一方で「須田は自分と同類の人間だ」とも思っている。
かつて同級生だった椎名と再会し、「自分の青春は、椎名とゲーセンで遊んだあの瞬間だけだった」ことを思い出すが、今や地方になじみ普通のおっさんになってしまった椎名に軽く失望している。
~~~
私は非常に共感してしまった。何せ私自身が高校時代に、地元には「特別なカルチャー」がないことに窒息し、とにかく上京するためだけに東京の大学に行き、大卒後はUターンして地元に帰ってきた人間だからだ。地元といっても埼玉だから東京都心には2時間あれば通えるのだが、今は埼玉の「16号化した風景」ファスト風土の中で暮らしている。
須田の「俺の魂はいまだに高円寺を彷徨っている」という言葉は私も同じで、私は「俺の魂は下北沢に置いてきた」と思っているくらいだ(笑)
須田の「こっち戻ってから、カラオケで何回EXILE聴かされたと思ってるんだよ」という台詞にも「地方あるある」な感じがして笑ってしまった。私はカラオケ行かないし、そもそもEXILE聴く人間とは絶対に友達にならないけど(笑
私は埼玉の郊外育ちなので、地方都市のどんよりした窒息感というのを知らない。いや、正確に言うと少しだけ体験したことがある。
大学のサークルで、茨城の水戸市に合宿に行ったことがある。水戸から近くの海に行って、その帰りに水戸市の中心街に寄った。そこは16号的な風景で、つまり没個性的な街だった。中心街にどんと構えるイオンなんかはどこでも行けるから、と、中心街から少し歩いて、なにか面白そうな店を探したが、サブカルチャー的な店は、潰れかけたオシャレ服屋と、ちょっと気の利いたマンガの置いてあるマンガ喫茶兼レストランだけしかなかった。そのレストランで鯨カツを食べ、手塚治虫『どろろ』を読んだ。「たぶんここが、水戸で一番最先端で面白い場所なんだね」と友達と話しながら。そして「もしこの町で一生を過ごすことになったら、俺は窒息死するだろうなぁ」と思った。
(検索してみたら、たしかにこの場所に見覚えがある風景を発見。懐かしい)
……さて、この短編からは少し脱線するが、サブカル好きは上京すればこの窒息から逃れられるのか? ということを私の少ない体験から少し述べてみたい。
その答えは「上京したからと言って、必ずしもやりたいことができるわけではない」という身も蓋もない答えだ。
サブカルチャーのある街なんて、都心(新宿)から電車15分圏くらいにしかないし、人によっては、今や(九十年代中ごろ以降)渋谷ですら「特別な街」ではなく、16号化した地元の街と同じような(人がやけに多いだけの)個性のない郊外的な街でしかない。
(渋谷の郊外化は宮台真司の『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』に詳しく載っている)
地方から上京するということはほとんどの場合一人暮らしするということで、つまりある程度、家事労働に時間をとられる。自由な時間は期待していたほどない。
東京でやりたいことができないと、東京は人が多い分日々に疲れるし、「東京ですらできないのか」という絶望は地方にいるときよりもずっと辛い。これは私が上京直後に感じた挫折でもあった。ーー上京したからってサブカルチャー漬けの毎日を送れるわけじゃないのか、と。
しかし、「東京(都心)でしかできないこと」というのは間違いなく存在する。
消費活動ーーモノの購入は地方にいてもネットがあればできる。しかし「対面のリアルな」体験やイベントは都心にしかない。作家やクリエイターのトークショー、ワークショップ、そしてそれを通しての、自分と趣味趣向の合う人との出会いは、都心部にいなければコミットできないのだ。
そこにコミットできないのが、地方住みのサブカル人間が窒息する原因だと私は思っている。
さて、話を短編の方に戻す。
ラーメン屋に入った二人は、店にラーメン店主が綴った「地元サイコー!」「東京なんかクソくらえ!」「愛する地元のお前らにラーメン食わせてやるぜ!」とラップ調のポエムが貼られていることに気付く。(相田みつおの「人間だもの」カレンダーがトイレに貼ってある、というのは地方居酒屋あるあるなのだが、こんなヤンキーセンスに溢れた、センスのないラーメン屋というのは、本当に地方に実在するのだろうか(苦笑)。あったとして、客来なくなって潰れたりしないのだろうか?)
しかもあろうことか、二人は店主にポエムのアンサーポエムを求められてしまう。
須田さんは即興でこんなアンサーポエムを書く。
Yo! Yo! 楽しそうでなによりだNa!
俺は東京行ったさ文句あっか!?
ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ
あらかじめ失われた居場所探して、十年さすらった東京砂漠
そうさ俺は腹を空かせた名もなきカメラマン
いまだ彷徨う魂、高円寺の路地裏に残し
のこのこ帰ってきたぜ! ラーメン食いに帰ってきたぜ!
だからラーメン食わせろ!! 今すぐ俺にラーメン食わせろ!!
ここで 物語は終わる。
「ここで楽しくやってたら最初からどこにもいってねーよバーカ」 これに似た気持ちは、私の中に常にある。私も地元に帰って「しまった」人間だからだ。たぶんUターン経験者は多かれ少なかれ持っている気持ちなのではないかと思う。
だから私はこの物語が胸に刺さり、同時に主人公たちを愛おしく思うのである。<了>
追記)『ここは退屈迎えに来て』 文庫版の解説
ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期
世間から見れば「変態」にみられるであろうおとこの娘・女装男子3人が、さなぎが蝶になるように「変態していく」様にーー己の人生を受け入れる様を描いた物語。
ーーー登場人物とあらすじーーー
主人公は、中学生の女装男子3人。
性同一性障害であり、純粋に女の子になりたい青木裕太 /まりか。
精神を病んだ母親のために、死んだ姉の身代わりになるために姉の女装をする木島亮介 / ユイ。
片思い相手(男)の要望がもとで女装している田村修/ パロウ。幼少期に男からレイプされたトラウマがあり、同性愛者であるようだ。
ネットのオフ会で3人は出会う。
「自分は好きで女装しているわけじゃない…」そういう思いのあるユイ(亮介)は「マジでキモイなお前ら」と辛らつな言葉をぶつける。そしてこの場はお開きになる。
これで3人の関係は終わりかと思ったが…裕太の入学した中学は亮介と同じ中学だった。ここから3人の”おとこの娘”関係が始まる。
もう一度集まり、なぜ自分が女装をするのかを述べる3人。そして鍵っ子のまりか(裕太)の家に集まるようになる。パロウ(田村)はまりかをーー自分のようにドロドロとした感情を持たない彼をーー誘惑し犯す。
亮介はそんなパロウに怒りを感じ殴る。パロウは、亮介に誰かのために怒ることのできる優しさをみて「この人が好きだ」と思う。そしてこのように性に溺れている自分はなんて汚いのだろう、と自己嫌悪している。
まりかは、はじめての相手であったパロウに憧れと恋心を抱く。
裕太(まりか)は学校で、女装に肯定的な中世的な男子、夏目智(トモち)という友人ができる。また、同級生から「オカマだろ」と陰口を言われることもあった。
…そんな中… 裕太はついに変声期を迎える。自分の意志とは関係なく、男になっていく体。
裕太は精神科医に行き、医者にこう告げる。
「わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです」
制服も女性服で通学し、「まりか」として女として生きていく決心をする。
一方亮介は、母親が精神異常であることがつきあっている彼女に知られ、母は亮介と引き離され入院となる。亮介は「今まで自分が母のために女装してきたのは無意味な事だったのか」と悩む。
田村(パロウ)はまりかから告白され、「じゃあその気持ち見せてもらおうじゃないか」と、まりかと性関係をもとうとするが、無垢なまりかを犯すこととかつて自分が男からレイプされたトラウマがダブり、吐いてしまう。
まりかは「パロウさんがかわいそう」と泣く。
自らのトラウマを払拭するために、パロウは自分を女装へと導いた、かつての憧れの人と手をきった。
悩みを抱えたまま久しぶりに学校に復帰する亮介。入院後実家に戻っていた母親が、また倒れたという知らせが入ってきた。一人で田舎に帰ることが出来ず困惑したが、まりかの手助けによって、二人で亮介の田舎に行く。母は病気がよくなっていた。母から始めて承認される亮介。
亮介は、自分が大変なときに支えてくれたまりかのことが好きになったことに気付く。まりかがパロウのことを好きなのは知っていたが、自分のけじめのためにまりかに告白する。
まりかはその告白に答えることができなかったが、「私達3人が出会えて本当に良かったと思っている。あのとき二人と出会ってなかったら、もっと苦しんでいたと思う」と述べる。
亮介は田村(パロウ)の高校に進学し、田村に勉強を教えてもらうようになった。田村はパロウに女装し、「亮介のことを今でも好き」と誘惑する。「こうすることでしか誰からも好きになってもらえない」とパロウは思っている。しかしこれに亮介は、「そうやって閉じこもるのはやめろ。女装しなくても、俺もまりかもお前の事が好きだ」と諭す。
田村(パロウ)の高校の学園祭に行く一同。そこでは女装コンテストが行われていた。それに参加する一同。コンテストではまりかが優勝した。
まりかは「わたしは女装っていうか」と戸惑うが、パロウは言う。
「いいじゃない。 みんなヘンタイで」
そしてそれぞれ皆が大人になっていくのだ。 <完>
~~~~~~
この物語は女装男子「3人の成長物語」であり、「3人の関係性、彼らの実らない恋」を描くラブストーリーでもある。
私は今まで作者のふみふみこが(短編しか書かなかったので)、女性なのか男性なのかよくわからなかったが、この作品を何度か読むことで、「登場人物の関係性に敏感なマンガ」を描くことから、典型的な女性作家なんだなと理解した。(ウィキペによると実際に女性だそうだ)
さて、この話をラブストーリーの部分はすっとばして、彼らの成長の物語ーーつまりさなぎから蝶へと「変態する」話としてみてみたい。
物語の序盤から中盤は、特に裕太(まりか)とパロウの「変態性(変態性欲の方の変態)」が描かれている。
ユイ(亮介)に犯されたいと妄想し、先輩との性関係に溺れていながら、それを汚いと自己嫌悪するパロウ。裕太(まりか)はお姫様ごっこのような妄想一人芝居をしていたが、パロウに性行為を迫られたことがきっかけで、男性としての自慰行為を覚えるようになり、少女趣味の幻想に浸れなくなってしまい苦悩する。
どちらも性的な意味で変態である。思春期に誰もが抱えるであろう「変態さ」を、内に秘めきれずにあふれ出てしまっているといっていい。
しかし物語中盤以降は、そうした変態描写がほとんどなくなってくる。
その転換期はどこだろう。
それは、裕太は「女性として、まりかとして生きる」ことを告白し決めたとき、パロウは自分を女装へと導いた性的関係にある先輩と絶縁すると決めたときである。
彼らは、成長し自ら意思決定することで、つまり「(蝶に変わるように)変態すること」によって、己の変態性に決着をつけるのである。
まりかは女として生きることで、かつての「妄想的で変態的な」裕太の生き方ではなくーー妄想の中だけで「本来の自分である女の子になる」生き方ではなくーー、より本来の自分らしい<現実の女としての>自分を生きることになった。
彼らは生き方を変え「変態する」ことで、今まで生きていた妄想の世界(変態的世界)から、「誰々のことが好き」という現実的な<関係性の世界>へと興味を移すことになる。
しかし、彼らに変態性がなくなったわけでは、おそらくないだろう。
変態性がなくなったのではなく、今までの「あふれ出ていた変態さ」を、コントロールできるようになったのだ。だから「表面上は」彼らは変態ではない。しかしひとたびその皮をむけば、まりかはパロウに犯されることを受け入れたように、パロウはユイ(亮介)を誘惑したように、彼らの中身は変態なのである。
この作品は変態を肯定している。(「いいじゃない。 みんなヘンタイで」)
しかし、剥き出しの変態は、自己嫌悪の形で自身を苦しめ、場合によっては他者を傷つける。裕太が男として自慰をして苦しんだり、パロウがまりかを犯そうとしたように。
だから変態は、自らの内に秘められるように、自らコントロールできるようにしなければいけないのだ。
そして「変態をコントロールできる」ようになったそのときこそ、自身のドロドロとした思春期が終わり、青年への(つまり大人への)入口に入っていくことができるのだ。
つまり、「あふれ出る変態」は<通過儀礼的な思春期>そのものであり、変態が終わった時に思春期もまた終わるのだ。
思春期とは甘酸っぱく輝かしいものではない。もっと煮えたぎっていてドロドロとしていて、自分でも制御できない黒い感情のことである。
そういえば以前、宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポというのに行ったことがある。
AV監督の二村ヒトシは言う。
人間には、満員電車に乗る奴(ラカンでいう『神経症』)、満員電車には乗るけど、裸で乗ってしまう奴(『精神病』)、満員電車に乗るし表向きは普通にふるまうが、陰で変態的なものに興じてる奴(『倒錯者』)がいる。
『倒錯者』(社会に適応したフリをしているが、自分は<ヴァンパイア>だと自覚してる者)だけが社会をまともに生きられる。僕はそれを変態とよぶ。
人は成長し、<クソみたいな>社会の中でそれでも幸せに生きていくには、社会には隠れて変態である必要があるという。変態でない奴はクソみたいな社会に摩耗し潰され、変態剥き出しの奴は、社会を構成し営むのに邪魔なので排除されてしまうからだ。
まりかやパロウら彼らは、剥き出しのドロドロの変態のままでは大人になれないが、その変態性をコントロールできるようになって、初めて大人になれるのだ。
その意味で「変態することで」、変態性をコントロールできるようになることが、大人へとなるための通過儀礼であり、それが思春期の終わりなのだと思う。
ところで、せっかくの思春期なのだから、変態じゃなくてもいいじゃないか、もっとさわやかな青春の方がいいと思う人がいるかもしれない。
変態的な思春期は辛いものだから、そんなものはない方がいいじゃないか、「ドロドロとした変態な思春期を経て」大人になるよりも、「初めから変態でなく」大人になる方がいいじゃないかーーそう思う人がいるかもしれないが、それはきっと違う。
思春期を終わらせることはーードロドロとした自分を受け入れることはーー生きやすさを手に入れるという意味では、ゼロからプラスになるというより、マイナスからゼロになってそこから出発するという感じだ。たしかにそこだけ見ればプラスではない。
しかしその思春期にかつてあった「ドロドロとした変態さ」を、思春期を過ぎて後々になって振り返れば、「あのときは確かに辛かったけど、濃密な味があったな」と思うことができるはずだ。そして必ず「あのときがあったからこそ、今の私は<世界の深さ>を味わうことができるのだ」という、自らの人生の糧になっていることを気づく瞬間がくるはずだ。
私の経験から言うとーーいや、私の経験からだけでなく、他の作家も何人か書いているのでその通りなのだと思うがーー、人が経験から成長できるのは、そしてそれが自身の糧になったと自覚できるのは、辛かった経験、失敗した経験からだけだ。楽しかった経験、成功した経験は、そこには運要素が絡んでくるので何が成功要素だったのか見極めるのが難しく、またそこから自省しようとすることはほとんどない。
「かつての辛かったとき」が人生の糧になるのだ。
だから「明るく楽しい青春」ではなく「ドロドロとした変態的な思春期」を経た彼らは、必ずこれからの人生で「何が幸いなことなのか」「人生はどう生きたらいいのか」という答えをみつけるはずである。
彼らにーーいや「彼女たち」に、幸あらんことを。 <完>
本日のマンガ名言:わたしは女の子に いえ わたしは女の子なんです
追記)変態が思春期を経て、真人間に成長するというマンガでは、押見修造『惡の華』論を以前書いたので、ぜひ読んでみてください。
第二十三回文学フリマ東京レポ ひとり反省会
第二十三回文学フリマ東京から一週間ほどたつので、忘れないうちにサークル参加の反省点を
文フリ当日の、我々のブース
全体的な感想
作る
制作期間は2か月半ないくらいだったが、私の担当(漫画論4つとマンガ2つ)は、漫画論に手間取って、いつものごとく(苦笑)終わりがぎりぎりになってしまった。
私の創作モチベーションは、締め切りがあるのは必須だと思った。
文フリ当日
我々のブースに寄って、コピー本を買ってくれた方は17人くらい。25部ずつつくったので、7部づつくらい売れ残ってしまった。
前回参加時、15部が完売したので、前回より内容には自信があったので、今回はもっと売れると思ったのだが、前回と同じ売れ行きだった。
開始一時間半くらいブースに人が来なくて「大丈夫なのか?」と心配した。前回と違って入り口近くの場所じゃなかったので、前回よりお客さんが寄らなかった感があった。
反省点
コピー本だと、見本誌置き場の所で見栄えがよくなかった。そこでお客さんにスルーされた(であろう)のが痛かった。せめて表紙だけは光沢紙で作らないと、と思った。
印刷所で刷ってもいいが(そのほうが見栄えがいいから)、そうすると経費が掛かる…一冊300円以内にしたいが、それじゃペイしないし…。売れ残ったあとの取り扱いも面倒だ。
他のサークルにも言いたいが、印刷所を通すと1冊500円はするので高い。「これは欲しい」と思わないと買われない(少なくとも私は買わない)値段だと思う。他に買う本も(当然同人誌以外にも)あるので、私は「これ、もう少し安ければ買うのだけど…」なサークルが10はあった。実に残念。
だから、他のサークルにもいいたいのだが、廉価版のコピー本おいてくれるとありがたい。
「少し興味あって読んでみたいけど高い」で敬遠されないような値段設定にしたい。個人的には「まぁ買ってみようかな」で買われるのが300円以内だと思う。
逆に言うと、100円という価格でも興味ない人は、たとえいくらだろうが興味ないのだろう。安い価格でいくなら「興味もってくれた人を取りこぼさない」ことが肝心か
コンセプト(テーマ)がない、のは客目をひきにくかったか。制作時には好き勝手に書いたのをまとめて出すので、テーマを作りづらいのはある。
客層はほとんどの人が男の人だった。せめて半分くらいは女性客がほしかった。内容が特に「女性向けではない」ことはないのだけど…。
文フリには美人な文化系女子がたくさん来てるだけに残念だった。もっといろんな人と話したかった。
俺みたいな男が店番してると女性は来づらいのだろうか?興味わかないのだろうか?一応サークルメンバーには女性もいたのだけど
良かった点
POPは急ごしらえだったので、可も不可もなかっただろう。他サークルみたいに「他イベントでも売ってます!文フリ何度も出てます!」みたく豪華なブースレイアウトはできないので。
「マンガ好きと語りあいたい」と書いたプラカードを持っていたら、漫画好きな人が一人話かけてくれた。一応目的は達成されたが、もっと話しかけてもらいたかったとも思う。
QRコード印刷しておいて「ツイッターフォローしてくれたら2冊100円(半額)」にしたのは良かった。誰が買ってくれたかわかるし、「できれば感想ください」と頼むこともできたので。
サークル名が「文化系女子になりたい」なので「文化系女子割り」をやったら、女性客がもっと来てくれるんじゃないかと思った。男性差別?もっと女性とおしゃべりしたいんだよ!
買った同人誌のレビューは後日するかも。10冊ほど買ったが、実はまだ1冊も読んでない…。
最後に、編集後記から和田のをもう一度(本人が再掲を望んだので)
◆和田浩史 (@hirofumi) | Twitter
『文化系女子になりたい』を読んでいただいた方、(ブースに立ち寄ってくれた方も)ありがとうございます。
短歌を始めて年数の浅い私ですが、「へー」とか「ふーん」とか
少しでも引っ掛かる歌があったら嬉しい限りです。
ふだんtwitterをよく見るのですが、短歌業界(業ではないですね)の結社のようなつながりにうまく馴染めないなぁと思っています。
みんな楽しそうでなんか近づきにくいなぁとそう思っている人も多いのではないでしょうか。
だから自分にとっては『文化系女子になりたい』をもはや結社にするのも良いかもと思ってます。
『文化系女子になりたい』を屋号にして、みんなで短歌を書こうじゃないかと
思ったりするわけです。
そんなわけで突然ですが、次の冊子刊行に向けて(活動形態は冊子で無くても良いかもしれません)新メンバーをゆるく募集しようかな、と。
というのも先日、文フリで印象的な2つのサークルに出会いました。
一つは、僕たちの隣のブースだった、エクリオさん。
いわゆるゲームまわりの評論冊子ですね。
僕はゲーム評論が好きなので購入しましたが、まあ面白い!
中の記事に触発されてさやわかさんの『僕たちのゲーム史』(星海社新書)も読み始めました。
エクリオさんのブースはすごい人気で、購入する人が列をなすほど。
なんかこう一般的な本屋さんのような感じと言うか開かれている感じがしてすごく良いなと思ったんです。
社会とつながっている感じと言うか。
そしてもう1つは、『素数』という短歌冊子のブース。
こちらも購入して読んでますがまあ面白い!
装丁も格好良いし、メンバーのセンスがまた良い。
正直、このブースは短歌カテゴリの中でもかなり開かれている感じがしたんです。
他の数多の創作物と同じ土俵で勝負する的な。
…またがっつり短歌を詠みたくなりました。
俳句や川柳だって、キャッチコピーや大喜利だって、みんな面白いですが、短歌はまた別の面白さ。
若い人の作る短歌を「平成アイデア短歌」などと揶揄したのは誰だったでしょうか。
面白ければいいじゃん!
というわけで、新メンバーをゆるゆる募集しますので@hirofumi までコメントください。(集まるんでしょうか…)
第二十三回文学フリマ東京「文化系女子になりたい」編集後記
作成した文芸同人誌『文化系女子になりたい』、紙面が尽きてしまったので、編集後記だけブログ上で発表。おまけコンテンツ。
~~~~~
まずは、今回文芸同人誌『文化系女子になりたい』を購入してくださった方、私たちのブースに寄って下さった方、そしてこのページを読んで下さっている方にお礼を述べます。本当にありがとうございます。
まずは宣伝。さいたま読書倶楽部という読書倶楽部があります。月1回の読書会です。
私たち『文化系女子になりたい』制作メンバーもこの読書会に参加しています。
参加者は60人ほどで、主な年齢層は20代~50代。本当に刺激的で面白いですよ。興味のある方はぜひご参加ください。(※私たちは読書会の主催者ではないので、HPからお申し込みください)
…といったところで、以下は編集後記らしく、今回の同人誌編集の所感を。
前回の文学フリマ(第22回東京 5/1)に続き、2度目の参加である。前回の参加で、この即売会の雰囲気がなんとなくつかめたので、今回はほんの少しだけ余裕をもって臨みたいと思う(この文を書いているのは文フリ開催前日)。
今回は、私の大学時代からの友人、和田(和田浩史 (@hirofumi) | Twitter)の他、
中山とりこさん(中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR) | Twitter)も参加してくれた。3人態勢になったことで、同人誌のジャンルに幅ができたと思う。
前回の「漫画論と短歌」に加え、中山さんが小説を、そして私が(初めて)マンガを描いた。
まずは、わたくしタムラが担当したマンガ制作に関する雑感を。
私は「マンガを読む」ことをライフワークにしている(自称。世の中私以上の漫画読みはたくさんいるだろうけど)のだが、「マンガを書く」のは初めてだった。小学生低学年時に、「自分が読むために」マンガを描いていたことはあったが、「発表するために」描くのは初めてだった。「絵を描く」こともしたことがない。ただ、漫画を多量に読むうちにいつしか「自分でも描いてみたい」「絵がうまくなくてもいいのなら(そして趣味でやるにはそれで問題ないのだから)、自分でも描けるのではないか」と思って、今回マンガを描いた。
マンガのページ数は少ないので、なんとか「ヘタウマ」な、いや「ヘタ・ヘタウマ」な絵でのりきろうと思った。イメージとしては「西岸良平(『三丁目の夕日』作者)を下手にした絵で、つげ義春っぽい話」を描きたかった。
そしてなんとか出来たのはーー「下手が下手なりに書いた」画でかいたマンガだった。ヘタウマというには個性がない絵。ヘタウマな絵でマンガを成立させるには、1コマだけでなく「マンガ全体を統一して」ヘタウマにしなければならない。これはこれで結構な技術のいるものだと、実感した。漫画文学論の原稿が遅れに遅れて、マンガは5日ほどで仕上げなければならなかったので、ヘタウマな画を研究することが出来なかったのも一因だった。
マンガペン(Gペン)は持っていないので、ボールペン書き(ボールペン漫画には、こうの 史代『ぼおるぺん古事記』という、ボールペン描きの味のある漫画もあるのだが、私にはもちろんそれを再現できる能力はない)。本当は、ほしのよりこ(『今日の猫村さん』作者)のように鉛筆書きで書きたかったのだが、コピー印刷したときにあまりに線が薄かったので断念した(ほしの漫画はどんな印刷してるのだろう?印刷会社通せばあの鉛筆線が出るのだろうか?)。
コマ割りも難しかった。躍動感のある絵は描けないので、「(動きの少ない)静かな」話にしたのだが、もう少し「動きのある」マンガにしたかったとも思う。しかし今の私にはそこまでの技術がないので、それをふまえて考えれば、出来たマンガの「話」の面では不満がない。
まあ、今の私の能力からしたら及第点のマンガだと思いたい(自分への評価が甘いわけじゃないよ。厳しくもないけど 笑)
そしてもうひとつ思ったのが、「人間(の姿)を描く」ことの難しさ、というより面倒くささ。竹久夢二という実在の人物が登場人物だったので人間を描いたが、思えば水木しげる『猫楠』みたいにデフォルメした動物にすればもっと簡単に描けたのではないかと思った。イメージとしては羽海野チカの描く熊の自画像みたいな。
というわけで、初心者がマンガを描くときは、デフォルメされた動物で描くことをオススメする。
と、初めてマンガを描いた感想はここまで。
『文化系女子になりたい』同人誌を両号ご購入でない方もいると思うので、いずれ、両号のマンガをこのブログで公開する予定である。
なお、『文化系女子になりたい』原稿コピー時に、画像上下が見切れてしまった箇所が一部あるのでそこを訂正させていただく。(雰囲気でなんとなくわかると思うが…)
「3号 マンガ『夢二とお葉』4P」
1コマ(右上)「先生 わかってらっしゃるかしら…」
5コマ(左上)「先生ったら、私をお描きになっていたら ボーッとなさって」「そうだったかな」
「3号 漫画文学論『おやすみぷんぷん』論 8P」
最後の行「愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。」
浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱 - 文芸的な、あまりに文芸的な
また、和田の短歌研究新人賞候補作受賞作『an』(4号に収録)の加藤治郎選評は、このブログで公開しているので、興味ある方はご覧いただきたい。
最後に、私たちがーーというより私が、文芸同人誌を作る(そして文フリに出る)理由を述べておきたい。
前回の文フリの編集後記に、私は、「私が文章を書く理由」は、
私は、この感覚の百分一でもいいから他者に、つまりこ文章を読んでるあなたに、私の思考を理解してもらいたいとそして共感してもらいたいと思うから文章を書くのだ。
と書いた。それは今でも変わらない。私は、私以外の誰かに、「私の思考を100%共感してもらいたい」と思って文章を書いている。(そしてもちろん、それは不可能なことだも承知している。その上で、あえて書くのだ。)
しかし今回は、他にも文学フリマに参加したいと思う理由があった。
ひとつは、文学フリマという「学園祭」的雰囲気を味わいたかったこと。学生時代で一番楽しい想い出であった学園祭を追体験したいと思ったことがひとつ。
こちらの同人誌サークルさんのページで
「文フリは(批評性を持つ場ではなく)お祭りなのか、文フリがお祭りでいいと思っている人がどれだけいるのだろうか」という話を書かれているが、私自身は文フリはお祭りでいいと思っている。
その中で高度な批評や文学性の高い作品を発表する人が出て来ればいいのではないかと思う。ーーここで「私の書くものが文学だ」と言えればカッコイイのだろうが、一応私は文学の深さを知る者なので、そんな大それたことは言えない。「文学っぽいもの」の末席に加えてもらえればそれで光栄である。
そしてもうひとつ文フリに出る理由。それは私に共感してくれる人物と出会いたいからである。
平たく言えば、私の話になにか共感してくれる新たな知人友人がほしい。私の好きなマンガの話を、本の話を、趣味の話を語ることができる友人(友人とまで呼べずとも知人といえる程度の仲でもいい)に、万が一にでも廻り会えないだろうか、「文学好き」が集まるこの場なら、そんな偶然の出会い(といったら大袈裟だが、なにかそういうきっかけ)というのもあるのじゃないか、という淡い期待からである。
ということで、私にほんの少しなりでも興味を持った方は、ぜひこのブログ記事に感想コメントを残してもらいたい。あるいはツイッターでフォローして頂いたりお知らせしてもらいたいのです。私は、できればあなたと何か話したいのです。
いや別に私に興味なくてもいいので(全然いいです)、何かご感想を頂けたなら、メンバー一同泣いて感謝します。同人誌をやってる人はわかると思うけど、何でもいいから読者から反応があるとうのは、この上なくうれしいものなのです。
なのでぜひ感想待ってます。
そして最後に、言いたいことがもうひとつ。
私、彼女ほしいです!私とつきあってください!(爆
「結局それかい!」と自分でツッコむが、これは私の偽りのない本音。マンガや本の話を一緒にできる人と仲良くなりたい。
まぁともあれ言いたいことは、別に付き合うどうこうとか、そういう重い関係じゃなくても全然いいので、ツイッターでたまにおしゃべりするだけのライトでゆるい関係を、男女年齢問わずにしたい、ということです、本当に。
では最後に。本当に読んでいただいてありがとうございます。そしてご感想お待ちしております。
◆和田浩史 (@hirofumi) | Twitter
『文化系女子になりたい』を読んでいただいた方、(ブースに立ち寄ってくれた方も)ありがとうございます。
短歌を始めて年数の浅い私ですが、「へー」とか「ふーん」とか
少しでも引っ掛かる歌があったら嬉しい限りです。
ふだんtwitterをよく見るのですが、短歌業界(業ではないですね)の結社のようなつながりにうまく馴染めないなぁと思っています。
みんな楽しそうでなんか近づきにくいなぁとそう思っている人も多いのではないでしょうか。
だから自分にとっては『文化系女子になりたい』をもはや結社にするのも良いかもと思ってます。
『文化系女子になりたい』を屋号にして、みんなで短歌を書こうじゃないかと
思ったりするわけです。
そんなわけで突然ですが、次の冊子刊行に向けて(活動形態は冊子で無くても良いかもしれません)新メンバーをゆるく募集しようかな、と。
というのも先日、文フリで印象的な2つのサークルに出会いました。
一つは、僕たちの隣のブースだった、エクリオさん。
いわゆるゲームまわりの評論冊子ですね。
僕はゲーム評論が好きなので購入しましたが、まあ面白い!
中の記事に触発されてさやわかさんの
『僕たちのゲーム史』(星海社新書)も読み始めました。
エクリオさんのブースはすごい人気で、購入する人が列をなすほど。
なんかこう一般的な本屋さんのような感じと言うか
開かれている感じがしてすごく良いなと思ったんです。
社会とつながっている感じと言うか。
そしてもう1つは、『素数』という短歌冊子のブース。
こちらも購入して読んでますがまあ面白い!
装丁も格好良いし、メンバーのセンスがまた良い。
正直、このブースは短歌カテゴリの中でもかなり開かれている感じがしたんです。
他の数多の創作物と同じ土俵で勝負する的な。
…またがっつり短歌を詠みたくなりました。
俳句や川柳だって、キャッチコピーや大喜利だって、
みんな面白いですが、短歌はまた別の面白さ。
若い人の作る短歌を「平成アイデア短歌」などと
揶揄したのは誰だったでしょうか。
面白ければいいじゃん!
というわけで、新メンバーをゆるゆる募集しますので@hirofumi までコメントください。(集まるんでしょうか…)
◆中山とりこ (@lKM4DkStF7Fl9lR |Twitter )
文化系女子になりたいをお手にとっていただいた皆様、ありがとうございます。今回より、田村さん和田さんに混ぜていただきました、中山とりこと申します。もそもそと短歌や小説を書いています。
普段はTwitterや、noteというサイトに投稿しています。今回はvol.3に載せた短歌連作のカラー版も公開していますので、よろしければ見てみてください。