文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

夏目三久アナと有吉熱愛、そして私の大学時代

怒り新党」で共演していた夏目三久アナと有吉の熱愛報道が出た。

夏目三久アナと有吉熱愛!すでに妊娠 番組きっかけ - 結婚・熱愛 : 日刊スポーツ

私がそのとき思ったのは「結局有吉かよ」であり、「あれから何年たったのか」であり、「でも大江アナがどっかの会社社長のおっさんと結婚発表したときよりはダメージがない」であった。

「あれから何年たったのか」のアレとは夏目オリジナル事件の事である。私はこの時感じたことをブログにしたためていたので覚えていたのだ。

記事を書いたのは2009年の7月20日。8年も前か。

 

当時私が書いた記事を全文引用してみる。

■[TVとか] 夏目アナは、マグロではない。

ちっと遅いが、日テレ夏目アナのコンドーム写真流出の件

日テレ清純派…夏目アナ、男と「コンドーム写真流出」 写真誌報道で局内外に波紋 芸能:ZAKZAK

 私は女子アナが好きだ。というのは女子アナというのはテレビに映る存在でありながらテレビタレントとはどこか違う、どこが違うのと言われてもそれは分からんけど、常に緊張をしいられる立場ではないところの無邪気さ?なのかは知らんけど、彼女たちがふと瞬間的に無防備・無邪気な姿をさらす、仕事場ではないところの素顔を見せる、たとえば原稿を読んでない、番組の中の隙間みたいな時間にふと見せるデレっとした笑顔やなんかえろい話題に対して反応しちゃうところ、みたいな天然さがキュートだからだ。

女子アナ(=知性のある)彼女たちがときおり見せる「でもわたし、ホントはちょっとおバカなの、てへっ。」という笑顔から覗く人間的な擦れてなさ(つまり「てへっ。」の部分)に萌えるのだ。

その代表的な存在をあげると、TBS青木裕子(通称セックスちゃん)、テレ朝大木ちゃん(大木優希)、テレ東の大江ちゃん(大江麻理子)じゃないだろうか。天然でエロの話題にうまく反応してくれて、深夜バラエティで活躍できる面々だ。

ちなみに世間的人気女子アナといわれるアヤパン・なかみー両名が見せる「てへっ。」は人工的模造「てへっ。」なので、微塵も萌えない。

 で、話を戻して日テレの夏目三久アナ。彼女は清純派といわれるが、実はかなりの「てへっ。」なアナではなかろうか。

周知のとおり、彼女は昼の情報番組「おもいッきりDON!」で中山秀ちゃんと共に、「マグロ」という一言コーナーをもっていて、タイトルコールでヒデちゃんやゲストが似てもいない(そして面白くもない)渡哲也のものまねをする。もちろんそこで言うマグロは、「マグロ女と桃尻男」のように夜の営みを連想させるわけで、秀ちゃんは当然のごとく夏目アナに対して「きみはマグロなんだよね?」といじる。秀ちゃんのくせに。

きみはまぐろなんだよね?

違う。夏目アナはまぐろはない。断じて。

 ~~~~~~~

「これ」 夏目はベッドの上で、スキンを片手に微笑む。「つけて」 つけて、の「て」にアクセントを置いた笑顔が、どこか物憂げで可愛い。僕はそれを受け入れる。

僕のペニスにスキンをかぶせながら、夏目はささやく。「こういうことは大事にしたいから」 僕は答える。そうだね。避妊はきちんとしないと。 

僕は何の気なしに答えたのだが、夏目は違った。 夏目は寂しげに、そっと目を閉じて言った。「いいえちがうわ。そうじゃないの。…距離。ふたりの距離のこと」 僕のペニスをしごきながら、夏目が続ける。「どんなに愛し合っても、人はひとつにはなれないでしょう。私はあなたにはなれないし、あなたは私にもなれない。恋人同士がひとつになれるなんて勘違いだわ、ふたりの他人がふたりのままいるだけ。あなたはあなた。私は私。決して完全につながり合うことはないわ。だからあなたとの距離は忘れたくないの」 夏目はつぶやく。あなたはあなた。私は私。私はまぐろ――

このスキンの0.02mm、それが私とあなたの距離。越えることのできない膜の壁よ」

夏目は僕のペニスを秘所へと導く。気持ちいい。 恍惚として薄れ行く意識の中で僕は思う。 それは違うよ、そんなのは関係ない。本当のひとつになんかならなくてもいいし、壁を越える必要もない。僕たちが愛し合うことは間違っていないし、この愛は本物だ。僕は秀ちゃんじゃないし、君はマグロでもない。そして僕たちはオカモトではない。二人の距離は、限りなくゼロなんだ。僕たち二人の間には、極うすしか存在しない。

 そんな妄想、そして夜のおかず。 <了>

 

ちょっと、というかかなりポエムってる。当時は(というか今でもそうだが)、どことなく文学的情緒のあるエッセイを書きたくてこんな文体でいくつか文章を書いていた。

こんな夏目アナの文を書いた動機は、スキャンダルに巻き込まれた夏目アナを不憫に思ったからであり、またコンドーム流出というこの事象を面白がったからであり、夏目アナに自分なりのエールを送りたかったからであり、そんなこんなの湧き上がった感情というか妄想を書き留めておきたかったからだろう。

もしかしたら当時私は、夏目アナの事をそんなに知らなかったかもしれない。私が夏目アナに好感を持ち始めたのはーー時は流れ夏目アナはフリーになり、「怒り新党」でその黒髪ショートカットの清楚さで視聴者を(というか私を)虜にしたからだった。

そういえば。今、一つ思い出した。

 

私は大学生の時分、大学に通うのが心底嫌で、大学のカウンセリング室に通っていた。大学で行われる授業には何の興味もなかった。将来の見通しもなかった。私の周りにいる凡庸な生徒たちも、そして凡庸な私自身も、私は大嫌いだった。ただ大学に通うのがーーいや、生きていることそのものがーー憂鬱で仕方なかった。

私を担当してくれたカウンセラーの先生は美人な女性だった。私は週に一回、その先生と会話することだけが唯一の楽しみで、そのためだけに大学に通い続けた。

その先生が、夏目アナに似た顔だちをしていたのだ。

普通、カウンセリングを受療する生徒は、相談する悩みが解決したらカウンセリングをやめるものだが、私はその先生に会いに行くこと自体が目的だったので、カウンセリングを卒業することなく、大学在籍中はずっとカウンセリングに、というか先生の元に通った。先生とは人生相談のような(表面上は)深刻そうな話から、たわいのない会話までしたと思う。先生の方からしたら私は「これまで何年も付き合ってるけど、何の進歩もない奴だな」と思われていたかもしれない。

それでも、美人な先生と会話する時間が存在したことで、私はなんとか「自殺することなく」大学を卒業することができた。

一体、あの先生は今何をなさっているのだろうか。まだ大学でカウンセリングの仕事をしているのだろうか。また当時の私みたいなーー生きる気力のない奴ーー生徒を相手に仕事しているのだろうか。もう先生の名前は忘れてしまった。

 

ーー思わず自分語りをしてしまった。昔書いた記事に言及することは、過去の自分と対峙することだから、それも仕方あるまい。

あと、そう、夏目アナには幸せになってもらいたい。ーーと書いて〆ようと思ったら、熱愛報道は誤報らしい。

有吉弘行との交際報道を夏目三久アナの事務所が否定 法的措置も検討

だったら夏目アナ、お願いだからおいらと結婚してくれ!   <了>

 

追記 ざっくり箱 [マツコ&有吉の怒り新党] 夏目ちゃんと有吉編 の夏目アナかわいすぎる

f:id:akihiko810:20160825031336j:plain 「(夢で)有吉さんとごはん食べてたり」

f:id:akihiko810:20160825031346j:plain 「有吉さんと家庭もちたいってこと!?」

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浅野いにお『おやすみプンプン』を読む ~浅野いにおと、ポストモダンという憂鬱

友人から借りて読んだ浅野いにおおやすみプンプン』。浅野いにおといえば「オサレサブカル漫画」の第一人者として若者に人気、一方で「サブカル臭いだけの薄っぺらい雰囲気漫画」として、いにお読者も「サブカル気取りのダサイ奴」扱いされてやり玉にあげられ、評価が真っ二つに二分する漫画家である。

私としては、いにお漫画は、まぁそれなりに読むけど、かといって大好きでもないレベルか。

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 7 (ヤングサンデーコミックス)

 

 今回は『プンプン』後半部(7~13巻)のあらすじ。

前半部(小学生、中学生編)のあらすじは他ブログのこちらで。

 【ネタバレあり】おやすみプンプン~絶望に引き込まれる~【中学生編の感想・考察】 - 社会のルールを知ったトキ

あらすじの主軸はこう(『プンプン』は主軸となる話のシークエンスの他に、主軸とはかかわりのない話が挿入されて、ある種の群像劇のように物語が構成されている)~~~~~~

高校を卒業したプンプンは、一人暮らしすることを決意する。「一年後…今の状況と何も変わらなかったら、自殺する」と決めて。

そんな無目的で輝きのない毎日を送っていたプンプンは、小中学生時代の想い人・田中愛子がこの町にいることを知る。プンプンは愛子ちゃんと再会することを願うようになった。その一方、南条幸という漫画家志望の女性と出会い、漫画の原作を依頼される。そして幸とはお互い好意を寄せあう中になるが、プンプンの心には愛子ちゃんの影があるため、恋人同士として付き合うまでには至らない。

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<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサス(星川としき)は、来る七月七日に世界が滅亡すると予知し、それを予言する>>>

そんな中、プンプンは愛子ちゃんと、自動車の教習所で運命の再開を果たす。

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幸との関係はーー彼女は、元旦那(実はバツイチだった)との子供を身籠っていた。しかし彼女は、プンプンのいない日々は考えられないから堕胎するという。堕ろす日には病院に一緒についてきてほしいと言うが、当日になって「やっぱり君には甘えたくないから」、来なくてもいい。時間までは待っているから、君の判断に任せると。

プンプンは、幸の元には行かなかった。ーーその日、愛子ちゃんが家に来たから。彼女は何か事情を抱えてるらしい。プンプンは愛子ちゃんとセックスする。

愛子ちゃんは「家を出たい」と言う。一人親の母親から監視の名の元に虐待されていたのだ。二人は愛子ちゃんの母親の元にそのことを告げに行く。プンプンは思う。やっぱり愛子ちゃんは運命の人だったのだ、と。

しかしーーそこにあったのは破滅の幕開けだったーー愛子ちゃんの母親はそれを受け入れなかった。刃物をもって愛子ちゃんを襲った。それを見たプンプンはーー首を絞めて殺した。

死体を埋め、途方に暮れる二人。プンプンは「小学生の頃、一緒に鹿児島に行く約束をした」ことを思い出す。二人の逃避行劇が始まる。

幸はあの日、結局病院に行かなかった。あれ以来連絡が取れなくなったプンプンを探し始める。

プンプンたち二人は鹿児島の種子島に着いた。二人の逃避行劇は、目的があるわけではなく、まるで破滅に向かったものだった。プンプンはこの場所で二人心中しようとする。愛子ちゃんの首を絞めようとしたとき、愛子ちゃんは「あのとき母親にとどめを刺して殺したのは私」と告白する。そして「この島で暮らしたい」と。

生きる希望がかすかに沸いた二人であったが、遅かった。愛子ちゃんの母親が殺されたこと、その娘が行方不明であり事件に関係しているとみて捜査している、とテレビで報道されてしまったからだ。

二人は町を出てまた逃げることに。二人は民家を見つける。愛子ちゃんは交番に出頭すると言う。プンプンは「愛子ちゃんの罪を僕が被る」というが、それは拒否される。愛子ちゃんは言う。「小学生の時、流れ星にプンプンと両想いになれるように願ったんだ。それが叶ったなんて幸せ」「もしお互い離れ離れになっても、七夕の日はお互いを思い出そうね」

二人は眠りーープンプンが目を覚ますと、愛子ちゃんは首を吊って自殺していた

<<<新興宗教の教祖の息子・ペガサスは、来る七月七日に世界が滅亡することを回避するため、同志達(ラヴァーズ)と共に焼身自殺する>>>

ーーー七月七日。プンプンは東京に戻る。小学生時代の思い出の場所で、自殺しようと首を突いた。流れ星が流れる星空を見ながら思う。ああやって燃えるように一瞬で消えることが出来たらどんなに楽だろうとーー。

そこに現れたのはだった。「つかまえた」ーープンプンは図らずも助かったのだった。

ーー何年後かの七月七日、プンプンは愛子ちゃんの事を想いだしていた。そして彼女に言う。自分は今、月並みに働いていて、幸の漫画は順調だ。幸の子供は僕になついてくる、と。さらに続ける。「この先ずっと七夕の空は永遠に曇り空で、それでも世界は終わらないから、僕は先に進まなきゃならないんだ」

プンプンの日常はーーいや、すべての人の日常は今日も続き、新しい物語が始まろうとしている。   完

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『プンプン』はいわゆる日常憂鬱漫画(終わりなき日常が永遠に続く辛さを描く)である。このタイプの漫画では、このブログでは古谷実シガテラをとりあげた。

古谷実『シガテラ』を読む ~毒を孕んだ日常のその先にあるものは…絶望か?あるいは希望か?

「日常憂鬱」路線に、村上春樹ノルウェイの森のような「片一人の女性が破滅(自殺)する、三角関係」を加えた物語、といったところか。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

いにお漫画の批判としてよくあがるのは「雰囲気だけで薄っぺらい」、もっと極端にいえば「で、結局何が言いたいの?」という身も蓋もない感想である。

これは批判意見としては、決して的外れとはいえないと思っている。

なぜなら、いにお漫画(といっても私は、完結作は他にはまだソラニンしか読んだことないのだが 苦笑)は、「何もない日常を生きる<カラッポ>な主人公が、物語において非日常的な『通過儀礼を経験する。そしてまた日常に回帰するが、主人公は通過儀礼を迎える前と同じく、<カラッポなまま>の自分を抱えながら生きる」というモチーフだからである。つまり、「物語という<通過儀礼>を経ながら、何も成長してない(ようにみえる)」のだ。

通過儀礼(試練)を経ても成長しない(というより、成長できない)」というのは、「成長という物語」という近代的価値観が効力を失った、「ポストモダンである現代社会」の空気感と非常にマッチしている。

『プンプン』に面白い場面がある。第9巻で、漫画家を目指す幸が描いたマンガを、編集者が駄目出しするシーンだ。いわく「雰囲気でゴリ押ししてるだけで中身薄っぺら」「主人公が勝手に自己完結してて、こんなんじゃただの絶望ごっこにしかみえない」。これは典型的な、いにお批判の常套句である!(笑)

当然ながら、いにおは確信犯的に描いてるだろう。

こんな場面もある。同じく第9巻では、東日本大震災によって、原発が爆発したとテレビから流れてくる。友人は幸に「平凡な日常で退屈を嘆くような漫画、もう意味ない」と助言する。それに対して幸は「この程度じゃ変わんねーよ!仮に世の中がどうなったとしてもお前こそ変わんない!」と答える。

しかも当の漫画『プンプン』も「平凡な日常で退屈を嘆くような」漫画として続いていくのだ。(11巻から、物語は「殺人」という事件を伴って、大きく動き出す)

 社会学宮台真司が、著書『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の項 ■〈終わりなき日常〉の三つのレイヤー で

3・11後、「終わりなき日常は終わった」と発言する輩がいたが、〈終わりなき日常〉は終わっていない。概念的に言って、終わるはずがない。(全てはシステムの産出物に過ぎないという意味でのポストモダンが、定義的に終わらないのと同じ意味)

と述べているのとダブる。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

私は『おやすみプンプン』を(批判的にではなく肯定的に)評価するとするなら、「現代という終わりなきポストモダンがもたらす憂鬱を、主人公の半生に重ねて描くことで浮き彫りにした」という点であり、さらにいうなら、「ポストモダン的社会では、物語の主人公(あるいは現代の若者)には典型的な<通過儀礼における成長>は機能しない……たとえそれ(通過儀礼)が<死>ですらも!」という一種の絶望的な物語を提示したことだと思う。

プンプンは、「殺人と逃避行、さらに彼女の自殺」という非日常的な通過儀礼(殺人や愛子ちゃんの、だ)を経た結果、彼が選ぶのは自殺であった。いや、それすらも幸というもう一人のヒロインの助力によって助かって(つまり妨げられて)しまい、彼はついぞ自力で何かを成就することは叶わなかった。

ここにはつまり、このポストモダン的現代を生きる」ことは、何かしらを得ること(つまり成長すること)から見放されてしまっている、という絶望が描かれている。

この絶望こそが、幸のマンガに対する感想「まるで絶望ごっこ」の正体であり、そして『おやすみプンプン』を終始覆う、なんとも憂鬱になる読み応えの正体なのだ。

そしてその上で、生き延びてしまったプンプンは、物語の後もポストモダン的現代をーーつまり「何かしら得る」ことから見放された世界をーー生きていくことになるだろう。

プンプンはこの物語の先に、何かを(たとえば幸との家庭や、あるいはささやかな幸せを)得ることは出来るのだろうか?

作者インタビューによると、プンプンが事故死するエンド、も作者は考えていたという。

一番みじめでイヤな終わり方を、トゥルーエンドにしたかった。|【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー|浅野いにお|cakes(ケイクス)

 仮にこのエンドだったならば話は簡単で、『おやすみプンプン』はプンプンの死をもって、「ポストモダン的現代では、生きても何も得るものがない。以上」という解釈の物語で終わっただろう。

しかし、この物語は最後に、プンプンはこれからも生きていくーー彼だけでなく、人々が今日も生きて新しい物語を紡ぎだそうとしていることが描かれている。

おやすみプンプン』は、「成長という物語」が失効したポストモダン的現代ーーたとえ何か得ることが困難な世界にあったとしてもーーをプンプンの半生を通して描きながらも、ラストに人々が生きる様、「生きるということは、事実としてそういう姿勢でいることなのだ」という「絶望のその上でも<生を肯定>する」ことをも描いたことによって、名作たりうるのではないかと思う。

あと最後に話を変えて、『プンプン』の物語の構造をみてみると、プンプンパートの合間に挿入される、一見物語の主軸とは関係なさそうな奇行を繰り返す謎の男・ペガサスが、実は本当に(プンプン達のあずかり知らぬところで)神の啓示を受けていて、世界を破滅から救うーー従ってプンプン達はこの世界の日常を生きていられるのだーーという、『プンプン』のストーリーとしては<物語の裏>の立場にありながら、『プンプン』の世界では<実は世界の中心にいた>ということが読み進めていくと解き明かされていくところが面白い。

もしかしたら、所詮は我々が生きている人生も、神だか誰かの手の平の上で踊っているようなものなのかもしれないのだから。      <了>

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本日のマンガ名言:グッドバイブレーション(謎の男・ペガサス)

 

追記:他に『プンプン』論では、この記事が一番良記事だと思います。ぜひお読みに

過去の呪縛から逃れられない男 『おやすみプンプン』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

手塚治虫『地球を呑む』

手塚治虫『地球を呑む』の手頃な感想がweb上にないようなので書く。そこそこ分厚いハードカバーが、ブコフで百円だったので読んだ。

手塚の初の大人向け長編らしく、手塚は気合を入れて描いたのだろうか、話もエロい。『地球を呑む』の連載開始は68年、『ブラックジャック』の連載開始(73年)よりも前の作品である。いわゆる手塚の「冬の時代」(1968年-1973年)、少年誌でのヒットが出せずに、活動の場を青年誌へと移行しつつある時代だ。

地球を呑む (小学館叢書)

地球を呑む (小学館叢書)

 

 あらすじ。この物語は全二十章からなる。各章のすじは以下のページ参照(以下リンクを読んでから、私の文を読んだ方がいいかも)

地球を呑む(Swallowing the earth) - 手塚治虫 のすべて

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時は第二次世界大戦、昭和17年8月。 南太平洋ガダルカナル島へ出征した日本兵・安達原鬼太郎、関一本松の二人は、
自分達が殺したアメリカ兵が持っていた写真に写っていた、絶世の美女に心を奪われる。2人はこの美女の行方を探るも、「ゼフィルス」という名前である事以外、手掛かりを掴む事が出来ないまま月日は過ぎていった。

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それから20年後、今や大企業の社長となった安達原は、取引先からゼフィルスが来日してホテルに滞在しているという知らせを聞き、関一本松の息子、関五本松にゼフィルスの調査を依頼する。

関五本松は、真面目ながら気ままに生きる偉丈夫で、性欲以上に酒を愛し、「地球を呑みつぶす」という野望があると言ってのける男であった。

五本松はゼフィルスの滞在するホテルを訪れ、ゼフィルスと出会う。次いでゼフィルスの住処であるというマムウ共和国を訪れる。ここから彼の奇妙な冒険が始まる。

マムウ共和国でゼフィルスの正体が明かされる。彼女はーーいや彼女たちは母親と同じ名前を名乗り、絶世の美女の姿の人工皮膚「デルモイドZ」を纏った7人姉妹であった。母ゼフィルスは生前・金と男に翻弄されて亡くなった。

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ゼフィルス姉妹達は亡き母の遺言に従い、

1.金が人間社会を狂わせ,幸福と自由を人々から奪っている。金の価値を暴落させる
2.法律と道徳という規範意識を破壊する。
3.世の男性という男性を殲滅させる。

という壮大な復讐の野望を抱き、マムウ共和国の金(きん)とその美貌を用い、世界中の権力者たちと密通し、その陰謀を遂行していた。

ゼフィルス達の末妹・ミルダは日本で滞在した頃に出会った五本松に一目ぼれして、その愛ゆえに姉達を裏切り、刑を受けかけたところを逃れ、日本へ向かう。

しかし、その間にもゼフィルスの計画は進んでいた。人口皮膚「デルモイドZ」を大企業に製造販売させたことで、世界各地で人工皮膚を使って他人に成りすました犯罪の横行、それによる検挙率の低下という「法の崩壊」、さらにマムウ共和国に秘蔵されていた超大量の金塊(マムウはムー大陸の末裔だという)を無差別にばらまいたことにより、金の価値が暴落し「貨幣経済の崩壊」が起きていた。

世界はその混乱、不況を止めようと戦乱が起こり……ついに世界は物々交換を基本とする原始的な社会体制へと退行して行く。

ゼフィルス達の陰謀は達成し、ついに「地球は呑まれてしまった」のだった。

ミルダは五本松と共に経済社会崩壊後の世界を共に生きようと決意するが、五本松は他のゼフィルス姉妹によって粛清され殺される。ミルダも捕まって監禁されてしまった。

さらにときは流れーーミルダと五本松の息子・六本松が、航海からマムウ共和国に帰ってきた。母ミルダと再会し話をしている途中、ゼフィルス達が「六本松はマムウ共和国の外を知っている、危険人物だから」と六本松を幽閉しようとする。ミルダは六本松を逃がそうとするが射殺される。六本松はマムウ共和国に爆弾を仕掛け爆発させ、脱出した。

ここにマムウ共和国は崩壊した。六本松の船は、いや、新しい人類文明の行く末はどうなっていくのだろうか…。   完

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この作品は「主人公五本松の冒険譚」として読むと、作品の出来としては「中の上」といったところだろうか。物語の終わり方も、収拾がつかなくなって無理やり終わらせた感がないわけでもない。

しかしこの物語は、「世界が破滅する(地球が呑まれる)過程」を主軸として読むと、お話の壮大さが「漫画のウソ、ここ極まれり」といった感じとなりめっそう面白い。

上下巻版のあとがきによると、「話が大きくなりすぎて話が収集がつかなくなった。途中で中だるみに陥ったので一時読み切り形式にした」そうで、12~14章は、五本松の冒険譚ではなく、読み切りとしても読める(つまりこの各章には、別の裏主人公が立てられている)話になっている。

五本松の冒険の裏で、世界はどのように変貌していってるのか、また変貌した世界の中で他の人間はどのように生きて(あるいは死んで)いくのか、といったことが描かれているのだが、文芸評論家の加藤弘一

特に13章の贋家族のエピソードは独立の短編としても傑作である。この暴走部分がなかったら、凡作で終わっていただろう。

と述べているように、 (文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『地球を呑む』 手塚治虫

この読み切り章こそが、この作品を単なる「五本松の冒険譚」ではなく、「<地球が呑まれる>という壮大な物語」たらしめているといえる。

 

この『地球を呑む』、文学性に富んだマンガではけっしてないから、今回は「漫画文学論」ではなく、(もちろんこの作品は、文学性とは関係なく面白いマンガだ)マンガ紹介だけしか書かない。

とはいえついでにあえて、この作品の文学的な場面をあげるとするなら、やはり13章の贋家族のラストだろう。お互い自分たちは<偽物の家族>であることを受け入れながら暮らす彼らが、最後の別れの場面で、「美しい思い出のまま」残すために、今まで着ていた人工皮膚をマネキンにかぶせて去り、誰もいない家に残ったのは幸せそうな彼らの人形ーーというシーンはあまりに美しくせつない後味がある。

紡木たく『ホットロード』を読む ~恋愛という”痛み”ーー彼女が歩む道の先にあるのは

今回は、私は男なのであまり読んだことのないジャンル、少女マンガからのご紹介、紡木たくホットロード』。

1986年から王道少女漫画雑誌『別冊マーガレット(別マ)』に連載され、コミックは(わずか全4巻ながら)700万部売り上げた作品。(たしか、当時としては最速の売り上げだった、という話をきいたことがあるのだが、ググってもでてこない…)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

ホットロード 1 (集英社文庫―コミック版)

 

社会学者の宮台真司曰く「少女漫画のひとつの頂点」とのこと(宮台だけでなく、『ホットロード』を紹介するときにはよく言われる言葉だ)。「(少女漫画は)当初は、恋愛できない「ダメな私」が専らでしたが、77年あたりから〈関係性モデル〉が急速に高度化し、現実の恋愛でもみくちゃになる女の子が描かれはじめます」と、<複雑な関係性>の中で「生きることの痛み」を伴う恋愛を描き、少女漫画の表現はひとつのピークをむかえたらしい。

私の好きな少女マンガ:くらもちふさこ『海の天辺』(雑誌インタビュー記事)

宮台は男性にも「女性が望んでる、複雑な人間関係におけるロマンシズムを知れ」と、この『ホットロード』とくらもちふさこ『海の天辺』を薦めている。

宮台真司×二村ヒトシ『男女素敵化』講演会レポ in バレンタイン - 文芸的な、あまりに文芸的な 

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

海の天辺 (1) (集英社文庫―コミック版)

 

 さてこの『ホットロード』だが、80年代に社会問題化した”暴走族”を少女漫画に取り入れてるのも、今読んでみると面白い。 あらすじ。

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中二の主人公少女、和希(かずき)は父親がいない。母親は離婚調停中の男とつきあっており(高校時代から付き合っていた)、和希は自分のことを「ママが嫌々結婚した男(父)」との子だと思っている。生活の金も母親の男から出ているらしい。和希はたった一人の肉親である母からの愛情を感じたことはない。

和希は母の誕生日に万引きで捕まる。忙しい母は、和希にどう接していいのかわからない。和希は転校生にさそわれるがままについて行った、暴走族NIGHTSの集会で、春山(ハルヤマ)という少年と出会う。その出会いはハルヤマがちょっかい出してきたもので、和希には不快なものだったが、ハルヤマがナイツの湘南支部を束ねていること、先頭を走る危ない"切り込み"をまかされていることを知る。

和希は「今日から不良になる」と母親に宣言し、族の集会に行くようになる。

集会にいくたび、ハルヤマは和希にしつこく絡んできた。和希はハルヤマが「俺はミホコのためなら死ねる」と言うのを聞いたが、ハルヤマはその女(ひと)に振られてしまったらしい。和希はハルヤマのバイクで家に送ってもらったとき「おまえ、おれの女にならない」と告白された。…和希は、「愛」というものがどういうものか、よくわからない。

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暴走族ナイツに混ざる和希。

ナイツは、孤独感など心に傷を負った少年たちがたくさん集まっていた。ハルヤマも複雑な家庭環境で育ったらしい(一人暮らしをして働いている)。彼らは夜の湘南をバイクで駆け抜けていた。和希は暴走するハルヤマの背中にしがみつきながら孤独感を打ち消していた。

和希はハルヤマと過ごすにつれて、ハルヤマの言動に傷つきとまどうこともあり、前の彼女(ミホコさん)もこうやって泣かせてきたのだろうか、と思うが、次第にハルヤマは和希の中で大切な存在になっていく。

ある日和希はミホコさんに会い、ハルヤマと別れた理由が「嫌いだから別れたのではなく、危ないことをするハルヤマを見てるのが怖くなったから」だということを知る。

一方で母親とはさらにすれ違いが続き、学校に行ってないことがバレて口論になり、不倫している母に対する、心の底にためていた「…いらない子だったら生まなきゃよかったじゃないか」の言葉を吐いて和希は家を捨てた。

友人の家を転々とする和希。行く宛てがなくなった和希はハルヤマの家に同棲することになる。

その矢先、ハルヤマは総頭・トオルの指名で、歴代総頭が乗るホンダの400Four(ヨンフォア)のバイクを引き継ぎナイツの総頭に就任し、今まで以上にナイツにかかりきりとなる。和希は争いが絶えないハルヤマに生きた心地がしない。一方ハルヤマにとっても和希は自分自身にブレーキを踏ませる存在となり、総頭の自分と和希の想いとの間で悩み苦しんでいた。ハルヤマは和希との別れを選ぶ。「おまえみてっとイライラする。お前といると俺ダメになる。別れようぜ」

和希はハルヤマの真意がわからず傷つき苦しむが、ハルヤマについていくことを決める。

ハルヤマの誕生日の日、和希はハルヤマが自身と同じく複雑な家庭環境でありながら、家族の事を(ハルヤマなりに)思っていることを知り、和希は一度自宅に戻り、今まで聞けなかったことを母に問う。「ずっとひとりだったんだよあたし」「この家ん中、ほんとうにあたしのいるとこあんのかよって」

ハルヤマは言う。「おばさんこいつのこと嫌いなの?もしそーなら俺がもらってちゃうよ」。和希の母は「あげないわよ!誰にも!親が自分の子嫌いなわけないじゃないの!」と初めて和希の前で、母の愛を明かすのだった。

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これを境に和希は家に戻る。

その頃、ナイツは喧嘩でのしあがった族「漠統」と抗争が起きる寸前であった。母と和解した翌日、和希はハルヤマに「もう他には何も言わないから、(ケンカに)行かないで」と頼むが、ハルヤマは「俺がいなきゃなんにもできねーような女になるな。俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ」「そんでも俺が追っかけていくような女になれ」と言って和希の元から離れた。

その後しばらく二人は会わず、お互いの事を想っていたーーそして久しぶりに会う二人。和希は、「親も生きているのだから」とハルヤマに諭され、親の再婚を認めることにした。ハルヤマは、今の抗争が終わったら、もう和希には心配かけないと、ひとり思う。

しかしーー「漠統」との抗争に向かう途中、ハルヤマはトラックにはねられてしまい、意識不明の重体となる。病院に運ばれるが意識は戻らない。

これに激しくとり乱す和希だったがーー奇跡的にも、ハルヤマは意識を取り戻す。重い後遺症が残り、リハビリの後に鑑別所に入れられる。ハルヤマは和希に「ぜってー鑑別だけで帰ってくるから」と誓う。

ハルヤマが鑑別から帰ってから9か月、ハルヤマも、ナイツの友人たちもそれぞれの新しい道を行こうとしていた。

最後に和希が語る。
 「今日であたしは17歳になります。今まで人いっぱい傷つけました。これからはその分、人の痛みがわかる人間になりたい。この先もどうなるか全然わからないし、不安ばっかだけどずーっとずーっと先でいい。いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい…。それが今のあたしの誰にの言っていない小さな夢です」

あたしたちの道は、ずっと続いている。  完

  さらに詳細なあらすじは ホットロード映画化!漫画のあらすじネタバレ!結末?紡木たく現在?

~~~~~~ 

大塚英志『システムと儀式』所収の「〈14歳少女〉の構造」で、ホットロードについてこう述べているという(ネットから孫引き)

暴走族の世界に入った和希はハルヤマという少年と出会い、傷つきながら、しかし最終的に暴走族の世界から帰還してくる。この帰還してくる、という点が重要である。

ホットロード」は、物語全体が通過儀礼の構造を持っており、少女が〈少女〉の時間を終え成女(大人)になることが主題となっているのである。紡木たくは〈少女〉の時間をとどまるべき永遠の場所でなく、通過していく場所として描いた。しかも、そこを〈通過〉することによって少女は初めて大人になれる。(略)「ホットロード」は敢えて、傷つきつつも通過儀礼をなしとげる和希とハルヤマの姿を描いてみせた。しかもそれが読者たちの圧倒的な支持を受けた。

ホットロード論

つまり、「母の愛を知らない〈少女〉」は、ハルヤマという異界(暴走族の世界)とつきあうことによって、つまり”傷つきつつも”特別な時間を過ごしことによって通過儀礼)、「母やハルヤマとの平凡な日常を望む〈大人〉」へと成熟した、ということである。
「傷つきつつも」というのが、この物語の重要な文学的ポイントだろう。
物語序盤に提示されるのは、<和希とママ>の関係性。それは両者共に不完全な存在(親の愛が欠落した娘、娘の愛し方を知らいない母)であるが故に、すれ違いお互いに孤独をもたらす。
そして和希は、今まで経験したことのない不良の世界(異界)であらたな関係性を獲得しーー<和希とハルヤマ>の関係性だーー、その中で”戯れあう恋愛”ではなく、求め合うが故の(故意に、あるいは意図せずに)”傷つけあう恋愛”を経験する。
そしてこの”傷つく恋愛”を経験したからこそ、傷ついた不完全な存在である<私(和希)とママ>を許すことができるようになるーーつまり通過儀礼を経て大人になるーーという物語終盤へとつながっていく。
和希はハルヤマの事故によって暴走族の世界から離れ、文字通りの通過儀礼を終え大人になるのだが、通過儀礼を終えた(大人になった)和希はどのような人間になるのだろうか。
物語のラストに和希のモノローグーー「いつか、春山の赤ちゃんのお母さんになりたい。それがあたしの小さな夢です」が入る。和希は平凡で確実な幸せを望んでいるがーーそれは決して楽観した夢ではない。
ハルヤマとの恋愛で「生きることは、そして愛することは痛みを伴うもの」だということを経験し大人になった和希は、おそらく自身のこれからの人生もまたーーもちろん暴走族という危険な世界ほどではないにせよーーそれがハルヤマと歩む人生である以上、「必ず痛みを伴うもの」だということを理解し、そしてその「痛みを伴う幸せ」を、いとおしいささやかな夢として受け入れようとしているのである。「生きる痛み」を受け入れた上で、彼女は自分の人生と向き合っているのだ。
だからこそラストは「あたしたちの道は、ずっと続いている。」であり、この物語は幕を閉じても、二人はこの道を歩き続けることができるのだ。
ホットロード』は読者に、つまり少女たちに、「大人になること、生きることは痛みを伴うがーー、それでも愛し合うことには実りがある」というメッセージーーそれは少女たちには過激かもしれないが、嘘偽りのない誠実なものだと思うーーを投げかけているのである。
 
余談。以上のように『ホットロード』を精読してみると、そこにあるのは「生きること、恋愛することの痛み」という、大人になれば誰もが体感するであろう痛々しいまでのリアルである。これを読んで熱中していた当時の女子中高生は、なんと大人びていたことだろうか!
これを男子中学生が読んでも、たぶんこの「恋愛による痛み」なんて半分も理解できないだろう。もしこの「恋愛という痛み」のリアルさ彼らにに見せつけたら、幻想ではない「女という恐ろしさ」に気付いて、あふれる性欲もどこかに吹っ飛んでしまうのではないだろうか(苦笑)   <了>
 
今日のマンガ名言:俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ。そんでも俺が追っかけていくような女になれ

綿矢りさのおっぱいがでかい 文学は死んだ  --を短歌にしてみる

今日はてな匿名ダイアリー(通称 増田)にこんな投稿があった。

「綿谷りさのおっぱいがでかい 文学は死んだ」ただこれだけの一発ネタである。(綿谷は誤りであり、綿矢りさ が正しい)

しかしこれ、投稿者が意図したのかどうかは知らないが、自由律俳句(もしくは5・8・7の破調の無季俳句)として秀逸な出来になっていると思う。簡単に解説してみたい。

(長くなるので綿矢りさのおっぱいで一服)

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綿矢りさのおっぱいがでかい」 <おっぱいがでかい>は言うまでもなく生の象徴である。そこに唐突に

「文学は死んだ」と文学の死が宣言されるのである。

この短文で、生の象徴から死への転調へともってくるのは凄い。さらに言うなら、<おっぱい>という(一種の)下ネタから唐突に「文学は死んだ」と壮大な話へと飛躍するのところもうまいという他ない。

この自由律俳句を解釈するなら、

綿矢りさのおっぱいはでかい」し、「文学は死んだ」。しかしおっぱいの大きい<綿矢りさ>は生命力に溢れている、故にまだ(綿矢の)文学は生き残っている。

という、「生→死→<故に生>」という構図になるだろう。

 

私はこれを気に入ったので、勝手に推敲して短歌にしてみたい。

まず上の句。

綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」

「おっぱいがでかい」を「おっぱいは大きい」に変える。「が→は」への変更は、「おっぱいは」の方がソフトでおっぱいの柔らかさがでるから。「が」は濁音なのが固いと思った。

「でかい→大きい」への変更は「わたやりさの おっぱいはおおきい」で5・9の破調(字余り)にして、「でかい」よりもその大きさを印象づけるため。

「死んだ。」と読点で区切ってインパクト出す。「」で会話文にして誰かが言った感をつける。

これで5・9・8の上の句になった。かなりの破調である。破調が2つあると肝心な所(9のところ)は目立たないので「文学は/死んだ」と「死んだ」3音は下の句に回してもいいかもしれない。

 

で、下の句。これは私がいくつか考えてみる(ここからがけっこう難しい…)

A)おっぱいで考える

A1)本谷有希子の おっぱいも大きい (7・9)

これは上の記事のブクマを書いたときに考えたもの。

本谷有希子にしたのは、たぶん本当におっぱいでかいのだと思うのだが、一番ポイントなのは、一番最近に芥川賞受賞した女性だから。綿矢が芥川賞当時の文学は生きてるし、今の文学も生きてるよ(おっぱいでかい)という意味。

ただおっぱいの大きさを言ってるだけじゃないのだよ(ただわかりにくいかな…)

おっぱい 文学は死んだ おっぱい  と、一見無関係なものでサンドイッチになってるナンセンスさもポイント。

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(あ、でも思ったほど巨乳ではないんだな…たぶん)

 

B)綿矢といえば、なんといっても 芥川賞受賞作『蹴りたい背中』である。 

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

 

B1)まだ読んでない『蹴りたい背中

B2)死んだ。」 読みかけの『蹴りたい背中』 (8・7)

B3) 積読していた『蹴りたい背中

「まだ読んでない」ところがポイント。文学は死んだが、まだ読んでいない『蹴りたい背中』には文学の可能性が残っているという意味。

「B2」が上の句とのつなぎがよく、「B3」は情景を詠むことに比重が出ている。

B4)蹴りたい背中』のページをめくる  (8・7)

これはシンプル・イズ・ベストでいいかもしれない。

「ページをめくりつ」にすると、本読みながら「文学は死んだ」と言っているわけで意味が通らなくなる。

「B3」の方がいいか?

B5)だからどうした『蹴りたい背中

文学が死んだからどうした、この本とは関係ないぜ という意味だが、うーん…。

B6)「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

ものすごい時間考えて作った。

「文学は死んだ。」と言った直後に「うそ」と否定して、「本も好きだけど、本当は好きなのはおっぱいなの…」という茶目っ気が出る感じにした。

 

C)そっけない感じを出す

C1)芥川賞は 今日決まるらしい (8・8)

死んだ文学(芥川賞)には興味ないが(決まる「らしい」)、なんとなくまだ興味は残っている…という感じ。

 

D)上の句から続くように下の句 

D1)死んだ」とほざいた 女(やつ)は貧乳  (8・7)

D2)死んだ」と言ったの 絶対貧乳 (8・7)

貧乳がやっかみで「文学は死んだ」なんて吐(ぬ)かしやがったんだろ! という意味の歌。ユーモアがあるが若干下品でもあり。

 

と、ここまで考えたのでまとめる。候補

A1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 本谷有希子のおっぱいも大きい 

B3)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 積読していた『蹴りたい背中

B6)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

C1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」 芥川賞は今日決まるらしい 

D1)綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ」とほざいた女(やつ)は貧乳

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f:id:akihiko810:20160604032112g:plain   さて、この中から私選では、

一番作るのに時間がかかった、B6)

綿矢りさのおっぱいは大きい 「文学は死んだ。」「うそ。僕は好き『蹴りたい背中』」

を「綿矢りさ おっぱい」の一首ということにしたい。

 

結構頑張って作ったので、決して「上の句だけの自由律俳句の方がよくね?」とは言わないでもらいたい(苦笑)

候補作の中でこっちの方がいいよ、あるいは「私が作ったこっちの方がいい」という方はコメ蘭でぜひお願いします。

まあ結局、ここまで書いて何が言いたかったというと、綿矢りさのおっぱいはいいよな(小説もいいよ)ということに尽きるのである。    <了>

文学フリマ 『文化系女子になりたい』編集後記 ~私が文章を書く理由

作成した文芸同人誌『文化系女子になりたい』、紙面が尽きてしまったので、編集後記だけブログ上で発表。おまけコンテンツ。

 

文芸同人誌『文化系女子になりたい』をお買い上げいただいた方に、厚くお礼を申し上げたい。(といってもこれ書いてる時点でどれだか売れたかわからんし、そのうちいったい何人がこのページを見るかもわからないが)

まず、なぜサークル名と同人誌名が『文化系女子になりたい』なのかの説明をさせてもらいたい。

私は、文化系女子になりたいと常日頃から思っている。なぜなら文化系女子、カワイイ感じがするではないか。しかし私は何の因果か、男子に生まれてきてしまい、文化系女子になることはできない。文化系男子では「文化系女子」という響きのもつ匂いやイメージが、まったくないではないか。私は、文化系女子しか持ちえない、あの「匂い」や「感じ」に憧れるのだ。

だから私は、文化系女子になれないことを知りつつも、少しでも文化系女子になりたいと思いながら文章を書く。つまり私は文章を書く間は、私の何割かは文化系女子なのであるーー。

  

というのは当然ながらでまかせである。ただ男二人で作っても女っ気がないから、せめて名前だけでも女子っ気がほしかったからつけた。

 

~~~~~~ここから文学フリマ終了後に書いた文章

 

文フリ前にこの文章を書き終えることができなかった。

ミニコミは完売しました(1、2号 計30冊) 20人ほどの方に買っていただき、50人ほどの方がブースに来ていただきました。あらためてありがとうございます。

(これが私が友人と作ったミニコミ

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で、編集後記の続き。

私はなぜ文章を書くのか。私が文章を書くことによって何を望んでいるのか。

私のブログのメインコンテンツは(今は主に)漫画文学論である。「この漫画はここの部分が文学的だよ!」という解説であり、ひとつの漫画の読み方(味わい方)での指南だ。

これを始めようと思ったのは、単純に私が読んだ漫画の面白さを伝えたかったからだ。もっと詳しく言うと、「<私が漫画を読んだ読み方で、漫画を読むと>この漫画はこんなに面白い」ということを知ってほしかった。あるいは、共感してほしかったからのだ。

そう。共感してもらいたかった。私は、常々思うのだ。「なぜ他者は私ではないのか」と。他者でない以上、万弁を尽くさなければ、私の思いは完全には伝わらないではないか。いや、万弁を尽くしたところで完全になど伝わらないのだ。

特に、私が真に伝えたいのは、文学を読んだときに感じる、心が揺さぶられる「この感覚」であり「この感覚」だ。おそらくそれは、脳科学者の茂木健一郎がいうところのクオリアであり、他者への伝達は不可能なものだろう。

それでも私は他者に、「あなたの脳の髄まで」私の思考を理解してもらいたいし共感してもらいたいと心の底では思っている。そして私は同じように、「あなたの脳の髄まで」あなたを理解したいし、共感することができればいいと思っている。性器でつながるより深く身体が溶けるようにして脳髄でつながることができたら、それは最高に官能的じゃないか。

もちろんそれが不可能なことはわかっている。しかし私は、この感覚の百分一でもいいから他者に、つまりこ文章を読んでるあなたに、私の思考を理解してもらいたいとそして共感してもらいたいと思うから文章を書くのだ。 

最後に、ミニコミを読んで下さった方ありがとう。 このブログを読んで下さった方もありがとう。 ブログはたぶんまたぼちぼち書いていくだろうから、それもよろしく読んで下さい。あ、あと、感想やリプライがあるとうれしいので、何か感じるものがあればコメント欄にでもコメントください。 それではまた <了>

 

追記。ミニコミ文化系女子になりたい』は、1、2号ともにページの都合上、「ゼニゲバ論」を割愛しました。未読の方はぜひ読んでください

ジョージ秋山『銭ゲバ』 ~社会はクソ、人は悪ズラ。銭ゲバは銭の夢をみるか? - 文芸的な、あまりに文芸的な

 

 

業田良家『自虐の詩』を読む ~「人生には明らかに意味がある」、<関係性の履歴>と人生の意味

「このマンガは絶対に読む価値がある」

永井均『マンガは哲学する』でそう賞賛された、文字通り「人生において必読」の傑作。 

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

マンガは哲学する (講談社プラスアルファ文庫)

 

それが業田良家自虐の詩である。四コマ漫画であるがストーリーは連続している。四コマ大河漫画といってもいい。ギャグ漫画でありながら「日本一泣ける四コマ漫画」というあまりセンスのないキャッチコピーで売られているがーー実際にそれは間違いないのだがーー、そんな陳腐なキャッチコピーでは十全に言い表せない、とにかく壮絶な感動作だ。

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

自虐の詩 (上) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

 

 あらすじ。

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 主人公である幸江(ゆきえ)は、何かというとちゃぶ台をひっくり返して怒る亭主・イサオと暮らしている。イサオは働きもせず、ラーメン屋で働く幸江の収入で暮らす、元ヤクザのヒモである。はた目には幸江は全く幸せには見えないが、彼女はイサオを愛している、というよりイサオに依存しているように見える。なぜ幸江はイサオと別れずに暮らし、イサオを愛しているのだろうか?

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上巻は延々と、苦労する幸江、イサオがちゃぶ台返しして終わる(オチとなる)4コマが飽きるくらいに続いていくが、下巻から次第に幸江の過去の回想ーー彼女の悲惨で壮絶な過去ーーが明らかになってくるにつれて、読者は幸江のイサオへの愛情とその理由を知るようになる。

幸江の小学生時代。幸江にはもの心つく前から母親がいない。夫に愛想尽かせて出て行ったらしい。幸江の父はろくに働きもせずビンボーで、娘の幸江を働かせている。幸江は父の借金取りにも同情される始末だ。

中学生時代。幸江は唯一の友人熊本さんができる。熊本さんは幸江同様ブサイクであり、そして(おそらく幸恵よりも)貧乏であり、クラスの中では迫害される存在だ。幸江は唯一の友人熊本さんと、二人だけの友情を育む。

だが熊本さんが学校を休んだある日、憧れであった藤沢さんからお弁当を食べようと誘われ、藤沢さんグループに入ってしまう。幸江にとっては夢のように幸福な時間であった。しかし熊本さんが学校に復帰してくると、幸江は藤沢さんのグループから離れたくないために、藤沢さんたちと熊沢さんの影口を言いだし、あろうことか学校の備品を盗んでいた熊本さんの罪状をばらしてしまう。熊本さんはクラス中から無視され完全に孤立してしまった。

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しかしここで幸江に不幸が襲い掛かる。幸江の父ちゃんが愛人に金を貢ぐために、銀行強盗を犯してしまうのだ。

幸江はそれによってクラスから腫れもの扱いされ孤独になってしまう。どうして私だけこんなにも不幸なのか、いっそ死んでしまった方がーー。

こんな状況の幸江に手をさしのばしてくれたのが熊本さんだった。久しぶりに一緒に帰る二人。しかし河原に来ると、熊本さんは幸江をボコボコに殴って言う。「なんで私を裏切ったのか」。ボコボコにされるがままに殴られながらただ謝る幸江。熊本さんはさらに言う。「このまま、謝り続けながら、殴られたままで一生生きていくつもり?そんなヤツとは、友達でいられないじゃない。殴り返さないの?」その言葉に、大きな石で殴り返す幸江。卒倒してしまう熊沢さんに幸江は言う。「死なないで、熊本さん。私を一人にしないで。私の友達はあなたしかいない!」意識を取り戻す熊本さん。そして二人は「私たちは一生の友達!」と腫れた顔で抱き合うのだった。

熊本さんからの助言もあり、卒業後、幸江は東京へ出る。

話は現代に戻る。幸江はイサオの子を妊娠する。産むことを決意する幸江。旦那が旦那だけにアパートの隣の部屋のおばちゃんは心配する(そりゃそうだ)。そんなおばちゃんに幸江はイサオとの過去を語る。

東京に出た幸江は、シャブ中の売春婦(立ちんぼ)に身を落としていた。その境遇の中出会ったのが、ヤクザのイサオだった。イサオは幸江に惚れ「こんな仕事はあなたには似合わない、もうやめなよ」と幸江のことを気にかけるが、幸江は全く意に介さない。それでも幸江のことを案じるイサオ。あるとき幸江は自暴自棄になって手首を切るが、イサオがすぐさま助ける。幸江は次第にイサオを受け入れる。イサオは幸江と付き合うために、ヤクザから無理やり組抜けした。ーーかつてイサオが幸江を窮状から救ったことが、ここで読者に初めて明かされる。

妊娠した幸江は、自分を捨てた母の夢を見る。なぜ私を捨てたのかーー。恨んでやる!幸江は顔も知らない母の首を絞める。母は苦しみだす。首を絞められたからではないーー母が臨月だったからだ。その母の股が割れ、そこから出てくるのは赤ん坊の幸江。

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幸江ははっと目を覚ます。そのとき幸江は産まれたときの記憶を取り戻し、母を許した。そして気づく。「みんな母から生まれた そしてこの子は私から生まれる」のだと。

 幸江はどこにいるかもわからず、会ったこともない母親に向けて手紙を書き、宛先もないその手紙をポストに投函する。

「私は幼い頃、あなたの愛を失いました。 私は愛されたかった。ーー

でもそれがこんなところで、 自分の心の中で見つけるなんて。 ずっと握りしめていた手のひらを開くとそこにあった。 そんな感じで。

おかあちゃん、これからは何が起きても怖くありません。 勇気がわいています。 この人生を二度と幸や不幸ではかりません。

なんと言うことでしょう。 人生には意味があるだけです。 ただ人生の厳粛な意味を噛みしめていけばいい。 勇気がわいてきます。

おかあちゃん、いつか会いたい。 そしておかあちゃん、 いつもあなたをお慕い申しております。

追伸、私にももうすぐ赤ちゃんが生まれます。」

物語の最後、二十年ぶりに熊本さんから再会の電話がかかってくる。彼女も結婚して幸福になっていた。

かつて幸江が逃げるように東京へ出てくるとき、熊本さんはなけなしのお金から、大金の百円札を餞別に幸江を見送りに来てくれたのだった。

幸江は臨月のお腹を抱えて、東京駅まで会いに行く。使わずに手元にとっておいたその百円札を持って。

ラストは熊本さんと涙の再開を果たし、印象的なモノローグをもって物語は閉じる。

「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」 完

 ~~~~~

 感動的である。そこには小細工も、奇も衒(てら)いもない。ただ実直なメッセージーー「人生には明らかに意味がある」という断言があるだけである。

では、その「人生の意味」とは何だろうか?

と、その「人生の意味」を問うにあたって、そもそもそれは「哲学的に正しいのか」と哲学者の永井均は考察していたので紹介したい。

永井は『マンガは哲学する』(冒頭に紹介した本)において、こう疑問を投げかけている。

 感動的であるがー(略)ー幸江にイサオが現れず、そもそも熊本さんとも出会わなかったとしたら、それでも幸江は「シャブ中の立ちんぼ」の境遇のままで、人生にはーー幸や不幸ではなくーー意味があるのだというこの覚醒に到達できたであろうか。そうは思えないのだ。たまたま事実として、彼女は幸福になれたようにしか見えないのだ。

 私もこの意見に賛成である。「人生に意味がある」のではなく、「己の幸福を自覚できたからこそ、己の人生の意味を実感できている」のだ、という解釈が正しいように思える。

では、幸江に幸福をもたらしたものとは何だろうか。この物語を読んだ方ならすぐにわかるだろう。

それはイサオや熊本さんとの、苦難の日々や何気ない日々を過ごしてきたという軌跡ーーつまり他者と<関係性の履歴>を更新してきたという、その履歴が幸江に幸福を実感させたのだ。イサオとの妊娠や、熊本さんとの再会という幸福な出来事は、ただその<関係性の履歴>のわかりやすい「表れ」にすぎない。その根底にある、あるいはそこに至るまでの、苦難の日々を共に過ごした、何気ない愛おしい日々を一緒に過ごしたという「関係性の履歴」こそが、幸江の支えであり幸せへとつながったのだ。

だからこそ幸江は「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある」と心の底から思えるのだ。幸江が経験してきたすべての苦労(関係性の履歴)が、今の幸江を形作っているのだから。そしてこの「私は関係性の履歴を育んできたーーそしてだからこそ今の私がある」という実感こそが、幸江に「人生には明らかに意味がある」という覚醒をもたらしたのだ。

そしてこの覚醒に至った幸江は、手紙での言葉通りに、これからの人生を「幸や不幸ではかる」ことはないだろう。なぜなら、その幸不幸ーー他者との関係性の履歴ーーこそが人生の中身そのものであると理解しているのだから。だから幸江はこれから、子供を産み、夫イサオに苦労しながらも、それでも幸せにーー愛しき人と共に苦労していくことそのものが人生の中身でありそれこそが「幸せ」なのだーー生きていくだろう。

これが『自虐の詩』の提示する「人生の意味」である。

そして『自虐の詩』がもたらす感動は、私たち読者に「あなたは人生の意味ーー他者との関係性の履歴ーーをもっているか」と問いかけてくる。

<関係性の履歴>をもつ者はーーたとえ今現在、自分は不幸だと感じている者であったとしてもーー幸いである。その先にこそ「人生には明らかに意味が」あり、手ごたえのある人生の実感があるのだから。  <了>

 

今日の漫画名言:人生には明らかに意味がある